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 雑誌「MONKEY」第11号の特集「ともだちがいない!」をブログで取り上げています。前回は谷川俊太郎さんの詩集、「ともだちがいない!」を2回にわたってご紹介しました。第3回の今回は、アメリカの詩人、チャールズ・ブコウスキーの詩を2篇ご紹介します。

MONKEY vol.11 ともだちがいない!

スイッチパブリッシング (2017-02-15)


 チャールズ・ブコウスキーは、アメリカの「無頼派」と言われる詩人です。酒におぼれ、放浪を繰り返す、そんな人だったようです。そんな破天荒な彼の詩を、私は今回初めて読みました。そして、「ともだちがいない!」というこの特集に彼の詩が組み込まれた理由を私なりに感じることができました。パンクで荒っぽい作風。しかしそこにはとても繊細で、脆いかすかな「脈」が流れているように感じたのです。



はじめに



 実は、今回の特集の「ともだちがいない!」のタイトルは、チャールズ・ブコウスキーの作品からインスピレーションを得ているそうです。雑誌の責任編集をつとめ、ブコウスキーの詩を翻訳している柴田元幸さんはこんな風に書いています。

ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない--この思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれました。



 スラングの少なさ、という視点から「ともだちがいない!」という特集が生まれました。実際に彼の作品を読んでみると、「ともだちがいない!」ということばは実に言い得て妙です。まるで、彼の詩を見事に一言で要約してみせたような、そんなことばに思えました。

 特集では、短編「アダルト・ブックストア店員の一日」と詩「俺の電話」「カーソン・マッカラーズ」が収録されています。今回は2つの詩のほうを取り上げることにします。荒っぽく言い放たれるブコウスキーのことばに隠されたちょっと寂しげな雰囲気を感じていただけたら幸いです。なお、引用する死の日本語訳は前述の柴田さんによるものです。

俺の電話



 主人公の男のもとにはひっきりなしに電話がかかってきます。単に話をしたいという人から、深く落ち込んでいる人、寂しい人、そして時間を持て余している人まで・・・。ひっきりなしに、彼の電話は鳴り続けるのでした。

俺の電話は近ごろ優しくない



 彼はこんな風に独白します。

 電話が「優しくない」とは面白い表現です。全体的に荒っぽく、投げやりな雰囲気の詩ですが、この一行は実に繊細で、彼の物憂げな気持ちを短い言葉で見事に表現しています。

 電話が優しくない、というのは私にはすごくよく分かります。私は電話がとても苦手です。かける方も、かかってくる方もです。いきなりかかってくるとビクッととしますし、自分がかける方になっても、相手の人は今忙しくないだろうか、などと思い出すとなかなかタイミングがつかめません。なんというか、脈絡のない、ぶつ切りのコミュニケーションで、そんなことが苦手なのかもしれません。

 かかりっぱなしの電話にうんざりした彼が、こんな風に語ります。向こうは一方的に電話をかけてくるけれど、実は自分にも言いたいことはあるのです。

俺だって
問題を抱えてて
かりに抱えてなくたって
俺にも
たまには
一人静かに
何もしない時間が必要だってこと。



 全体的には荒れ狂う波のような雰囲気の詩で、この部分はとても印象的です。彼の本音が、むき出しで、飾ることなく吐き出された部分で、ストンと心に落ちてくるのです。

 すごく、分かる。

 多くの人に囲まれれば囲まれるほど、一人になりたくなる気持ち。

 たぶん、そんなことなのではないかと思います。彼のもとにはひっきりなしに電話がかかってきて、とても賑やかなようにも思えます。ですが、賑やかになればなるほど、彼は孤独を自覚するのでした。

 電話をかけてくる人はいっぱいいても、それらは全て一方通行のコミュニケーションでしかありませんでした。どこの誰とでもつながれる電話という道具は、私たちの世界を広げてくれるようにも映ります。でもそれは、実際には驚くほど何も満たしてくれなかったのです。

