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 こんばんは。連載企画「銀河鉄道の夜」は今夜で5回目。早くも折り返し地点にやってきました。

 さて、「銀河鉄道の夜」は、出版社にもよりますがだいたい文庫本で100ページくらいの作品です。私は最初、5回に分けて紹介しようと思っていました。1回あたり約20ページで、ちょうどいい感じに思えます。

 ところが、読んでみると、「20ページだとまだまだ拾えないエピソードが多いな」と気付くことになりました。ということで、この連載は10回シリーズになりました。無駄なエピソードが1つもないと思える作品なので、可能な限り全てを拾ってみたかったのです。

 1回あたり文庫本10ページという、実にスローペースで、贅沢な連載になりました。今後も、1つ1つのエピソードを余すことなくみていきたいと思います。



今夜のあらすじ



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 天の川といのち

  「ここへかけてもようございますか」。赤ひげで、せなかのかがんだ人が二人に声をかけてきました。ジョバンニがあいさつすると、その人はかすかに微笑んで荷物を下ろしました。

 「わっしは、鳥をつかまえる商売でね」その人は、そう言いました。鶴や雁、さぎから白鳥までつかまえているようです。どうやって鳥をつかまえるのかたずねると、鳥捕りのおじさんはその方法を詳しく教えてくれました。そして、とったあと、食べるために売るというのです。

 誰が鳥を食べていただろう。ジョバンニは不思議に思いました。すると、鳥捕りが雁の足を引っ張ってジョバンニに渡しました。食べてみると、チョコレートの味がしたのです。ジョバンニは、狐につままれた気分になって、そうして少し気の毒に思いました。

 「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう」カムパネルラも同じことを思ったようです。ですが、鳥捕りはもう外へ出ていってしまったようでした。どうやら、また鳥をとりにいくようです。

 空から、たくさんのさぎがぎゃあぎゃあ叫びながら舞い降りてきました。鳥捕りは、さぎの足を押さえて、片っ端から袋に詰めていきました。

 …

 「切符を拝見いたします」二人と鳥捕りのところに、車掌さんがやってきました。ジョバンニのポケットの中には、知らないうちに緑いろの紙が入っていました。車掌に見せると、どうやらそれが切符になるようです。鳥捕りはその紙をのぞき込んで、「こいつはたいしたもんですぜ」と言いました。どうやら、ジョバンニはすごい通行券を手に入れていたようです。

 そうこうするうち、鷲の停車場が見えてきたのでした。

 to be continued

解説



 銀河鉄道の夜の中で、今日の部分は少し「異質」と言えるかもしれません。物語の、ちょうど真ん中にあたる部分なのですが、読み終えた後、あの「鳥捕りはどうなったんだろう」と小骨がひっかかったような気分になると思います。

 とても高潔で、澄み切った美しさのある銀河鉄道の世界で、今日出てくる鳥捕りはどこか「卑しさ」を感じさせる存在です。そして、今日は「殺生」というテーマが扱われます。美しい銀河鉄道の世界で、これはどのような意味を持ってくるのでしょうか。

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 鳥を捕って小金を稼いでいる鳥捕りは、とてもみすぼらしい身なりをしていて、行動や言動にもどこか「俗っぽい」ところがあります。他の動物の命を奪うということは、賢治からしたらとても「罪深い」仕事で、そういった思いがこの鳥捕りに投影されているのでしょうか。

 ジョバンニが鳥捕りを見る目も、どこか懐疑的で、うさんくさそうに思っているところがあります。

(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の駄菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子を食べているのは、たいへん気の毒だ。)



 「気の毒」という語句が何度か使われます。この場面にしっくりくる言葉だと思いました。ジョバンニは、鳥捕りのことを下には見ていると思うのですが、どこか切り捨てられないところもあります。「気の毒だ」と思いますが、言葉にはできません。そして、「さびしいようなかなしいような」と思ったりもします。

 心地よい夢を見ていたら、突然それが覚めたような気分。ですが、「卑しさ」というのは人間にとって切っても切り離せないテーマで、どこまでもついてくる存在なのかもしれません。鳥の命を奪う鳥捕りは卑しく見えるのですが、そういう私たちも、他の動物の命を奪って生きているわけです。鳥捕りは、私たちに常について回る「影」のようなものなのかもしれませんね。

 ここで一つ不思議なことがあります。どうして、鳥捕りのような存在が銀河鉄道に乗っているのでしょうか。銀河鉄道は、この後分かることですが、「心のきれいな人」が、「天上」の世界に行くために乗っている鉄道です。鳥捕りのような人も乗れるのか、そして、彼は銀河鉄道に乗ってどこに向かうのだろう、そんな疑問が浮かびます。

