HOME > 新美南吉
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





  •   --, -- --:--
  • 手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)


    を取って、手を握って

     動物が出てくる物語を読むたびに、私は「動物と人間」というテーマの深さに気付かされます。それは時に人間の愚かさであり、それは時に、人間と他の動物の垣根を越えた優しさであり、温かさであり。嘆くことがあり、悲しむこともあります。それでも最後には、「この物語を生み出したのは人間なのだ」ということを思い出して、希望に包まれるのです。

     さて、以前紹介した宮沢賢治からの作品からのつながりで、新美南吉の童話を紹介しようと思います。この作品も動物が出てくる物語の1つですが、私は作品の最後に出てくる「あるつぶやき」が、この物語を名作たらしめていると思っています。

    (約3500字 / 約7分)



    きつねの物語に通る軸



    手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)
    新美 南吉
    偕成社
    売り上げランキング: 1,275


     新美南吉の『てぶくろを買いに』です。新美南吉と言えば一番有名な作品は『ごんぎつね』だと思いますが、こちらは2番目に有名と言ってもよいくらいの名作童話で、奇しくも『ごんぎつね』と同じく、きつねが登場する物語です。

     『ごんぎつね』もそうですが、彼の童話は決してきつねだけを描いているわけではない、ということに気付きます。見えてくるのは、「きつねと人間」という1つの軸なのです。『ごんぎつね』では、きつねと人間の悲しいすれ違いが描かれました。最後に火縄銃の青い煙が昇るシーンは、目を閉じれば浮かんでくるくらい、私の心に深く刻み込まれています。それくらい、悲しく、深い傷跡を残したラストだったのです。

     『ごんぎつね』の悲しい結末と比べれば、この作品にはまるっきり反対の、包み込まれるような温かさを思い浮かべられる方が多いのではないかと思います。たしかにそうです。戸口を通して差し出された子ぎつねの手に人間がそっとてぶくろを持たせてやる有名なシーンは、温かさと優しさとともに想起させられます。冬のかじかんだ手にはめる「てぶくろ」の温かく優しいイメージが、このシーンの情緒を一層掘り起こしているとも言えるでしょう。

     しかし、温かさ「だけ」ではないのです。人間ときつね、という新美南吉がこだわったであろうテーマにもう一度立ち返ってみます。この作品からは、『ごんぎつね』ほどではありませんが、「苦味」もたしかに香ってくるのです。

    怖くて、恐ろしい向こう側



     私も、絵本で読んだ上述の「温かい場面」のことを一番よく覚えていました。人間ときつねの手が交差するあの場面から、他者を思いやる心であったり、さりげなくも温かい心遣いといったことを教わったものです。しかし、改めて読み返してみると、目に留まったのは「人間に怯える母ぎつね」の姿でした。

    「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ。それどころか、掴まえて檻の中に入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ



     昔、人間に追われて怖い思いをしたこともある母ぎつねです。その時の傷は、決して癒えないものだと思います。母ぎつねは自分で町に出ていくことができません。どうしても足がすすまないのです。作品全体を通じて、母ぎつねの抱える深い傷、深いトラウマがひしひしと伝わってきます。

     ついつい人間目線になって物語を読んでしまいますが、きつねの目線になってみることも大切でしょう。母ぎつねにとって、人間とは得体のしれない存在です。そこに昔の恐ろしい思い出だけがこびりついているとなれば、足がすくむのも当然でしょう。

     作品の後半では、母ぎつねの思っているものとは違う、別の人間像が示されます。簡単にまとめると、「人間はそんなに怖い存在じゃないよ」ということが示されるのです。きつねの母親が子を想うように、人間の母親もまた子を想う・・・という描写は特に印象的です。

     しかし、母ぎつねは人間のそんなもう一つの面を知ることがない。これが重要だと思います。母ぎつねは結局町に出ることはできませんでした。ずっと抱いている「怖い人間像」は、そう簡単には覆らないのです。だから、母ぎつねは最後にこうつぶやきます。

