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  •  この作品を読み切るのに、とてもエネルギーを要しました。読みながら、自分の精気が吸い取られていくようでした。艱難辛苦、ただひたすらに、苦しく、息が詰まるような作品です。

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     長塚節の「土」です。日本の農民文学を代表する作品と言われています。正直言って、作品の内容には読者を牽引していくような面白さはありません。日本の農民の苦しく、貧しい生活がひたすら綴られていく、そんな作品です。それでも、この作品は読者を牽引していきます。苦しい読書になることは間違いありませんが、そこに書かれていることからは決して目を離せなくなるのです。



    内容紹介



    日本近代文学

    に生まれ、土と死ぬ-農民と密着する「土」を描く

     長塚節は茨城の豪農の家に生まれました。この「土」という作品は彼の代表作であり、日本農民文学を語る上で欠かせない1冊です。

     夏目漱石は、この作品を「最も貧しい百姓」の物語、と評しました。貧しい、というのは単に経済的な困窮を指すわけではありません。百姓の家に生まれ、決して抜け出すことのできない階級構造の中で、死ぬまで働き続ける。その空間の中で彼らを支配していく、圧倒的な「貧しさ」がこの作品には書かれています。卑しさ、さもしさといった精神的な貧困もそこには含まれています。

     窒息してしまいそうな、苦しい読書になります。ただ、この作品は、農民の生活のありのままを、まるで当時の空気を缶詰に詰めたかのように、そのままに伝えてくれます。

    書評



    書評

    ◆ 土の「写生力」

     夏目漱石がこの作品に寄せた文章、「土に就て」はこの作品を語る上で欠かせないと思うので、少し引用させていただこうと思います。

    「土」中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土とともに生長した蛆(うじ)同様に哀れな百姓の生活である。



     漱石はかなり辛辣なことを書いています(ここには引用しませんが、さらに辛辣な表現もあります)。書いてあることはかなり辛辣ですが、実際に作品を読んでみると、漱石の感想は実に的確なものであるという印象を受けます。決してこの時代の農民を侮蔑するわけではありません。この作品に書かれていることは、漱石がこんなことを書くくらいに、どうしようもなく「貧しい」ものなのです。

     漱石が「ただ土の上に生み付けられ、土とともに生長した」と書いていますが、さすがの着眼点だと思います。作品中には、題にもなっている「土」が数多く描かれています。「土」というのは、農民にとって切っても切り離せない存在でした。土の上で生まれ、土の上で死ぬ-「土と密着する農民」の作品と言えるかもしれません。

    お品はこうして冷たい屍になってからもその足の底は棺桶の板一枚を隔てただけでさらに永久に土と相接しているのだった。



     お品という登場人物が亡くなった後の描写です。死んでしまったあとも、土から離れることのできない農民の姿が強調されています。生きている時は土に足を付けながら働き続け、そして死んだ後も土の上で眠るのです。

     

    春はそうして土からかすかに動く。(中略)水に近い湿った土が暖かい日光を思ういっぱいに吸うてその勢いづいた土のかすかな刺激を根に感ぜしめるので・・・



     かと思えば、このような繊細な描写も出てきます。こうやって季節の訪れ、移り変わりを土を通して描く表現が多用されています。農民は、土のかすかな変化から季節の移ろいを察知することができたのでしょう。

     とにかく、「土」と切り離しては語れない作品です。長塚節は写生主義を志向していました。それだけに、土の「写生力」は見事です。丹念で、緻密で、どこか「執念」のようなものすら感じさせる描写で、その描写が、私たちに当時の農民の生活をありのままに伝えてくれます。

    ◆ 逃れられない貧しさ

     土と切っても切り離せない農民。私はそこに「残酷さ」も感じ取りました。作品の中で、「牽引」ということばが使われています。土は、農民を「牽引」しているのです。それはどういうことか。私は、農民が土から離れられないことが、逃れられない貧しさを象徴しているように感じました。

