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  • つまでも、そばに

     国語の教科書からなつかしい名作を紹介しているコーナーです。今回が第22回目になります。たくさんの作品を紹介してきましたが、名作はまだまだ尽きることがありません。今日は、教科書作品の中でも特に有名だと思われるこの作品を紹介します。

     「スーホの白い馬」(小学2年生)です。とても有名な作品で、教科書作品の中でも特に悲しい作品の1つとして語られています。今日は、この名作を、なつかしい教科書の絵と共にご紹介したいと思います。



    あらすじ



     昔、モンゴルの草原に、スーホというひつじかいの少年がいました。スーホは、年とったおばあさんとふたりきりで暮らしていました。

     ある日のことです。夜になってもスーホが帰ってきません。おばあさんや他のひつじかいが心配になってきたころ、スーホは何か白いものを抱えて帰ってきたのです。



     それは、小さな白い馬でした。スーホは、白馬が地面にたおれてもがいていたところを見つけ、連れ帰ってきたのでした。

     スーホが心を込めて世話したおかげで、白馬はすくすく育ちました。すっかり立派になった白馬は、自らが盾になって、狼から羊を守り抜いたこともありました。スーホと白馬は、その絆を深めていきます。

     ある日、あたりを治めている殿様が、競馬の大会を開くという話が伝わってきました。競馬の勝者は、殿様の娘と結婚させるというのです。スーホは、自慢の白馬を連れて大会に出ることにしました。そして、スーホと白馬は他の馬をぶっちぎって見事に優勝します。



     しかし、殿様はスーホの貧しい身なりを見て、娘のむこにする約束をなかったことにします。そして、家来にスーホを打ちのめさせて、白馬を取り上げてしまうのです。スーホと白馬の仲は、引き裂かれてしまいました。

     しかし、白馬はスーホの元に戻ろうとしました。上に乗った殿様をはねとばし、一心不乱にスーホのもとに向かいます。背中にはたくさんの矢を浴び、ぼろぼろになりながら、それでもスーホのもとに帰ったのでした。

     スーホと白馬は再会を果たします。しかし、白馬の命はまさに尽きようとしていました。「白馬、ぼくの白馬、しなないでおくれ」、スーホの必死の祈りも空しく、白馬は息を引き取ります。

     悲しさと悔しさでいっぱいの中で眠ったスーホの夢の中に、亡くなった白馬が出てきます。そして、自分の骨や皮を使って楽器を作るようにスーホに言いました。そうすれば、ずっとスーホのそばにいられる、と…。

     スーホは楽器を作りました。その楽器は、美しい音色を響かし、人々の心を動かしました。スーホの作った楽器は「馬頭琴」と呼ばれるようになり、モンゴルの草原じゅうに広まっていったのでした-。

    再読!「スーホの白い馬」



     教科書の作品に、このブログで独自の解釈を加えてみたいと思います。

     小学校の時に読んで以来、久しぶりに教科書を開きました。改めて読んでみると、「殿様(権力者)の理不尽、不条理」が際立ちます。スーホの貧しい身なりを見るなり彼を切り捨て、彼と白馬の仲を切り裂いた殿様。理不尽で残酷な仕打ちに、怒りのやり場もありません。

     しかし、その理不尽な仕打ちが、スーホと白馬の絆をいっそう引き立てていることも事実です。これまでの作品紹介でも触れたのですが、国語の教科書の作品では「動物と人間の心の通い合わせ」をテーマにした作品がとても多いです(「ごんぎつね」「大造じいさんとガン」「海の命」・・・)。この作品の読みでも、スーホと白馬の心の通い合わせに注目して読んでみたいと思います。

     今回の読みで注目するポイントは3つです。

    ①スーホと白馬が心を通い合わせてゆく過程 →スーホの人柄

    ②殿様の理不尽な仕打ち → 階級や身分という乗り越えられない壁

    ③白馬をめぐる、2つの異なる「価値観」



    ①スーホと白馬が心を通い合わせてゆく過程

     話の序盤で、私がとても印象に残っている場面があります。スーホが手負いの白馬を連れ帰ってきた場面です。

    みんながそばにかけよってみると、それは、生まれたばかりの、小さな白い馬でした。

    スーホは、にこにこしながら、みんなにわけを話しました。



     「にこにこしながら」のところで、少しはっとさせられないでしょうか?この場面は、スーホが弱っている白馬を抱えて戻ってきた場面です。私だったら、スーホが心配そうに白馬のことをのぞきこんでいるところを想像して、「深刻そうに」などと書くと思います。そうではなく、スーホは「にこにこしながら」帰ってきました。

     ここから感じるのは、スーホの「純粋な愛」です。白馬を連れ帰ってくるというのは、彼の穢れのない、真に純粋な気持ちから起こった行動であるということが分かります。

    「あたりを見ても、もちぬしらしい人もいないし、おかあさん馬も見えない。ほうっておいたら、夜になって、おおかみに食われてしまうかもしれない。それで、つれてきたんだよ」