    栞

    お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。



     とまどい、疑心暗鬼。そういった感情がよく伝わってきますね。『ごんぎつね』とは違った趣ですが、私はこの最後の部分に何とも言えない余韻を感じ、しばしページの最後で固まってしまいました。

    9cc586399ba7236b8b6317b52e04799f_s.jpg

     「ほんとうに人間はいいものかしら」

     さあ、何と答えたらいいでしょうか。私は答えに詰まります。「うん、人間はいいものなんだよ。人間は優しいんだよ」、そう答えましょうか。それとも、「いいや、人間は怖いから、決して近付いちゃだめだよ」、そう答えましょうか。

     もし、この母ぎつねが勇気を振り絞って町へ下りていったとしたら、どうなったでしょう。優しい人間が、頭をなででくれたでしょうか。それとも、残忍な人間が、有無を言わさず撃ち殺してしまったでしょうか。

     ・・・・・・「分からない」のです。適当なことを、と思われるかもしれませんが、ここでは「分からない」が正解なのではないでしょうか。

     分からないから、怖いのです。それは、この母ぎつねに限ったことではありません。私たち人間も、全く同じです。分からないから怖いということに心当たりはないでしょうか。私はいつも怖いです。目の前にいる人が、何を考えているか分からないからです。本当はどう思っているか、分からないからです。

     他者を思いやる心や、心を通わせる大切さ。この本からはそういったことを読み取ることができます。しかし、それだけでは足りないと私は思います。「思いやり」「分かり合い」などと言葉にするだけでは、どこか無責任なのです。

     自分とは違う他者。何を考えているのか、どう思っているのか。私たちは、「分からない」からスタートします。分からないから怖いのです。それでも、「分かろうとする」「手を差し伸べようとする」。それが、思いやりにつながっていきます。そう考えると、他者を思いやるということは、何と困難で、そして尊いことなのでしょうか。「思いやり」は、簡単に生み出せるものではありません。だけど、私たちはどんなに苦労してでも思いやらなければいけない、とも思います。

     「人間は、思いやれるんだよ」、そう母ぎつねに言ってあげたい。人間ときつねの間にある溝を埋めるには「思いやり」しかないと私は思います。「人間は、思いやれるんだよ」という一言を、今、どれだけの人が胸を張って言えるでしょうか。

    母の声



     とても好きな場面があります。人間の優しさや思いやりが伝わってくる場面です。そして、人間ときつねが心を通わせることができるかもしれない、そういった希望を抱かせる場面でもあります。

    ある窓の下を通りかかると、人間の声がしていました。何というやさしい、何という美しい、何というおっとりした声なんでしょう。

    「ねむれ ねむれ 母の胸に― ねむれ ねむれ 母の手に―」

    子狐はその唄声は、きっと人間のお母さんにちがいないと思いました。だって、子狐が眠る時にも、やっぱり母さん狐は、あんなにやさしい声でゆすぶってくれるからです。



     人間の声が、やさしく、美しく、おっとりしていた―そんな場面です。この場面を読むと、「人間は、思いやれるんだよ」と口にしたくなるでしょう。そして、その後の場面にも注目です。人間もきつねも、母が子を想う気持ちは同じだというのです。この場面を読むと、人間ときつねは心を通わせられるかもしれない、という希望に包まれているのです。

     この場面を読み返して気付きます。新美南吉は、強く願っていたのです。「人間は、思いやれるんだよ」ということを。そして、人間ときつねが、心を通わせられるということを。彼のそんな願いを受け止めて、この物語を読み継いでいきたいと強く思います。

     しかし、ただ希望を抱かせるだけではなく、「思いやり」の困難や、心を通わせることの大変さもまた描き出しているのが、この作品が名作と言われる理由ではないでしょうか。そのような困難を教えてくれるのが「母ぎつね」の存在なのです。