 ヒントになるのは、今日の場面の最後の方にある、鳥捕りの台詞かもしれません。

「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天井へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになりゃあ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ。あなたがたたいしたもんですね。」



 これもまた卑しい台詞ですが、裏を考えてみると、ちょっと考えさせられます。

 鳥捕りは、「ほんとうの天井」には行けない、ということです。実際、この後鳥捕りは姿を消してしまいます。きっとまた、鳥を捕りにいったのでしょう。そうやって、銀河鉄道のこの先にある停留場に一生行けないまま、ここで鳥を捕り続けるわけです。この言葉が正しいのか分かりませんが、「成仏」できずに、さまよっている感じがします。

 行くことをあきらめたのか。それとも、行くことが許されなかったのか。真実は、はっきりとは分かりません。ですが、この物語の輪郭が少しずつ見えてきました。本当に、選ばれた人しか行くことのできない「この先」の世界。張り裂けそうな冷たさと厳しさが作品から流れ始めてきました。後半から、その空気が、いっそう強くなっていくことになります。

銀河アルバム



 今日は、鳥捕りが鷺(さぎ)を捕る場面からです。本当は残酷極まりない場面なのかもしれません。しかし、賢治は「死」というものを、実に見事に描いてみせます。

銀河アルバム

 荘厳度 ★★★★★

さっき見たような鷺が、まるで雪の降るようにぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞い降りてきました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文どおりだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い足を両手で片っ端から押えて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、

袋の中でしばらく青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、目をつぶるのでした。



 よく、命が続くことを「炎」に例えることがありますね(「命の炎が、まさに燃えつきようとしている」など)。

 私は、宮沢賢治は「命の炎」が見えていたのではないか、とけっこう真剣に信じています。彼の比喩は、何度も書いていますが、「見たこと、感じたことをそのままに」がキーワードです。ここを読んでいると、私の瞳の中にも、命の炎がちらちらとかすかに光るのです。だとすれば、宮沢賢治にはもっとはっきりと、その炎が見えていたのではないか、と考えてしまいます。

 「ぎゃあぎゃあ」という、鷺の叫び。はからずとも、命を奪われる前の最後の叫びになってしまったわけです。鷺は何も知らずに天の川に足を付けようとしていたのでしょう。しかし、その瞬間に足をつかまれ、もぎ取られ、命の炎は消え去ってしまいました。残酷な場面ですが、荘厳さを保ったまま、死を正面から描いています。こういう場面でも、「美しさ」を感じてしまう。相変わらず見事です。

 この場面の後、難を逃れた鷺たちが天の川に着地する場面があります。こちらもまた美しいです。「輪廻転生」というのでしょうか。命が巡りに巡っていくさまを感じることができます。



銀河サイドバー

 実は私、今この記事を書きながらちょっと緊張しています。なぜなら、次回に、おそらく作品の中でも一番辛いであろう、重要なエピソードが出てくるからです。ああ、いよいよここまで来てしまったか、という感じがします。

 後半は、心臓がつぶれそうな辛いエピソードがあると思えば、さらに美しい、目を奪われるような情景も出てきます。後半は、クライマックスが5回あるくらいに考えた方がいいかもしれませんね。

エピソード・リスト
1話から読む
「イーハトーヴへの旅」(宮沢賢治のコーナー)

★ 次回予告

第6話 「神さまのいる場所」

 次にジョバンニとカムパネルラの前に現れたのは、かわいらしい姿をした小さな男の子と女の子でした。そして、二人の手を引いているのは、せいの高い青年です。

 「もうなんにもこわいことはありません。わたくしたちは神さまに召されているのです」

 青年はよろこびにかがやいてそう言いました。燈台看守に尋ねられたあと、青年は自分たちに起こった出来事を話し始めます。

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 先日、2017年の新語・流行語大賞のノミネートが発表されました。思い入れのある言葉は人それぞれだと思いますが、私には2つありました。それが、「ポスト真実」と「フェイクニュース」です。このブログで書いてきたこととも深く関わる言葉で、流行で片付けてはいけないと思います。

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
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新潮社
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 今日はそのうち、「フェイクニュース」のほうを取り上げることにします。実は、私はこの言葉の定義をいまいちよく理解していないところがありました。明らかなデマ、というようにかなり狭く捉えていたのです。この本を読んで、自分の浅学を知ることになります。おそらく、私と同じように驚く人が多いのではないかと思います。世の中には、こんなに「フェイク」があふれているのか―と。



内容紹介



教養

の記事、事実だと言えますか?

