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 先日、私の住んでいる地域で春一番が吹きました。まだ路面には雪が残っていますが、雪の下では新しい生命がじっと力をたくわえています。そして、たまにのぞく晴れ間には、冷たいながらも気持ちのよい風が吹いています。かすかですが、春の匂いがするんです。春は、もうすぐそこまで来ています。

春に

 谷川俊太郎さんの「春に」は、中学3年(かつては中学2年)の国語の教科書に掲載されている作品です。新しい年度の幕開けを高らかに祝うように、教科書の一番最初に掲載されています。私は中学2年の春に習いましたが、今でも大好きな作品です。

 すぐそこまで迫った春を心待ちにしながら、今日はこの作品で一足早い春を感じてみることにします。



内容紹介



教科書

 の気持ちはなんだろう―青い春の、よどみとうずまき

 青い春、と書いて「青春」。なんて素敵な言葉なんだろうと思います。若い時ならではの湧き上がるエネルギーや、後から思い返せばくだらないと思えるような小さな悩み。「春」は若者の季節です。青春の二文字を見るだけで、いろいろなことが思い返されるのです。

 谷川俊太郎さんの「春に」は、青春の真っただ中にいるそんな若者たちに贈りたくなるような詩です。詩の中で中で繰り返されるのは、「この気もちはなんだろう」という一行。浮かんでは消え、浮かんでは消えるようなつかみどころのない気持ち。それを、春の息吹にのせて、高らかに歌いあげています。

 特徴としては、「相反する気持ちが連なっている」ということが挙げられます。この後くわしく見ていこうと思いますが、例えば「よころび」と「かなしみ」のように、正反対の気持ちが連なって歌われるのです。

 一見、矛盾しているように見えます。けれど、この矛盾こそが「青春」なのかもしれません。誰もが通る、青い春のみち。谷川俊太郎さんが、そこに素敵な言葉の種を蒔きました。

感想 ~ぼくはもどかしい



◆ ぶつかりあう春

 春という季節にのせて相反する気持ちを歌うこの詩ですが、春という季節はそのような相反する気持ちにぴったりな季節だと思います。なぜなら、日本では3月と4月が年度の変わり目だからです。

 春という季節には、人の人生にとっての大きな分かれ目が訪れます。ありきたりな言い方になりますが、「出会いと別れ」「期待と不安」がぶつかりあうのが春です。

心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする
この気もちはなんだろう



 「よどみ渦まきせめぎあい」。心地よいリズムを伴った素敵な一行です。春に訪れる複雑な気持ちは、本当に一言で言い表せるものではありません。新しい生活への期待があります。けれど、前に進むためには別れが必要です。足を前に進めようとするのに、後ろから髪を引っ張られるよう。そんな感じでしょうか。

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 皆さんは、「期待と不安」だったらどちらの気持ちが大きいでしょうか。これは、人の性格によって変わってきそうで面白い問いだと思います。私の話をさせてもらうと、圧倒的に不安の方が大きいです。

 変わることは、すごく怖いです。もちろん期待もありますが、割合で言えば、暗闇の中にほんの一筋だけ光が差しているような、そんな感じです。新しい生活に踏み出した後も、ゴールデンウィークの前くらいまではずっと来た道を時々振り返ってしまいます。

地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい



 期待と不安が交差するこの4行も大好きです。私のような性格だと、どうしても後ろの行の方に気持ちが引っ張られてしまいますね。でも、希望を歌った前の行の気持ちも自分の中にあります。春になると、やっぱり心が躍りますし、新たな命の気配を感じると、奮い立たされるような気持ちになります。

 「そのくせ」という言葉がいいですよね。期待と不安の気持ちは、矛盾するものですが、どちらも心の中に存在するんです。「そのくせ」という言葉は本来ちょっと投げやりなニュアンスもある言葉ですが、ここでは矛盾する二つの気持ちを、どちらも否定することなく、優しく包んでくれるようです。谷川さんのこういった言葉選びは、本当に素敵です。

◆ あしたとあさって

 私がこの詩の中で一番好きな部分をご紹介します。

まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい
ぼくはもどかしい



 中学2年の時、私はこの部分に心の底から共感したものです。子供の時って、エネルギーがありあまっています。時間の感じ方が、すごく遅かったような気がします。とにかく早く次に進みたくて、本当に何もかもが「もどかしい」、そう思っていました。

 年を取ると時間の感じ方が早くなります

 この部分を読んでいたら、今でも思い出すエピソードがあります。中2のゴールデンウィークの直前、クラスで席替えをしたのですが、そこで隣の席になった女の子と仲良くなりました。たくさん話をしていたのですが、ちょうどそこにゴールデンウィークがやってきました。

