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 雑誌「MONKEY」第11号の特集「ともだちがいない!」をブログで取り上げています。前回は谷川俊太郎さんの詩集、「ともだちがいない!」を2回にわたってご紹介しました。第3回の今回は、アメリカの詩人、チャールズ・ブコウスキーの詩を2篇ご紹介します。

MONKEY vol.11 ともだちがいない!

スイッチパブリッシング (2017-02-15)


 チャールズ・ブコウスキーは、アメリカの「無頼派」と言われる詩人です。酒におぼれ、放浪を繰り返す、そんな人だったようです。そんな破天荒な彼の詩を、私は今回初めて読みました。そして、「ともだちがいない!」というこの特集に彼の詩が組み込まれた理由を私なりに感じることができました。パンクで荒っぽい作風。しかしそこにはとても繊細で、脆いかすかな「脈」が流れているように感じたのです。



はじめに



 実は、今回の特集の「ともだちがいない!」のタイトルは、チャールズ・ブコウスキーの作品からインスピレーションを得ているそうです。雑誌の責任編集をつとめ、ブコウスキーの詩を翻訳している柴田元幸さんはこんな風に書いています。

ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない--この思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれました。



 スラングの少なさ、という視点から「ともだちがいない!」という特集が生まれました。実際に彼の作品を読んでみると、「ともだちがいない!」ということばは実に言い得て妙です。まるで、彼の詩を見事に一言で要約してみせたような、そんなことばに思えました。

 特集では、短編「アダルト・ブックストア店員の一日」と詩「俺の電話」「カーソン・マッカラーズ」が収録されています。今回は2つの詩のほうを取り上げることにします。荒っぽく言い放たれるブコウスキーのことばに隠されたちょっと寂しげな雰囲気を感じていただけたら幸いです。なお、引用する死の日本語訳は前述の柴田さんによるものです。

俺の電話



 主人公の男のもとにはひっきりなしに電話がかかってきます。単に話をしたいという人から、深く落ち込んでいる人、寂しい人、そして時間を持て余している人まで・・・。ひっきりなしに、彼の電話は鳴り続けるのでした。

俺の電話は近ごろ優しくない



 彼はこんな風に独白します。

 電話が「優しくない」とは面白い表現です。全体的に荒っぽく、投げやりな雰囲気の詩ですが、この一行は実に繊細で、彼の物憂げな気持ちを短い言葉で見事に表現しています。

 電話が優しくない、というのは私にはすごくよく分かります。私は電話がとても苦手です。かける方も、かかってくる方もです。いきなりかかってくるとビクッととしますし、自分がかける方になっても、相手の人は今忙しくないだろうか、などと思い出すとなかなかタイミングがつかめません。なんというか、脈絡のない、ぶつ切りのコミュニケーションで、そんなことが苦手なのかもしれません。

 かかりっぱなしの電話にうんざりした彼が、こんな風に語ります。向こうは一方的に電話をかけてくるけれど、実は自分にも言いたいことはあるのです。

俺だって
問題を抱えてて
かりに抱えてなくたって
俺にも
たまには
一人静かに
何もしない時間が必要だってこと。



 全体的には荒れ狂う波のような雰囲気の詩で、この部分はとても印象的です。彼の本音が、むき出しで、飾ることなく吐き出された部分で、ストンと心に落ちてくるのです。

 すごく、分かる。

 多くの人に囲まれれば囲まれるほど、一人になりたくなる気持ち。

 たぶん、そんなことなのではないかと思います。彼のもとにはひっきりなしに電話がかかってきて、とても賑やかなようにも思えます。ですが、賑やかになればなるほど、彼は孤独を自覚するのでした。

 電話をかけてくる人はいっぱいいても、それらは全て一方通行のコミュニケーションでしかありませんでした。どこの誰とでもつながれる電話という道具は、私たちの世界を広げてくれるようにも映ります。でもそれは、実際には驚くほど何も満たしてくれなかったのです。

「あんたの問題が何なのか知らんけど、俺には助けてやれないんだよ!」



 彼はそんな風に叫びます。溜まりにたまった鬱憤を吐き出したような叫びです。

 電話が苦手な理由がもう1つ思い浮かびました。電話の向こうにある相手の顔が分からないというのがあるかもしれません。「分からない」という漠然とした不安を、私は電話に感じます。なるほど、たしかに「優しくない」ものかもしれません。

