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教科書 新春スペシャル

 前回に続き、夏目漱石の『坊っちゃん』を紹介したいと思います。きのうは新春のスペシャルドラマが放送されていましたが、ご覧になっていた方はおられるでしょうか。改めて、新年にふさわしい痛快な内容の作品だと思いました。

 今日は主人公である坊っちゃんの人柄にフォーカスしてみようと思います。発表から110年の時を経ても、いまだに多くの日本人に親しまれ続けている『坊っちゃん』。作品の中には、日本人であれば誰でも心が動かされるような、そんな日本人の「心のふるさと」とでもいうべき要素を見つけることができます。

前編の記事はこちらから

(約3,700字 +追加分750字)



スペシャルドラマ放送!



 本のレビューに入る前に、きのう1月3日に放送されたスペシャルドラマについてコメントしておこうと思います。主人公の坊っちゃん役には嵐の二宮和也さん。放送する前から予感してはいましたが、二宮さんは見事にはまり役でした。二宮さんはアイドルとしてだけでなく、役者としても素晴らしい才能を持った方だと思います。特に二宮さんが熱弁を振るうときのまっすぐな目にはすごく惹きつけられます。そんなわけで熱く語るシーンの多い坊っちゃん役は最高のはまり役だったと思います。

 坊っちゃん以外のキャストも私としてはとても好みでした。山嵐役の古田新太さんは坊っちゃんと一緒に熱く正義を押し通してくださいました。赤シャツ訳の及川光博さんは嫌らしい役をやらせたら天下一品ですね。演じておられるご本人も何だかノリノリでした。そして、清役には宮本信子さん。・・・この配役が一番うれしかったです。個人的に清はこの小説で一番大切な人物だと思っているのですが、宮本信子さんが清の滲み出る愛と優しさを演じてくださいました。

 最後は原作と内容を変えていましたね。実は、原作はちょっと敗北感が残るというかやるせない終わり方になっているのです。ドラマは視聴者が鬱憤を晴らせるように上手くアレンジしてあったと思います。赤シャツへの鉄拳制裁!生徒たちから赤シャツへの仕返し!・・・というとても気持ちのよい内容でした。ドラマはドラマでとてもよいのですが、やるせなさが残る原作の終わり方にも大切なメッセージが込められていると思うので、原作を未読の方はぜひ読んでみていただけたらと思います。

 ・・・とドラマについて感想を語ったところで、後編の記事に入っていきたいと思います(この部分はドラマ視聴後に書き足しました)。後編の記事では、坊っちゃんにとって何よりも大事な存在、清についても触れています。

古典的カリスマ



 改めて、坊っちゃんの性格を整理してみようと思います。曲がったことが大っ嫌いで、義理と人情に厚く、己の正義を貫き通す。読んでいて大変に心地よい人物です。そう、坊っちゃんは生粋の「江戸っ子」。多くの日本人がこの作品を読んでいて感じる快感の正体は、この「江戸っ子」へのあこがれなのではないでしょうか。

 最後、坊っちゃんと山嵐は憎たらしい赤シャツと野だに鉄拳で制裁を加えます。その論理と思考回路は極めて単純で直情的です。思考と行動が一直線なのも分かりやすいですね。改めて読み返してみると、私は夏目漱石がこのようなストーリーを作ったことに彼なりの主張があったのではないか、と思えてなりませんでした。

 夏目漱石と言えば、帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、イギリス留学も経験したエリート中のエリートです。この『坊っちゃん』の中で言えば、教頭の赤シャツが夏目漱石にもっとも近い感じがあります。そんなエリート中のエリートである漱石が、このような直線的なストーリーを書き、坊っちゃんのような単純明快なキャラクターを生み出しました。やはり、何らかの意思があってのことと考えるのがよさそうですね。

 前編でも引用した江藤敦さんの解説にもう一度立ち返ってみることにします。江藤さんは、主人公坊っちゃんの原形を江戸時代の文芸の中に見出します。たしかに、坊っちゃんのルーツが江戸時代の作品にあるというのは納得のいく考え方です。江戸時代の文芸には、伝統的な勧善懲悪のテンプレートがありました。坊っちゃんは、まるでそのテンプレートを丁寧になぞっているような、そんな作品だと思います。

漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼刃にすぎない。人は決して、そんなものによっては生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代があたえた価値ではない。(解説:江藤敦さん)



 エリートの漱石は、文明の発展や近代化を論じた論客としても知られています。この『坊っちゃん』は近代化などとはまるで無縁の小説だと思って読んでいましたが、そうではなく、作品の奥底には近代化へのアンチテーゼがあると考えるのがよさそうですね。

 生得の言葉、生得の倫理観という表現がしっくりきます。この小説は理屈抜きに楽しめるのです。それはまさに、私たちがこの小説に感じる快感が「生得」のものであり、坊っちゃんのような江戸っ子に今も心の奥底でシンパシーを覚えているからだと思います。私たちはこの小説を読んで痛快になって、そして自分が日本人であることに立ち返っているのかもしれません。江戸時代が終わってから150年ほどたちますが、そのような快感が全く変わらないとすれば、これは日本人が受け継ぐDNAのようなものなのでしょうか。

金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはいけない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働らくものだ。論法で働らくものじゃない。



 「そうだー!」と思わず掛け声をかけたくなるような衝動に駆られます。そのような衝動に駆られるとき、私の中でも無意識のうちに「日本人のDNA」が反応していたのでしょう。

清き心



 『坊っちゃん』を語る時、もう一つ忘れてはならないのが坊っちゃんを小さい時からかわいがってくれたばあや、「清(きよ)」の存在です。清はその名前通り、清い心を持った優しい人物です。だからこそ、坊っちゃんはこんなにもまっすぐに育つことができたのでしょう。そして、まっすぐ育った坊っちゃんは、離れ離れになっても清のことをずっと想い続けています。

 ツイッターのフォロワーさんで、『坊っちゃん』が「おばあちゃん小説」だと言っておられた方がおられました。私はほほえましい気持ちになりました。「おばあちゃん小説」とはよく言ったもので、本当に坊っちゃんの清への愛がにじみ出ている小説です。作品全体がそんな愛に包まれていて、それが何度でも読み返したくなるような作品の魅力につながっています。

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 清は身分が低く、まともな教育も受けていない女性でした。しかし、小さいころから一心に坊っちゃんのことを愛してくれたのです。坊っちゃんは清にかわいがってもらったことを思い出しながら、清に思いを馳せます。

今まではあんなに世話になって別段有難いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。(中略)清はおれの事を慾がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。



 離れてみて初めてそのありがたみを痛感する・・・真理だと思います。小さいころからかわいがってもらったことのありがたみを、遠い愛媛の地に来て初めて身をもって知ったのでしょう。そして、坊っちゃんは人に感謝ができる立派な人間に成長していました。清は立派だと坊っちゃんは言いますが、私からすれば、坊っちゃんも清も同じくらい、後光がさすような立派な人物です。

 こういう風に、坊っちゃんが清を思い返す箇所は作中に何度も登場します。そのひとつひとつが温もりにあふれているので、読んでいるとまるで実家に帰った時のような安心感があります。家族というのは何者にも代えがたい存在なのでしょう。改めて、家族がいること、自分が帰る場所があることのありがたみに気付きます。

 もう一か所、私が『坊っちゃん』の中で大好きな箇所を紹介します。坊っちゃんが清に手紙を書こうかと思案する場面です。

その時俺はこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮らしていると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。



 清のことを思っているから、その気持ちは手紙を書かなくても伝わるはずだ、と思う坊っちゃん。彼の豪胆な性格と清を思う深い気持ちが同時に伝わってきます。便りがないのは何とやら、とは言いますが、なんとも坊っちゃんらしい発想で心が温まります。

生まれ続ける「坊っちゃん」



 山嵐が学校を辞めさせられそうになる時、坊っちゃんは自分も辞表を出して義理を通そうとしました。「履歴なんか構うもんですか。履歴より義理が大切です」、そう言い切る坊っちゃんの姿に、私は思い出した人物がいました。

 栗原一止。小説、『神様のカルテ』シリーズの主人公です。「通らぬ正義は押し通せばいい」、そんな風に言っていた一止先生の姿と坊っちゃんの姿がぴったり重なった瞬間でした。