     スーホはさらっと言ってみせますが、ここからは「豊かな想像力」が読み取れます。そしてスーホは、白馬を心を込めて世話したのでした。たまたま出くわしただけである白馬に、ここまで心を開くことができて、何の見返りも求めずに心を込めて世話できるというのは、改めて読み返してみると、とても感心できることでした。

     たとえば、「ごんぎつね」で描かれたように、人間が動物と心を通い合わせるということはとても難しいことで、時には悲しいすれ違いを生んでしまいます。また、そもそも動物のことを思う想像力がなければ、動物に心を開くということそのものが起こり得ないことになります。スーホと白馬が心を合わせることができたのは、スーホのこの人柄の部分が一番大きいように思います。スーホの真っ白な心に注目して、その豊かな想像力に触れながら読んでいきたいものです。

     スーホの純粋な思いに白馬が応えてくれたようです。背中に矢を浴びながら、白馬は一心にスーホのもとに帰ってきました。そこで力尽きて亡くなってしまいますが、スーホと白馬の心は決して離れることがありませんでした。



     白馬は、スーホの夢の中に出てきてこう語りかけました。

    「そんなにかなしまないでください。それより、わたしのほねやかわや、すじや毛をつかって、楽器を作ってください。そうすれば、わたしは、いつまでもあなたのそばにいられますから」



     スーホは以前、「いつまでもいっしょにいよう」と白馬に語りかけていました。白馬がその言葉に応えた形です。

     私は小学2年生の時に国語の授業でこの作品を読みました。10数年前のことですが、よく覚えているのは、白馬の「死」というものに大きなショックを受けたことです。小さい時に読んだ物語で「死」がでてくるものには、今でも強烈な記憶があります。子供にとって、「死」というものはまだよく分からないもので、それを考えて、ああ、もう一生会えないし、一生話せないことなのか、と理解しだした時に、心にずっしりと重いものがくるのです。

     この物語は、死というものの意味を教えてくれるのですが、そこからさらに、それを「乗り越える」ことも教えてくれます。もう会えないけれど、ずっと忘れなければいいんだ、もういないけれど、一緒にいられるんだ。そういったことです。「心が、「生と死」という概念を超えていくところが見事です。

    ②殿様の理不尽な仕打ち

     競馬で優勝したものを娘のむこにとるといっていた殿様。スーホの身なりを見た瞬間、態度を変えました。

    「おまえには、ぎんかを三まいくれてやる。その白い馬をここにおいて、さっさと帰れ」



     すごく大事な箇所だと思います。スーホと白馬が心を通い合わせて行く様が丁寧に描かれていた分、ここで投げ込まれた「ぎんかを三まい」のむごたらしさが際立ちます。これは③でくわしく見ていきますが、殿様の「価値観」の象徴です。

     おそらく、この殿様はこう思っていたのではないでしょうか。「この貧しいひつじかいには、お金をやれば、うやうやしく受け取って、喜んで帰っていくだろう」。お金を投げやるという行動に、こういった目線を感じます。これは、言ってみれば、殿様なりの「想像力」です。

     権力者と、貧しいひつじかいの間には、同じ人間とは思えないような絶対的な身分の差があります。そして、違うのは身分だけではありません。富める者は、ある一面においては豊かであっても、また別の一面においては限りなく貧しいということが分かります。③でもう少し深めてみたいと思います。

    ③白馬をめぐる、2つの異なる「価値観」

     この話を読むと、殿様の仕打ちに、もちろん腹は立つのですが、それ以上に印象的なのは、「白馬をめぐる2つの『価値観』がある」ということです。少し図にして考えてみたいと思います。

    20170224.png

     白馬をめぐって、2つの価値観があります。同じ白馬でも、スーホにとっての白馬と殿様にとっての白馬は全く異なる存在です。殿様にとって、白馬は「競争で一番になった速い馬」でした。そして、それは、「白馬である必要はない」「代わりがいる」ということでもあります。殿様は、白馬を置いていく代わりに銀貨をやる、そう言い放ちました。ここには殿様の価値観があります。

     スーホにとって、「白馬は心を通い合わせた大切なパートナー」であり、それは決して「他の馬であってはいけない」「代わりのいない」存在でした。スーホにとっての白馬の価値というのは、何かに置き換わるものではありません。

    「よくやってくれたね、白馬。本当にありがとう。これから先、どんなときでも、ぼくはおまえといっしょだよ」



     どちらかが絶対的に正しいというわけではありません。ただ、2つの価値観はあまりにもかけ離れていました。それが、殿様の開いた競馬の大会で衝突してしまいました。これは、本当は殿様を責める問題ではないのかもしれません。決して相容れることのない2つの価値観。それは、ただただ悲しいことでした。