     働けども働けどもいっこうに豊かにならない生活。変わらない「搾取」の構造。

     そして何よりも、そういった生活の中で「精神の貧困」が彼らを覆う。貧しさ、卑しさ、さもしさ。目を覆いたくなるような精神的な貧しさが、容赦なく、やはり見事に「写生」されています。

    彼の心はひたすら自分をみじめな方面に解釈していればそれで済んでいるのであった。彼のやつれたからだからその手がひどく自由を失ったように感ぜられた。・・・



     この箇所などは典型的です。「みじめさ」を自己受容していく-それは何よりも「貧しい」ことでした。「苦しい読書」と書いたのはこのあたりが特にそういうことなのです。こういう言い方はよくないかもしれませんが、「人間社会の最底辺」というものを見たような気がしました。しかしそれは、農民たちにとってはどうすることもできないことでした。

    まとめ



    まとめ

    しいから読め、と漱石は言いました

     漱石もまた、この作品が苦しいものであると述べています。その上で、「面白いから読めというのではない、苦しいから読め」ということを書いています。漱石のこのことばには、いったいどんな意味が込められているのでしょうか。

     私なりに考えて見えたのは、「最も貧しい状況に置かれた時に、真の『人間の姿』があぶり出されるのではないか」ということでした。長塚節の描写は素晴らしく、私たちに農民の生活のありのままを伝えてくれます。



     私は「貧しさ」のほうばかり取り上げましたが、この作品からは貧しさだけではなく、貧しさの中でもかき消されることのない愛情や慈しみ、いたわり、思いやりといったことも書かれています(苦しみが中心ではありますが)。そういったことも含めて、「真の人間の姿」なのだろう、と思います。

     漱石の言葉を借りるようではありますが、「苦しいですが、ぜひ読んでいただきたいです」。


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    近代日本文学, 長塚節,



     金沢生まれの詩人、室生犀星。犀星は多くの小説も書き残しています。小説では、詩人犀星の美しい感性が瑞々しい文章で綴られています。詩とは異なる魅力を感じることができる小説。手に取ってみてはいかがでしょうか。



     岩波文庫版には、「幼年時代」「性に眼醒める頃」、そして表題作の「或る少女の死まで」の三篇が収録されています。



    一行レビュー図書館



    一行レビュー図書館

     本の内容や魅力を箇条書きで簡潔に紹介する「一行レビュー図書館」です。

    ・室生犀星の自伝的小説
    ・金沢で生まれ、詩人を志し、そして東京へと旅立つ犀星
    ・その人生が小説の形で、美しく、瑞々しい筆致で描かれている

    ・金沢の雄大な自然、そして北陸の厳しい冬
    ・そこで育まれた詩人としての豊かな感性
    優れた色彩感覚とどこか宗教的な雰囲気が読者を魅了する

    ・「金魚」や「鯉」、「子供の表情」を捉える独特の色彩感覚
    ・詩人の美しき感覚世界を体験できる贅沢な描写
    ・性的衝動や、大切な人の死-それらに出会った時の心の揺れ動きも絶品

    ・おすすめの一篇は「性に眼醒める頃」
    ・十七歳の少年が、性的衝動に出会う時…
    ・「罪悪感」「秘密の共有」と絡まり昂ぶる恋心。
    ・誰もがきっと共感できる、瑞々しい恋のおはなし。

    ブクログ感想 & 引用



     ブクログに投稿した感想と本の中から印象的なフレーズを抜き出した引用のコーナーです。ブクログには他の方の感想も多数投稿されています。本との出会いを探しに行ってみてはいかがでしょうか。


    室生犀星の自伝的小説です。「幼年時代」「性に眼醒める頃」「或る少女の死まで」の三篇が収録されています。詩人犀星の美しい感性が織りなす瑞々しい文章と全体に漂うどこか宗教的な雰囲気に魅了されました。