 朝日新聞記者から雑誌編集部、そしてフリージャーナリストとジャーナリズムの畑を渡り歩いてきた著者。原稿用紙に手書きで記事を書く時代から、手元のiphoneに記事を書いてクラウドで共有する時代まで、情報伝達の手段が大きく変わる中を生きてきました。酸いも甘いも知る著者が教えるのは、現代における「事実の見つけ方」です。

 現代は、埋もれるくらいの情報であふれています。そして、ネットの登場により、誰もが発信者になれる時代です。これまで決して表に出てこなかった貴重な真実が明かされることもあれば、根も葉もない悪質なデマが瞬く間に拡散していくこともあります。「事実の見つけ方」は、私たちの「生き抜く力」と言ってもよい、重要な力ではないでしょうか。

 例えば、信頼できる発信者と信頼できない発信者の見分け方。
 その記事が信頼できるか確かめる、誰にでもすぐにできる簡単な方法。
 一見「公正中立」に見える記事に隠された、「印象操作」「誘導」という悪しき魔法。

 目から鱗のテクニック。明日を「正しく」生き抜くために必読の1冊です。

書評



書評

◆ フェアは難しい

 「事実を見つける」というのは、本を読む前の人からすれば、そんなに重く響く言葉ではないかもしれません。普段から当たり前のようにやっているかのように思ってしまうからです。

 しかし、本を読めばこの言葉に「重み」が加わってくるのではないかと思います。「事実に基づいているか、いないか。それだけだ」著者は最後にそう言います。至極単純ですが、ぐっと重みをもって響く言葉でした。なぜなら、事実を見つけるということが本当に大変で、困難を極めているからです。

 著者の立ち位置は一貫しています。最初の方に書かれるこのようなことです。

ある言論に賛同する、信じるかどうかは、その「根拠」である「事実」だけに注意を払えばいい。嫌いな、聞きたくない、信じたくない内容でも、根拠となる事実に説得力があれば、受け入れる。自分にとっては好ましい、信じたくなる内容でも、根拠となる事実に信憑性がなければ、捨てる。



 太字の部分が大事だと思うのですが、太字にしなかった後半の部分も、私はそれ以上に大事なことだと思います。自分がこれまで、「好き嫌い」で情報を見ていなかったか、と私は反省することになりました。

 例えば今はツイッターで、「自分が好きな人だけ」フォローできる時代です。不快なもの、見たくないものをブロックするのは実に簡単です。それは快適になるという面ももちろんあるのですが、「偏り」という重要な問題もはらんでいます。自分の好きなものだけ見て、好きな人とだけ関わっているうちに、自分がもしかしたら「真ん中」からかけ離れた場所にいるかもしれない。そのことは、真剣に考えなければいけないと思いました。

 どうやって、冷静に「事実」を見分ける目を持ち、情報に接していくべきなのか。どの章も目から鱗の内容でしたが、その中から5章の「フェアネスチェック」を紹介したいと思います。

フェイクニュースの見分け方

 フェアネスチェックとは、物事のポジティブな面とネガティブな面の両方を観察すること。発展させて言えば、「ポジティブ、ネガティブ一辺倒の記事は信用できないと思って構わない」ということにもなります。

現実は「善悪」がすっぱり割り切れることのほうがむしろ少ない。「完全な悪人」も「完全な善人」も現実にはいない。どんな人間にも善悪両面が同居している。善人に見えても、欠点のない人はいない。また悪人に見えても、美点が必ずある。



 著者が言うのは当たり前のことで、反論する人はまずいないでしょう。ですが、実際の情報を見ると「そうでないこと」もけっこう多いのではないでしょうか。つまり、何かを「善」または「悪」と決めつけて、その方向に一方的に報道しているものです。

 例に挙げられているものの1つに、東日本大震災後の日本人の行動があります。「日本人は、物資が足りなくなっても暴動を起こしたり略奪をしたりしない」と海外のメディアが称賛していました。私もこの報道はよく覚えています。素晴らしいことではあるけれど、ちょっと美徳にしすぎていないだろうか?とうっすら思ったものでした。

 こういう報道は、私たち日本人にとってはとても「耳ざわりがよく」「誇らしい」ものです。ですが、そういった感情に流されるのはある一面では危険なことだと思います。

 著者は、実際に被災地に足を運んでいます。そこで見たのは、ATMが叩き壊されていたり、コンビニから食料が奪われていたりしていた姿。・・・あまり聞きたくない話かもしれませんが、こういう現実もまた存在していたということです。