「あんたの問題が何なのか知らんけど、俺には助けてやれないんだよ!」



 彼はそんな風に叫びます。溜まりにたまった鬱憤を吐き出したような叫びです。

 電話が苦手な理由がもう1つ思い浮かびました。電話の向こうにある相手の顔が分からないというのがあるかもしれません。「分からない」という漠然とした不安を、私は電話に感じます。なるほど、たしかに「優しくない」ものかもしれません。

 でも、この詩にはとても面白いオチが待っています。そうか、電話にはこんなこともあるんだよな、というオチです。

カーソン・マッカラーズ



 次は「カーソン・マッカラーズ」という詩です。この詩では、「孤独」というものが、より露骨に、えげつなく牙を剥いてきます。物悲しく寂しい雰囲気の中に、ぞっとするような恐怖が並存しているような、そんな詩です。

彼女はアルコール中毒で死んだ



 最初の一行は、そう始まります。簡潔な記述なのに、底知れない悲しみを感じました。悲しくて悲しくて仕方ないから、簡潔な言い方で感情に蓋をするしかなかった、そんな印象を受けました。この詩は、全体にそのような雰囲気が漂っています。

 アルコール中毒で亡くなった「彼女」は、本を書いていたといいます。

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 ここからの5行が、気が狂いそうなくらいに、深くて悲しく、そして寂しい言葉の海です。ぜひ、ゆっくりと一行ずつ読んでみていただきたいです。

彼女が何冊も書いた

怯えた孤独の本

愛なき愛の

残酷さをめぐる

何冊もの本



 どうでしょうか。特に、「怯えた孤独」、そして「愛なき愛の残酷さ」というフレーズが、果てしなく深い海ではないでしょうか。

 孤独のことを「孤独」と書くのは簡単です。でも、「孤独」とだけ書いても、それ以上深くには潜っていくことができません。孤独って何だろう。それはとても恐ろしい問いで、私なんかは怖くなってすぐに蓋をしたくなります。

 チャールズ・ブゴウスキーという人は、その恐ろしい問いに向き合うことから目をそらしませんでした。そして、どこまでも深く、暗い海の底まで潜っていけた。私にはそう思えました。そうしてたどり着いた言葉が、「怯えた孤独」「愛なき愛の残酷さ」

 上に書いたように、孤独というのはそれを考えること自体がとても恐ろしいことです。孤独という言葉に、人は怯えます。「怯えた孤独」というのは、そんなところから導き出せる言葉なのだろうか、と思いました。

 「愛なき愛の残酷さ」はどうでしょうか。これが、とても難しいです。「愛」というのは、本来「孤独」の対義語といってよいかもしれません。孤独から私たちを解き放ち、満たしてくれるもの。しかし、ここで書かれているのは「愛なき愛」です。この言葉は、一体何を意味するのでしょうか。

 「愛」だと思っていたものは、実は「愛」などではなかった
 「愛」という名のもとに、自分の傷をなめ、なぐさめているだけだった

 -私はそんなことを考えました。どちらも、考えるのも恐ろしいくらい残酷なことでした。「愛なき愛」は、たしかに「孤独」でした。この部分はたくさんの解釈ができると思います。作者に引きずり込まれるように、私も暗い海の中を漂いました。

 この詩は、最後まで救いがありません。最後の方にこのような一節があります。彼女の遺体が移された後に、こう綴られます。

そうして何もかもが
そのまま続いていった

何もかも
彼女が書いたとおりに。



 人が死ぬというのは、とても大きな出来事です。「彼女が生きていたこと」と「彼女が死んでしまったこと」には、本来大きな違いがあるはずです。

 それなのに、です。「何もかもが、そのまま続いていった」とあります。それは、彼女が生きていた事と死んでしまったことの境界をかき消します。「彼女は本当に生きていたのだろうか」-そんなことすら思い起こさせる、これ以上ないくらいに残酷な表現のように思いました。

 ぞっとするくらいの、本当の孤独を見たような気がしました。




オワリ

 いかがでしたでしょうか。最初に紹介した谷川俊太郎さんは、「ともだちがいない!」という題を付けながらも、その作品には溢れんばかりの人間への愛を感じることができました。対して、チャールズ・ブコウスキーはどうでしょう。ユーモアや皮肉もたっぷりな作風ですが、ぞっとするような本当の孤独が書かれているように私は感じました。



