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 なる夜は銀河鉄道 ~今夜いよいよ最終回

 みなさん、メリークリスマス!今日はクリスマスイブです。どこで、どのようなクリスマスをお過ごしでしょうか。

 そして、このブログで10月から連載を続けてきた宮沢賢治の名作、『銀河鉄道の夜』は今夜いよいよ最終回です。ブログを始めた時から、いつか紹介したい、とっておきの形で紹介したいと思っていた作品でした。今年の秋から冬にかけて、それをこのような形で実現することができました。最終回まで無事に完走できたことをうれしく思います。

 聖なる夜にいよいよ完結する『銀河鉄道の夜』。ほんとうのさいわいを追い求めたカムパネルラの行動を、ぜひ最後まで見届けてあげてください。



今夜のあらすじ



last episode

 星めぐりの歌

 ジョバンニは目を開きました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。さっきまで夢の中で歩いていた天の川は空で白くぼんやりと光り、空には蠍座の赤い星がうつくしくきらめいていました。

 ジョバンニはおっかさんのことを思い出して、いっさんに丘を走っておりました。牧場で牛乳をもらい、熱いびんをてのひらで包むように持って町に向かいました。

 町を通って、大通りへ出てしばらく行くと、夜の空にぼんやりと川のやぐらが見えました。さっきカムパネルラたちがあかりを流しに行った川です。そこには、七八人の女の人が人だかりを作っていました。そして、橋の上にはいろいろなあかりが灯っていました。

 ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。そして、「何があったんですか」と、近くの人に叫ぶように聞きました。

「こどもが水に落ちたんですよ」



 ジョバンニは夢中になって橋のほうに下りました。河原のいちばん下流に人の集まりがありました。そこには、さっきまでカムパネルラといっしょだったマルソもいました。マルソは、カムパネルラが川に入った、と言います。

「ザネリがね、舟の上から烏瓜のあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐに飛びこんだんだ。」



 カムパネルラは、ザネリを救おうと川に飛び込んだのでした。人々は、一生懸命にカムパネルラのことを探していました。そこには、時計を持ってじっと川を見つめる、カムパネルラのおとうさんの姿もありました。

 川には銀河が大きく写って、まるで水のないそのままの空のようでした。その時、にわかにカムパネルラのおとうさんが言いました。

 「もうだめです。落ちてから四十五分たちましたから。」

 ジョバンニはカムパネルラのおとうさんのもとに駆け寄りました。けれど、のどが詰まって何も言えませんでした。カムパネルラのおとうさんは、ジョバンニに丁寧にお礼を言いました。

 ジョバンニは、もう何も言えなくなって河原を町の方に走りました。目には涙がいっぱいになってきました。そしてまた、あの丘に来てぼんやりと座りました。

 汽車の音が聞こえてきました。だんだんと、それはなつかしい星めぐりの歌に聞こえてきました。ジョバンニはそれにうっとりと聞き入ったのでした。

fin.

解説



 カムパネルラは、ザネリを助けるために川に飛び込み、そして悲しいことに、亡くなってしまったのでした。銀河鉄道で出会った時、服を濡らしていたカムパネルラ。どこか思いつめたような顔をしていたカムパネルラ。ほんとうのさいわいとは何か、ずっと考えていたカムパネルラ。その全ての意味が分かった瞬間でした。

 カムパネルラが沈んでしまった川を見つめるジョバンニ。さっきまで夢で見ていた銀河鉄道の旅のことを思い返します。銀河の余韻を悲しく川辺に写したこのシーンが、私は最終盤でもっとも印象的です。

銀河アルバム

 残響度 ★★★★★

下流の川はばはいっぱい銀河が大きく写って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。

ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。



 ジョバンニだけが見た夢。誰にも言うことのできない、二人だけのひみつ。けれど、それは決して「夢」で終わるようなものではなかったでしょう。ジョバンニは旅の終わりで、「ほんとうのさいわい」を探す、と強く誓ったのです。それは決して、醒めた後で消えていってしまうものではありません。そして、カムパネルラはジョバンニとお別れして、天上の世界に行った。そのこともまた、同じです。

 夢から醒めて、けれど、たしかに残った誓いと記憶。ここで残る余韻は、銀河鉄道の旅が決して幻ではなかったと強く印象づけるものでした。

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 カムパネルラはいじめっ子のザネリを救うために川に飛び込んだのでした。ザネリは、話の冒頭でジョバンニにひどい言葉をかけていましたね。だから、カムパネルラがザネリのために命を投げ出したことを思うと複雑な気持ちになります。