 一方的に「美徳」にしてしまうこと。日本人は礼儀正しいといったような「ステレオタイプ」に合わせて物事を解釈すること。もちろん、その逆もあります。世間が、一様に「悪」と見なして叩いているものにも、必ず「そうではない一面」があるということです。それを歪めてしまっては、「事実」とは言えません。

「まったく正反対の、時には矛盾する資質が一人の人間の中に同居する」「同じ人間が、まったくベクトルが逆の行為をする」ことがある。それが「現実」なのだ。悪と善。正と誤。残虐と優しさ。暴力と平和。失敗と成功。そうした、まったく正反対の資質や行為が、同じ人間の人生に現れる。



 「一方的にほめているもの」「一方的にけなしているもの」を疑ってかかってみる。それだけでも、私たちの情報の見方が大分変るかもしれません。

◆ さまざまなフェイク

 冒頭にも書いたのですが、私は「フェイクニュース」という言葉から「デマ」のようなものばかり想像していました。ありもしないウソを並べ立てている、ということです。ところが、「フェイク」はデマをでっちあげることだけではありませんでした。実に多種多様で、いろいろな手を使って私たちをだまそうとしてくるのです。

 本を読んでいて、一番ゾクッとした部分があります。

新聞、テレビ、ネット記事が共通して持つ特徴があるのだ。それは「確かにその記事はウソは書いていない。しかし『本当のこと』も言っていない」である。



 皆さんも、ゾクッとしなかったでしょうか。「え、どういうこと?」と思った方もいるかもしれません。本の中には、ある新聞記事が例として挙げられています。読んでみると、たしかに「ウソ」は言っていない。しかし、その記事には「大事なこと」が書かれていない、と筆者は指摘します。

 たしかに、そうでした。そんなに大きな記事でもないので、何も考えずに読んでいたらそのまま読み過ごしていたかもしれません。本当は絶対に触れるべき「大事な情報」が書かれていないのに、それに気付かず、印象でやり過ごそうとしていたのです。私は、これまで知らずのうちに「だまされ続けてきた」、そう確信しました。

 こういったものまで「フェイクニュース」に含めるのかどうかは分かりませんが、もし含めるとしたら、間違いなく言えることがあります。世の中は、フェイクニュースであふれているということです。

 私もずっとブログを書いているので分かる部分があるのですが、情報は簡単に歪めることができます。例えばこのブログだったら、本の一部を引用しながら感想を書いています。本から正確に引用しているならそれでいいだろう、とはなりません。どこから、どのように引用するか。「情報のどこを切り取って、どういう風につなげるか」で本の印象はガラッと変わってしまいます。それって、案外簡単にできてしまうことで、私も自覚して恐ろしくなることがあります。素人の私でもそうです。プロの記者だったら、もっと巧妙に、簡単には気付かれないように、それをやってしまうでしょう。

 いろいろな角度から情報に当たってみること。このブログのように本を紹介しているなら、必ずその本を実際に読んでみること。いろいろな情報がありますが、正しいことを自分から探しにいかなければいけない。それは全てに共通しています。

まとめ



まとめ



 大学生はレポートを書くことが仕事なので、この本に書かれていることはよく分かる一面もありました。「事実」を見つけることはとても大変で、膨大な労力を要します。レポートだったら、ほんの数行を書くために、一日中図書館にこもることもあります。それでもまだ、自分が「事実」を完璧に書けたとはまったく思えません。実に厳しいものです。

 ネットには「ウィキペディア」という便利なものもありますが、これは全く信用ならないものであると著者は述べます。大学でもそれは同じです。先生にもよりますが、レポートに「ウィキペディア」を使ってしまったら一発アウト。単位はもらえません。誰でも、匿名で好きなように編集できてしまう。そこに書かれていることは、たとえ正しいとしても、引用できるような「事実」とは認められないということです。

 そう考えると、事実を見つけるということは実に険しい道のりです。最初に書いた、この言葉の「重み」というのが、少しでも伝わっていたらいいなと思います。険しい道のりではありますが、簡単に事実が歪められてしまうような今の世の中で、決して忘れずにおきたい教訓です。



オワリ

言葉で、問い続ける覚悟 - 『キャスターという仕事』 国谷裕子

 先日紹介した国谷裕子さんの本です。実は、今日の本の中に国谷さんが出てきて、この本も参照されています。国谷さんといえば、クローズアップ現代を降板した時に、怪しい「圧力」があったと騒がれたものでした。それが、とても「事実」とは言えないことが今日の本で検証されています。


