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ないた赤おに (ひろすけ童話絵本)
浜田 廣介
集英社
売り上げランキング: 375,835


れた涙が教えてくれること

 今日は、名作絵本「ないたあかおに」を紹介します。この絵本には、本当にたくさんのことが詰まっています。感想や解釈はさまざまだと思うのですが、ここでは私の解釈を紹介します。

 「つり合わない2つのもの」と題して、テーマを2つに絞ってみました。一体、何と何がつり合わないのでしょうか。今日は、あらすじの紹介もたっぷりと交えながら書いていきます。読書感想文にも向いている題材だと思いますし、参考になる部分もあるかもしれません。本のことを知っているという方も、知らないという方も、ぜひお付き合いください。



カフェラテ その 友情

 この本のテーマの1つに、「友情」が挙げられます。赤おにと青おにの間に何があったのか、もう一度振り返ってみることにしましょう。

 主人公の赤おには、その容貌に見合わず、優しい心の持ち主です。人間と仲良くなりたい、赤おにはその一心でこんな立札を作ったのでした。

(引用)
ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。
ドナタデモ オイデ クダサイ。
オイシイ オカシガ ゴザイマス。
オチャモ ワカシテ ゴザイマス。



 しかし、立札だけでは人間との距離を縮めることができませんでした。やはりその見た目の恐ろしさから、人間は赤おにに近づいてはくれません。心を開こうとしても、分かってもらえない。そんな赤おにのやりきれない気持ちが、前半では描かれます。

ないたあかおに2

 落ち込む赤おにのもとに、彼の友人の青おにがやってきます。人間に分かってもらえないことを青おにに話す赤おに。すると、青おには「ある提案」をします。

 この本には、「赤おにと青おにのそれまで」が描かれていません。彼らの仲がどれほどよかったのか、説明する記述がないのです。青おには落ち込んでいる赤おにのもとにふらりとやってきて相談に乗り、そして提案をします。

 2人の友情について一切説明をしないのは、とても上手い仕掛けだと思います。その友情について分かるのは、このあとの青おにの提案、そして最後の場面です。彼らのこれまでのことが一切分からなくても、読者は彼らの間にあったものについて、後に痛いほど感じることになります。

 青おにの提案は、自分が人間のもとで暴れているところに、赤おにが助けに来ることによって、赤おにが人間の味方だと分からせるというものでした。自分の望みをかなえるために友達を踏み台にするというのです。当然赤おには反発するのですが・・・

(引用)
「ふうん、うまい やりかただ。しかし、それでは、きみに たいして すまないよ。」
「なあに、ちっとも。水くさい ことを いうなよ。なにか 一つの 目ぼしい ことを やりとげるには、きっと どこかで いたい おもいか、そんを しなくちゃ ならないさ。だれかが ぎせいに-身がわりに なるので なくちゃ できないさ」

なんとなく、ものがなしげな目つきを 見せて 青おには、でも、あっさりと いいました。



 ここは、この本で一番大事な部分でしょう。赤おにから相談を受けてから、提案をするまで、青おには「決意の瞬間」があったはずです。青おには、この話の結末までを、ある程度ここで見通していたと思います。自分がもう、赤おにとは会えなくなることもあるいは見通していたかもしれません。

 何かを成し遂げるために、痛い思いをしなければいけない。何かを犠牲にしなければならない。確かにそうですし、私たちが普段の生活の中で知らずのうちにやっていることでもあります。ですが、「友達の望みをかなえるために、自分を犠牲にする」となると、一気にハードルは高くなります。そのハードルを、青おには赤おにから相談を受けているほんの短い間にためらわずに乗り越えることを決意しています。

 しかも、表向きは「あっさり」と言っているのです。赤おにに悟られないため、あるいは心配をかけないためでしょうか。どこまでも強く、すさまじい覚悟です。私がこんな推測をするのは、たった一言、「ものがなしげな目つき」という部分があるからです。青おにがどれだけ赤おにを思っていたか・・・そんなことはこの部分が全てを語っていて、説明する必要がなかったことが分かります。

ないたあなおに4

 青おには、赤おにのもとを去っていきました。最後の一通の手紙を残しています。赤おには人間と仲良くなることができました。その関係を壊さないためにも、青おには赤おにの前に出るわけにはいきません。

(引用)
「ソウ カンガエテ、ボクハ コレカラ タビニ デル コトニ シマシタ。ナガイ ナガイ タビニ ナルカモ シレマセン。ケレドモ、ボクハ イツデモ キミヲ ワスレマイ」



