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  •  久しぶりの日本文学です。この本は、岩波書店90周年を記念して実施された「読者が選ぶ私の好きな岩波文庫100」で、第3位に輝いた作品です。1位、2位、4位は夏目漱石の名作ですから、そこに唯一食い込んだ作品、ということになります。

    銀の匙 (岩波文庫)
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    中 勘助
    岩波書店
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     この作品を有名にしたエピソードがあります。灘中学校で国語を教えた橋本武先生(2013年に死去)が、国語の授業の教材としてこの作品を3年間通して使ったのです。3年間かけて、この作品を読んだのです。この作品にはその価値があります。3年間かけて、丹念に読み込んでいく―さすがに私にそんなことはできませんでしたが、それぐらいに多くのことが詰まった本です。



    ぜいたくに、ふんだんに



     「すぐに役立つことは、すぐ役立たなくなる」

     橋本武先生の信条です。この信条が、3年間かけて1冊の本を読むという国語の授業を生み出しました。私は国語の授業が大好きでしたが、橋本先生の授業をぜひ1度受けてみたかったと今でも思います。しつこいようですが、1冊の本を3年間かけて・・・そこには想像もつかないような宝物がたくさん詰まっているのだと思います。

     作品のあらすじはほとんどありません。主人公が、自らの幼年期を回想するというお話です。伯母の愛情を一身に受けて育ち、様々な経験を重ねながら日々を過ごしていく主人公。そんな日々を子供らしい視点で描いた文章が見事で、数ある文学作品の中でも他の追随を許さないような高い次元にあります。

     そんな美しい描写の1つ1つを、ぜいたくに、ふんだんになぞっていったのが橋本先生の授業でした。

    さんざ呼んでいるとそのうちやっとこさと出てきてあっちこっち菓子箱の蓋をあけてみせる。きんか糖、きんぎょく糖、てんしん糖、微塵棒。


     主人公が菓子箱の蓋を開ける場面です。橋本先生は、このような場面が出てくると、作品に出てくるものを実際に教室に持ち込んで、子どもたちに「追体験」をさせていったそうです。菓子箱から出てくる甘いお菓子の匂いとその感動を、子どもたちは目の前で体感しました。教室には、お菓子の幸せな匂いが充満していたことでしょう。

     ふだん読書をしていて、「場面の1つ1つを忠実に再現する」などまずできることではありません。橋本先生はそれを3年間かけてやったのです。ぜいたくで、ふんだんで。読書というものの1つの極みがここにあるでしょう。

    追体験ができるすばらしさ



     実は、そこまでしなくても、私たちはこの小説を読みながら追体験をすることができます。読みながら、自分が子供に帰っていくような、そんな感覚があるのではないでしょうか。それは、この作品の子供目線の描写が素晴らしいことに理由があります。

     小さな子供の目線から物語を書く、というのはとても難しいことです。大人になってしまうと、小さな子供の目線は想像するしかないからです。「ありのまま」に書くことはほぼ不可能で、どうしても「作られた」描写になってしまう傾向があります。

     しかし、中勘助という人はそれを見事にやってのけました。ここに書かれているのは、「子供の目線」そのものなのです。だからこそ、読みながら読者は子供に帰っていくことができます。子供の目線そのものを書くというのがどれほど難しいか、それが分かっているからこそこの作品はこれほど評価されるのだと思います。

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     ちょっと皮肉で、しかし何にも染まらず純粋で。そんな子供の姿が、子どもの目線から丹念に描写されています。

    私はその頃から鹿爪らしい大人の殻をとおして中にかくれている滑稽な子供を見るようになっていたので、一般の子供がもっているような大人というものに対する特別な敬意は到底もち得なかったのである。

    ※鹿爪らしい・・・まじめくさっていて堅苦しい

     主人公は、子供というものを少し見下すようなシニカルな目線を持っています。「子供は子供でもあんなに馬鹿じゃない」などと毒づいたりする場面もあり、かなり毒々しさがのぞきます。

     それでいて、感動すると気持ちがたかぶり、すぐに涙を流してしまうという側面もあります。

    その子供たちはどうしているだろう。そのうえひろびろとして風に波うつ青田をみれば急に胸がせまって涙がさっとまぶたにたまる。それは深い深い心の底から湧いてきて堰き止めるすべもなかった。



     1点の曇りもない、濁りのないとはこういうことを言うのでしょう。主人公が感極まる場面を呼んでいると、読者の心にたまった汚物が洗い流されていくような、そんな感覚があります。皮肉な視線を持ちながらも、このように汚れのない涙を流すことができる、それこそが「子供」の姿なのだと思います。

     夏目漱石はこの作品を、「子供の世界の描写として未曾有のものである」と評したそうです。まさにこの作品にふさわしい評と言えるでしょう。読んでいくうちに、子供に「帰っていく」、そんな感覚をぜひ多くの方に味わっていただきたいものです。

    忘れていたこと



     さすがに3年間かけて読むのは無理でしたが、私は2週間かけてこの本を読みました。本編は200ページほどの本です。普段のペースからすれば考えられないほどのスローリーディングになります。それぐらいにゆっくり読みたい本だったのです。

     皆さんは想像できるでしょうか。200ページの作品を、3年間かけて読む!読書好きの方でも、そんな読書をしたことのある方はほとんどおられないでしょう。私は、生きているうちにいつかそんなことをやってみたいです。

    人びとは多くのことを見馴れるにつけて、ただそれが見馴れたことであるというばかりにそのままに見過ごしてしまうけれども


     本文の中の描写に、ハッとします。まさにそうなのです。私たちが大人になるにつれて見えなくなったことを丁寧に描き出し、子供の頃の記憶を呼び覚ましてくれる―そんな作品です。その「気付き」が、私たちを作品の世界に誘っているといえるでしょう。

    ※引用した箇所は、読みやすくするためにかなづかい、漢字表記を一部現代のものに改めています。原文と異なるのでご注意ください。

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    供に帰っていく―子供の目線が私たちに多くのことを思い起こさせる不朽の名作

     橋本武さんの授業についての本も出ています。そちらについて詳しく知りたいという方はぜひ本の方を当たってみてください。この授業は内容が充実していただけでなく、東大合格者を全国1位に押し上げたという素晴らしい実績まで残しているんですよ。

    ◆殿堂入り決定!

    「最果ての図書館」は『銀の匙』を「シルバー」に認定しました。おめでとうございます!





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    読者が選ぶ私の好きな岩波文庫100
     岩波文庫好きの私としては、並びを見ているだけで感極まるものがあります。私が大好きな宮本常一さんの「忘れられた日本人」は堂々の7位にランクインしています。好きな本が他の人にも認められているというのは嬉しいことですね。


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    中勘助, 近代日本文学,



    •   28, 2015 18:00
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