教養, 烏賀陽弘道,



 お金って、怖いものですね。つくづく思いました。財布の中から紙幣を取り出して、まじまじと眺めてみます。この紙切れに、いったいどれだけの人が人生を狂わされて、破滅してきたのでしょうか。そう考えると、お金は人類が生み出した中でもっとも凶悪な、悪魔の発明だったのではないか、とすら思えてきました。

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 お金を毎日扱う仕事の人は、そんな悪魔に魅入られやすいのかもしれません。今日は、お金によって破滅の道を行くことになった女性の物語を紹介しましょう。銀行で契約社員をしていた主人公が、1億円の横領というとんでもない犯罪に堕ちていきます。角田光代さんのサスペンス小説、『紙の月』です。



内容紹介



ミステリー・サスペンス

 う、来た道は戻れない

 「人がひとり、世界から姿を消すことなんてかんたんなのではないか。」

 タイのチェンマイで、梅澤梨花(うめざわ・りか)は漠然と考えていました。これは、バカンスの一コマではありません。行く当てのない、逃亡の一コマです。

 そのころ、日本ではニュースが流れていました。「梅澤梨花容疑者は、まだつかまっていない」―――。

 彼女は、海外へ逃亡していたのでした。契約社員として雇われていた銀行から、1億円を横領したのです。もう決して、日本に戻ることはできません。日本では、残された彼女の知り合いたちが、それぞれに彼女のことを想像していました。

 なぜ、梨花は1億円というとてつもない大金を横領することになったのか。始まりは、ほんの些細な出来事と、ほんの些細な恋心でした。いつの間にか、少しのはずだったお金が1億円に膨らんでいたのです。

 一度はまり込むと、もう決して抜け出すことはできない沼。戻ることはできない道。平凡な契約社員だったはずの1人の女性が、身を滅ぼし、そしてその果てに恐ろしい境地にたどり着く―。角田光代さんの傑作サスペンスです。

書評



書評

◆ お金って何だろう

 とても印象的な一節があったので、今日は引用から始めることにしましょう。

お金というのは、多くあればあるだけ、なぜか見えなくなる。なければつねにお金のことを考えるが、多くあれば、一瞬でその状態が当然になる。百万円あれば、それは一万円が百枚集まったものだとは考えない。そこに最初からある、何かかたまりのようなものだと思う。



 家訓にしたいくらいの言葉です。まあ、この言葉が家訓というのもどうかとは思いますが・・・そのくらい真理だと思います。お金は、たくさん持っていれば持っているほど満たされるというものでは決してありません。多く持っていても、見えなくなって満たされない。それなのに、お金が足りなくなると、お金のことばかり考えてしまう。そう考えると、本当に悪魔のようです。

 「お金を使う」ということにも、悪魔のような魅力がありますね。思い切ってお金を使ってみたその瞬間は、ちょっとした心地よさがあります。でも、そんな快楽はすぐに醒めてしまいます。後に残るのは、お金を使ったという無力感や徒労感だけ。すぐに効果が切れてしまう麻薬みたいに思えてきます。

 主人公の梨花も、そんなお金の悪魔のような一面にどっぷりとはまり込んでいくのでした。

紙の月

 梨花が横領に手を染めたのは、本当に些細な出来事からだったのです。買い物をした後、財布にお金が足りませんでした。その時、ふと、お客さんから預かってきた封筒に目線が行きます。

さっき顧客から預かった現金入りの封筒に、咄嗟に手が伸びる。鞄のなかに手を突っ込んで封筒から紙幣を取り出し、五枚揃えて梨花はカウンターに置いた。何も考えていなかった。迷いもなかった。店員がそれを手にレジへ向かってから、梨花はやっと自分が今何をしたのか理解した。



 梨花は、その後すぐにATMからお金を下ろし、封筒に戻しました。だから、封筒の中はすぐ元の状態に戻ったのです。だけど、決して戻せないものがありました。外れてしまった心のブレーキ、リミッター。顧客のお金に手を付けるという、絶対にやってはいけないことを「お試し」したこの瞬間、彼女は一方通行の道に踏み出してしまったようです。

 ひょんなことから光太という大学生と知り合い、親しくなった彼女は光太に入れ込んでいきます。そして、彼が50万円の借金をしていることを知ります。その借金を肩代わりするため、梨花は証書を偽造し、老人から預かった50万円を返済に当てます。ここまできてしまうと、完全な犯罪で、もう決して「こちら側」には戻れない。そんな、「とんでもないこと」が起こってしまったのですが、本当に彼女は、「ふわっ」とそれを越えていってしまうのです。

