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 カテゴリ「人文科学」のまとめページです。このブログで紹介している人文科学の本を一覧で掲載しています。リンクからそれぞれの本の書評をご覧になることができます。蔵書は少ないですが、一冊一冊、心を込めて紹介するようにしています。ぜひご覧ください。掲載順は人文科学の中のジャンル別です。

 この図書館では、とくに優れていると感じた本について、「プラチナ」「ゴールド」「シルバー」の3段階で「殿堂入り」としています。殿堂入りとした本には、作品名と作者名のあとにランクを記しています。ぜひ、本選びの参考にしてみてください。

 あなたの、あなただけの一冊が見つかりますように。



人文科学



◆世界史
『そうだったのか!現代史』 池上彰

◆民俗学
『忘れられた日本人』 宮本常一(プラチナ)

◆言語学
『国語は好きですか』 外山滋比古
『翻訳語成立事情』 柳父章

◆文学論
『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 石原千秋
『三島由紀夫-豊饒の海へ注ぐ』 島内景二


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  •   01, 2015 00:00

  •  さて、今日はブックレビューをお届けします。前々回のレビュー、#4 「密やかなライフヒストリー」では小川洋子さんの「人質の朗読会」を取り上げ、ライフヒストリーについて考えてみました。そして前回のレビュー、#5 「命、みなぎる」では三浦しをんさん「神去なあなあ日常」で日本の村社会をのぞいてみました。レビューを書いていて気付いたのですが、この「ライフヒストリー」と「日本の村社会」という2つのキーワードを両方とも満たす作品があるんですね。それが、今日お届けする宮本常一「忘れられた日本人」という本です。早速見ていきましょう。以下、「忘れられた日本人」のレビューです。

    忘れられた日本人 (岩波文庫)
    宮本 常一
    岩波書店
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    宮本常一の見た日本



     宮本常一さん(1907~1981)は日本の民俗学者です。民俗学者としては、柳田国男さんに次いで有名な方かと思います。柳田さんに影響を受けて民俗学の道に進んだ宮本さんは、その研究人生の大半を日本の村へのフィールドワーク(現地に出かけ、調査すること)に費やしました。そんな彼の代表作であり、集大成ともいえるのがこの「忘れられた日本人」です。

     日本の村社会というと、現代では否定的なコンテクストの中で使われることが多いかと思います。閉鎖的で排他的という特徴を持つものとして論じられ、「村八分」などの慣習が現代社会にも残る日本人の悪習として批判されることも多いです。閉鎖的で排他的な村社会は、宮本さんの綿密な描写によってこの本でも語られています。しかし、それは一概に否定すべきものなのでしょうか・・・?


    見事な「連帯」



     たった5ページしかないのですが、「子供をさがす」 という短篇があります。ある村で子供が行方不明になり、村人総出でその子供を探すという話です。この話から見えてくる村の特徴は3つあります。

    「村の人たちが、子どもの家の事情やその暮し方をすっかり知り尽くしている」様



    「だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができている」様



    村の者とよそ者の温度差



     子供がいなくなったという一大事に、村の人たちが驚くべきチームワークを発揮するんですね。いつも酒におぼれている男が、真っ先に山奥に子供を探しに行くなど、村の人々の連帯の強さには目を見張るものがあります。そして、もっとも驚くべきは、それが誰の命令ということでもなく自然に連帯しているということ。村全体で、一つの家族といったら分かりやすいでしょうか。いや、当時の村の連帯は、今の家族よりもはるかに強かったと感じさせるのです。

     その一方で、よそ者とは温度差があります。村の人たちが必死に子供を探す間、よそ者たちは噂話に夢中になっていました。ここに、村の人々との絶対的な壁を感じさせます。揺るぎない連帯が、排他へ。排他が、さらなる連帯へ。築き上げられた連帯が、閉鎖的空間へ。日本の村社会の構造がよく分かります。

    その歴史に、意味はあるのか



     村の中には、生まれてから一度も村を出たことがなく、おそらくそのまま村で生涯を終える人もいます。宮本さんは、そんな人にも目を向け、話を聞きました。そして、「一言も逃さない」とばかりにその人のライフヒストリーを丁寧な記述で描いていくのです。

     村から一度も出ないで生涯を終える人の歴史に、意味はあるでしょうか。歴史を大局的に見れば、全くないと言ってよいと思います。村人以外でその人を知る人は誰もいないのですから。宮本さんが取り上げなければ、その人は誰にも知られることなく亡くなっていったでしょう。