 私は、「学校に行けなくなる!ゴールデンウィークなんていらない!」と(今では信じられないことですが)強く思ったのをよく覚えています。連休なんてとっとと終わってしまって、またその子と学校で話をしたいと思ったのですね。今思い返してみれば、一番学校が楽しい時期でした。ゴールデンウィークのさなか、私は思ったものです。まだ休みは終わらないのか、「あしたとあさってが一度にくるといい」 と 笑。

 4月に学んだこの詩と、自分の気持ちがぴったりと重なって、「谷川俊太郎さんってすごい」と子供心に思ったものです。今読み返しても、やっぱりすごいと思います。一歩ずつしか足を踏み出せない人間のことを本当に「もどかしく」思ったあの頃の気持ちが、まるで缶詰に入れていたかのように、そのままに思い出されます。

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 期待と不安と書いてきましたが、この詩で前に押し出されているのは、新しい生命が沸き起こってくる、春の力強いエネルギーです。

目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる



 不安なことだって、たくさんあります。けれど、人は前に進みます。「目が前についているのはなぜか?前に進むためだ!」というドラえもんに出てくる名言があります。私の大好きな言葉です。ちょっとばからしくて笑ってしまいますが、そうだ、前に進むためだと勇気が出てくるのです。

 「春」という季節も、私たちに勇気をくれます。年度の変わり目が4月にあって、本当によかったと私は思います。不安に押しつぶされそうになった時、春の大地を踏みしめ、空を見上げてみるのです。溢れんばかりのエネルギーが、前に進む勇気をくれると思います。

◆ 高らかに歌おう



 この「春に」という詩は合唱曲としても有名です。中学校の時の合唱コンクールで、隣のクラスがこの曲を歌っていました。湧き上がる気持ちがメロディーを伴うことによってより豊かに感じられて、本当に素敵な曲です。私はこの曲が歌いたくて心の中でずっと悔しい思いをしていました。隣のクラスに移籍できないか、と考えていたほどです 笑。

 

 なんか、涙が出てきますね。まいったな。いろんなことを一瞬で思い出して。詩も曲もすごいです。青春が詰まっていますね。

 また個人的な話になりますが、春から社会人です。今までで一番大きな変化ですから、やっぱり不安の方が大きいですね。本当ならずっと大学生でいたいです。あしたも、あさっても来なくていいです。

 でも、こんな気持ちを乗り越えて人は社会に出ていくのだろう、と思います。今年も、春はすぐそこです。



教科書

 教科書作品には子どもの頃の思い出が詰まっています。読むと一瞬で当時に帰ることができます。私は、一生国語の教科書を捨てないで手元に置いておくつもりです。

 教科書への旅 一覧ページ

 「スイミー」 レオ・レオニ(小学2年生)

 教科書作品でも特に有名なこの作品ですが、日本語に訳しているのが谷川俊太郎さんです。谷川さんのカラーが文章に出ています。心の奥底から奮い立たされるような、力強く、素敵な訳です。


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教科書, 谷川俊太郎,



 今日紹介するのは中学3年生の作品です。「ルロイ修道士」と聞けば思い出す人が多いかもしれませんね。私も、内容はあまり記憶していませんでしたが、ルロイ修道士の「指言葉」のことはよく覚えていました。

握手1

 井上ひさしさんの『握手』を紹介します。戦争をきっかけにカナダから日本に渡り、児童養護施設で園長を務めたルロイ修道士の物語です。ルロイ修道士は、印象的な「指言葉」をたくさん用います。中学校の時はその指言葉を面白がって真似していましたが、改めて読み返してみると実に深みのあるお話でした。

 指言葉や差し出す「手」から、ルロイ修道士という人の生き方を読み解いていく。そういう読み方をしてみようと思います。



あらすじ



教科書

 しぶりの握手は、随分と「穏やか」だった―

 上野公園にある西洋料理店で、主人公の「わたし」はルロイ修道士と再会しました。ルロイ修道士は、カナダから日本に渡った修道士です。第二次世界大戦の直前に日本に渡り、戦後も日本に残って児童養護施設の園長を務めました。「わたし」は、中学三年の秋から高校を卒業するまで、その児童養護施設に入っていたのでした。

 今度、故郷に帰ることになったとルロイ修道士。自分が面倒を見た子供たちに別れを告げるため、こうして会って回っているのだと言います。

 ルロイ修道士が大きな手を差し出してきた時、「わたし」は思わず顔をしかめました。ルロイ修道士は、ものすごい力で握手をしてくる人だったからです。さらに、腕を勢いよく上下に振り回すのでした。「ルロイ先生とうっかり握手をすべからず」、昔言われていた、そんなことが思い出されるのでした。