 最初にお金に手を出した時、「すぐに元に戻せる」という体験をしました。そして、薄まった罪悪感。ああ、人はこうやって罪に堕ちていくのか。プロットはありきたりなのですが、一つ一つの描写は本当に生々しく、まるで自分が犯罪を犯しているかのようにスリリングな気分になります。

 「ふわっ」と罪に堕ちていった梨花。そうまでして手に入れたお金が見せてくれたものは、何だったのでしょうか。

ゴールデンウィークのあいだ、ずっと梨花はふわふわしていた。手に触れるものもみなふわふわと感じ取られ、足元もみなふわふわとしていて、周囲のものの色合いもふわふわしていた。世のなかはかつてないほどやさしくやわらかかった。そうか、お金のある人たちってこんな世界を見ているのかと梨花は思った。



 お金が見せてくれたのも、「ふわふわした」世界でした。みんなが優しくしてくれる、細かいことなんて気にしなくていい、お金を出せば解決する・・・そんな悦楽が彼女を包みます。決して、彼女が立派な人間になったわけではありません。全ては、彼女ではなく、その手の中にある「お金」に寄って来る幻想。そう言ってあげたいのですが、麻薬におぼれた彼女に声は届きそうにありませんでした。

 お金に囲まれると、世界がふわふわして見えるのでしょうか。298円ののり弁当に3割引きのシールが貼られる時間まで待ってから近所のスーパーに行く私には全く縁のない世界です。私が百円玉を使うような感覚で、彼女は十万円を出す。後半は、何だか呆然としながら彼女の姿を追うばかりでした。

◆ 与えるだけの関係

 梨花が止まることなく転落していった原因には、彼女の性格もあったようです。彼女の昔の同級生が回想するパートがあります。貧しい国の子どもたちのために寄付をするという活動で、子どものころの梨花はやけに張り切ってみるのでした。

梨花は小さく笑い、「それでいいのよ。私、思うんだけれど、何かするのだったら徹底的にするか、もしくはなんにもしないか、そのどちらかしかないわ。ちょっと手を出して、すぐそれをひっこめるっているのが、いちばん人として正しくないことだと思う」と言った。



 平凡な人生があっという間に狂っていく。その裏には、こんな性格もあったようです。そして、このボランティアで梨花は歪んだ感情を育てることになりました。寄付をするという行為が、「自分が与えてやっている」という歪んだ善意に変わっていきます。お金を与えれば、恵んでやれば、ほどこしてやれば、相手は喜んでくれる。その歪んだ思いは、若い恋人である光太にも、同じようにエスカレートしていきました。

 「一方的に与えるだけの関係」って、とても危険なものです。片方は「依存」に、片方は「支配」に、それぞれ流れていく危険があります。人間は簡単に堕落してしまうし、簡単に腐ってしまう。本を読んでいて、痛いほど感じました。純粋なはずだった善意が、歪んだ善意に変わる瞬間も、また一瞬です。人生には、どれだけの落とし穴があるというのでしょうか。

 さて、泥沼にはまり、最終的には1億円もの大金を横領してしまった梨花。一体彼女は最後に何を思うのだろう。それが結末に向けての関心でした。ラスト近くに待っていたのは、これまたぞっとするような言葉でした。

私は私のなかの一部なのではなく、何も知らない子どものころから、信じられない不正を平然とくりかえしていたときまで、善も悪も矛盾も理不尽もすべてひっくるめて私という全体なのだと、梨花は理解する。



 この小説は、途中までは「転落人生」「逃避行」、そんな感じに映って見えます。でも、それは違いました。

 彼女は「覚醒」してしまった。私はそう思いました。善悪を全て超越して、1億円を横領したことを含め、全て自分の中に吸収してしまった。これは、何よりも恐ろしい結末だと思います。犯罪からの逃亡だったはずなのに、まるで「自分探しの旅」を終えたように見えてしまう。背筋が凍るようでした。

 善悪の全てを超越した彼女が、逃亡した先の異国でどういう結末を迎えるのか。全く共感はできないと思いますが、鮮烈なラストが待っているはずです。

まとめ



まとめ



 普段小説をあまり読まない方にもおすすめです。角田さんの文章は読みやすくて、それでいて面白いです。また構成も実にしっかりしています。彼女の犯罪がばれそうになる終盤あたりは、口から心臓が飛び出しそうなくらい緊張しました。共感できない主人公なのに、緊張するくらい入れ込んでしまうんです。角田さんの文章がなせる技だと思います。