     どちらかが正しいということは言えませんが、私は、スーホと白馬の関係は「尊い」ものだと思います。「ずっといっしょにいよう」というスーホの言葉は、今読み返してみるととても重く響きます。スーホは純粋だからこそ、ためらいなくこの言葉を言えたのかもしれません。自分と「違う」存在に心を開いて、「ずっといっしょにいよう」などと言えるようになるのは、人間の、究極的に尊い感情だと思います。それを一心に信じたスーホも、そんなスーホのもとに一心に戻った白馬も、とても尊いのです。

     「馬頭琴」という楽器ができた由来になっている、モンゴルの素敵な民話でした。引き裂かれてしまったようで、彼らは決して引き裂かれなかったということ。楽器の音色に耳を傾けながら、静かに想ってみたいものです。



    教科書


    教科書への旅 一覧ページ

     なつかしい国語の教科書の作品を揃えています。ぜひ他の作品もご覧ください。

    「ごんぎつね」 新美南吉(小学4年生)

     同じ「動物と人間」というテーマで、こちらもとても悲しいお話です。心を通い合わせることがいかに難しいか、ぜひこの作品から感じてみたいものです。


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    教科書,



    •   25, 2017 00:45
  • きつつきの商売

     クラスで音読会をした記憶が残っています。この物語のテーマは「音読」ですから、きっと私以外の方でもたくさん音読をされた、という方が多いのではないのでしょうか。

     小学校3年生の最初に出てくる物語、『きつつきの商売』を紹介します。この物語を思い出そうとするとき、すごく爽やかで、胸に気持ちのよいものが広がるイメージが心に浮かびました。久しぶりに教科書を開いてみましたが、「爽やか」「胸に気持ちのよいものが広がる」というイメージがどのあたりからくるのか、じっくり読んでみようと思います。



    こだまのコーン



     きつつきがあるお店を開くところから物語は始まります。お店の名前は「おとや」。おとやとはどんなお店なのでしょうか。きつつきはこんな風に書き足しました。

    「できたての音、すてきないい音、お聞かせします。四分音ぷ一こにつき、どれでも百リル」



     「おとや」は、お客さんのリクエストに応えてきつつきが「音」を聞かせるお店でした。音のお店、という設定がとてもしゃれていて、これだけでうっとりしてしまいそうです。

     この物語では、ここからたくさんの音が登場します。その1つ1つがとても味わい深く、そして心地の良い余韻を読み手に伝えてくれるのです。文字を追っているのに、頭の中に音が聞こえてくるような、素敵な描写がいくつも出てきます。クラスで音読会をした、と書きましたが、なるほど、音読をして表現を味わうのにうってつけの題材です。

     物語は2つのパートから構成されます(この2部構成もとてもしゃれているので、あとで種明かしをします)。まずは第1部。最初にやってきたお客さんは茶色い耳を立てた野うさぎでした。野うさぎは「ぶなの音」を四分音符分リクエストします。

     きつつきは木の上にのぼりました。そして、木のみきをくちばしでたたいて音を鳴らします。この場面の表現と余韻は本当に豊かです。

    きつつきは、ぶなの木のみきを、くちばしで力いっぱいたたきました。

    コーン。

    ぶなの木の音が、ぶなの森にこだましました。野うさぎは、きつつきを見上げたまま、だまって聞いていました。きつつきも、うっとり聞いていました。四分音ぷ分よりも、うんと長い時間がすぎてゆきました。



    音読の妙味



    きつつきの商売2

     きつつきがぶなの木をくちばしでたたいた「コーン」という音。たった3文字ですが、耳の奥に「コーン」という音が聞こえたような、そんな気がしました。音が森にこだまして、それを「だまって」「うっとり」聞くきつつきと野うさぎ。心地の良い余韻が広がります。

     この場面はきっと、音読をするときに課題となる箇所だと思います。「コーン」というたった3文字を、どんな風に表現したらいいでしょうか。直前に「力いっぱい」とあります。ここを読むと、力任せに「コーン」と声を張り上げたくなる子どももいるかもしれません。しかし、音の後の箇所を読むとそうではなさそうですね。

     この部分は、自然の静寂の中にただ一つ「コーン」という音が放り込まれたところに趣があります。「力いっぱい」の部分は生かしたいですが、静寂の中に唯一響く音、というイメージもしっかり受け取って、「間」を上手く取り込んだ音読ができたらよいですね。小学3年生に何を求めているんだ・・・と思われるかもしれませんが、こういったところの子どもの感性というのは本当に素晴らしいものがあって、きっと素敵な「コーン」を聞かせてくれることだと思います。何より、音読には正解などありません。子どもの数だけある様々な「コーン」が響き渡るとしたら、教室はもう森の中です。

     第1部の素敵な余韻を引きずりつつ、物語は第2部へ向かいます。今度は、野ねずみの家族たちがきつつきのもとにやってくるのです。きつつきは、「おとや」に何か新しいメニューを用意していると言います。

    「おとやの新しいメニューができたんですよ。」きつつきは、ぬれた顔をぶるんとふって、言いました。

    「へえ。」
    「今朝、できたばかりのできたてです。」
    「へえ。」
    「でもね、もしかしたら、あしたはできないかもしれないから、メニューに書こうか書くまいか、考えてたんですよ」