 神様のカルテの一止先生というキャラが坊っちゃんから影響を受けている可能性は、極めて高いと思います。シリーズの作者は夏川草介さんですが、夏川草介さんの「夏」は「夏目漱石」に、「草」は『草枕』(漱石の小説)に由来しています。そう、夏川さんは大の漱石好きなのです。そして、そんな夏川さんが生み出した一止というキャラも、常に『草枕』を持ち歩くような漱石好きの人物として描かれています(本当に夏川さんは夏目漱石を敬愛しておられるのですね)。

 ぶっきらぼうだけど人間味にあふれる一止先生のモデルはこの『坊っちゃん』にあるのではないかと私は想像しました。つまり、『坊っちゃん』は形を変えて生み出され続けているのです。『神様のカルテ』を読んで一止先生に親しみを覚えた人は、それはさかのぼれば「坊っちゃん」に親しみを覚えていることになるのです。

 これは分かりやすい例で、坊っちゃんに影響を受けて書かれた作品はもっとたくさんあると思います。もし小説を読んでいて共感できる主人公がいたとしたら、その主人公には「坊っちゃん」の血が多かれ少なかれ流れているかもしれません。曲がったことが大嫌い、まっすぐ、義理と人情に厚い・・・そんな人物で思い出す人はいませんか?そのルーツにはきっと(本の作者が意識していてもいなくても)「坊っちゃん」があるのだと思います。

 今も読まれ続ける小説、『坊っちゃん』。今も生まれ変わり続ける主人公、坊っちゃん。今年は漱石の没後100年の節目の年になります。改めて、彼の魅力を再確認してみるのはいかがでしょうか。



オワリ

『神様のカルテ0』 夏川草介さん

 記事中で紹介した神様のカルテシリーズの最新刊です。夏目漱石の作品を読んでいると、このシリーズが漱石からとても大きな影響を受けていることが分かります。神様のカルテシリーズが好きな方、そのルーツにある漱石の作品もぜひ合わせて読んでみてはいかがでしょうか。


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夏目漱石, 近代日本文学, 教科書,



  •   04, 2016 00:00
  • 教科書 新春スペシャル

     新年最初に紹介する本は、夏目漱石の『坊っちゃん』です。夏目漱石は今年没後100年を迎えます。節目の年ということで、今年は例年にも増して注目されることになるでしょう。

     没後100年を飾る最初のイベントとして、この『坊っちゃん』が今日1月3日にスペシャルドラマとしてオンエアされることになっています。『坊っちゃん』は新春ドラマにふさわしい、痛快で胸のすく小説です。そして、この作品は中学1年の教科書に掲載されている教科書文学でもあります。新年一発目の景気づけに、この小説を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

    (約3,300字)



    滑稽なキャラたち



    坊ちゃん

     新春からドラマ化される『坊っちゃん』ですが、改めて読み返してみると「ドラマ化するのになんてぴったりな小説なんだろう」と思って思わず笑みがこぼれてしまいました。そして、ドラマ化にぴったり、という印象を抱かせた原因は、あまりにも型通りに描かれる「キャラの滑稽さ」にありました。

     漱石が愛媛県の尋常中学校で教鞭をとっていた経験をもとに書かれた『坊っちゃん』。漱石の代表作の中でも、『こころ』などとは異なり、かなり通俗的な内容です。神経病をわずらっていた時期もある夏目漱石の小説というのは、読み手である私たちも頭を抱えてしまうような鬱屈さがあるのですが、この小説にはそのような鬱屈さは見られません。鬱屈どころか、とにかく痛快でテンポがいい。落語を聞いている時のような心地よさがあります。

     国民的小説なので、あらすじは解説不要ですね。先程も書いたように、キャラが型通りに描かれていて、大変滑稽なのが特徴です。坊っちゃん、赤シャツ、山嵐!頭の中に人物の姿がすぐに浮かんでくるくらい、キャラたちが典型的、漫画的に描かれていることが分かります。

     事なかれ主義の校長(狸)
     嫌味で陰湿な教頭(赤シャツ)
     教頭の腰ぎんちゃく(野だ)
     正義感はあるが、無鉄砲な主人公のよき理解者(山嵐)
     そして、人情味あふれる愛すべき江戸っ子、坊っちゃん