    最も印象的な一篇として「性に眼醒める頃」を挙げたいと思います。小説としての完成度がとても高いと感じました。作品の中に効果的に山が設けられ、読者の感情の昂揚を誘います。自伝的小説とのことでしたが、この作品に関しては完成度の高い創作物を読んでいる気分になりました。

    恋心に眼醒める17歳の少年。芽生えたその思いが、「罪悪感」や「秘密の共有」といった刺激と絡みついて昂ぶりを見せていきます。彼女の雪駄にそっと足を差し入れてみるシーンなどはもうたまりません。作中で全身を火照らせる少年と同じく、読んでいる私の身体まで火照ってしまいました。性的衝動を瑞々しく、見事に綴ってみせた佳篇です。



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    何者をもその存在する事実は許さなければならない。たとえ盗人でも殺人でも、そうしたものの必然に生れてゆくことを根絶することはできない。ただ、その事実に愛をもてない。喜べない。 234ページ



     室生犀星 『或る少女の死まで 他二篇』 の紹介でした。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



    室生犀星, 岩波文庫, 近代日本文学,



    教科書 新春スペシャル

     前回に続き、夏目漱石の『坊っちゃん』を紹介したいと思います。きのうは新春のスペシャルドラマが放送されていましたが、ご覧になっていた方はおられるでしょうか。改めて、新年にふさわしい痛快な内容の作品だと思いました。

     今日は主人公である坊っちゃんの人柄にフォーカスしてみようと思います。発表から110年の時を経ても、いまだに多くの日本人に親しまれ続けている『坊っちゃん』。作品の中には、日本人であれば誰でも心が動かされるような、そんな日本人の「心のふるさと」とでもいうべき要素を見つけることができます。

    前編の記事はこちらから

    (約3,700字 +追加分750字)



    スペシャルドラマ放送!



     本のレビューに入る前に、きのう1月3日に放送されたスペシャルドラマについてコメントしておこうと思います。主人公の坊っちゃん役には嵐の二宮和也さん。放送する前から予感してはいましたが、二宮さんは見事にはまり役でした。二宮さんはアイドルとしてだけでなく、役者としても素晴らしい才能を持った方だと思います。特に二宮さんが熱弁を振るうときのまっすぐな目にはすごく惹きつけられます。そんなわけで熱く語るシーンの多い坊っちゃん役は最高のはまり役だったと思います。

     坊っちゃん以外のキャストも私としてはとても好みでした。山嵐役の古田新太さんは坊っちゃんと一緒に熱く正義を押し通してくださいました。赤シャツ訳の及川光博さんは嫌らしい役をやらせたら天下一品ですね。演じておられるご本人も何だかノリノリでした。そして、清役には宮本信子さん。・・・この配役が一番うれしかったです。個人的に清はこの小説で一番大切な人物だと思っているのですが、宮本信子さんが清の滲み出る愛と優しさを演じてくださいました。

     最後は原作と内容を変えていましたね。実は、原作はちょっと敗北感が残るというかやるせない終わり方になっているのです。ドラマは視聴者が鬱憤を晴らせるように上手くアレンジしてあったと思います。赤シャツへの鉄拳制裁!生徒たちから赤シャツへの仕返し!・・・というとても気持ちのよい内容でした。ドラマはドラマでとてもよいのですが、やるせなさが残る原作の終わり方にも大切なメッセージが込められていると思うので、原作を未読の方はぜひ読んでみていただけたらと思います。

     ・・・とドラマについて感想を語ったところで、後編の記事に入っていきたいと思います(この部分はドラマ視聴後に書き足しました)。後編の記事では、坊っちゃんにとって何よりも大事な存在、清についても触れています。

    古典的カリスマ



     改めて、坊っちゃんの性格を整理してみようと思います。曲がったことが大っ嫌いで、義理と人情に厚く、己の正義を貫き通す。読んでいて大変に心地よい人物です。そう、坊っちゃんは生粋の「江戸っ子」。多くの日本人がこの作品を読んでいて感じる快感の正体は、この「江戸っ子」へのあこがれなのではないでしょうか。