 そして、「自分は横領なんて犯罪には無縁だ」と思う人。そんな人にこそ、読んでみてほしいとおすすめするべきなのかもしれません。彼女の動機自体は、本当にどこにでもあるものなんです。

 「自分を少しでもよく見せたい」「人よりも優位に立ちたい」

 少しでも心当たりのある人は、きっとこの小説に引き込まれると思います。



オワリ

 たしか、映画やテレビドラマにもなっていましたね。調べてみると2014年。「面白そうだな」と思ったきり見ていなかったので、激しく後悔しました。小説とはまた違った展開になっているということで、ぜひ見てみたいと思います。

100万分の1回のねこ 5匹目 「おかあさんのところにやってきた猫」 角田光代さん

 短編集「100万分の1回のねこ」から。短編集でも1、2を争う素晴らしい一編でした。角田さんの作品を紹介するのはこの作品以来2冊目ですが、人の心にすっと入ってくる文章に関しては本当に天才的な方だと思います。


小説, 角田光代,



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 こんばんは。皆さん、「銀河鉄道の夜」がよく似合う季節といえば何だと思いますか?私は「冬」派です。外の空気がちょっと寒くなってくると、この作品が読みたくなってくるんです。10月の後半からこの連載を始めましたが、私にとっては「銀河鉄道の夜」を紹介するのにもってこいの季節でした。

 私と違って、「夏」を思い浮かべる人も多そうですね。この作品の舞台となっている時期は夏だと思いますし、銀河鉄道の夜はプラネタリウムなども展開されていて、たしかに夏の星空に似合う感じもします。似合う季節を聞いたら、春夏秋冬、どれが一番多くなるのかちょっと気になるところです。

 そんな、春夏秋冬いつでも似合う名作、「銀河鉄道の夜」(無理矢理まとめた!)。今夜は第4話です。前回から、ジョバンニとカムパネルラの2人による銀河鉄道の旅が始まっています。



今夜のあらすじ



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 白鳥の停車場

 「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」カムパネルラが、突然そう言いました。ジョバンニはびっくりしましたが、自分も地上に置いてきたおかあさんのことを思い出し、ぼんやりしてだまりました。

 カムパネルラは、何か深く思いつめているようでした。そして、大きな決心をしたように見えました。

 車のなかがぱっと明るくなって、二人の前に一つの島が見えてきました、そこには、目の覚めるような白い十字架が立っていました。

 「ハレルヤ、ハレルヤ」汽車の中から声が沸き起こります。皆、つつましく指を組み合わせて十字架に向けて祈りをささげるのでした。ジョバンニとカムパネルラも、まっすぐに立ち上がって十字架を見つめました。

 ・・・

 時計が十一時きっかりをさした時、汽車は「白鳥の停車場」に着きました。「ぼくたちも降りてみようか」ジョバンニがそう声をかけて、2人も停車場に降り立ちました。白い道を歩いて、汽車から見えたきれいな河原に出ました。すると、プリオシン海岸の方に何か作業をしている人たちがいます。そこにあった崖で、学者らしい人とその助手らしき人が何かを掘り出しているようです。

 学者らしい人は、地層の証明をしたいようでした。「ぼくからみると、ここは百二十年ぐらい前にできたという証拠もあがる」彼はそう言って教授を始めます。興味深い話ですが、もう汽車に戻らなくてはいけない時間です。「わたくしどもは失礼いたします」そう言ってジョバンニは駆け出しました。

 ジョバンニは、風のように走れる気がしました。不思議なことに、息も切れてこなかったのです。

to be continued

解説



  前回から、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道の旅に出かけています。今日から2、3回はわりと穏やかな回が続くと思います。最後の方はクライマックスシーンの連続という感じで全く気の抜けるところがないので、中盤は穏やかに、ゆっくりと紹介していきたいと思います。

 さて、今日のメインは銀河鉄道の乗客たちが白い十字架に祈りを捧げるシーン、そして白鳥の停車場に到着するシーンです。

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 「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」カムパネルラが思いつめたように口にするところから、今日の場面は始まります。

ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸いになるなら、どんなことでもする。けれどもいったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう」



 賢治作品の代名詞、「自己犠牲」。あまりにも高潔な想いは、読んでいる者の心臓を射抜いてしまうような鋭い光を放っています。「どんなことをする」そういうカムパネルラは、自らの命を投げ出すことさえ惜しみません。命より大切なもの。私の曇った心には見えませんが、カムパネルラには命の先に見えているものがあるのでしょう。