     人間を怖がって山から下りることのできない母ぎつねに、私たちはどうやって思いやりを伝えてあげられるでしょうか。そこに必要なのは、どのような心でしょうか。そう考えていた時、私の頭の中に浮かんだ情景がありました。

     「きつねの手に、そっとてぶくろを持たせてやった場面」

     答えは、作品の中にあったのですね。人間に向かって差し出された小さな「手」と、さりげなくも、その思いに応えて差し伸べ返された「手」。「手と手」の力を、私は信じようと思います。



    オワリ

     アマゾンの評価は4.9、同様に某絵本紹介サイトの評価も4.9でした(現時点)。日本で最も評価されている物語の一つと言っても差し支えはないでしょう。一家に一冊は置いておきたい絵本です。


    『ごんぎつね』新美南吉

     おなじみ、新美南吉の代表作。『てぶくろを買いに』よりも、残酷で、悲しく苦しい結末が待っています。しかし、彼が書こうとしたことは、結局は同じところに帰結するのではないでしょうか。

    『雪渡り』 宮沢賢治

     先日紹介した宮沢賢治の短編です。宮沢賢治と新美南吉は共通する部分が多く、よく対比されます。『雪渡り』もきつねが出てくる短編なので、2人が書いた物語を読み比べてみるのもよさそうですね。

    スポンサーサイト
    新美南吉, 絵本,



    •   16, 2015 23:59

  •  「教科書への旅」のコーナーです。前回は比較的新しい作品、重松清さんの「カレーライス」を取り上げました。それとは対照的に、今日ご紹介するのは1932年(今から83年前)に出版され、今も多くの人に愛されているこの児童文学です。


    1427008745227_convert_20150322164310.jpg

     新美南吉の代表作、「ごんぎつね」(小学4年生)です。悲しい余韻を残したラストが記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。今日はこの作品を見ていきたいと思います。



    あらすじ



     山の中に、「ごん」というきつねが住んでいました。ごんはいたずらが大好きで、いろいろな場所でいたずらをしています。ある日、ごんは川で魚をとっている兵十(ひょうじゅう)を見つけました。いたずら心がくすぐられたごんは、兵十のびくの中にいたうなぎを口にくわえました。「うわあ、ぬすっとぎつねめ」兵十に見つかったごんは、びっくりして逃げ帰ってしまします。

     10日ほどたって、ごんはお葬式の列を目撃します。亡くなったのは兵十の母親でした。兵十は、母親に「死ぬ前にうなぎが食べたい」と言われうなぎをとりにきていたのでした。自分のいたずらのせいで、兵十の母親はうなぎを食べることなく死んでしまった。そして、兵十は1人になってしまった。罪悪感に苛まれたごんは、兵十につぐないをしようと思うのですが・・・。

    (訂正 9月25日追加)

    誤 兵十は、母親に「死ぬ前にうなぎが食べたい」と言われうなぎをとりにきていたのでした。
    正 兵十は、母親に「死ぬ前にうなぎが食べたい」と言われうなぎをとりにきていた、とごんは思ったのでした。


    a0960_004824.jpg

    の作品の思い出

     教科書で読んだ作品の中では、おそらく最も悲しく、やりきれないラスト。一生懸命つぐないをしようとしたごんでしたが、兵十はそれに気づきませんでした。「いたずらぎつねがまたやってきた」そう思った兵十は、ごんを火縄銃で撃ち殺してしまいます。銃の青い煙が上がるラストに教室は葬式のような雰囲気になっていた気がします・・・。

    この作品のポイント



     教科書にはこんなことが書いてありました。

    物語を読むとき、わたしたちは、登場人物のだれかと自分を重ね合わせたり、書いてあることを、自分の知っていることや経験と結び付けたりしながら読んでいます。だから、読み手が一人一人ちがうように、感じ方も十人十色なのです。



     あたりさわりのないことが書かれていますが、これを読んだとき、私は少し考え込んでしまいました。というのも、ネットでは「ごんぎつね」に関してあることが話題になっているからです。