    「来年の夏に帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今に色々な事をかいてやる。さようなら」



     登場人物をおさらいし、主人公の坊っちゃんが家の下女だった清(きよ)に書いた手紙を引用してみました。こうして並べてみると、登場するキャラクターたちは本当に型通りの描かれ方をされていますね。見た目や特徴から分かりやすいあだ名をつけるというのも、キャラクターに愛着を持たせる常套手段です。改めて整理してみると、夏目漱石の徹底した通俗性の追求に気付きます。
     
     そんな漱石の通俗性の追求が、何度でも読み返したくなるような魅力をこの作品に与えていることが分かります。私は上に、「落語を聞いている時のような」や「漫画的」という表現を用いました。『坊っちゃん』に落語や漫画のような面白さを感じる理由を、前編ではもう少し詳しく見ていくことにします。

    天才の流麗



     『坊っちゃん』は大変通俗的な小説ですが、だからといって中身がスカスカだということはありません。1906年に発表され、110年経った今も読み継がれ、日本文学を代表する作品になっていることがその証拠です。たしかに通俗的で、難しい表現に頭を抱えることはありません。ですが、このような小説にも、夏目漱石の作家としての天才的な才能がいかんなく発揮されているのです。

     読んでいて直感で気付くのが、「この小説は短期間で、一気に書き上げられた作品だろう」ということです。一気に書き上げないと、この勢いは出ないと思います。夏目漱石が原稿用紙の上で勢いよく筆を運んでいた様子が目の前に浮かんでくるようです。

     作品から感じる通り、この作品は短期間で勢いよく書かれたものでした。岩波文庫版の解説で江藤淳さんが詳しく書いておられますが、原稿用紙215枚分ほどのボリュームがあるこの作品を、漱石はわずか1週間ほどで書き上げたそうです。

     そして、この作品は漱石が書いた原稿が現存しているのですが、原稿に推敲のあとがほとんどなかったことが明らかになっています。これは、漱石が勢いよく、まさに「気の向くまま」にこの作品を書き上げたことを証明するものです。キャラクターの書かれ方が典型的で、ストーリーもずいぶん直線的なのですが、この小説はなるべくしてそうなったのだと思います。勢いが途中でよどんでしまっては台無しでしょう。「一気に書き上げた」ことにこそこの作品の価値があるのだと思います。

    いずれにしても、このような執筆の状況を一瞥すれば、『坊っちゃん』の最大の魅力となって全編を支えているのが、一気呵成な創作力の奔出から生れた歯切れのよい文体のリズムであることは、まず議論の余地があるまい。 (岩波文庫版解説・江藤敦さん)



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     特に、主人公の坊っちゃんとよき理解者、山嵐との会話が読んでいて一番心地いいです。二人ともちょっと向こう見ずなところはありますが、正直者で正義感あふれる好漢です。思わず手拍子でも打ちたくなるような小気味よい会話が続きます。

    「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
    「じゃ何と云うんだ」
    「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガ―の、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」



     山嵐が教頭の赤シャツをこき下ろしている場面です。上にも書いたように、夏目漱石が一気にこの作品を書き上げたことがよく分かる勢いのある描写ですね。こういう描写の1つ1つも、とことんテンポよく、漫画的に書かれていることに気付きます。その徹底ぶりは「通俗小説の王様」とでも呼びたくなるような見事なものがあります。

    典型はあこがれ



     『坊っちゃん』は、キャラクターもストーリーもとても典型的な小説であることはここまでで述べてきました。「お約束」とでも言えそうな、悪く言えば単純で直線的な、よく言えば痛快で伝統的な展開が続きます。

     「悪く言えば単純で直線的な」と私は書きました。自分で書いておいて申し訳ないのですが、これは全く持って的外れな批評だと思います。『坊っちゃん』を読んで単純で直線的だと批判する人はほとんどいないでしょう。むしろ、単純で直線的なものを最後まで書き通したことのすごさ、そして、単純で直線的なキャラクターとストーリーの先に見えてくる、私たちの「テンプレートへのあこがれ」に気付くことができます。

     話は変わりますが、藤子・F・不二雄さんの作品がいい例です。『ドラえもん』が一番有名ですが、藤子さんの作品はどれもキャラクターの設定がとても似通っていますね。のび太のようにひ弱だけど憎めない少年、ジャイアンのようないかにもなガキ大将、スネ夫のようなキザで嫌味なやつ・・・同じようなキャラクターがどの作品にも登場することにすぐ気付けると思います。