     最後、坊っちゃんと山嵐は憎たらしい赤シャツと野だに鉄拳で制裁を加えます。その論理と思考回路は極めて単純で直情的です。思考と行動が一直線なのも分かりやすいですね。改めて読み返してみると、私は夏目漱石がこのようなストーリーを作ったことに彼なりの主張があったのではないか、と思えてなりませんでした。

     夏目漱石と言えば、帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、イギリス留学も経験したエリート中のエリートです。この『坊っちゃん』の中で言えば、教頭の赤シャツが夏目漱石にもっとも近い感じがあります。そんなエリート中のエリートである漱石が、このような直線的なストーリーを書き、坊っちゃんのような単純明快なキャラクターを生み出しました。やはり、何らかの意思があってのことと考えるのがよさそうですね。

     前編でも引用した江藤敦さんの解説にもう一度立ち返ってみることにします。江藤さんは、主人公坊っちゃんの原形を江戸時代の文芸の中に見出します。たしかに、坊っちゃんのルーツが江戸時代の作品にあるというのは納得のいく考え方です。江戸時代の文芸には、伝統的な勧善懲悪のテンプレートがありました。坊っちゃんは、まるでそのテンプレートを丁寧になぞっているような、そんな作品だと思います。

    漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼刃にすぎない。人は決して、そんなものによっては生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代があたえた価値ではない。(解説:江藤敦さん)



     エリートの漱石は、文明の発展や近代化を論じた論客としても知られています。この『坊っちゃん』は近代化などとはまるで無縁の小説だと思って読んでいましたが、そうではなく、作品の奥底には近代化へのアンチテーゼがあると考えるのがよさそうですね。

     生得の言葉、生得の倫理観という表現がしっくりきます。この小説は理屈抜きに楽しめるのです。それはまさに、私たちがこの小説に感じる快感が「生得」のものであり、坊っちゃんのような江戸っ子に今も心の奥底でシンパシーを覚えているからだと思います。私たちはこの小説を読んで痛快になって、そして自分が日本人であることに立ち返っているのかもしれません。江戸時代が終わってから150年ほどたちますが、そのような快感が全く変わらないとすれば、これは日本人が受け継ぐDNAのようなものなのでしょうか。

    金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはいけない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働らくものだ。論法で働らくものじゃない。



     「そうだー!」と思わず掛け声をかけたくなるような衝動に駆られます。そのような衝動に駆られるとき、私の中でも無意識のうちに「日本人のDNA」が反応していたのでしょう。

    清き心



     『坊っちゃん』を語る時、もう一つ忘れてはならないのが坊っちゃんを小さい時からかわいがってくれたばあや、「清(きよ)」の存在です。清はその名前通り、清い心を持った優しい人物です。だからこそ、坊っちゃんはこんなにもまっすぐに育つことができたのでしょう。そして、まっすぐ育った坊っちゃんは、離れ離れになっても清のことをずっと想い続けています。

     ツイッターのフォロワーさんで、『坊っちゃん』が「おばあちゃん小説」だと言っておられた方がおられました。私はほほえましい気持ちになりました。「おばあちゃん小説」とはよく言ったもので、本当に坊っちゃんの清への愛がにじみ出ている小説です。作品全体がそんな愛に包まれていて、それが何度でも読み返したくなるような作品の魅力につながっています。

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     清は身分が低く、まともな教育も受けていない女性でした。しかし、小さいころから一心に坊っちゃんのことを愛してくれたのです。坊っちゃんは清にかわいがってもらったことを思い出しながら、清に思いを馳せます。

    今まではあんなに世話になって別段有難いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。(中略)清はおれの事を慾がなくって、真直な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。



     離れてみて初めてそのありがたみを痛感する・・・真理だと思います。小さいころからかわいがってもらったことのありがたみを、遠い愛媛の地に来て初めて身をもって知ったのでしょう。そして、坊っちゃんは人に感謝ができる立派な人間に成長していました。清は立派だと坊っちゃんは言いますが、私からすれば、坊っちゃんも清も同じくらい、後光がさすような立派な人物です。