 けれど、カムパネルラには、そんな気持ちはみじんもなかったでしょう。反射的に水の中に飛び込んだのだと思います。なぜなら、命の価値は平等だから。そして、銀河鉄道の旅でジョバンニとカムパネルラが見たたくさんのことが教えてくれるように、ほんとうのさいわいのためなら、自分の命を投げ出すことは惜しくないから。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」



 銀河の果てで、ジョバンニはそうカムパネルラに誓ったのでした。だから、カムパネルラがどうして川に飛び込めたのか、彼の気持ちを一瞬で理解できたでしょう。そして、自分のからだなんか焼かれてもかまわないとジョバンニは言いましたが、実際にそれを実行することの意味の重さを、だんだんと理解していくのでしょう。

 だからこそ、のどが詰まって、何も言えなくなったのだと思います。

 銀河鉄道の夜はとても悲しい終わり方をしたようにみえます。だけど、この作品を悲劇のように語って終わるのは違っていると思います。

 人間は、この世に生まれ落ちてたくさん苦しみ、思い悩みます。幸せなこともありますが、迷い、苦しみ、思い悩む時間のほうがずっと長いでしょう。宮沢賢治の人生など、その典型のようなものでした。

 そう考えたら人生とは苦行のようで、私たちは時に、人間に生まれたことを恨みたくもなります。だけど、恨みたくなっても、私は最終的には感謝しなければいけないのだと思っています。「誰かのことを想う」心というのは、人間だけに与えられた特別なものです。迷いも悩みも、その副産物なのだと思います。

 「ほんとうのさいわい」は宮沢賢治がいつも使う言葉ですが、これはどう解釈できるでしょか。私は、「誰かのために何かをしようと思うこと」、という風に広く考えるようにしています。

 自分のためではなく、誰かのために何かをしている時、私はとても心地よい気分に包まれます。誰かを喜ばせようと思ったり、時には誰かのことを自分のこと以上に心配してみたり。その時感じる気分は、「ほんとうのさいわい」に通じるものであると思います。

 宮沢賢治が描こうとしたのは、「誰かのために」の中でもっとも重いもの。すなわち自分の命を投げ出すような自己犠牲でした。そのような高潔な精神にはなかなか近付けませんし、一生かけても無理かもしれません。

 だけど、自分のための時間が「誰かのための時間」になることはあって。それをこれから、どれだけ大切にしていけるかが大事だと思います。そして、自分よりももっと大切な存在ができて、自分のための人生が「誰かのための人生」「誰かと一緒の人生」になる時、私も「ほんとうのさいわい」に近付けると思うのです。

 

 「星めぐりの歌」は、音楽を愛した賢治が作った曲です。幻想的な天空の世界が歌われています。

 ジョバンニが最後、この曲にうっとりと聞き入ります。音楽の力は偉大です。野暮な言葉はいらないと思うので、ぜひこの曲に聞き入ってみてください。

 ジョバンニはこの曲を聞いて、きっとなぐさめられたことでしょう。流した涙は明日を照らす光になるでしょう。「ほんとうのさいわい」を探すために、辛いこともたくさん待っているであろう人生を、これから一歩ずつ、力強く歩んでいくジョバンニのことを想って、この連載はおしまいです。



ごあいさつ



イーハトーヴ最終回

 10月22日に始まった『銀河鉄道の夜』の連載はこれにて最終回です。10回という長期シリーズでしたが、無事最後まで書くことができて本当によかったです。

 そして、2015年3月に始めた宮沢賢治のコーナー、「イーハトーヴへの旅」もこのシリーズをもって完結となります。2年10か月間、全20作品と番外編3作品を、34回にわたって紹介してきました。たくさん書いてきましたね!1冊の本ができそうなくらいの量です。

 こうやって書いてこれたのも、ブログを読んでくださったみなさんのおかげです。本当にありがとうございました!このブログの中心で宮沢賢治について書くことができて本当に幸せでした。このブログをきっかけに、誰か一人でも宮沢賢治の作品に新たに触れてくれる方がいたらうれしいです。