     ・・・。今、重要なことを書きました。宮本さんが取り上げなければ、その人は誰にも知られることなく亡くなっていった、と。そうなんです。ここにこの作品の価値があると思います。誰にも知られるはずがなかった歴史を自らの人生をかけて描き続けた宮本さん。その積み重ねが、「日本人」の姿を形作っていきます。

     でも、そんな人の歴史には何の意味もないじゃん。そんな風に思う人もいるかもしれません。ですが、こんな記述があります。宮本さんが祖父について書いた部分です。

    「納得のいかぬことをしてはならぬ」というのが祖父の信条で、蚕をこうて金をもうけることは大切だが、そのために、米麦をつくる場所をせまくすることには賛成できなかった。だから自分は古いことをまもったが人には強いたわけではない。自分だけは自分の納得できる生き方を生涯通したかったのである。



     人々の歴史を追い続けた理由は、ここにあるのかと思いました。それぞれの人が、自分の信念を持って生きている。例え歴史に何の影響も及ぼさなかったとしても。宮本さんを駆り立てたのは、一人一人が持つ「生き様」だったのだと思います。

    ◆殿堂入り決定!

     「最果ての図書館」は『忘れられた日本人』を「プラチナ」に認定しました。おめでとうございます!


    宮本常一, 岩波文庫,



    •   25, 2015 21:47

  •  大学にはいろいろな専門分野の教授がいて、文系の私は主に文系の教授と関わっています。数ある専門の中で、私が一番苦手というか、手強く感じているのは「言語学の先生」です。なぜかというと、言語学の先生の前では迂闊に言葉を発することができないからです。

    国語は好きですか
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    外山滋比古
    大修館書店
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     この方は、日本で5本の指に入るくらい有名な言語学者でしょうか。外山滋比古(とやましげひこ)さん。国語の試験問題によく登場される方です。

     国語の試験で何度も見かけた名前ですから、私はタイトルを見て勘違いしていました。これは、教科の国語について書いた1冊だろうと思い込んでいたのです。実際は教科の国語ではなく、母国語について書いた1冊でした。この方の文章には学生時代散々苦しめられてきましたが、やはり今回も、私はボコボコにされてしまったのでした―。



    正しい日本語とは



     言語学の先生には大嫌いな言葉があるようです。

     正しい日本語
     美しい日本語
     日本語の乱れ

     ついつい使ってしまいそうですが、この言葉を絶対に言語学の先生の前で使ってはいけません。うっかり使おうものなら、その時点で単位が吹き飛んでもおかしくありません。
     
     日本語の「正しさ」とは何か、一生かけて研究しているのが言語学の先生です。一生かけてもその正しさの結論は出ません。素人の私たちが何も知らずに「正しい日本語」などと言ってしまうと、それは言語学の先生にとっては最大の侮辱になります。

     美しい日本語や日本語の乱れ、といった言葉も実はとても「怪しい」です。「若者の言葉が乱れている!」などとはよく言われますが、いろいろと反論したくなる意見です。何を基準に「正しい」としているのか、「美しい」としているのか、「乱れ」としているのか・・・考えたらきりがありません。

     こういうことを悶々と考えていると、文章が書けなくなります。おそらくこれまで私が書いてきた文章の中にも「まずい」表現はたくさんあり、私は日本語を冒涜している1人、ということになってしまいます。

     前置きが長くなりましたが、要するに、自分たちの言語なのに、私たちは母国語についてほとんど理解できていないということです。「これまで日本語を全て正しく理解し、使ってきました」そんな風に言える人はいないと思います。

     この本では、そういったことについて、外山さんが突き詰めていきます。外山さんは、母国語を「文化的ナショナリズム」と位置づけ、私たち日本人は自分たちの母国語にアイデンティティーがない、と主張しているのです。

    話せる先生がいない



     私は国語の授業が大好きでした。たくさんの作品に触れたことが、今の自分を作っていると思います(「教科書への旅」というコーナーを始めてしまうくらいです)。ですが、たくさんの作品に触れたということと、日本語を理解するということは実は全くの別物です。

    文章をありがたがり、おもしろがる社会だから、文学が好まれる。小説が最先端の文化であるような錯覚をもつのである。(中略)文学国語は文学青年の気に入るかもしれないが、ことばの力を身につけるのには適切であると言い切ることができない


     国語の授業といえば、「読む・書く」がほとんどでした。そんな授業を受けてきた私たちですから、どうしてもパワーバランスはそちらに傾いてしまいます。実際、私に当てはめてみます。本を「読んで」、ブログにレビューを「書いて」、他の人のブログを「読みに」行って、何か面白そうな本があれば「書き」留めて・・・。