     こういう風に、坊っちゃんが清を思い返す箇所は作中に何度も登場します。そのひとつひとつが温もりにあふれているので、読んでいるとまるで実家に帰った時のような安心感があります。家族というのは何者にも代えがたい存在なのでしょう。改めて、家族がいること、自分が帰る場所があることのありがたみに気付きます。

     もう一か所、私が『坊っちゃん』の中で大好きな箇所を紹介します。坊っちゃんが清に手紙を書こうかと思案する場面です。

    その時俺はこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心は清に通じるに違ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮らしていると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。



     清のことを思っているから、その気持ちは手紙を書かなくても伝わるはずだ、と思う坊っちゃん。彼の豪胆な性格と清を思う深い気持ちが同時に伝わってきます。便りがないのは何とやら、とは言いますが、なんとも坊っちゃんらしい発想で心が温まります。

    生まれ続ける「坊っちゃん」



     山嵐が学校を辞めさせられそうになる時、坊っちゃんは自分も辞表を出して義理を通そうとしました。「履歴なんか構うもんですか。履歴より義理が大切です」、そう言い切る坊っちゃんの姿に、私は思い出した人物がいました。

     栗原一止。小説、『神様のカルテ』シリーズの主人公です。「通らぬ正義は押し通せばいい」、そんな風に言っていた一止先生の姿と坊っちゃんの姿がぴったり重なった瞬間でした。

     神様のカルテの一止先生というキャラが坊っちゃんから影響を受けている可能性は、極めて高いと思います。シリーズの作者は夏川草介さんですが、夏川草介さんの「夏」は「夏目漱石」に、「草」は『草枕』(漱石の小説)に由来しています。そう、夏川さんは大の漱石好きなのです。そして、そんな夏川さんが生み出した一止というキャラも、常に『草枕』を持ち歩くような漱石好きの人物として描かれています(本当に夏川さんは夏目漱石を敬愛しておられるのですね)。

     ぶっきらぼうだけど人間味にあふれる一止先生のモデルはこの『坊っちゃん』にあるのではないかと私は想像しました。つまり、『坊っちゃん』は形を変えて生み出され続けているのです。『神様のカルテ』を読んで一止先生に親しみを覚えた人は、それはさかのぼれば「坊っちゃん」に親しみを覚えていることになるのです。

     これは分かりやすい例で、坊っちゃんに影響を受けて書かれた作品はもっとたくさんあると思います。もし小説を読んでいて共感できる主人公がいたとしたら、その主人公には「坊っちゃん」の血が多かれ少なかれ流れているかもしれません。曲がったことが大嫌い、まっすぐ、義理と人情に厚い・・・そんな人物で思い出す人はいませんか?そのルーツにはきっと(本の作者が意識していてもいなくても)「坊っちゃん」があるのだと思います。

     今も読まれ続ける小説、『坊っちゃん』。今も生まれ変わり続ける主人公、坊っちゃん。今年は漱石の没後100年の節目の年になります。改めて、彼の魅力を再確認してみるのはいかがでしょうか。



    オワリ

    『神様のカルテ0』 夏川草介さん

     記事中で紹介した神様のカルテシリーズの最新刊です。夏目漱石の作品を読んでいると、このシリーズが漱石からとても大きな影響を受けていることが分かります。神様のカルテシリーズが好きな方、そのルーツにある漱石の作品もぜひ合わせて読んでみてはいかがでしょうか。


    夏目漱石, 近代日本文学, 教科書,



    •   04, 2016 00:00
  • 教科書 新春スペシャル

     新年最初に紹介する本は、夏目漱石の『坊っちゃん』です。夏目漱石は今年没後100年を迎えます。節目の年ということで、今年は例年にも増して注目されることになるでしょう。