 彼らの間に深い友情があったことは疑いがありません。では、どうしてこんな結末になってしまったのでしょうか。

 友情は、互いの気持ちがあって成立するものです。ですが、互いの気持ちが「つり合っている」とは限りません。自分が相手のことを思っている以上に、相手は自分のことを深く思っていることがあります。それとは反対に、自分が相手のことを深く思っていても、相手の思いはそこまでではない、ということもあるかもしれません。

 互いの思いがつり合っていないから、友情は難しくなります。儚く、そして脆くなります。だからこそ、すれ違いが生まれ、衝突が生まれ、わだかまりが生じます。

 でも、忘れてはいけないこともあります。つり合っていないから、儚くて脆いからこそ、「友情」はかけがえのないものになる、ということです。つり合っていないことも、友情の大事な定義の1つなのです。

 このお話では、青おにの思いがあまりにも深すぎました。赤おには、青おにが去っていくことなど想像もしていなかったようです。友ともう二度と会えなくなることを選んでまで、友の思いをかなえてやろうとする-青おににそうさせるほど深い「友情」とは何だったのだろうか、と考えてしまいます。

カフェラテその 正しさと強さ

 この話はともすれば美化されがちなのですが、正直私は全てを受け入れられているわけではありません。具体的に言うと、人間に分かってもらうために、青おにが考え、赤おにと実行した手段を、私は受け入れることができません。

ないたあかおに3

 人間に赤おにの本当の気持ちを分かってもらうために、2人は一芝居うちました。青おには、人間の住む村に下りて行って、人間の家で思い切り暴れたのです。つまり、「暴力」を働いたのです。そして赤おには、そんな青おにを成敗するふりをして、青おにをぶちました。つまり、「暴力」を働いたのです。

 「暴力」と「暴力」。この手段を支持できるでしょうか。私はできません。暴力が正しい手段になるわけがないことを知っているからです。暴力という誤った手段が、2つも重なっているのです。

(引用)
「だめだい。しっかり ぶつんだよ。」
「もう いい。早く にげたまえ。」
そう、赤おには 小さな 声で いいました。



 この場面は注目です。赤おにも、そして青おにもとにかく「優しい」のです。ここは2人の優しさが交錯する場所でもあります。優しい2人が、互いに「暴力」という手段に訴えている-2人が選んだこの方法は、この点で深刻な矛盾をはらんでいるのです。

 ではなぜ彼らは暴力という手段を選んでしまったのでしょうか。それは、暴力が「強い手段」だからです。暴力は、「間違っているが、強い手段」であると言えます。

 最初、赤おには自分のことを分かってもらうために、立札を作りました。優しい優しい赤おにです。選んだのは、暴力とは正反対の「対話」という手段です。しかしこれは、「正しいが、弱い手段」であると言えます。

ないたあかおに1

 立札を作って自分のことを分かってもらおうする、その手段は人間に受け入れてはもらえませんでした。人間が鬼に対して抱いているイメージが、両者の間の厚い壁となります。この話は、友情以外にもう1つの見方ができると思います。「正しいが、弱い手段」への挫折から、「間違っているが、強い手段」への変化、という見方です。

 つり合わないものの2つ目が見えてきました。正しさと、強さはつり合いません。だからといって、彼らを責めるかと言うと、そういう気にもならないと思います。赤おにがどれだけ心を開いて訴えかけようとしても、人間におにを理解することは不可能だったでしょう。繰り返しますが、対話は「弱い手段」だからです。

 正しいのに、弱い。間違っているのに、強い。この矛盾にどう立ち向かえばよいのでしょうか。自分が話し合おうと思っても、相手がより強い「暴力」で向かってきたら?あるいは、話し合おうと思っても、相手が絶対に理解してくれない状況にあったら?・・・難しいですね。

 青おにが赤おにのもとを離れ、赤おには失って初めて彼の思いの深さに気付く、というやりきれない結末になりました。残酷なことを言いますが、「暴力と暴力」という手段を選んだ時点で、結末は決まっていたのかもしれません。暴力から生まれたハッピーエンドを、私は見たことがないからです。

(引用)
赤おには、だまって それを よみました。二ども 三ども よみました。戸に 手を かけて、かおを おしつけ、しくしくと なみだを ながして なきました。



 青おにの思いを知って泣いたのかもしれません。もう青おにに会えなくなったことに泣いたのかもしれません。あるいは、いくら青おにから持ちかけられたこととはいえ、大切な友達を殴ってしまったことに泣いたのかもしれません。

 やっぱり、彼らは優しいのです。優しい彼らに、私は「つづき」を与えたいなと強く思いました。優しい彼らに、「暴力」や「偽り」は似合いません。彼らには違うものを与えて、人間と分かり合うことよりもっと大事なものを取り戻してほしいと思います。