     それを、「藤子・F・不二雄の作品はどれも似通っていてつまならい」という人は少数派でしょう。「どれも似ているけれど、どれにも親しみが持てる」と思う人のほうが多いのではないでしょうか。それは、私たちの頭の中には、どこか安心して寄り添いたくなる「キャラクターのテンプレート」「ストーリーのテンプレート」があるからです。そういうテンプレートをしっかり掴まえた作品は、時代を経ても、国境を越えても全く魅力が色あせません。私は、『坊っちゃん』にも『ドラえもん』と同じ匂いを感じます。

    嘘を吐いて罰を逃げる位なら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰は御免被るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。



     主人公の坊っちゃんが子どもたちのいたずらに腹を立て、罰を与えにゃならんと憤慨する場面です。坊っちゃんというのは、異常なほどの正義感の持ち主で、曲がったことが大嫌い。この短い引用だけでも、作品から感じる「心地よさ」が伝わるのではないでしょうか。

     どうして私たちはここまで『坊っちゃん』にあこがれ、この作品を読み続けるのでしょう。後編では坊っちゃんの言動や行動を詳しく見ていきながら、そこに抱く私たちの「あこがれ」を明らかにしていきたいと思います。



    オワリ

    『草枕』 夏目漱石
     
     このブログで以前紹介した夏目漱石の作品です。こちらも『坊っちゃん』と並ぶ代表作ですが、『坊っちゃん』とは異なり、難解な文と思想に頭を抱えることになりそうです。



    夏目漱石, 近代日本文学, 教科書,



    •   03, 2016 00:00

  •  最近、日本文学のレビューが増えています。大学で日本文学の授業を取っているので、その関連です。普段読んでいるエンタメ小説とは異なり、精神の緊張を伴った読書になります。

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     精神の緊張、という言葉が最も似合いそうな文学者の登場です。夏目漱石の「草枕」を読みました。中学の時に読んだ「こころ」は難しいながらもそれなりに理解して読むことができましたが、この作品はそもそも理解が難しい・・・。解説、求む!という感じでした。とりあえず、今の私が書ける感想です。




    漱石からの挑戦状



     難しいと思うのはある意味当然のことかもしれません。漱石は、小説を通して読者に「挑戦状」を送り付けている、そんな人なのです。今年の4月から朝日新聞で「それから」の再連載が始まったのですが、その初日に齋藤孝さんがこんな文章を寄せています。

    漱石は読者に本気で球を投げていた。(中略)遠慮なく教養を爆発させている。国語力が高い人も低い人も、漱石に合わせようと頑張っていたのだろう。捕れない球もあっただろうが、みんな食らいついていった。


    サッカー日本代表が世界上位を目指すように、漱石は日本の文化のレベルを上げようと努めた。文芸欄で若手に執筆させたのは選手を選ぶ監督のよう。自分でも書くのだから、選手兼任監督といえるだろうか。(以上、『朝日新聞』 2015/4/1)



     日本の文壇を底上げしようとしていた、というのがこの人のすごいところです。圧倒的な教養を誇り、その教養が日本文化の、そして日本全体の向上につながると信じて筆をとっていたのでしょうか。芥川龍之介が漱石に「鼻」を激励されて自信をつけた。という有名な話があるように、多くの作家を育てた人でもありました。

     今回読んだのは「それから」ではなく「草枕」ですが、多くの教養が散りばめられていることは同じです。特に、漢詩に関する知識が多く求められます。私のようなレベルでは、1割も理解できていないでしょう。

     それでも、そんな苦労に価値がある、と齋藤さんは述べています。分かりやすさを求める時代にも、漱石が伝えようとした深く広い世界を見ようとするあこがれがある、と。読み終えてみて、大きく頷きます。

    西洋批判


     
     あらすじと呼べるものはほとんどありません。ある男が、山中の温泉宿にやってきます。彼は絵描きでした。雄大な自然が広がるその環境で、彼が目指したのは「非人情」の境地です。

    有体なるおのれを忘れ尽くして純客観に目をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。



     非人情とは何か、と言われると難しいですが、この「純客観」という言葉がポイントになりそうです。自然に対してだけでなく、人間に対しても非人情を貫こうとしたのがこの男のすごいところでした。「お互いの間に人情の電気が通うことがないように、常にある距離を置いて取り扱って行こうとする」(解説文)様子が描かれています。