 ブログの更新は年内あと3回を予定しています。次回からは、2017年に読んだ本を総決算する年間ランキング、「最果てアワード」を開催します。残り少なくなった2017年ですが、ぜひブログ「最果ての図書館」にいらしてくださいね。


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宮沢賢治,



 生まれて初めて絵本を自分で購入しました。読み聞かせてもらったり、図書館で借りたりした本は何冊もあったのですが、自分で買った絵本というのは、思い返してみると初めてでした。それがこの絵本で本当によかったです。これから、夜に何度も開きたくなると思います。

銀河鉄道の夜
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宮沢 賢治
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 今日ご紹介するのは、藤城清治さんの影絵絵本、『銀河鉄道の夜』です。このブログで何度も書いていることですが、宮沢賢治は私の一番好きな作家で、代表作の『銀河鉄道の夜』はその中でも本当に大切な作品ですから、10月から連載企画としてブログで紹介してきました。今週の日曜日にその最終回を書く予定です。

 最終回の直前ということで、今日は素敵な番外編です。藤城さんの絵本の魅力を、たっぷりと書き綴ってみたいと思います。



書評



書評

◆ 思い出に色がついた

 銀河鉄道の夜はさまざまなメディアに展開されていますが、これまで私が触れたことのあるのは原作だけでした。私は、賢治の想像力を掻き立てる表現から、自分の中で銀河鉄道の世界というものを想像していました。賢治の表現には不思議な交感力がありますから、文字だけでも豊かな想像をすることができました。

 ・・・と、思っていました。

 絵本を開いて、本当に驚きました。賢治の表現を借りれば、想像力が、目の前にすごい明るさで「ばっ」と広がってきたのです。これまで私が頭の中だけで想像していた銀河鉄道の世界に、まばゆいばかりの豊かな色彩が与えられていきました。文字だけの情報と想像力、これは到底かないません。

 ばっと色が付いたのだけれど、それは私の中のこれまでのイメージを変えるものではなくて、むしろずっと昔から知っていたような、そんな懐かしさも覚えました。初めて開く絵本なのに不思議なことです。きっとこの絵本は、私だけでなく、多くの人にそのようななつかしさを感じさせるのだろう、そんな思いがしました。

 幻想的な銀河のお祭り
 桔梗色の空で、大きく両手を伸ばす鳥捕り
 赤く燃えるさそりの火
 まばゆいばかりの光を放つサザンクロス

 大好きな場面に次々と色が付いていくのは本当に贅沢な時間で、それはまるで、銀河色の万華鏡を回しているようでした。

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 お見せできる絵は表紙だけだと思うのですが、これはジョバンニの目の前に銀河鉄道が拓けてくるシーンです。次元が変わるシーンなので、文字だけで想像することには難しさがありました。それがこんなにも見事に表現されています。

 青いはがねの空。ダイヤモンドのように光り出す視界。どこからか聞こえてくる声、ぼんやりと見えてくる銀河鉄道。素晴らしい見開きでした。「藤城さんと賢治は、精神的にかなり深いところまで通じているのではないか」、私の中にそんな思いがよぎりました。

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニののっている小さな列車が、走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の銀河鉄道の、ぼんやりとした電灯にてらされた、青いビロードをはった腰かけにすわって、窓から外をながめているのでした。



 文章は、原作をかなり忠実に反映して、藤城さんが書かれたものとなっています。賢治の豊かな想像力はそのままに、より柔らかく、慈愛と温かさを加えた文章で、絵本にぴったりです。特に、「ほんとうのさいわい」の解釈は、上手くほぐして、とても平易な表現で書かれています。それは賢治の想いをよりストレートに貫き通しているようで、私は目を見張りました。

◆ 感情をたたえた影

 この本は影絵絵本なので、影絵の話もしてみたいと思います。

 小さいころ、私は影絵が怖かったです。今もそのイメージはかすかに残っています。真っ黒な姿と単純な彫りで表現された表情は、かすかな不気味さを覚えさせます。

 しかし、この本に出てくる影絵はそうではありませんでした。表紙で空を見上げている少年がジョバンニ、そしてカムパネルラは赤いぼうしが印象的な少年です。確かに、真っ黒で、彫りは単純で、黒い顔に目だけが描かれた「同じ顔」をしている・・・はずなのですが。私が驚いたのは、「同じ顔」なのに、場面によって表情が変わって見えること。そして、単純な彫りなのに、人間のさまざまな感情をたたえた、深い表情にだんだんと見えてくることです。