     きつつきは新しい「とくべつメニュー」をつくっているようです。そしてそれは、明日になるともうできなくなると言います。明日にはできないとは一体どういうことだろう、と興味がそそられます。

    「朝からの雨で、おせんたくができないですものから。」母さんねずみが言うと、「おにわのおそうじも。」「草の実あつめも。」「草がぬれてて、おすもうもできないよ。」



     野ねずみの一家が、雨の日にできないことを口々に言い合います。たしかに雨の日はフラストレーションがたまりますね。ですが、この部分はこれから披露されるきつつきの「とくべつメニュー」のための大事な「ため」です。憂鬱な気持ちになって、フラストレーションがたまる雨の日。そういったマイナスの要素を先に見せておいたからこそ、この後の場面がみずみずしい感動を運んでくれます。

    雨を奏でる



     きつつきが計画した「とくべつメニュー」とは、「雨の音」を聞かせることでした。

    ぶなの葉っぱのシャバシャバシャバ。地めんからのパシパシピチピチ。葉っぱのかさのパリパリパリ。そして、ぶなの森の、ずうっとふかくから、ドウドウドウ。ザワザワワワ。



     素敵なオノマトペの宝箱です。野ねずみの家族は雨の日を嘆いていましたが、「雨の日だからこそ聞ける音がある」という発想が、景色を一変させました。雨を嘆いていた家族が素敵な雨の音に包まれ、作品の外にまで幸せがあふれてくるようです。この作品を読んだ後の爽快感は、大人になった後に読んでも全く変わっていませんでした。

    きつつきの商売3


     第1部ではきつつきは自らのくちばしで音を奏でました。それが、第2部では自分のくちばしは使わず、自然が奏でるありのままの音に野ねずみの一家をエスコートしています。いわば、「演奏家」から「演出家」へ。1部と2部の対比がしゃれていてここにも趣を見つけることができます。

     第2部のきつつきは、自分のくちばしを使っておらず、ただ自然の音を聞かせただけです。ですが、そこにはきつつきの「才能」を感じました。普段私たちの周りにはいろいろな音があふれています。じっと目を閉じ、耳をすませてみればそこには素敵な音楽があふれているのではないでしょうか。ただ、私たちがなかなかそれに気付くことができないという一面があると思います。

     それを「とくべつメニュー」にして、「気付かせる」きつつきの目の付け所に感心しました。しかも、きつつきは「今日だけのとくべつな音」と言って、目を閉じ、声を出さずに聞くように言っているのです。いろいろな音が生まれては消えてを繰り返す中で、いつも自然の中にはその時だけの「とくべつな音」が隠れている。そんな音に気付ける感性、目を閉じて、口を閉じて大切に聞こうとする感性。どちらも、とても素晴らしい感性と言えるのではないでしょうか。

     振り返っているうちに、小学校の時の授業をおぼろげながら思い出してきました。雨の音の場面で、言葉だけではなく、「モノ」も使って音を奏でていたような記憶があります。「パリパリパリ」「シャバシャバシャバ」など、本当に音が豊かなこの場面。実際に葉っぱを持ち寄ったり、音楽室から楽器を持ってきたりして音の「実験」をしていたのです。今思い出してもとても楽しい授業でした。

     教科書に掲載される作品には必ずとっておきの特色がある、と何度も書いてきました。この作品にも、もちろんそんな特色があると思います。『きつつきの商売』は、私たちが大切にしたい「感性」を教えてくれるお話ではないでしょうか。



    オワリ



    教科書への旅 一覧ページ

     国語の教科書の作品を紹介しています。今回が21作品目。また素敵な作品が1つ加わりました。




    教科書,



    •   29, 2016 00:01
  • 教科書

     保育園から小学校、中学校から高校、そして高校から大学。学校の変わり目というのは何度もありましたが、個人的に一番変化が大きかったのは「小学校から中学校」です。何もかもが変わって、何というのでしょうか、背伸びを「しなければいけない」、そんな雰囲気に飲まれていました。

     国語が大好きで、国語の教科書作品で成長させてもらった私ですが、中学校の始めというのはそういった時期でしたから、その時期に読んだ作品にはとても思い入れがあります。今日は、中学校で最初に読んだ小説、『にじの見える橋』を紹介します。

    (約4100字)



    ずぶぬれになりたい



    にじの見える橋1

     『にじの見える橋』の作者は児童文学作家の杉みき子さんです。杉みき子さんと言えば、このコーナーで以前紹介したことがあります。第5回で紹介した『わらぐつの中の神様』(小学5年生)ですね。教科書に複数の作品が採用されている作家さんというのは、それだけ子どもたちに「読ませたい」作品を生み出している方ということになりますから、素晴らしい作家さんばかりです。杉みき子さんの場合は、人物の感情をすくい取るのが抜群に上手くて、何だか「すっと入ってくる」、そんな印象があります。