 ところが、長い年月を、経て、ルロイ修道士と交わした握手は、実に穏やかなものでした。

だが、顔をしかめる必要はなかった。それは実に穏やかな握手だった。ルロイ修道士は病人の手でも握るようにそっと握手をした。



 「わたし」とルロイ修道士は、懐かしい日々を振り返りながら談笑しました。思い出されるのは、ルロイ修道士が決まって用いていたたくさんの「指言葉」でした。ルロイ修道士の指言葉は、「わたし」たち教え子にも、すっかりとおなじみになっているのでした。

 ところが、談笑のさなか、「わたし」はルロイ修道士の異変に気付きます。おいしいですね、と言いながらも、修道士は料理のオムレスに全く口にしようとしないのです。そして、ルロイ修道士が口にする「遺言」のような言葉と、「穏やかな」握手―。

 ルロイ修道士が、何か重い病気にかかっていて、余命いくばくもないのではないか。「わたし」はそう気付きます。

握手2

感想 ~断ち切るものとつなぐもの



◆ 国境を越えて

 ルロイ修道士の「指言葉」、読み返していてとても懐かしかったです。教室の中で真似しあったものですね。きっと、どの学校でも同じだったのではないかと思います。ジェスチャーというのは、時に実際の言葉よりもインパクトがあって、気持ちをダイレクトに、そしてシンプルに表現することができます。

 せっかくですから、ルロイ修道士の指言葉をここで振り返ってみましょう。

① 右の人さし指をぴんと立てる
「こら」「よく聞きなさい」という意味のサイン

➁ 右の親指をぴんと立てる
「わかった」「よし」「最高だ」という意味のサイン

③ 両手の人さし指をせわしく交差させ、打ちつける
「おまえは悪い子だ」という怒り。この後怒りが爆発する危険信号

④ 右の人さし指に中指をからめて掲げる
「幸運を祈る」「しっかりおやり」という意味のサイン



 親指を立てて「よし」というのは多くの人がやりそうですが、随分ユニークな指言葉もありますね。これらは、ルロイ修道士が日本の子供たちとコミュニケーションをとろうとして編み出したものだったのでしょうか。ルロイ修道士は今は日本語が堪能とはいえ、カナダの人です。指で示す感情というのは、言葉よりもダイレクトに、子供たちに伝わったのではないかと思います。

 実際、指言葉は教え子たちの印象に深く刻まれているようです。「わたし」は事あるごとに修道士の指言葉を使いますし、児童養護施設出身のバス運転手が、修道士の真似をして右の親指を立てるシーンもあります。国境を越えた、実に愛らしいコミュニケーションですね。

 そして、指言葉だけではなく、ルロイ修道士はその「手」も印象的です。修道士の手は、いつも畑仕事に精を出していたこともあって汚れていました。そして、人さし指がぴんと伸びていて、指の先の爪は潰れていました。それは、戦争の時に日本人に潰されてしまった跡だったのです。

 ルロイ修道士がこれまでどれほどの苦労をし、艱難辛苦に耐えてきたのか。それが彼の手に表れています。言葉で詳しく語られるよりも、そうやって手が無言で示すものの方がずっと大きいでしょう。「身体」は時に「言葉」より雄弁です。

 そんなルロイ修道士とは、いったいどんな人なのか。どんな考え方をし、どんな風に生きてきたのか。後半ではそれを考えてみます。

◆ 憎しみよりも愛を
 
 ルロイ修道士は戦争が終わった後も日本に残り、日本の子供たちを世話しました。どうしてそんな人生を歩むことにしたのでしょうか。戦争を起こした国の人間としての「罪滅ぼし」だったのか?-そんな記述が本文の中にありますが、それは違う、と私ははっきり思います。ルロイ修道士の中に、罪滅ぼしというような意識はなかったと思うのです。

 ではどんな理由か。私が考えるのは、ルロイ修道士は「悲しみや憎しみの連鎖を断ち切るために」日本に残ったのではないか、ということです。本文の中にそう思わせる箇所があるので、紹介していこうと思います。

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 「わたし」がルロイ修道士に日本人を代表して謝罪しようとした時、修道士はこう言って「わたし」をたしなめます。

「総理大臣のようなことを言ってはいけませんよ。だいたい、日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。それに、日本人とかカナダ人とかアメリカ人とかいったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから。



 これは、ルロイ修道士の信念でしょうね。彼がカナダを代表して日本に残ろう、などとは考えなかったことが分かります。戦争というものを切り離して、目の前にいる日本の子供たちと向き合ってきたのでしょう。