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 特に、最後、ジョバンニとカムパネルラが二人きりになるシーンですね。この絵本は白地に文字が書かれているページが多いですが、ここでは背景が黒になって、何か特別な空気が流れています。

「カンパネルラ、ぼくたちまた二人きりになったねえ。どこまでもいっしょにいこう。ぼくたちはもうこわくない。あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸せのためなら、ぼくのからだなんか、どうなったってかまわない。」



 ジョバンニの痛切な思いが、このページを貫いています。銀河鉄道の背景にある星空も、ここでは真っ黒。深い悲しみと、銀河鉄道の旅の終わりを暗示しているようです。

 そして、このページで向き合っているジョバンニとカムパネルラの表情に、私は目を奪われました。表情はこれまでと変化していないはずです。黒い影に、単純に彫られた目。それなのに、向かい合う二人は二人だけの世界で通じていて、そして泣いているようで。

 私は思わずこれまで読んだページを見返しました。どのページも、同じ顔なのに違う表情をしている。それがたぶん、この本の一番の魅力です。影はいつでも私たちに付いて回るもの。だから、私たちのことを、もっともよく知っていて、もっともよく反映している。そんな感じでしょうか。影絵を見た時に感じるなつかしさや、表情の豊かさの理由はここにあるような気がします。

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「ぼく……夢を見ていたんだ……。」
空をあおぐと、たったいま夢であるいた天の川が、さっきと同じように、白くぼんやりとかかり、たくさんの星も、同じようにきらめいていました。



 現実に帰ってきたジョバンニ。このシーンはいつも悲しくなります。今までの世界が「夢」であったと突き付けられてしまうのは何だか残酷だし、そしてジョバンニは夢の終わりに、一番悲しい事実を知ることになるのです。

 けれど、私たちは、夢を何度だって見ることができます。私が銀河鉄道の夜を何度も読み返すのは、そのたびに夢を見に行っているのでしょう。そして、この絵本はそんな「夢」に、こんなにも素敵な形を与えてくれました。絵本を開けば、いつだって夢を見ることができる。一生大切にしたい絵本です。

絵本はいつも



まとめ



 クリスマスが近くなって、本屋さんにたくさんの絵本が並んでいました。「クリスマスプレゼントに絵本を!」のことば。それを見ていて、この絵本を買いたくなったというわけです。

 本の紹介の終わりに「夢」と書きましたが、絵本というのは開くたびに夢を見せてくれるもので、このブログでメインに紹介している文字の本とはまったく違った魅力があります。私の中では、小説よりも、より「自分の一部」になっていて、いつまでも鮮やかに記憶が残っている存在です。



 突然ですが、「11ぴきのねことあほうどり」は私が一番好きな絵本です。保育園の頃、いつも親が迎えに来る時間が遅く、最後に一人で残っていました。夜になって、寂しいし、なによりお腹が空いてくるのですね。

 この本には、たくさんのコロッケが出てきます。それが本当においしそうなんです。夜の時間、何度も読み聞かせてもらいました。あまりにもおいしそうで、空腹がそそられるあまり、お腹と背中がくっつきそうになりました。その日の夕飯は、きっと何が出てきてもおいしかったでしょう。

 夜に一人で待つ保育園は本当なら寂しいものなのでしょうが、この本のおかげで、寂しさよりも温かさや楽しさのほうが思い返されて。子どもの頃の、大切な思い出になっています。

 こんな風に、人の人生には、それぞれの思い出と共に違った絵本が刻まれているはずで、そんな風に、大切な人生の一部になれることが絵本の魅力だと思いますね。

 今日紹介した『銀河鉄道の夜』も、私にとって間違いなく大切な本になります。自分だけじゃなく、誰かと一緒に大切な本にしたい、なぜかそんな思いがよぎりました。いつか子供が生まれたら読み聞かせてあげたいです(かなり文字が多いですが・・・)。それと、今回は自分のために買いましたが、今度はいつか、自分にとって大切な人への贈り物に。

 そんなことを思った、今年のクリスマスです。


宮沢賢治, 藤城清治,



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 みなさんの星座は何ですか。私はさそり座です。この「さそり座」、小さい時はあまり好きではありませんでした。さそりは見た目が怖いですし、毒針を持っています。もっとロマンチックな星座がよかったなあ、と思ったものでした。