     読むと書くばかりです。話す・聞くが全くありません。

     「書く方は得意なのですが、話すのは苦手で・・・」なんて私はついつい言い訳をしてしまいますが、それも当たり前です。こんなに読む・書くに偏っていれば、当然「書くことは得意、話すことは苦手」になってしまうでしょう。

     学校で「話し方教育」をすることが必要、と筆者は訴えます。散々外国の真似をしてきた日本が、「話す」ことの教育だけは無視してきたんだ、と痛烈に皮肉を言っています。

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    日本人の英語教育



     その後、話は小学校の英語教育へ。筆者はこれに強く反対しています。

    自分の国のことばを放り出して、よその国の言葉をかじるのは、人間として、疑問である。まず、しっかり国語の力をつける。そして外国語を学ぶ。それが順序である。


     典型的な反対意見です。ここだけ読んでも、そんなに訴えかけるものはないと思います。ですが、この本を1冊読む中でここにたどり着くと、意味は変わってきます。

     小学生に英語教育を行っても、質が劣悪だ、というのです。上で見たように、日本人は話す・聞くをほとんど無視してきました。学校の先生も、そんな教育を受けてきた人たち。筆者は、そんな先生たちを「話せない先生」と呼んでいます。

     日本人の英語教育も、当然のように「読み・書き重視」になってしまいました。英語の試験で、「話す」を導入しようとしても、現実的には難しいところがあります。この問題は、今盛んに議論されています。

     とても恐ろしくなりました。日本人は自分たちの言語に対するアイデンティティーが希薄だ、と指摘されます。読む・書くに偏った能力も気になります。そんな中で、小学生に中途半端に英語を教え、その英語がこれまた読む・書くに偏っていくというのですから・・・。

     日本語は、今後どうなるのでしょうか?

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    んだ後で、タイトルの重みに気付きます。 

     私にとって、一番手強い言語学。その中でも日本語学と言うのは地獄を見るような学問です。自分が毎日読み、書き、話し、聞いている日本語というものが、「いったい何なのか」と尋ねられるのですから・・・。
    外山滋比古,



    •   15, 2015 23:25
  •  よく、読書をする人のことを「読書家」と言います。でも、私自身はあまりこの言葉を使いません。「使えません」といった方が正確でしょうか。代わりに、「読書好き」という言い方にとどめています。

    名作の書き出し 漱石から春樹まで (光文社新書)
    石原千秋
    光文社
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     まだまだ「読書家」は名乗れないなあ、と痛感させられるのが、このような1冊を読んだときです。久しぶりに新書の紹介をしようと思います。選りすぐりの近代文学の書き出しから作品を論じていく「名作の書き出し」という1冊です。筆者が用いているのは、文学解釈で用いられている有名な論の1つ、「テクスト論」です。



    目から鱗のテクスト論



     みなさんは小説・文学を読むとき、どんな読まれ方をするでしょうか。私の場合は、これまでのレビューを読んでいただけば分かるように、「本の向こうにいる作者を想定した読み」をすることが多いです。

     この作者は作品を通して何を伝えたいんだろう
     この作者はどんな思いでこの文章を書いたんだろう

     そんなことを考えることが多いです。自分のレビューを見返して思ったのですが、作者のインタビューや他の作品などを引用していることが多いように思います(前回の小川洋子さんもそうでした)。作者を知ることにより、作品を知ろうとしているのでしょう。

     「テクスト論」は、そんな読みとは真逆の立場です。簡単に言えば、「何が語られているか」に着目した読みです。文章(テクスト)そのものを論じるのであり、そこに込められた作者の意図・思いなどといったのものは一度切り離して考えています。

    僕の専門は漱石研究だが、漱石研究と言っても、伝記的事実を明らかにしたり、伝記的事実や漱石の小説以外の文章や資料と絡めて小説を読む方法は拒否している。つまり、解釈するための時代背景やコード(解釈の枠組)はどこからでも持ってくるが、作者だけはかたくなに拒否して、小説だけを読む「テクスト論」という立場を採っている。



     普段小説を読むとき、「テクスト論」の立場に立って読むことはほとんでありません。文章に何か明確な特徴がある時はそこに気が向くかもしれませんが、そうではない小説なら、やはり「作者」を考えてしまうでしょう。この本は、近現代文学の名作15作品を、テクスト論の立場から論じています。普段はほとんど意識しないテクスト論・・・目から鱗の解釈です。

    調律のプロセス



     作品の書き出しに注目して本を読まれる方は多いと思います。波一つ立たない水面に、「書き出し」という石が投げ込まれます。静かなさざ波を立たせることもあれば、いきなり大きなうねりを生じさせることもあります。楽しみと緊張が高まる中、作品は必ず「書き出し」から始まります。