「ぼくわからない。けれども、だれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う。」



 「ゆるす」って、いったいどういうことなのでしょうか。「生きていること、それ自体が罪だ」という考えは胸を締め付けます。普段はあまり考えませんが(考えないようにしていますが)、たしかに、生きていることはそれ自体が罪深くて、私たちは「ゆるされるために」生きているのかもしれません。

 だけど、生きていることが罪だといっても、それは「生きるな」と言っているわけではありません。むしろ、「生きる意味を見つけること」ではないかと思います。自分は何のために生まれてきたのか、生きている時に何ができるのか、何が残せるのか。「ゆるされること」は、「自分の道を生き抜く」ことでしょうか。はるか空の果ての物語が、私たちに問いかけてくることは多いです。

 カムパネルラがここで言っている「ほんとうのさいわい」については、この後も何回も出てきます。その時に、もっと詳しく掘り下げていくことにしましょう。

 …

 さて、二人の前に見えてきたのは「白鳥の停車場」でした。そして、汽車の中から見えたきれいな海岸、プリオシン海岸に向かって2人は駆け出します。二人がそこの水に手を浸したシーンです。前回、「水素のように透き通った水」を紹介しましたが、今回はその水に手が触れられます。

それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。



 透き通っていて本当に流れているか分からないような水。どうやって見えるのだろう、と前回少し思いましたが、今回は水に触れた場面が描かれていました。水銀色のゆらめき、ちらちら燃えるような青い光。美しい絹織物をさっと広げてみた時の感じでしょうか。目の奥に、青色の光がまたたいたような錯覚を覚えました。

 そして、海岸で出会った地層の研究をしている学者さん。そこには、百二十万年の歴史があるといいます。この作品に「時間」の概念はあまり出てこなかったので、ちょっと不思議な気持ちになって、気が遠くなってきます。そして、百二十万年の歴史を大切に掘り下げていこうとする学者さんの言葉は、ちょっと気取っているようなところもあるのですが、とても尊く思えるのです。

 銀河鉄道の世界には、どんな時間が流れているのでしょうか。もしかしたら、そこにあるのは「永遠」かもしれません。そんなことをちらっと思ったところで、今日はお開きです。

銀河アルバム



 今日も印象的な賢治の表現を紹介しましょう。「どうやったらそんな表現が出てくるんだろう」と思うような比喩がたくさん。今日紹介するのは、読むたびにはっとさせられる箇所です。

銀河アルバム

 鮮烈度 ★★★★★

二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。

左手のなぎさには、波がやさしい稲妻のように燃えて寄せ、

右手の崖には、いちめん銀や貝がらでこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。



 波を「やさしい稲妻」に喩えています。私の身体も、やさしい稲妻に貫かれてしまったようです。何というか、ちょっとした衝撃があるのですが、心地よくヒリヒリと響いてくる表現があります。

 「やさしい」と「稲妻」をよく合わせたものだと思います。稲光は、私にとって見たくもないし耳をふさぎたくなってしまいたくなるようなものです。「やさしい」なんて、生れてこのかたなかったイメージかもしれません。それが、ここで使われると何だかもっともふさわしい表現のように思えてくるのだから不思議なものです。

 稲妻が「怖い」なんて、人間が抱く勝手なイメージでしかないのかもしれません。賢治の目に見える自然は、全てが対等に「やさしい」ものであった。この表現も、彼にとっては自然に生み出されたものだったのでしょうか。



銀河サイドバー

 これで5分の2を消化したことになります。次回でもう折り返し地点ですか。私の中ではあっという間ですね。これから季節は本格的な冬に入っていきますが、寒くなるのに合わせるように、銀河鉄道の夜もその世界観を深めていきます。

エピソード・リスト
1話から読む
「イーハトーヴへの旅」(宮沢賢治のコーナー)

★ 次回予告

第5話 「天の川といのち」

 ジョバンニとカムパネルラに声をかけてくる大人がいました。ぼろぼろの外套、白いきれでつつんだ荷物。赤ひげ。ちょっと貧しい身なりをした人です。「わっしは、鳥をつかまえる商売でね」、おじさんはそう紹介しました。

 おじさんは鷺(さぎ)をとっていると言います。飛んでいる鷺の足をつかんで、ぴたっと押さえつけるのです。おじさんは二人に鷺を見せてくれました。さっきまで飛んでいた鷺が、少し平べったくなって並んでいました。二人は不思議な気持ちを抱えたまま、鳥捕りと話を始めます。