 私も、ルロイ修道士のこのような考え方には共感します。たしかに、戦争はたくさんの悲劇を引き起こしました。それを「忘れないでおく」ことは大切だと思います。けれど、その戦争を、孫やひ孫といった世代の子供たちにまで「背負わせる」ことは違うのではないでしょうか。子供たちには子供たちの、新しい人生が開かれているはずです。十字架を背負わせ続けることは、もはや「呪い」です。「忘れない」ことと、「背負わせる」ことは違います。

 昔起こった戦争という悲劇を、後の世代にも背負わせ続けること。そんな、「悲劇の連鎖」とでもいうべきことを、ルロイ修道士は自分の世代で断ち切りたかったのではないか、そう思いました。

握手3

 もう一つ、こんな発言があります。ルロイ修道士が、もっとも悲しかったことを聞かれたシーンです。

「天使園で育った子が、自分の子を、またもや天使園へ預けるために長い坂をとぼとぼ上ってやって来る。それを見ることがいっとう悲しいですね。なにも、父子二代で天使園に入ることはないんです」



 ここでも、ルロイ修道士が「悲劇の連鎖」を悲しんでいることが分かります。子供が親の元ではなく、児童養護施設で過ごさなくてはいけないのは悲しいことです。それを知っている施設の子供が、また自分の子供を施設に預けに来る。これも、悲劇の連鎖です。

 ルロイ修道士は、子供たちを懸命に愛することで、いろいろな悲劇を断ち切りたかったのでしょう。異国の地に残ってまで、悲劇の連鎖を断ち切ろうとした人生はとても尊いものです。どれだけの覚悟と悲壮な決意があったのだろうか、と思います。

 憎しみよりも愛を、そんな人生だったのでしょうか。

 一番悲しいことは悲劇の連鎖。では、一番うれしいことは何でしょうか。修道士はこう答えます。

「それはもう、こうやっているときに決まっています。天使園で育った子供が世の中へ出て、一人前の働きをしているのを見るときがいっとう楽しい。何よりもうれしい。」



 自分が懸命に愛し、まいた「種」が、こうやって「花」を咲かす。ルロイ修道士にとって、何よりも大きな喜びだったと思います。

◆ 天国へ行った恩師



 ルロイ修道士は、やはり重い病気でした。「わたし」と会った直後に亡くなってしまいます。「わたし」と会っていた時には、もう身体中が腫瘍に蝕まれていたのです。だから、オムレスに手を付けることができなかったのですね。そして、「穏やか」な握手も、実は、もう手に力を込めることができなかったのだ、と分かります。

 ルロイ修道士の身体がボロボロだったことを聞いて、「わたし」はある行動をとります。

葬式でそのことを聞いたとき、わたしは知らぬ間に、両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。



 これは、指言葉の一つ、「怒り」の危険信号ですね。どうして「わたし」はこのような仕草をしたのでしょうか。私の浅い読解力ではズレているかもしれませんが、これは怒りというより「寂しさ」「悔しさ」のあらわれなのではないか、私はそう思います。

 ルロイ修道士は、重い病気なのに、ほとんど最後まで痛い顔をしなかったのです。弱音を吐くこともありませんでした。おそらく自分の死期は悟っていたのに、です。とても高潔で、最後まで立派な「逝き方」ですね。

 自分にも、少しでもいいから弱音を吐いてくれたら

 そんな寂しさや悔しさが「わたし」の中にあったのかもしれません。ルロイ修道士の高潔な生き方はたしかに立派ですが、立派すぎて人を寄せ付けないようなところも感じます。もっと腹を割って、恩師ではなく「友人」として話したかった、そんな思いもあったのでしょうか。

 人の死には、たくさんの後悔が伴います。もっとああしていたら、こうしていたら、残された人はどうしてもそんな風に考えてしまいます。「わたし」にも、おそらくたくさんの後悔が訪れたのだと思います。

 けれど、ルロイ修道士はたしかに「つなぎ」ました。懸命に愛した子供たちは、これからもそれぞれの人生を歩んでいきます。たくさんの指言葉や、タイトルになっている「握手」の感触が、子供たちの中にはずっと残っています。子供たちもまた、同じように誰かにそれをやってみせるのかもしれません。そうやって、愛と命はつながれていきます。

 人生は限られているけれど、こうやってつないでいくことで、それは永遠に広がっていくかもしれない。人が生きる「意味」というものを、教えてもらったような気がします。



教科書

 教科書への旅 一覧ページ

 今回で25回になった長寿シリーズ。名作ばかりなので、ぜひ他の作品もご覧になって下さい。

 「故郷」 魯迅 (第23回)