     没後100年を飾る最初のイベントとして、この『坊っちゃん』が今日1月3日にスペシャルドラマとしてオンエアされることになっています。『坊っちゃん』は新春ドラマにふさわしい、痛快で胸のすく小説です。そして、この作品は中学1年の教科書に掲載されている教科書文学でもあります。新年一発目の景気づけに、この小説を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

    (約3,300字)



    滑稽なキャラたち



    坊ちゃん

     新春からドラマ化される『坊っちゃん』ですが、改めて読み返してみると「ドラマ化するのになんてぴったりな小説なんだろう」と思って思わず笑みがこぼれてしまいました。そして、ドラマ化にぴったり、という印象を抱かせた原因は、あまりにも型通りに描かれる「キャラの滑稽さ」にありました。

     漱石が愛媛県の尋常中学校で教鞭をとっていた経験をもとに書かれた『坊っちゃん』。漱石の代表作の中でも、『こころ』などとは異なり、かなり通俗的な内容です。神経病をわずらっていた時期もある夏目漱石の小説というのは、読み手である私たちも頭を抱えてしまうような鬱屈さがあるのですが、この小説にはそのような鬱屈さは見られません。鬱屈どころか、とにかく痛快でテンポがいい。落語を聞いている時のような心地よさがあります。

     国民的小説なので、あらすじは解説不要ですね。先程も書いたように、キャラが型通りに描かれていて、大変滑稽なのが特徴です。坊っちゃん、赤シャツ、山嵐!頭の中に人物の姿がすぐに浮かんでくるくらい、キャラたちが典型的、漫画的に描かれていることが分かります。

     事なかれ主義の校長(狸)
     嫌味で陰湿な教頭(赤シャツ)
     教頭の腰ぎんちゃく(野だ)
     正義感はあるが、無鉄砲な主人公のよき理解者(山嵐)
     そして、人情味あふれる愛すべき江戸っ子、坊っちゃん

    「来年の夏に帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今に色々な事をかいてやる。さようなら」



     登場人物をおさらいし、主人公の坊っちゃんが家の下女だった清(きよ)に書いた手紙を引用してみました。こうして並べてみると、登場するキャラクターたちは本当に型通りの描かれ方をされていますね。見た目や特徴から分かりやすいあだ名をつけるというのも、キャラクターに愛着を持たせる常套手段です。改めて整理してみると、夏目漱石の徹底した通俗性の追求に気付きます。
     
     そんな漱石の通俗性の追求が、何度でも読み返したくなるような魅力をこの作品に与えていることが分かります。私は上に、「落語を聞いている時のような」や「漫画的」という表現を用いました。『坊っちゃん』に落語や漫画のような面白さを感じる理由を、前編ではもう少し詳しく見ていくことにします。

    天才の流麗



     『坊っちゃん』は大変通俗的な小説ですが、だからといって中身がスカスカだということはありません。1906年に発表され、110年経った今も読み継がれ、日本文学を代表する作品になっていることがその証拠です。たしかに通俗的で、難しい表現に頭を抱えることはありません。ですが、このような小説にも、夏目漱石の作家としての天才的な才能がいかんなく発揮されているのです。

     読んでいて直感で気付くのが、「この小説は短期間で、一気に書き上げられた作品だろう」ということです。一気に書き上げないと、この勢いは出ないと思います。夏目漱石が原稿用紙の上で勢いよく筆を運んでいた様子が目の前に浮かんでくるようです。

     作品から感じる通り、この作品は短期間で勢いよく書かれたものでした。岩波文庫版の解説で江藤淳さんが詳しく書いておられますが、原稿用紙215枚分ほどのボリュームがあるこの作品を、漱石はわずか1週間ほどで書き上げたそうです。

     そして、この作品は漱石が書いた原稿が現存しているのですが、原稿に推敲のあとがほとんどなかったことが明らかになっています。これは、漱石が勢いよく、まさに「気の向くまま」にこの作品を書き上げたことを証明するものです。キャラクターの書かれ方が典型的で、ストーリーもずいぶん直線的なのですが、この小説はなるべくしてそうなったのだと思います。勢いが途中でよどんでしまっては台無しでしょう。「一気に書き上げた」ことにこそこの作品の価値があるのだと思います。