 それは昔の話になります。私は、今では「さそり座」が大好きです。というのも、『銀河鉄道の夜』にはさそりの星が出てくるのです。そして、さそりが星になるまでのエピソードが、女の子によって語られます。初めて読んだとき、自分の星座が出てきて、私は思わず目を見開きました。

 空で燃えるように光るさそりの星には、どんな物語があったのか。銀河鉄道の夜、いよいよ終盤の第8話です。



今夜のあらすじ



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 赤く燃えるさそり


 ふさぎ込んでいたジョバンニでしたが、だんだんと心持ちが軽くなってきたような気がしました。どんどんと走っていた汽車も、落ち着いて走るようになりました。

 男の子が、窓の外で何かを見つけました。「あれきっとふた子のお星さまのお宮だよ」そこには、小さな水晶のような2つのお宮が立っていました。二人はふたごの星の物語を話します。けれど、男の子は違う星の物語を思い出しているようでした。女の子があきれるようにたしなめ、穏やかな時間が流れました。

 向こう岸の野原に、まっかに大きな火が燃えていました。「あれはなんの火だろう」ジョバンニは言いました。「蠍(さそり)の火だな」カムパネルラがそう答えました。すると、さそりの火のことを知っている、と女の子が口をはさみました。

 「さそりいい虫じゃないよ」男の子はそう言います。男の子が浮かべるのは、尾に怖い毒を持っているさそりのことでした。「だけどいい虫だわ」女の子はそう言って、男の子をたしなめました。そうして、さそりの火の物語を語り出したのです。

 女の子の語った物語が、静かにあたりを包みました。さそりの火は、だんだんと後ろに遠ざかっていました。

 「もうすぐサウザンクロスです」青年がそう言いました。お別れの時が近付いてきたようです。男の子はおりたくないとごねました。「だけどあたしたち、もうここで降りなきゃあいけないのよ」女の子は、さびしそうにそう言いました。

 天の川の川下に、さまざまな光に彩られた十字架が見えてきました。汽車の中の人たちは、皆が立って、お祈りを始めました。「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声がひびきます。いよいよお別れの時です。

 「じゃさよなら」女の子は振り返ってそう言いました。「さよなら」ジョバンニは、こみ上げてくる思いをこらえて、そう言いました。

to be continued

解説



 『銀河鉄道の夜』は、終盤になるとだんだん人が少なくなってくるんです。汽車の中で出会った男の子と女の子(第6話)とは、今回でお別れです。汽車の中にいたお客さんたちも、次々にサウザンクロスで下車していきます。最後には、ジョバンニとカムパネルラがまた二人きりになってしまうのです。そこがもう、悲しくて、悲しくて。その場面は、次回の第9回でご紹介します。

 今回のメインエピソードは、赤く燃えるさそりの火の物語です。詳しく見ていくことにしましょう。

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 さて、今回は「さそりの火」が出てくるのですが、これをほのめかすような描写が、作品の序盤にあります。ジョバンニが星座早見を見るシーンです(第2回)。

いちばんうしろの壁には空じゅうの星座をふしぎな獣やへびや瓶などの形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍だの勇士だのそらにぎっしりいるだろうか。ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ったりしてしばらくぼんやり立っていました。



 はるか遠くの空。行けるはずのない空。そんな空に、ジョバンニはこのあと旅立つことになります。そして、その星座早見の中にいたさそりの火を実際に見ることになるのです。この部分は、作品のプロローグとして、本当にロマンチックで、秀逸なものだと思います。

 さそりの火は、さそりが死んで今も燃えている火だといいます。女の子がしんみりと語るのですが、男の子はさそりによいイメージを持っていないようです。

「蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあって、それで刺されると死ぬって先生が言ったよ」



 そうですね。私も、この物語を読む前は、さそりにそんなイメージしかありませんでした。そんなさそりのイメージを覆してくれるのが、女の子の話です。

 さそりは、小さい虫などを殺して食べていたといいます。ところがある日、さそりはいたちに見つかって食べられそうになります。一生懸命逃げていたさそりは、目の前にある井戸に落ちてしまいました。

 井戸の中でおぼれるさそり。今までの自分の行いを悔いて、お祈りを始めました。

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生懸命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああ、なんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸いのために私のからだをおつかいください。