 でも、この詩にはとても面白いオチが待っています。そうか、電話にはこんなこともあるんだよな、というオチです。

カーソン・マッカラーズ



 次は「カーソン・マッカラーズ」という詩です。この詩では、「孤独」というものが、より露骨に、えげつなく牙を剥いてきます。物悲しく寂しい雰囲気の中に、ぞっとするような恐怖が並存しているような、そんな詩です。

彼女はアルコール中毒で死んだ



 最初の一行は、そう始まります。簡潔な記述なのに、底知れない悲しみを感じました。悲しくて悲しくて仕方ないから、簡潔な言い方で感情に蓋をするしかなかった、そんな印象を受けました。この詩は、全体にそのような雰囲気が漂っています。

 アルコール中毒で亡くなった「彼女」は、本を書いていたといいます。

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 ここからの5行が、気が狂いそうなくらいに、深くて悲しく、そして寂しい言葉の海です。ぜひ、ゆっくりと一行ずつ読んでみていただきたいです。

彼女が何冊も書いた

怯えた孤独の本

愛なき愛の

残酷さをめぐる

何冊もの本



 どうでしょうか。特に、「怯えた孤独」、そして「愛なき愛の残酷さ」というフレーズが、果てしなく深い海ではないでしょうか。

 孤独のことを「孤独」と書くのは簡単です。でも、「孤独」とだけ書いても、それ以上深くには潜っていくことができません。孤独って何だろう。それはとても恐ろしい問いで、私なんかは怖くなってすぐに蓋をしたくなります。

 チャールズ・ブゴウスキーという人は、その恐ろしい問いに向き合うことから目をそらしませんでした。そして、どこまでも深く、暗い海の底まで潜っていけた。私にはそう思えました。そうしてたどり着いた言葉が、「怯えた孤独」「愛なき愛の残酷さ」

 上に書いたように、孤独というのはそれを考えること自体がとても恐ろしいことです。孤独という言葉に、人は怯えます。「怯えた孤独」というのは、そんなところから導き出せる言葉なのだろうか、と思いました。

 「愛なき愛の残酷さ」はどうでしょうか。これが、とても難しいです。「愛」というのは、本来「孤独」の対義語といってよいかもしれません。孤独から私たちを解き放ち、満たしてくれるもの。しかし、ここで書かれているのは「愛なき愛」です。この言葉は、一体何を意味するのでしょうか。

 「愛」だと思っていたものは、実は「愛」などではなかった
 「愛」という名のもとに、自分の傷をなめ、なぐさめているだけだった

 -私はそんなことを考えました。どちらも、考えるのも恐ろしいくらい残酷なことでした。「愛なき愛」は、たしかに「孤独」でした。この部分はたくさんの解釈ができると思います。作者に引きずり込まれるように、私も暗い海の中を漂いました。

 この詩は、最後まで救いがありません。最後の方にこのような一節があります。彼女の遺体が移された後に、こう綴られます。

そうして何もかもが
そのまま続いていった

何もかも
彼女が書いたとおりに。



 人が死ぬというのは、とても大きな出来事です。「彼女が生きていたこと」と「彼女が死んでしまったこと」には、本来大きな違いがあるはずです。

 それなのに、です。「何もかもが、そのまま続いていった」とあります。それは、彼女が生きていた事と死んでしまったことの境界をかき消します。「彼女は本当に生きていたのだろうか」-そんなことすら思い起こさせる、これ以上ないくらいに残酷な表現のように思いました。

 ぞっとするくらいの、本当の孤独を見たような気がしました。




オワリ

 いかがでしたでしょうか。最初に紹介した谷川俊太郎さんは、「ともだちがいない!」という題を付けながらも、その作品には溢れんばかりの人間への愛を感じることができました。対して、チャールズ・ブコウスキーはどうでしょう。ユーモアや皮肉もたっぷりな作風ですが、ぞっとするような本当の孤独が書かれているように私は感じました。



 このあとの作家さんたちは、どのような「ともだちがいない!」を見せてくれるでしょうか。こういった作品集の素晴らしいところは、作家の数だけ違った色があるというところです。「ともだちがいない!」という言葉がどう深まっていくのか、楽しみです。

「詩集 ともだちがいない!」 谷川俊太郎(前編) ~ほんとうのともだち~

 シリーズ第1弾。互いに異なる人と人とが顔を突き合わせる意味。谷川俊太郎さんが教えてくれます。


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