 前々回に紹介した「故郷」も中学3年生の作品です。中3ともなると、やはりぐっと深みを増した作品が多くなっているように思います。「故郷」は決して乗り越えられない身分の壁を悲しく描き出した名作です。


教科書, 井上ひさし,



 今日は、私の大好きな「がまくん」と「かえるくん」をご紹介しましょう。久しぶりに読み返したら、胸が温かくなって、そして便箋を買いに行きたくなりました。

お手紙1

 アーノルド=ローベルさんの『お手紙』(小学2年生)です。三木卓さんが訳されています。話の内容はよく思い出せなくても、「がまくん」と「かえるくん」のことは覚えているという人も多いのではないのでしょうか。何を隠そう、私がそうでした。とても味わい深くて、印象に残るキャラクターでしたね。

 ちょっと遠回りにも思えるけれど、やっぱり温かくて大切にしたい「友情」の物語です。



内容紹介



教科書

 日、ぼくのゆうびんうけは、空っぽさ。

 がまくんが、玄関の前に座って悲しそうな顔をしています。そこに、友達のかえるくんがやってきて声をかけました。がまくんは、悲しそうにしている理由を答えます。

「今、一日のうちの、かなしい時なんだ。つまり、お手紙をまつ時間なんだ。そうなると、いつもぼく、とてもふしあわせな気もちになるんだよ。」



「だって、ぼく、お手紙もらったこと ないんだもの」



 今までに手紙をもらったことがないというがまくん。毎日手紙を待っていますが、郵便受けはいつも空っぽです。毎日、悲しい気持ちで手紙が来るのを待っていたのでした。

 かえるくんはがまくんと一緒に玄関で腰を下ろして、手紙が来るのを一緒に待ってくれました。しばらくして、かえるくんは何かを思いついたようです。「しなくちゃいけないことがあるんだ」、そう言ってかえるくんは家に帰ったのでした。

お手紙2

 「がまがえるくんへ」

 かえるくんは、家に帰ってがまくんに手紙を書いたのでした。そして、知り合いのかたつむりくんに手紙を渡し、がまくんに届けてくれるよう頼みます。

 かえるくんはがまくんの家に急いで戻り、手紙が来るのを一緒に待つことにしました。けれど、手紙はなかなか届かなくて・・・

感想 ~ しあわせなお手紙



 そりゃあ、手紙を託したのが「かたつむりくん」だったらなかなか届かないですよね。他に頼める友達はいなかったのかな 笑

 この作品は、キャラクターがいい意味でくせ者という感じで、いい味を出しています。ちょっとニヒルで、けれど愛に溢れたキャラクターたちです。

 手紙を託されたかたつむりくんの台詞に私は大爆笑しました。そして思い出しました。小学生の時、このかたつむりくんの決め台詞が教室で流行って、みんなで面白がって使っていましたね。

「まかせてくれよ」
かたつむりくんが言いました。
「すぐやるぜ」



 なんともかたつむりくん「らしくない」台詞で、今でもツボに入ります。ちなみに、かたつむりくんから手紙が届くのは「4日後」でした 笑。こういう一つ一つの場面が本当にくすぐったくて愛らしい作品です。

 配達に4日もかかる郵便屋さんには困ったものですが、でもこの長い時間は、手紙を待つ二人にとってとても大切な時間になりました。かたつむりくん、もっとゆっくりでもいいよ、と言いたくなるくらいに。

 手紙を待つ二人の愛らしいシーンを見ていくことにしましょう。

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 どうせ手紙なんか来ないといじけだすがまくん。そして、自分が出した手紙がいつ届くかとそわそわし、思わせぶりに窓の外を眺めるなど落ち着かないかえるくん。二人ともかわいいです。

「でもね、がまくん」
かえるくんが言いました。
「きょうは、だれかが、きみにお手紙くれるかもしれないよ」



 がまくんにそう声をかけて、サプライズを演出しようとするかえるくん。友達のことを思って一生懸命手紙を書いたのでしょう。シンプルながら、がまくんのことを大切に思っているのが伝わりますね。

 けれど、手紙はなかなか届きません。この作品の味わい深いのはここからです。4日後に手紙が届くまで、かえるくんは言い出したいのをこらえてじっと黙っているのでしょうか?いいえ、違いました。かえるくんは、なんと自分が手紙を出したことをばらしてしまいました。

「だって、ぼくが、きみにお手紙出したんだもの」



 カミングアウトをしてしまったかえるくん。この後、あろうことか手紙の内容までしゃべってしまいます。まだ届いていないのに!と思ってしまいますが、二人にとって、手紙が届くかどうかはきっとささいなことだったのです。最後に素敵なラストを見てみましょう。