 賢治作品を貫く、「自己犠牲」の精神がここにもありました。

 生き延びるために他の命を食らうことも、自分の命が惜しくなって一生懸命に逃げることも、私にはそこまで罪深いことには思えません。それは、やはり、「自分の命が一番大切である」という思いが自分を支配しているからでしょう。

 自分の命の終わりが見えた時、ふるまいや行いが変わる。それは人間にも往々にして当てはまることです。例えば、憑き物が落ちたように穏やかな性格になったり、これまで決して許さなかったものを許したり、ためこんだお金を寄付したり・・・。

 不思議な現象ですが、これは「執着」がなくなったから、といえるのでしょう。一生懸命ため込んだお金も、地位や名誉も、命が尽きれば何の意味がなくなってしまいます。そう考えると、人生は執着との闘いなのかもしれません。意味のないものに、足を引っ張り続けられ、煩悩に支配されます。

 それでも、人生の「終着」が見えた時、人は執着から解き放たれ、きれいになれる。私は、そういう人間の姿を信じたいと常々思っています。どれだけ醜いものを見せられようと、それは執着にまみれたこの世の姿であって、本当の人間は、美しい姿をしている、と。

 賢治はどんな風に人間を見ていたのでしょうか。作品から推し量ることしかできませんが、賢治のまた同様に、人間を「信じていた」のではないか、と私は思っています。

「そしたらいつかさそりはじぶんのからだが、まっかなうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。

いつまでも燃えてるって、おとうさんおっしゃったわ。



 私の大好きな『よだかの星』と同じです。ほんとうのさいわいを強く願った時、空に浮かんで、星になって、そして光り続ける。

 こんなに美しいものを私は他に見たことがありません。そして、この光は「いつまでも燃えてる」とあるように、永遠の炎です。揺るぎない強さがあります。それは、自己犠牲という、もっとも難しいことを成し遂げたものだけに降り注ぐ、祝福の炎なのかもしれません。私はまだそんな境地には到底たどり着けませんが、空にはいつも、星が光っています。はるか遠くにあるはずなのに、自分の心を貫いているようで。星の光には、そんな力があります。

 ジョバンニも、赤く燃えるさそりの炎に心を貫かれたようです。女の子たちとお別れして、また二人きりになってしまったジョバンニとカムパネルラ。その時、ジョバンニが言ったこと。次回はそこから始めましょう。物語は、いよいよクライマックスです。

銀河アルバム



 汽車の乗客が次々と下りて行った南十字(サウザンクロス)。色とりどりに光る十字架、一斉にお祈りをささげる人々。作品全体に、ほのかな高揚感と幸福感があふれます。もしも本当に天国があったら、そこにはこんな景色が広がっているのかもしれません。今日はその場面からです。

銀河アルバム

 幸福度 ★★★★★

あっちにもこっちにも

子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようのない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。

そしてだんだん十字架は窓の正面になり、あのりんごの肉のような青じろい銀の雲も、ゆるやかにゆるやかにめぐっているのが見えました。



 宮沢賢治は、自然の風景だけではなく、こういった人の描写もまた絶品であると思います。体がふわっと浮き上がるような高揚感があります。何より、頭の中に克明に浮かんでくるのがすごい。

 「子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声」「深いつつましいためいきの音」。まるでそこにいたように感じられるのは、賢治の卓越した想像力と、表現力がなせる技です。

 「りんごの肉のような青じろい銀の雲」という表現も唸らされますね。世界に1つだけの表現。賢治のこの心象スケッチは、唯一無二の宝石のように輝きます。



銀河サイドバー

 10回シリーズの8回まで終わりました。銀河鉄道の中での物語は次回が最後、そして最終回で、ジョバンニが地上に戻ってきます。その時、カムパネルラはどうなっているのでしょうか・・・?聖なる夜の最終回に向けて、少しずつ心を昂ぶらせています。

エピソード・リスト
1話から読む
「イーハトーヴへの旅」(宮沢賢治のコーナー)

★ 次回予告

 第9話 「銀河の果ての誓い」

 また二人きりになったジョバンニとカムパネルラ。ずっといっしょにいよう、そうジョバンニが言って、カムパネルラも美しい涙を流しました。ところが、ジョバンニが振り返ると、カムパネルラの姿はそこにはありませんでした。