 こんなに「つづき」が欲しいと思った物語は初めてです。



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  •   28, 2015 23:24
  • 手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)


    を取って、手を握って

     動物が出てくる物語を読むたびに、私は「動物と人間」というテーマの深さに気付かされます。それは時に人間の愚かさであり、それは時に、人間と他の動物の垣根を越えた優しさであり、温かさであり。嘆くことがあり、悲しむこともあります。それでも最後には、「この物語を生み出したのは人間なのだ」ということを思い出して、希望に包まれるのです。

     さて、以前紹介した宮沢賢治からの作品からのつながりで、新美南吉の童話を紹介しようと思います。この作品も動物が出てくる物語の1つですが、私は作品の最後に出てくる「あるつぶやき」が、この物語を名作たらしめていると思っています。

    (約3500字 / 約7分)



    きつねの物語に通る軸



    手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)
    新美 南吉
    偕成社
    売り上げランキング: 1,275


     新美南吉の『てぶくろを買いに』です。新美南吉と言えば一番有名な作品は『ごんぎつね』だと思いますが、こちらは2番目に有名と言ってもよいくらいの名作童話で、奇しくも『ごんぎつね』と同じく、きつねが登場する物語です。

     『ごんぎつね』もそうですが、彼の童話は決してきつねだけを描いているわけではない、ということに気付きます。見えてくるのは、「きつねと人間」という1つの軸なのです。『ごんぎつね』では、きつねと人間の悲しいすれ違いが描かれました。最後に火縄銃の青い煙が昇るシーンは、目を閉じれば浮かんでくるくらい、私の心に深く刻み込まれています。それくらい、悲しく、深い傷跡を残したラストだったのです。

     『ごんぎつね』の悲しい結末と比べれば、この作品にはまるっきり反対の、包み込まれるような温かさを思い浮かべられる方が多いのではないかと思います。たしかにそうです。戸口を通して差し出された子ぎつねの手に人間がそっとてぶくろを持たせてやる有名なシーンは、温かさと優しさとともに想起させられます。冬のかじかんだ手にはめる「てぶくろ」の温かく優しいイメージが、このシーンの情緒を一層掘り起こしているとも言えるでしょう。

     しかし、温かさ「だけ」ではないのです。人間ときつね、という新美南吉がこだわったであろうテーマにもう一度立ち返ってみます。この作品からは、『ごんぎつね』ほどではありませんが、「苦味」もたしかに香ってくるのです。

    怖くて、恐ろしい向こう側



     私も、絵本で読んだ上述の「温かい場面」のことを一番よく覚えていました。人間ときつねの手が交差するあの場面から、他者を思いやる心であったり、さりげなくも温かい心遣いといったことを教わったものです。しかし、改めて読み返してみると、目に留まったのは「人間に怯える母ぎつね」の姿でした。

    「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ。それどころか、掴まえて檻の中に入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ



     昔、人間に追われて怖い思いをしたこともある母ぎつねです。その時の傷は、決して癒えないものだと思います。母ぎつねは自分で町に出ていくことができません。どうしても足がすすまないのです。作品全体を通じて、母ぎつねの抱える深い傷、深いトラウマがひしひしと伝わってきます。

     ついつい人間目線になって物語を読んでしまいますが、きつねの目線になってみることも大切でしょう。母ぎつねにとって、人間とは得体のしれない存在です。そこに昔の恐ろしい思い出だけがこびりついているとなれば、足がすくむのも当然でしょう。

     作品の後半では、母ぎつねの思っているものとは違う、別の人間像が示されます。簡単にまとめると、「人間はそんなに怖い存在じゃないよ」ということが示されるのです。きつねの母親が子を想うように、人間の母親もまた子を想う・・・という描写は特に印象的です。

     しかし、母ぎつねは人間のそんなもう一つの面を知ることがない。これが重要だと思います。母ぎつねは結局町に出ることはできませんでした。ずっと抱いている「怖い人間像」は、そう簡単には覆らないのです。だから、母ぎつねは最後にこうつぶやきます。

    栞

    お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。



     とまどい、疑心暗鬼。そういった感情がよく伝わってきますね。『ごんぎつね』とは違った趣ですが、私はこの最後の部分に何とも言えない余韻を感じ、しばしページの最後で固まってしまいました。

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     「ほんとうに人間はいいものかしら」

     さあ、何と答えたらいいでしょうか。私は答えに詰まります。「うん、人間はいいものなんだよ。人間は優しいんだよ」、そう答えましょうか。それとも、「いいや、人間は怖いから、決して近付いちゃだめだよ」、そう答えましょうか。