お手紙3

『親愛なる がまがえるくん。
ぼくは、きみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。
きみの親友、かえる』



 シンプルなことば。ちょっとお堅いことば。だけど、この手紙には手紙の「よさ」が詰まっているように私は思いました。

 泡のように消えていく普段の会話と違って、手紙というのは改まったもの、そして残るものですね。面と向かって「親愛なる・・・」なんて言いません。手紙だから、改めて向き合うことができるのです。

 そして、相手に向かって「親友」なんて言うのも、面と向かってだったら気恥ずかしい気持ちの方が上回るかもしれませんね。目の前の人ではなく、「紙」と向かい合うこの素敵な営みは、自分が普段言いたくても言えなかった、自分の本当の気持ちに気付かせてくれます。

 「親友だよね?」と確かめるのではなく、「親友であることを、うれしく思っています」。これがまたよくて。二人の間に流れている、この物語の中には書かれてはいないたくさんの日々を感じることができます。本当にかけがえのない親友なのでしょう。

 手紙の内容まで届く前に言ってしまったかえるくんですが、もうそんなことはどうでもいいようでした。そのあとのこのシーンが大好きです。

それから、ふたりは、げんかんに出て、お手紙の来るのをまっていました。
ふたりとも、とてもしあわせな気もちで、そこにすわっていました。



 どうして、しあわせだったのでしょうか。この場面は、二人にとって2つのしあわせが「重なり合っている」のだと思います。

 まずはかえるくん。手紙を通して、なかなか面と向かっては言えないような気持ちと向き合うことができました。これが一つ目。そして、がまくんと一緒に手紙を待ちます。友達と一緒の気持ちで何かをしている時というのはとても楽しいでしょう。

 つぎにがまくん。かえるくんが自分のために手紙を書いてくれました。これが一つ目。そして、かえるくんと一緒に手紙を待ちます。差出人も、内容も分かっているけれど、初めて郵便受けに届く自分宛ての手紙。

 手紙って、すっかりアナログな手段になってしまいましたが、こんな素敵な「時間」まで与えてくれますね。4日間もかけてじっくりとがまくんの家に向かっている郵便屋さん。「遅い!」なんて怒るところではありません。とてもとても、素敵な仕事をしてくれました。

まとめ





 何かに急かされるのではなく、じっくりと、ゆっくりと、「ため」を作ってみるのもいいかもしれません。それこそ、4日間かけて手紙を待つようなことがあっても。

 それと、やっぱり、自分の隣にいてくれる人に感謝の気持ちを忘れないようにしたい、と思わせてくれる本ですね。隣にいてくれることは、当たり前のことではありません。いつもだったら疲れてしまうので、たまに、恥ずかしくてもちゃんと感謝の気持ちを伝えることができたら、きっと、ずっと一緒にいられると思います。



教科書

 低学年のお話は子供のころの気持ちを思い出すことができて好きです。大人になって読んだら子供のころに気付かなかった味わい深さに気付くことができてもっと好きになります。

 教科書への旅 一覧ページ

 おかげさまで24回も連載してくることができました!できれば30回を目指したいと思っています。

 「スイミー」 レオ・レオニ (第9回)

 他の人と違うことは恥ずかしいことじゃない。みんなが主役なんだ。大切なことを教えてくれる、今回と同じ小学2年生の作品です。2年生は「スイミー」「お手紙」「スーホの白い馬」など本当に名作揃い!


教科書, アーノルド・ローベル,



 異国の文学作品に触れることは貴重な体験です。なぜなら、そこには日本の文学作品とは全く異なる空気が流れているからです。今日紹介するのは中国の文学作品ですが、ここに流れる、あまりにも重たい空気と「腐臭」を、私は忘れることができません。

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 今日紹介するのは、魯迅の「故郷」。中学3年の教科書に掲載されている作品です。久しぶりに読み返してみました。思い出したくない、そんな抵抗がかすかに残っているほど、この作品は辛く、重苦しいものでした。

(出典 : 光村図書「国語3」 訳・竹内好)



あらすじ



教科書

 会が作った、悲しむべき厚い壁

 厳しい寒さの中、主人公は別れて二十年にもなる故郷へ戻ってきました。住んでいた家を引き渡し、今暮らしている異郷の地に引っ越すためです。故郷へ、別れを告げにきたのでした。

 荷造りをしていた時、母の言葉で主人公はある少年のことを思い出しました。今から三十年近く前、主人公が十歳そこそこの頃に出会った少年、閏土(ルントウ)のことです。

 同じ年頃の二人は、たちまち仲良くなり、親交を深めました。ルントウが聞かせてくれたのは、さすまたを使ってすいかを狙う動物を捕る話。こんなに珍しいことがあるのか。主人公は、胸をときめかせたのでした。