 鉄砲玉のように立ち上ったジョバンニ。胸を打って、咽喉いっぱいに泣き出しました。すると、その時ジョバンニの後ろから優しい声が聞こえてきたのでした。
宮沢賢治,



 万感の思い、というのでしょうか。一人の男が、全力をかけてやり抜いた大きな「役割」を見届けて、ふーっと大きく息をつきました。「育ててくれて、ありがとうございます」。他人の私が、心の底からそう思って、頭を下げたくなりました。

銀河鉄道の父
銀河鉄道の父
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門井 慶喜
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 その男の人とは、日本を代表する童話作家、宮沢賢治の父である宮沢政次郎(まさじろう)です。宮沢賢治の家族といえば、有名なのは弟の清六さんや妹のトシさんかもしれません。賢治のお父さん・・・はて、どんな人だったのだろう。私も、読む前はそう思っていました。

 門井慶喜さんが、宮沢賢治の父親を描いた小説、『銀河鉄道の父』を発表されました。読み終えて、今私は、会ったこともないその人に、深々と頭を下げてお礼を言いたい気持ちに包まれています。



内容紹介



家族


 才の父の、苦悩と、葛藤と、愛と。

 裕福な質屋の長男として生まれた宮沢賢治。のちに日本を代表する童話作家として名を残す彼ですが、「家の長男」としては、いささか親不孝者だったかもしれません。「質屋に学問はいらない」と祖父が反対する中、中学校に進学し、さらには家業から大きく外れた道である農林学校に進学し、実家の宗派である浄土真宗を踏み倒し、そして、家を継がず、神様から与えられた「童話」という道を進んだ―。

 そんな奔放な生き方を許してくれた人。その人こそが、彼の父親、宮沢政次郎です。

 「父でありすぎる」彼は、狂おしいほどに息子を愛していました。ですが、同時に宮沢家の父親、一家の長としての責任も背負おうとしていました。時には厳しく賢治を叱り飛ばし、時には声をかけて励ましたくなるところをぐっと我慢し、時には自分のやり方が本当に正しいのか、深く思い悩みました。

 宮沢賢治という作家を世に送り出した一人の父親の、等身大でありながら、包み込むように大きな愛の物語です。

書評



書評

◆ 愛だけじゃ、父にはなれぬ

 この物語は、序盤と終盤に「看病」のシーンが出てきます。いずれも、父の政次郎が息子の賢治を看病しているのです。最初は、幼いころに赤痢を患った賢治。そして、晩年に病で床に伏した賢治。

 今の時代とは感覚が違うと思いますが、賢治が生まれたころは「看病は女の人がするもの」という時代でした。男の人が、それも父親が直接、息子の看病をするというのは、すごいことだったようです。世間の人から恥だと思われたかもしれません。しかし、政次郎はそんなことに構いもせず、賢治につきっきりで看病しました。「この子はうちのあととりなんだ」、と。

 序盤のそんなシーンで、読者は父政次郎の「愛」の大きさを痛いほど感じることができます。ですが、子育ての難しいのは、「ただ愛するだけではいけない」ということではないでしょうか。政次郎が愛のある父親であったことは間違いありません。ですが、愛するがゆえに、父親として彼は悩むのです。

父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若いころには夢にも思わなかった。



 政次郎の胸に、こんな思いが去来します。「弱い」の語を見て、私は深いため息をつきました。まだ「親」になったことのない私にとって、親とは「強さ」のイメージがありました。子供を生んで、一人前になるまで育て抜く。その「強さ」です。

 しかし、この物語の魅力は、「弱さ」のほうにあります。政次郎は、一人の父や家長である前に、等身大の人間でした。迷うのです。思い悩むのです。葛藤するのです。それは、食卓の一番奥で偉そうに腕を組んでいる「昔の父親」像とは遠くかけ離れた姿でした。政次郎が、等身大にもがき苦しんで、それでも「父親」であろうとする。読者が何よりも惹かれるのはそこだと思います。

子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る。そんなことを思ったりした。



 叱った方がいいのか、何も言わず、黙って見守る方がいいのか。優しく教え導く父親がいいのか、厳しく、壁になるような父親がいいのか。……政次郎の悩みは、賢治が大人になっても、永遠にやみませんでした。