     上に載せた教科書の作品をご覧ください。タイトルの下に、学生服を身にまといつつも、どこか幼さの残る少年の挿絵があります。国語の教科書を開いてこのページを見た時、私ははっとしました。まさに当時の私がそこにいるかのようだったからです。

     この作品の主人公が中学1年生であるとはどこにも書いてありません。幼げな少年が学生服を着ている様子はいかにもそう思わせますが、学生服は小学校でも着用する学校があるのでこれだけでは何とも言えませんね。ただ、改めて読み返してみると私にはこの少年は中学1年生なのではないかと思えました。この少年の「心模様」が、私の中ではいかにも中学1年生のそれだったのです。

     雨の中を走ってきた少年。彼の心の中も、どんよりとした雲で覆われていたのでした。

    このところ、なにもかも、うまくいってない。このあいだのテストの成績が悪かった。母親は、課外の活動をやめろという。親しかった友達とは、ちょっとしたことから仲たがいをした。好きなCDを買うこづかいが足りない。そのほか、具体的な形になっていないもやもやが、いくつもあった。雨は、自分の上にばかり降るような気がする。いっそぬれるなら、もっともっとずぶねれになったら、かえってさばさばするだろうと思う。



     「このところ、なにもかも、うまくいってない」と少年は言います。実際、彼にそう思わせることの一つ一つはそんな大したことではなくて、特に「好きなCDを買うこづかいが足りない」の部分はかわいらしくて笑みがこぼれます。だけど、彼を笑ってはいけません。小さな世界かも知れませんが、彼は自分の世界の中を精一杯生きていて、だからこそ「なにもかも、うまくいってない」と思うのです。

     自分の中学1年のころのことを思い出すと、とにかく「ずれ」の大きい時期だったなと思います。少し前まで小学校に通っていた子どもです。中身はまだ小学生のようなものでしょう。それなのに、突然連れて行かれた中学校。制服のサイズも、毎日見る景色も、部活や新しく始まった教科も。何だかすべてが、等身大の自分とはずれているような気がしました。冒頭で、背伸びを「しなければいけない」ようだった、と書いたのはそんなところからです。

     作品を改めて読むと、少年もそんな風に「ずれていた」一人ではないかと感じます。最後の場面を読むと、特にそのことを強く感じるのです。「具体的な形になっていないもやもや」、少年が言うそれの正体は、いろいろな「ずれ」ではないかと私はこの作品をそう読み解いています。

     そんな少年のもとに、幼い子供たちの声が聞こえてきました。「にじが出てるよ」、その声に少年は思わず振り返ります。

    ああ、確かににじだ。赤、黄、緑、太いクレヨンでひと息に引いたような線が、灰色の空をあざやかにまたいでいる。上端はおぼろに消え、下はビルと森のかげにかくれて、見えているのはほんの一部分だ。



     どんよりと進んでいた物語ですが、この場面から一気に霧は引き裂かれ、大胆な旋回を見せます。

    1ページの挿絵



    少年は、自分でも思いがけない衝動に駆られて。辺りを見回した。
    ―高い所がないか、あれが全部見える所が。



     心の中でもやもやと思いをめぐらせてその場にとどまってしまう少年と、「衝動」に駆られて考える前に行動に出てしまう少年。その姿はおよそ対照的です。この場面に、作品の大胆な転回点があるように思います。

     教科書のページをめくります。今日一番伝えたかったのは本文ではなく、「挿絵」です。ページを開いた時、この挿絵が目に飛び込んできたのです。

    にじの見える橋2

     見事な虹がかかっています。作品冒頭のじめじめした感じの反動もあって、霧が晴れるような爽快感があります。この作品にこの絵あり、文章と挿絵が一体となって、見事な「作品」を作り上げた瞬間ではないかと思います。

     ページを開いた時にこの挿絵が飛び込んでくる。その一連の動作も「作品」の一部であるということに注目です。すっかり作品の一部になっているこの動作は、今改めてやってみても新しい感動が押し寄せてくるものでした。現在は教科書も変わっているはずですから、どんな形になっているかは分かりません。ですが、この「ページを開いて虹が飛び込んでくる」という作品の一部が今も変わらずに残っていることを願うばかりです。

     少年が虹を見た時に抱いた思いが大変印象的です。この場面は、私が落ち込んだときにふと読み返したくなる場面でもあります。

    栞 教科書

    少年は、大きく息を吸った。この前、にじを見たのはいつだったろう。この子たちくらいの小さいころ、いや、もっとずっと前のような気がする。もしかしたら自分は今、生まれて初めてにじを見たのではないかと、少年は思った。



     語りたいところがたくさんありますね。まずは「大きく息を吸った」。何気ないこの動作ですが、私は大きな意味が込められたものだと思います。よく、「息をするのも忘れるような」という表現をします。ここでとび込んできた虹は、まさに「息をするのも忘れるような」美しさ。それなのに、少年のとった行動は「息を吸う」というものでした。ちょっと際立つ表現ですね。