ああ、ルントウの心は神秘の宝庫で、私の遊び仲間とは大違いだ。こんなことは、私の友達は何も知っていない。



 子供の頃の思い出が、彼の脳裏に電光のようによみがえってきたのでした。彼はやっと、美しい故郷を見たような気がしました。

 ・・・

 引っ越しの作業を続けていたある日、彼の家に来客がありました。そこにいたのは、何十年ぶりかに出会うルントウでした。外見は大きく変わり、顔には深いしわがきざまれていたものの、すぐにルントウだと分かったのです。
 
 「ああルンちゃん―よく来たね・・・。」感激して、言いたいことが次々に口から出そうになった、その時。ルントウの口から、信じられない言葉が飛び出しました。

 「旦那様!・・・・・・。」

ルントウ

 そこにあったのは、子供の頃のような、純粋な関係ではありませんでした。上流階級の主人公と、下層階級のルントウ。そこにはもう、乗り越えることのできないほどの断絶があったのでした。

「めっそうな、御隠居様、なんとも……とんでもないことでございます。あの頃は子供で、何のわきまえもなく……。」



 うやうやしく振る舞ってみせるルントウ。主人公は、悲しむべき厚い壁を目の当たりにし、打ちひしがれるのでした。

 ところがその後、彼の甥っ子、ホンルが思わぬ言葉を口にするのです・・・。

貧困の浸蝕



 子供の頃の純粋な関係を、大きくなっても保ち続けることは難しいですね。同窓会に行くと、そのことを実感します。もう、昔のように何も気にせず思ったことを言いあえる関係ではないし、どうやって振る舞ったらいいか、なんと呼んだらいいか、けっこう戸惑うものです。「学歴」とか「就職先」をどうしても気にしてしまうのも、とても悲しいことですね。

 ですが、この作品のテーマはより深刻なものです。なぜなら、二人の関係を隔てているものが、時間や環境の変化ではなく、「身分」だから。そして、この断絶を作っているのが「社会」だから。今の日本と違う状況なので、想像力を及ぼすのは大変ですが、やはりこのことの残酷さというのを考えなくてはいけません。子供の頃、分け隔てもなく接していた二人が、社会によって引き裂かれている。とんでもない理不尽です。

 ルントウと再会する前、主人公はもう一人、懐かしい人と再会しています。それは豆腐屋の「ヤンおばさん」です。彼女もまた、下層階級で貧困にあえいでいるようでした。そして、ルントウのことを嘲ってみせます。

「忘れたのかい。なにしろ身分のあるお方は目が上を向いているからね・・・・・。」



「ああ、ああ、金がたまれば財布のひもを締める。財布のひもを締めるからまたたまる……。」
コンパス(注:ヤンおばさんのあだ名)は、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりとした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に、母の手袋をズボンの下へねじ込んで。



 文句を言いながら、さりげなく手袋を泥棒していくヤンおばさん。罪悪感のかけらも感じさせないようなそぶりです。卑屈で、歪んだ羨望にまみれ、プライドのかけらもありません。とてもみじめにみえます。

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 さて、みじめなのはルントウも同じでした。ルントウのことを哀れに思った主人公と彼の母は、家のいらない品物を彼にあげることにしました。その時、ルントウは「わら灰」も欲しい、と言いました。その後、目を覆いたくなるような醜い事実が明らかになります。ルントウは、灰の中にお椀や皿も埋め込んでいたのです。もちろん、灰の中に紛れさせて盗み出すため。

 利用できるものならなんでも利用する。骨の髄までむさぼり尽くす。貧困に苦しむ下層階級の醜態が残酷なまでに明らかにされ、気がめいります。そこには、かつての友情など一かけらも残っていません。主人公もまた、同じ気持ちだったことでしょう。

 ですが、この話は彼らの醜態をさらすために書かれたものではないでしょう。私なりに、主題を考えてみます。

 「貧困」の、本当に恐ろしいところはどこでしょうか。食べ物が足りないとか、毎日服が同じとか、そういった物質的な次元ではありません。それは、貧しさが心まで蝕んでしまうことです。冒頭に「腐臭」と書きました。きつい言葉かもしれませんが、この作品に出てくる下層階級の人々から漂ってくるのは、まさに、思わず顔を背けたくなってしまうような腐臭でした。卑しく、うやうやしく、醜い。人間の醜悪な部分だけ集めてさらに腐敗させたような彼らの姿は、正直、見るに耐えないものがあります。