    いずれにしても、このような執筆の状況を一瞥すれば、『坊っちゃん』の最大の魅力となって全編を支えているのが、一気呵成な創作力の奔出から生れた歯切れのよい文体のリズムであることは、まず議論の余地があるまい。 (岩波文庫版解説・江藤敦さん)



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     特に、主人公の坊っちゃんとよき理解者、山嵐との会話が読んでいて一番心地いいです。二人ともちょっと向こう見ずなところはありますが、正直者で正義感あふれる好漢です。思わず手拍子でも打ちたくなるような小気味よい会話が続きます。

    「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
    「じゃ何と云うんだ」
    「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガ―の、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」



     山嵐が教頭の赤シャツをこき下ろしている場面です。上にも書いたように、夏目漱石が一気にこの作品を書き上げたことがよく分かる勢いのある描写ですね。こういう描写の1つ1つも、とことんテンポよく、漫画的に書かれていることに気付きます。その徹底ぶりは「通俗小説の王様」とでも呼びたくなるような見事なものがあります。

    典型はあこがれ



     『坊っちゃん』は、キャラクターもストーリーもとても典型的な小説であることはここまでで述べてきました。「お約束」とでも言えそうな、悪く言えば単純で直線的な、よく言えば痛快で伝統的な展開が続きます。

     「悪く言えば単純で直線的な」と私は書きました。自分で書いておいて申し訳ないのですが、これは全く持って的外れな批評だと思います。『坊っちゃん』を読んで単純で直線的だと批判する人はほとんどいないでしょう。むしろ、単純で直線的なものを最後まで書き通したことのすごさ、そして、単純で直線的なキャラクターとストーリーの先に見えてくる、私たちの「テンプレートへのあこがれ」に気付くことができます。

     話は変わりますが、藤子・F・不二雄さんの作品がいい例です。『ドラえもん』が一番有名ですが、藤子さんの作品はどれもキャラクターの設定がとても似通っていますね。のび太のようにひ弱だけど憎めない少年、ジャイアンのようないかにもなガキ大将、スネ夫のようなキザで嫌味なやつ・・・同じようなキャラクターがどの作品にも登場することにすぐ気付けると思います。

     それを、「藤子・F・不二雄の作品はどれも似通っていてつまならい」という人は少数派でしょう。「どれも似ているけれど、どれにも親しみが持てる」と思う人のほうが多いのではないでしょうか。それは、私たちの頭の中には、どこか安心して寄り添いたくなる「キャラクターのテンプレート」「ストーリーのテンプレート」があるからです。そういうテンプレートをしっかり掴まえた作品は、時代を経ても、国境を越えても全く魅力が色あせません。私は、『坊っちゃん』にも『ドラえもん』と同じ匂いを感じます。

    嘘を吐いて罰を逃げる位なら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰は御免被るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。



     主人公の坊っちゃんが子どもたちのいたずらに腹を立て、罰を与えにゃならんと憤慨する場面です。坊っちゃんというのは、異常なほどの正義感の持ち主で、曲がったことが大嫌い。この短い引用だけでも、作品から感じる「心地よさ」が伝わるのではないでしょうか。

     どうして私たちはここまで『坊っちゃん』にあこがれ、この作品を読み続けるのでしょう。後編では坊っちゃんの言動や行動を詳しく見ていきながら、そこに抱く私たちの「あこがれ」を明らかにしていきたいと思います。



    オワリ

    『草枕』 夏目漱石
     
     このブログで以前紹介した夏目漱石の作品です。こちらも『坊っちゃん』と並ぶ代表作ですが、『坊っちゃん』とは異なり、難解な文と思想に頭を抱えることになりそうです。



    夏目漱石, 近代日本文学, 教科書,



    •   03, 2016 00:00
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