     作品冒頭の少年は、もやもやと悩みに沈み、息を吸うという表現からつなげれば、息の詰まるような状態でした。少年は、「息を吸う」という当たり前の動作すらも忘れていたのかもしれません。虹が出てくる場面は、薄暗い雲のような色をしていた作品を一気に七色の光で凌駕し、息の詰まるような思いをしていた一人の少年に息を吹き込んだのです。なんてダイナミックな展開でしょうか。

     そしてもう一つ、「生まれて初めてにじを見た」という表現です。この場面にこの言葉を選んだこと、ただただ見事としか言いようがありません。もちろん、少年は生まれて初めて虹を見たわけではないでしょう。しかし、少年にとって、「生まれて初めて」というのは紛れもない実感だったことでしょう。

     この場面、少年の隣に幼い子どもたちがいて、思い思いに歓声を上げているのです。これが私にとっては効果的な対置でした。少年にも、そんなに遠くないころ、幼い子どもの時代があったはずです。けれど、今の少年は学生服に身を包んでいる(包まなければいけない)。心の中身はまたまだ子どもなのに、どこか急がされるように学校を駆けあがらされて、少年はどこか疲れていたのかもしれません。体や心、いろいろな「ずれ」こそが、「具体的な形になっていないもやもや」の正体だったのかもしれません。

     衝動で橋を駆けあがった少年は、幼い子どもたちの横で見事な虹を見るのです。「ずれ」はすっかり消えてしまったようです。そして、それはまさに生まれて初めての経験だったことでしょう。

    だれ一人、立ち止まって、この大空のドラマに眺めいるものはいない。
    少年はふと、初めて、自分のことを恵まれたものに感じた。



     ここにも、「初めて」という言葉が出てきます。2度も使われる「初めて」の語が、少年の感動の大きさを物語っているようです。先ほどまでの小さな悩みは、もう影も形もありません。

     虹って、不思議な力があると思います。虹が出てくるのは、いつも雨上がり。大切なことなので、もう一度書きますね。虹が出てくるのは、いつも「雨上がり」。暗く覆われた雲が払われた後、ダイナミックに空を駆ける虹は自然がなす奇跡です。雨上がりに出る虹に、いつも、どこかで、誰かが救われているような気がしてなりません。

    背伸びを止めて



     中学校に入りたてのころ、私の心はいつも雨模様でした。特にストレスになっていたのが先輩たちの姿です。中学1年生と3年生では体も心も全く違います。こんなところでやっていけるのだろうか、いつもそう思っていました。

     大きな体の先輩たちが大声を張り上げながら部活をしているのを横目に、帰り道を歩いたのをよく覚えています。その時、雨が降っていました。アスファルトのつんとした匂いが、今も鼻の奥を突くようです。

     あの時、もし虹がかかっていたらな。ふと、そんな風に思うのです。私も、少年のように「衝動」に襲われただろうと思います。大きな制服を身にまといながら、かえって小さな世界に閉じこもっていた自分を、虹が解き放ってくれたはずです。結局虹に巡り合うことはありませんでしたが、この作品を読みながら、何か「疑似体験」をした気になりました。

     虹を見た後の少年は、まるで子どもに帰ったかのようです。

    「早く早く。」
    少年は笑いながら、体をずらして、にじを正面に見る場所を空け、友達が上ってくるのを足踏みをしながら待った。



     最初よりもよっぽど生き生きとしていて、ほほえましくなります。私は、タイムマシンで中学1年生に戻れたらその時の自分にかけてあげたい言葉があります。同じ言葉を、少年にもかけてあげたくなりました。

     「まだまだ、大人にならなくていいからね」。


     
    教科書

     「教科書への旅」、今回で20回に到達しました!一覧ページを作っていますが、20回もたまると感慨深いものがあります。紹介した20の作品はどれも思い出の深いものばかりです。自分の子ども時代と絡められる分、特に思い出が深くなりますね。

    教科書への旅 一覧ページ

     名作揃いの計20エントリーを一目に見ることができます!

    『野原はうたう』 くどうなおこさん

     こちらも中学1年の最初に読んだ作品です。「おれはかまきり」が有名なくどうなおこさんの詩ですね。記事では、中学校の初めにあった忌々しい音読会のエピソードも交えてたっぷりと振り返っています。


    杉みき子, 教科書,



    •   24, 2016 21:46
  • 教科書 新春スペシャル

     前回に続き、夏目漱石の『坊っちゃん』を紹介したいと思います。きのうは新春のスペシャルドラマが放送されていましたが、ご覧になっていた方はおられるでしょうか。改めて、新年にふさわしい痛快な内容の作品だと思いました。

     今日は主人公である坊っちゃんの人柄にフォーカスしてみようと思います。発表から110年の時を経ても、いまだに多くの日本人に親しまれ続けている『坊っちゃん』。作品の中には、日本人であれば誰でも心が動かされるような、そんな日本人の「心のふるさと」とでもいうべき要素を見つけることができます。

    前編の記事はこちらから

    (約3,700字 +追加分750字)



    スペシャルドラマ放送!