 とはいえ、私は決して彼らを責め立てたいのではありません。彼らは、「そうなるしかなかった」。それが、正しい認識ではないでしょうか。文字通り、地べたを這いずり回るような生活。常に下から上を見上げ続ける人生。下から上を見上げ続けていれば、その視線はだんだんと卑屈なものになっていくでしょう。生きるためには、上に媚びへつらい、頭を地面にこすりつけ、うやうやしくしてみせる。それは彼らの「生存本能」とでもいうべきもので、全く責める気にはなりません。

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 社会の底辺に置かれる中で、精神も「貧困」を受容していく。身分社会が生んだそれは、人類の歴史の中でもっとも忌むべき悲劇かもしれません。当時の下層社会の人々は、もはや自分たちの力ではどうしようもない状況で、精神の貧困を当然のことのように受け入れていったのかもしれません。あるいは、そんなことは最初から全く考えていないのかもしれません。けれど、私たちまでもがそうなってはいけません。貧困の根源は想像力の欠如です。彼らが「こうなるしかなかった」こと。それは決して彼ら自身の意思ではなく、もっと大きな、社会全体を覆うものによる支配であること。そして、作中で主人公がいうように、社会には見えない壁があること。この作品が突きつけてくるものはあまりにも大きく、それは中学3年生には重すぎるようにも思えます。しかし、この作品が中学3年の教科書に採用されていることには、やはり意味があるのではないでしょうか。自分や自分の周りの人たちだけの世界を超えて、「社会」に気付かなければいけない年頃になった、そう思います。

 偉そうなことを書いていますが、自分が中学3年のころ、ここまでのことを考えられていただろうかと思い返すと、全くできていませんでした。社会などという大きなものに想像を巡らすのは、思っている以上に難しいことです。私は今も、そのことと格闘を続けています。

紺碧の空と希望



 絶望に打ちひしがれる主人公でしたが、最後に一筋の光が差しこみます。彼の甥っ子ホンルと、ルントウの息子シュイションが親交を深めていたのです。

「帰ってくる?どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい。」
「だって、シュイションが僕に、家へ遊びに来いって。」



 はっとさせられる展開ですね。大人になった二人は、身分によって隔てられてしまった。しかし、子供たちは、まだ「身分」を知らない子供たちは、純粋な関係で付き合うことができた。

思えば私とルントウとの距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現にホンルはシュイションのことを慕っている。せめて彼らだけは、私と違って、互いに隔絶することのないように……



 主人公の思いは痛切です。そんな彼の思いを反映しているのでしょうか。彼が見上げる空は、紺碧の色をしていて、そこには金色の丸い月がかかっていました。それは、彼が幼少時代にルントウに出会った時と同じ景色だったのです。

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 そして、最後に彼の脳裏によぎったのは、「希望」という言葉でした。

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、、それが道になるのだ。



 「希望」というのは、本当はとても明るい言葉です。しかし、この作品に用いられたそれは、必ずしもそうではありません。ここで用いられた「希望」に、私は鬱屈としたものを感じますし、そのすぐ裏には「絶望」がちらついて見えます。

 なぜなら、身分や貧困というのは社会的に「再生産」されるものだから。本人の意思とは関係なく、富める者の子はまた富み、飢える者の子はまた飢える。こういった負の連鎖を断ち切ることは簡単ではありません。今は純粋に友情を育んだホンルとシュイションも、大きくなって「身分」を知れば、やはり・・・。どうしてもそう思ってしまいます。

 ここでいう希望とは、「決意」に近いものでしょうか。

もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。



 生まれ落ちた家によって、本人の人生がほとんど最後まで決まってしまうことの理不尽さ。子供の頃の純粋な友情を、「身分」が引き裂いてしまう理不尽さ。想像力を及ばせ、それをはっきり「おかしい」と思うこと。そして、そういったおかしなものを打破して、新しい生活を望むこと。希望の光は、決意の灯です。

 今の社会はこの作品に書かれた中国の社会とは大きく異なりますが、社会に多くの理不尽が残っていることは今も同じでしょう。それをおかしいと認識し、変えたいと願う。「それが道になる」。作品の最後にかすかに灯された希望の光を、消してはいけません。



教科書



 このブログの看板になった国語の教科書のコーナーです。10ヶ月ぶりの更新とずいぶん間が空いてしまいましたが、教科書作品は子どもの頃を思い出すことも多くていいですね。実家の奥から昔の教科書を探し出さなければいけないのでなかなかやるのが大変なコーナーですが、まだ紹介したい作品がいくつか残っているので、続けようと思います。

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 今回で23作品!ちなみに、中学3年の作品としては、過去に森鴎外の『高瀬舟』を紹介しています(第7回)


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