 このあとの作家さんたちは、どのような「ともだちがいない!」を見せてくれるでしょうか。こういった作品集の素晴らしいところは、作家の数だけ違った色があるというところです。「ともだちがいない!」という言葉がどう深まっていくのか、楽しみです。

「詩集 ともだちがいない!」 谷川俊太郎(前編) ~ほんとうのともだち~

 シリーズ第1弾。互いに異なる人と人とが顔を突き合わせる意味。谷川俊太郎さんが教えてくれます。


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, チャールズ・ブコウスキー,




 前回に続き、谷川俊太郎さんの詩集、「ともだちがいない!」をご紹介します。後編は「ひとりとふたり編」と題して2つの詩をご紹介します。全部で10の詩が収録されていますが、今日紹介する2篇は、谷川さんがもっとも伝えたかったことが含まれている詩だと思うので、要注目です。

「詩集 ともだちがいない!」 谷川俊太郎(前編) ~ほんとうのともだち~
前編の記事はこちらからご覧ください。

MONKEY vol.11 ともだちがいない!MONKEY vol.11 ともだちがいない!
柴田 元幸,チャールズ・ブコウスキー,村上 春樹,村田 沙耶香,伊藤 比呂美,谷川 俊太郎,くどうなおこ,松本 大洋

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 雑誌、「MONKEY」に収録されている今回の詩集、「ともだちがいない!」ちょっとドキッとするタイトルですが、実は私たちが生きるとはどういうことか、というとても大切なことを教えてくれるのです。



ひとり



 今回は「ひとりとふたり編」と題していますが、紹介する2つの詩はタイトルそのまま、「ひとり」と「ふたり」です。まずは「ひとり」のほうから見ていくことにします。

「ひとり」 谷川俊太郎

 詩の紹介に入る前に、よかったら、「ひとり」と小さくつぶやいてみてください。吐き出された「ひとり」という言葉は、どんな空気をまとっていたでしょうか。私は、「ひとり」というと、どうしても寂しいものを想像してしまいます。自分がつぶやいた「ひとり」という言葉は、少し冷たく、ひんやりとしていました。

 でも、知っています。「ひとり」には、もう一つの側面もあるのです。たくさんの本を読んできたので、何となく感じる部分があります。そして、この詩もまたそうでした。

 友人とけんかをした「ぼく」は、一人で椅子に座って考え事をしています。前半は、少年が思いをめぐらせています。窓から差し込む風、鳥の鳴き声、遠くにかすむ山。そんなものが並べられています。一人きりになると、感覚が敏感になりますね。普段見えていなかったものが見えて、聞こえていなかったものが聞こえてくるような。この詩の前半は、そんな感覚を巧みに描いています。

 後半は、「ぼく」のこんなことばから始まります。

ぼくが 居る ひとりで



 谷川さんのぶつぎりのことばは、とても力強い。どちらかというと穏やかな前半から、いきなりこのことばへとつながるのです。なんだか目の前にいきなり大きな山が現れたような気にでもなります。いったい、どんな展開が続くのでしょうか。

 次からの3行が、とても印象的です。ぜひ、じっくり味わってみてください。

ぼくという人間は一人だけ
あいつという人間も一人きり
一人だからぼくはぼくになれる



 私たちは友達や家族を作ります。多くの人は、そうやって誰かと一緒に生きて行きます。ですが、だからといって人間から「ひとり」の時間がなくなるわけではないことを、私たちは知っていると思います。「ひとり」の意味を、この部分が教えてくれるのです。それは、「自分が自分でいられる時間」でした。

 「ひとり」には、寂しさのほかに、もう1つの側面があると書きました。それは「強さ」だと私は思っています。吐き出した「ひとり」という言葉は、たしかに一見、冷たく、ひんやりとしていました。しかし、そこには、決して消えない「強さ」や「ゆるぎなさ」の気配も、私は感じるのです。