     その書き出しを通して、読者は「調律」をしている、と筆者は論じています。

    小説の書き出しを読むとき、僕たち読者はその小説に対する自分の態度を決めるために、さまざまなことを読み取ろうとする。そして、まさにそのときに僕たちが身につけている言葉の意味と小説の言葉の意味との差異にとまどいながらも、書き出しを読んでいるわずかの間に自分をその小説の理想的な読者として「調律」しているのである。


     その調律までのプロセスを、この本では丁寧に追っています。調律することにより、理想的な読者=自分なりの読みをする読者を目指す、と言うのです。ここに紹介されている15のうち、私が読んだことのある作品は半分以下でした。それでも、この本にはむさぼるように読める面白さがありました。それは、筆者が「自分なりの読み」にたどりついているからでしょう。他人の「自分なりの読み」に触れる、こんな面白いことはありません。

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     今から、とてもややこしいことを書きます。ここまで読んでくださった方、どうかご注意ください。

     第12章では吉本ばななさんの「キッチン」という作品が紹介されています。この作品の書き出しはこうです。

    私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。



     正直に告白します。私がこの作品を読んでいたとして、この書き出しにはそんなに気を払わないと思います。しかし、この文章には「人の心にひっかかりを与える何か」があることが、文学研究の世界ではすでに分析されているそうです。この書き出しが2通りにとれることを筆者は指摘します。

     私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う
    →私は自分がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う
    →私がこの世で一番好きな場所は台所だと私は思う

     ややこしくなってきましたか?よくよくこの2つの文章を見た時、「思う」の主体に「私は」が加えられていることに気付きます。原文では、「思う」の主体が限定されていませんでした。それが、ひっかかる何かになっていたのですね。

    いま、試みに示してみた冒頭の一文の書き換えは、結局一つのことをやろうとしている。いずれも、文章を安定させるために「思う」の主体を「私」に限定させようとする作業である。この作業から見えてくるのは、冒頭の一文の「思う」の主体はどこにもいない誰かだということだ。(中略)「私」のアイデンティティーがいかに不安定かが、この冒頭の一文から伝わってくる。そして、「私」の底なしの孤独が伝わってくる。



     これが「テクスト論」・・・!すごいです。作品を読んだことがなくても面白い、と書きましたが、その面白さを少し体験していただけたかと思います。ただし、ネタバレが多いです。これから読もうと楽しみにしている作品がリストにある場合は、先に作品を読んでからこちらを読んだ方がよいと思います。私は夢中になって読んでしまい、読んだことのない作品のネタバレもしっかり読んでいたことに、読後に気付きました 笑。

    テクストの可能性



     紹介されている作品で一番最近読んだのは谷崎潤一郎の「痴人の愛」でした。冒頭にある「類例」や「関係」と言う言葉を抽象化して見たり、「痴人の愛」を漱石文学のパロディーだったのではないか(!)と論じたり、テクスト論の面白さを堪能します。

     文学作品ばかりか・・・と思った皆さん、後半の作品は現代文学が中心です。村上龍さんに山田詠美さん、吉本ばななさんに江國香織さん、そして村上春樹さん。知っている作品・好きな作品・気になる作品が必ず一つはあるかと思います。

     「名作」を選んだとのことですが、筆者があとがきで指摘しているように、名作の定義が大変難しいです。実際、ここで紹介されている作品に「性」をテーマにした作品が多いことに気付きます。筆者の好みはかなり反映されているのでしょう。

    「名作」という概念は、自分の好みの偏差を測る座標軸のようなものかもしれない。そこで、僕の読み方に共感し、「これはおもしろい小説かも」と思って、それをあなたの「名作」リストに加えてもらいたら、僕としてはこれほどの幸せはない。



     「これはおもしろい小説かも」という出会いがたくさんありました。感謝しております。そして、「テクスト論」の面白さと可能性に触れることができたのもよかったです。機会があれば、ブックレビューで「テクスト論」の読みに挑戦してみたいと思います。ずぶの素人なのでどんなレビューになるか分かりませんが、いろいろと実験をしてみるのも、読書の面白さでしょう。

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    目のテクスト論!テクストから広がる文学の新たな可能性―。
     
     「本を読んでいるんだからそれでいいじゃん」と思われる方もいるかもしれません。ですが、私はそうは思いません。この本のような「読み」の技術を高めていけば、本の可能性、読書の可能性はどんどん高まっていきます。それによって「本がもっと好きになる」としたら、やっぱり私は読みの技術についてもっと学びたいと思います。


    新書,



    •   27, 2015 23:52