     もし、この母ぎつねが勇気を振り絞って町へ下りていったとしたら、どうなったでしょう。優しい人間が、頭をなででくれたでしょうか。それとも、残忍な人間が、有無を言わさず撃ち殺してしまったでしょうか。

     ・・・・・・「分からない」のです。適当なことを、と思われるかもしれませんが、ここでは「分からない」が正解なのではないでしょうか。

     分からないから、怖いのです。それは、この母ぎつねに限ったことではありません。私たち人間も、全く同じです。分からないから怖いということに心当たりはないでしょうか。私はいつも怖いです。目の前にいる人が、何を考えているか分からないからです。本当はどう思っているか、分からないからです。

     他者を思いやる心や、心を通わせる大切さ。この本からはそういったことを読み取ることができます。しかし、それだけでは足りないと私は思います。「思いやり」「分かり合い」などと言葉にするだけでは、どこか無責任なのです。

     自分とは違う他者。何を考えているのか、どう思っているのか。私たちは、「分からない」からスタートします。分からないから怖いのです。それでも、「分かろうとする」「手を差し伸べようとする」。それが、思いやりにつながっていきます。そう考えると、他者を思いやるということは、何と困難で、そして尊いことなのでしょうか。「思いやり」は、簡単に生み出せるものではありません。だけど、私たちはどんなに苦労してでも思いやらなければいけない、とも思います。

     「人間は、思いやれるんだよ」、そう母ぎつねに言ってあげたい。人間ときつねの間にある溝を埋めるには「思いやり」しかないと私は思います。「人間は、思いやれるんだよ」という一言を、今、どれだけの人が胸を張って言えるでしょうか。

    母の声



     とても好きな場面があります。人間の優しさや思いやりが伝わってくる場面です。そして、人間ときつねが心を通わせることができるかもしれない、そういった希望を抱かせる場面でもあります。

    ある窓の下を通りかかると、人間の声がしていました。何というやさしい、何という美しい、何というおっとりした声なんでしょう。

    「ねむれ ねむれ 母の胸に― ねむれ ねむれ 母の手に―」

    子狐はその唄声は、きっと人間のお母さんにちがいないと思いました。だって、子狐が眠る時にも、やっぱり母さん狐は、あんなにやさしい声でゆすぶってくれるからです。



     人間の声が、やさしく、美しく、おっとりしていた―そんな場面です。この場面を読むと、「人間は、思いやれるんだよ」と口にしたくなるでしょう。そして、その後の場面にも注目です。人間もきつねも、母が子を想う気持ちは同じだというのです。この場面を読むと、人間ときつねは心を通わせられるかもしれない、という希望に包まれているのです。

     この場面を読み返して気付きます。新美南吉は、強く願っていたのです。「人間は、思いやれるんだよ」ということを。そして、人間ときつねが、心を通わせられるということを。彼のそんな願いを受け止めて、この物語を読み継いでいきたいと強く思います。

     しかし、ただ希望を抱かせるだけではなく、「思いやり」の困難や、心を通わせることの大変さもまた描き出しているのが、この作品が名作と言われる理由ではないでしょうか。そのような困難を教えてくれるのが「母ぎつね」の存在なのです。

     人間を怖がって山から下りることのできない母ぎつねに、私たちはどうやって思いやりを伝えてあげられるでしょうか。そこに必要なのは、どのような心でしょうか。そう考えていた時、私の頭の中に浮かんだ情景がありました。

     「きつねの手に、そっとてぶくろを持たせてやった場面」

     答えは、作品の中にあったのですね。人間に向かって差し出された小さな「手」と、さりげなくも、その思いに応えて差し伸べ返された「手」。「手と手」の力を、私は信じようと思います。



    オワリ

     アマゾンの評価は4.9、同様に某絵本紹介サイトの評価も4.9でした(現時点)。日本で最も評価されている物語の一つと言っても差し支えはないでしょう。一家に一冊は置いておきたい絵本です。


    『ごんぎつね』新美南吉

     おなじみ、新美南吉の代表作。『てぶくろを買いに』よりも、残酷で、悲しく苦しい結末が待っています。しかし、彼が書こうとしたことは、結局は同じところに帰結するのではないでしょうか。

    『雪渡り』 宮沢賢治

     先日紹介した宮沢賢治の短編です。宮沢賢治と新美南吉は共通する部分が多く、よく対比されます。『雪渡り』もきつねが出てくる短編なので、2人が書いた物語を読み比べてみるのもよさそうですね。

    新美南吉, 絵本,



    •   16, 2015 23:59