     本のレビューに入る前に、きのう1月3日に放送されたスペシャルドラマについてコメントしておこうと思います。主人公の坊っちゃん役には嵐の二宮和也さん。放送する前から予感してはいましたが、二宮さんは見事にはまり役でした。二宮さんはアイドルとしてだけでなく、役者としても素晴らしい才能を持った方だと思います。特に二宮さんが熱弁を振るうときのまっすぐな目にはすごく惹きつけられます。そんなわけで熱く語るシーンの多い坊っちゃん役は最高のはまり役だったと思います。

     坊っちゃん以外のキャストも私としてはとても好みでした。山嵐役の古田新太さんは坊っちゃんと一緒に熱く正義を押し通してくださいました。赤シャツ訳の及川光博さんは嫌らしい役をやらせたら天下一品ですね。演じておられるご本人も何だかノリノリでした。そして、清役には宮本信子さん。・・・この配役が一番うれしかったです。個人的に清はこの小説で一番大切な人物だと思っているのですが、宮本信子さんが清の滲み出る愛と優しさを演じてくださいました。

     最後は原作と内容を変えていましたね。実は、原作はちょっと敗北感が残るというかやるせない終わり方になっているのです。ドラマは視聴者が鬱憤を晴らせるように上手くアレンジしてあったと思います。赤シャツへの鉄拳制裁!生徒たちから赤シャツへの仕返し!・・・というとても気持ちのよい内容でした。ドラマはドラマでとてもよいのですが、やるせなさが残る原作の終わり方にも大切なメッセージが込められていると思うので、原作を未読の方はぜひ読んでみていただけたらと思います。

     ・・・とドラマについて感想を語ったところで、後編の記事に入っていきたいと思います(この部分はドラマ視聴後に書き足しました)。後編の記事では、坊っちゃんにとって何よりも大事な存在、清についても触れています。

    古典的カリスマ



     改めて、坊っちゃんの性格を整理してみようと思います。曲がったことが大っ嫌いで、義理と人情に厚く、己の正義を貫き通す。読んでいて大変に心地よい人物です。そう、坊っちゃんは生粋の「江戸っ子」。多くの日本人がこの作品を読んでいて感じる快感の正体は、この「江戸っ子」へのあこがれなのではないでしょうか。

     最後、坊っちゃんと山嵐は憎たらしい赤シャツと野だに鉄拳で制裁を加えます。その論理と思考回路は極めて単純で直情的です。思考と行動が一直線なのも分かりやすいですね。改めて読み返してみると、私は夏目漱石がこのようなストーリーを作ったことに彼なりの主張があったのではないか、と思えてなりませんでした。

     夏目漱石と言えば、帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、イギリス留学も経験したエリート中のエリートです。この『坊っちゃん』の中で言えば、教頭の赤シャツが夏目漱石にもっとも近い感じがあります。そんなエリート中のエリートである漱石が、このような直線的なストーリーを書き、坊っちゃんのような単純明快なキャラクターを生み出しました。やはり、何らかの意思があってのことと考えるのがよさそうですね。

     前編でも引用した江藤敦さんの解説にもう一度立ち返ってみることにします。江藤さんは、主人公坊っちゃんの原形を江戸時代の文芸の中に見出します。たしかに、坊っちゃんのルーツが江戸時代の作品にあるというのは納得のいく考え方です。江戸時代の文芸には、伝統的な勧善懲悪のテンプレートがありました。坊っちゃんは、まるでそのテンプレートを丁寧になぞっているような、そんな作品だと思います。

    漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼刃にすぎない。人は決して、そんなものによっては生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代があたえた価値ではない。(解説:江藤敦さん)



     エリートの漱石は、文明の発展や近代化を論じた論客としても知られています。この『坊っちゃん』は近代化などとはまるで無縁の小説だと思って読んでいましたが、そうではなく、作品の奥底には近代化へのアンチテーゼがあると考えるのがよさそうですね。

     生得の言葉、生得の倫理観という表現がしっくりきます。この小説は理屈抜きに楽しめるのです。それはまさに、私たちがこの小説に感じる快感が「生得」のものであり、坊っちゃんのような江戸っ子に今も心の奥底でシンパシーを覚えているからだと思います。私たちはこの小説を読んで痛快になって、そして自分が日本人であることに立ち返っているのかもしれません。江戸時代が終わってから150年ほどたちますが、そのような快感が全く変わらないとすれば、これは日本人が受け継ぐDNAのようなものなのでしょうか。

    金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはいけない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働らくものだ。論法で働らくものじゃない。



     「そうだー!」と思わず掛け声をかけたくなるような衝動に駆られます。そのような衝動に駆られるとき、私の中でも無意識のうちに「日本人のDNA」が反応していたのでしょう。