     それは、「ごんが死んだのは悪いことをしたからであり、自業自得だ」というある子供の感想に端を発しています。子供がこんな感想を口にした時、私たちはなんと答えてあげればいいのでしょうか。感じ方は十人十色、といいいつつも、それで済ましてはいけないような気もするのです・・・。

    再読!「ごんぎつね」



     1427008761477_convert_20150322181506.jpg

     最後の場面、本当に悲しいんです・・・。兵十と兵十の母に悪いことをした、と自分のいたずらを悔やみ、罪滅ぼしに兵十の家にお供え物を届けにいくごん。しかし、またいたずらぎつねがやってきたと思った兵十は、火縄銃でごんを撃ち殺します。

     この話に悪者はいません。ごんにしてみれば、いつものようにちょっとしたいたずら心でうなぎを盗んだだけでした。兵十の母が病床でうなぎを求めていたことなど知る由もありません。それでも、自分の行いを悔いるごん。精一杯の償いの気持ちは兵十に届くことはありませんでした。

     兵十にしてもそうです。病床の母に届けようとしていたうなぎを盗まれたのですから、ごんに怒りをぶつけるのは当然だと思います。兵十もまた、ごんが自分につぐないをしようとしていることなど知る由もありません。もう一度ごんが家にやってくれば、またいたずらをしにきたのだと思うはずです。

     お互いの気持ちがすれちがって、最悪の結末を生んでしまったことが分かります。この話を読んで「いたずらをしたごんが悪い」と言う子供がいたとのことですが、それはどうなのでしょう・・・。子供の考えを尊重する、というのも一つの考えですが、私は「それは違う」と子供に諭さなければいけない、と思っています。なぜなら、ごんと兵十、それぞれの後悔を読み取れていないからです。この後悔こそ、この話の伝えるべきところだと思っています。

    「兵十のおっかあは、とこについていて、うなぎが食べたいといったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十はおっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」


     ごんが後悔をする場面です。悔やんでも悔やみきれない、そんな気持ちが伝わってきます。なんて偉いんだろう、と思いました。悪いことは、それ自体が悪いのではありません。悪いことを、悪いことと思わないことが悪いのではないでしょうか。「悪いことをしたらごめんなさい」、そんな当たり前のことだけど、なかなか難しい。ちゃんと後悔できているごんを見習いたくなります。

     でも、そんな思いが伝わらなかった、というのが辛いところです。ごんを撃ち殺したあと、ごんの行いに気付いた兵十もまた、後悔します。

    「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細くでていました。


     ある意味、最大の被害者は兵十かもしれません。大好きなおかあさんを失った上に、自分のもとにつぐないにきたきつねを撃ち殺してしまいました。きつねの思いに気付いた時にはもう手遅れと言う残酷さです。

     精一杯謝罪しても、それが伝わらない、そこにやりきれなさがあります。一生懸命「ごめんなさい」を示そうとしたごんが撃ち殺されてしまうという結末を、小学4年生の子供たちは見せられます。

     人は簡単に心を通い合わせることができない、ということをしっかり読み取れたらな、と思います。心をこめて謝罪しても、こんな結末になることもあります。世の中には形だけの「ごめんなさい」が溢れていますが、それに何の意味があるでしょうか・・・。言わない方がまし、とはいいませんが、人と真摯に向き合おうとする姿勢が大事なのだと思います。

     いま読み返してもやりきれないですね。この本を読む子供たちが、多くの感情を掘り起こしてくれることを願います。



    こちらもどうぞ

    「ごんぎつね」のごんは自業自得!? 勉強よりも大切な「感情教育」のポイント
     参考にした記事です。子どもに感想を丸投げするだけではだめなのですね・・・。

     ごんぎつねは青空文庫で読むことができます。10分以内に読めると思うので、気になる方はぜひ読んでみてください。
    「ごんぎつね」 (えあ草紙)


    新美南吉, 教科書,



    •   22, 2015 18:49
  • 上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。