 もしかしたら、親になるということは、一生かけてやることなのかもしれない。親とは、一生かけなければ、本当の意味ではなれないものなのかもしれない。

 私は、そんな風に思いました。

賢治はいつか気づくだろうか。この世には、このんで息子と喧嘩したがる父親などいないことを。このんで息子の人生の道をふさぎたがる父親などいないことを。



 父と息子は、時に激しく喧嘩をしました。宮沢賢治は「家の長男」に求められていた生き方からは大きく外れる道を行ったのです。父親としての、家長としての政次郎の思いはよく分かります。しかし、喧嘩をしても、息子が長男の道を踏み外しても、父はそれでもなお、息子を愛しました。

 懸命に愛してみせるけれど、息子はいつかそれに気付いてくれるのだろうか。厳しい父親の顔をしながら、胸の中で切なさを湛える政次郎。狂おしいまでの愛に、胸がきゅっと締め付けられるようでした。

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◆ 合わさらぬ背中

 父親の愛は、息子に届いたのでしょうか。「届いていた」そう確信できるシーンがありました。26歳になった賢治が、人知れず、父のことを想います。

尊敬とか、感謝とか、好きとか嫌いとか、忠とか孝とか、愛とか、怒りとか、そんな語ではとてもいいあらわすことのできない巨大で複雑な感情の対象、それが宮沢政次郎という人なのだ。



 父親から息子への感情がとても複雑なものなら、逆もまた然りだったのです。「尊敬」とか、「感謝」とか。そういう言葉をブログで書こうとしていた私は、ここで立ち止まって考えることになりました。「息子」の気持ちは、私にも分かります。たしかに、好き嫌いで測れるものではないと思います。育ててもらったこと、感謝はしていますが、気恥ずかしくて、面と向かってはなかなか言えません。つい、生意気なことを言ってしまいます。

 息子は、父の背中を見て育ちます。それは、一番近くにあるようで、実は、一生合わさることのない、一番遠くにある背中なのかもしれません。近いような、遠いような。親子の「距離」の妙の、なんと不思議なことでしょうか。

 
 互いに反発もしあった親子でしたが、間違いなく、「この父あってこの子あり」だと私は思いました。童話を書くという道を選んだ賢治。父の政次郎にとっては無縁の世界で、最初は賢治の書いた童話をほとんど読んでもいませんでした。それが、だんだんと、息子の進んだ道を理解し、そして息子が書いたものに魅力を見出していきます。

 賢治が思い悩むとき、やはり、父は厳しい言葉をかけました。

「くよくよ過去が悔やまれます。机がないと書けません。宮沢賢治はその程度の文士なのか?その程度であきらめるのか?ばかめ。ばかめ」



 厳しくなじって、愛のない言葉にも見えます。でも、その後で、

内心では、
(なにも、そこまで)
自分でも嫌になるのだが、どうしようもなかった。口も手もやまない。父親の業というものは、この期におよんでも、どんな悪人になろうとも、なお息子を成長させたいのだ。



 愛するだけでは子育てはできない、と書きました。そう思わせた箇所の1つです。「悪人になってでも」。息子を愛する父として。息子の童話を愛する者として。退路を断つような、凄まじい覚悟でした。

 賢治の童話は今も日本中で愛されています。彼に、この道を行かせてくれた。だから、私は深々と頭を下げたくなったのです。

まとめ



まとめ



 結局、宮沢賢治は親孝行者だったのでしょうか、それとも親不孝者だったのでしょうか。

 長男として、父親が心の中で望んでいた生き方をすることはありませんでした。奔放な行動、自分の信念を貫き通そうとする頑固な態度、そして、数えきれないほどの喧嘩。そういったものを思い浮かべて、親不孝者だったのかな、と考えてもみましたが、それは違うのだと思います。

 「こんな息子ではありますが、これが私の息子ですから」

 空の向こうで、政次郎がそう微笑んでいるように思いました。「父親」をやり抜いたその人に、私は深い尊敬の念を抱きます。

 ◆ 殿堂入り

 「最果ての図書館」は、『銀河鉄道の父』を「シルバー」に登録しました。子供を育てる全ての人に、そして親に育てられた全ての子供に。広く読まれて欲しい本です(バナーをクリックすると、「シルバー」の本一覧が開きます)。





オワリ

宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #8 「永訣の朝」

 このブログでは宮沢賢治の作品を紹介しています。第8回に取り上げた「永訣の朝」は、賢治が妹のトシの死に際して詠んだ詩です。この小説の中にも出てきて(7、8章)、重要な役割を果たしていました。


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