     そんな彼の前に現れたのが、那美という美女でした。彼にとっては、今まで出会った中で最も美しい女だったようです。非人情を貫こうとしたのに、そんな女が現れてしまった。普通なら、すぐに心を乱される、つまり人情に介入されそうなところです。

     先日紹介した谷崎潤一郎の「痴人の愛」にも、ナオミという少女が登場し、主人公の男を誘惑し破滅に追い込んでいきました。絶世の美女が出現すれば、破滅とはいかなくても心をかき乱されるのは確実ではないでしょうか。非人情の境地を保つことはかなり難しそうです。そんな状況で物語は進みます。

     いったいこんな状況でどう話を進めていくのだろう、と思いながら読みました。結論を言えば、男は人情と非人情のギリギリのところで、実に繊細に、巧妙に立ち回っていました。針の穴に糸を通すような、とでも言ったいいでしょうか。本当に絶妙な、ギリギリのラインです。

     「主人公の画工が主張する『非人情』なるものが人間を相手にする場合、どう発現するものであるかを、言わばぎりぎりのところまで追い込んで、具体的に説明しようとしたもののようである」(解説)

     男の破滅を徹底的に描く谷崎潤一郎はすごかったです。しかし、このギリギリのラインでのせめぎ合いを描く、夏目漱石にもまた凄味がありました。「非人情」というのは、かなり扱うのが難しいテーマです。ですが、主人公の男にはどこか「心の余裕」なるものがあって、絶妙にバランスを取っています。

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     作品の終盤、漱石の「西洋批判」が随分ストレートな言葉で語られます。高校の時に「現代日本の開化」、という漱石の書いた文を国語の授業で読みました。日本は外から無理やりこじ開けられるような「外発的」な開化をしている、そんな風に漱石は語っています。ここでも、かなり強い言葉で、西洋や文明が批判されます。

    文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする


    文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻せいの内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人をにらめて、寝転んでいるのと同様な平和である。



     文明によって個人、個性が抹殺される、というのが大変鋭い視点です。漱石が現代にやってきて、満員電車にぎゅうぎゅうに押し込まれる人々を見たら、一体何と言うでしょうか。というか、漱石は未来をどこまで先まで見通していたのでしょうか。

     こういった文明批判、西洋批判と絡み合うのがこの作品です。私は、先程書いた、男の「心の余裕」なるものが、文明化や西洋化に対立しているのかなと思いました。男は、文明とは全く交わらないところにいます。そんな男が、巨大な文明という者に対して、ささやかに、かつ大胆に抵抗している、そんな印象を受けました。

    余も木瓜になりたい



     終盤、有名なセリフが出てきます。上に書いた、「余も木瓜になりたい」というものです。木瓜とはバラ科の植物で、紅や白のきれいな花を咲かせます。

    評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい



     最初、さっぱりわけがわかりませんでした。「拙を守る」とは、不器用な生き方を押し通すといった意味があるそうです。ですが、どうして「拙を守る」が「木瓜」になるのか・・・。

     「拙を守る」という言葉は、陶淵明という人の五言詩にその由来があるそうです。中国の古い詩にそのルーツがあるのですね。最初に、「漱石は読者に挑戦状を送り付けている」と書きましたが、そのことを実感します。細かいところを見れば、数えきれないくらいの教養がこの作品には詰まっているのだと思います。

     そんな「拙を守る」象徴として、漱石は木瓜を好んで登場させたようです。文学的ルーツが全く分からないので、この部分の解説はできません。ですが、とても印象的な部分でした。俗世からは離れて、愚直に、それでいてどこか余裕を持って咲き誇る。そんな木瓜の花に、漱石はどこかシンパシーを覚えていたのかもしれませんね。

    ◆殿堂入り決定!

    「最果ての図書館」は『草枕』を「シルバー」に登録しました。おめでとうございます。



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    解極まりない「漱石哲学」との対話 頭がくらくらします

     レビューを見ていると、「年を取るとこの作品のことが理解できるようになる」というような言葉が並んでいました。その通りなのかもしれません。私も、時間を置いて再読したいと思います。その時は何を感じるでしょうか。

    夏目漱石, 近代日本文学,



    •   09, 2015 11:59