    清き心



     『坊っちゃん』を語る時、もう一つ忘れてはならないのが坊っちゃんを小さい時からかわいがってくれたばあや、「清(きよ)」の存在です。清はその名前通り、清い心を持った優しい人物です。だからこそ、坊っちゃんはこんなにもまっすぐに育つことができたのでしょう。そして、まっすぐ育った坊っちゃんは、離れ離れになっても清のことをずっと想い続けています。

     ツイッターのフォロワーさんで、『坊っちゃん』が「おばあちゃん小説」だと言っておられた方がおられました。私はほほえましい気持ちになりました。「おばあちゃん小説」とはよく言ったもので、本当に坊っちゃんの清への愛がにじみ出ている小説です。作品全体がそんな愛に包まれていて、それが何度でも読み返したくなるような作品の魅力につながっています。

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     清は身分が低く、まともな教育も受けていない女性でした。しかし、小さいころから一心に坊っちゃんのことを愛してくれたのです。坊っちゃんは清にかわいがってもらったことを思い出しながら、清に思いを馳せます。

    今まではあんなに世話になって別段有難いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。(中略)清はおれの事を慾がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。



     離れてみて初めてそのありがたみを痛感する・・・真理だと思います。小さいころからかわいがってもらったことのありがたみを、遠い愛媛の地に来て初めて身をもって知ったのでしょう。そして、坊っちゃんは人に感謝ができる立派な人間に成長していました。清は立派だと坊っちゃんは言いますが、私からすれば、坊っちゃんも清も同じくらい、後光がさすような立派な人物です。

     こういう風に、坊っちゃんが清を思い返す箇所は作中に何度も登場します。そのひとつひとつが温もりにあふれているので、読んでいるとまるで実家に帰った時のような安心感があります。家族というのは何者にも代えがたい存在なのでしょう。改めて、家族がいること、自分が帰る場所があることのありがたみに気付きます。

     もう一か所、私が『坊っちゃん』の中で大好きな箇所を紹介します。坊っちゃんが清に手紙を書こうかと思案する場面です。

    その時俺はこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮らしていると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。



     清のことを思っているから、その気持ちは手紙を書かなくても伝わるはずだ、と思う坊っちゃん。彼の豪胆な性格と清を思う深い気持ちが同時に伝わってきます。便りがないのは何とやら、とは言いますが、なんとも坊っちゃんらしい発想で心が温まります。

    生まれ続ける「坊っちゃん」



     山嵐が学校を辞めさせられそうになる時、坊っちゃんは自分も辞表を出して義理を通そうとしました。「履歴なんか構うもんですか。履歴より義理が大切です」、そう言い切る坊っちゃんの姿に、私は思い出した人物がいました。

     栗原一止。小説、『神様のカルテ』シリーズの主人公です。「通らぬ正義は押し通せばいい」、そんな風に言っていた一止先生の姿と坊っちゃんの姿がぴったり重なった瞬間でした。

     神様のカルテの一止先生というキャラが坊っちゃんから影響を受けている可能性は、極めて高いと思います。シリーズの作者は夏川草介さんですが、夏川草介さんの「夏」は「夏目漱石」に、「草」は『草枕』(漱石の小説)に由来しています。そう、夏川さんは大の漱石好きなのです。そして、そんな夏川さんが生み出した一止というキャラも、常に『草枕』を持ち歩くような漱石好きの人物として描かれています(本当に夏川さんは夏目漱石を敬愛しておられるのですね)。

     ぶっきらぼうだけど人間味にあふれる一止先生のモデルはこの『坊っちゃん』にあるのではないかと私は想像しました。つまり、『坊っちゃん』は形を変えて生み出され続けているのです。『神様のカルテ』を読んで一止先生に親しみを覚えた人は、それはさかのぼれば「坊っちゃん」に親しみを覚えていることになるのです。

     これは分かりやすい例で、坊っちゃんに影響を受けて書かれた作品はもっとたくさんあると思います。もし小説を読んでいて共感できる主人公がいたとしたら、その主人公には「坊っちゃん」の血が多かれ少なかれ流れているかもしれません。曲がったことが大嫌い、まっすぐ、義理と人情に厚い・・・そんな人物で思い出す人はいませんか?そのルーツにはきっと(本の作者が意識していてもいなくても)「坊っちゃん」があるのだと思います。

     今も読まれ続ける小説、『坊っちゃん』。今も生まれ変わり続ける主人公、坊っちゃん。今年は漱石の没後100年の節目の年になります。改めて、彼の魅力を再確認してみるのはいかがでしょうか。



    オワリ

    『神様のカルテ0』 夏川草介さん

     記事中で紹介した神様のカルテシリーズの最新刊です。夏目漱石の作品を読んでいると、このシリーズが漱石からとても大きな影響を受けていることが分かります。神様のカルテシリーズが好きな方、そのルーツにある漱石の作品もぜひ合わせて読んでみてはいかがでしょうか。


    夏目漱石, 近代日本文学, 教科書,



    •   04, 2016 00:00
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