 谷川さんは、終盤でこんな風に書いています。

独りは、いい
生きていると思えるから



 かすかに感じていた、「揺るぎない強さ」への気配が、谷川さんの言葉によって、確信に変わっていきました。

ふたり



 さて、「ひとり」の次に書かれていて、10の詩の最後を締めているのが「ふたり」です。「ひとり」の次に「ふたり」-。この2つは、内容もリンクしています。心憎い構成ですね。

「ふたり」 谷川俊太郎

 内容がリンクしている、と書きました。どうやら、けんかをしていた二人が仲直りをしたようなのです。先程「ひとり」で座っていた「ぼく」は、今度は友人と「ふたり」で座っています。ですが、二人でいるだけで、特に何か言葉を交わすこともないのです。

お前と 居る
黙って座っている



お前に言うことは ない
でもお前と今 居る



 この詩はとても静かです。何だか不安になってしまうくらいに静かです。


 この詩には、谷川さんの素敵な挿絵が挿入されています。挿絵も含めて、一つの作品と言えるでしょう。さて、上の写真はこの「ふたり」という詩の挿絵です。私は少し不思議な気持ちになりました。私だったら、この詩には二人で黙って座っている挿絵を選ぶと思います(貧弱な想像力です・・・)。ですが、谷川さんの書いた絵を見てみてください。いるのは「ひとり」、そして、どうやら「鏡」を見つめているようです。

 谷川さんのこの挿絵は、「ふたり」というものを解釈するヒントになっていると思います。ずばり、「鏡」の部分がヒントです。詩の後半にこうあります。

気持ちは静かだ

お前が生きているのを 感じる
俺も生きているのを 感じる



 先程の「ひとり」の詩を思い出してみてください。人間は、「ひとり」になることで自分自身を見つめることができました。それは人間にとって、とても大切な時間でもありました。では、「ふたり」はどうでしょうか。「ふたり」の価値は、どんなところにあるのでしょうか。

 「鏡」から想像を広げてみます。目のまえにいる誰かを見つめることは、結局、自分を見つめることになるのです。そこには、自分が映っているのです。そして、誰かが生きているのを見て、「俺も生きている」と感じる。ひとりが自分のことを見つめ直す時間であるなら、ふたりは「自分が生きていることを確かめさせてくれる時間」でした。そこに、「ふたり」の価値を感じます。

 ふたりって、結局、なんなのでしょう。谷川さんが書くこの二行は、そのことを教えてくれるようです。

ふたりじゃなく、オレと オマエ
ひとりと ひとり



 「ふたり」を、「ひとりとひとり」に読み替えた谷川俊太郎さん。素晴らしい展開だと思います。「ひとりとひとり」などというと、寂しく聞こえるかもしれません。でも、そうではないのです。それは、認め合うことであり、許し合うこと。「ひとりとひとり」になれた時に、「ひとり」は、「ふたり」になるのです。

ひとりとふたり



ひとりとふたり、どちらが好きですか?

 とても難しい質問をしました。もしかしたら、究極の質問かもしれません。2つの詩を読みながら、私はずっと考えていました。

 私自身は、どちらかというと、というかかなり「ひとり」寄りです。趣味が読書ということもあると思います。読書は一人で自分のことを見つめる時間に他ならないからです。だけど、「ふたり」にも価値があることを谷川さんは教えてくれますし、私も知っています。

 誰かと分かり合えたと思えるとき。そう思えるまではなかなか大変ですが、そこにたどり着いた時の満たされた気持ちは、「ひとり」では絶対に味わえなかったものです。だから、「ふたり」もいいのです。

 「ひとり」と「ふたり」、どちらもいいのです。この詩で谷川さんが書いているのは、きっとそんなことなのでしょう。


オワリ



 雑誌「MONKEY」の特集、「ともだちがいない!」を特集します。谷川さんの詩のほかにも、素晴らしい作品がたくさん収録されています。次回はチャールズ・ブコウスキーの詩、「俺の電話」と「カーソン・マッカラーズ」を取り上げます。ゆっくりの更新になると思いますが、ぜひまたいらしてください。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

「詩集 ともだちがいない!」 谷川俊太郎(前編) ~ほんとうのともだち~
 もう一度前編へのリンクを貼っておきます。


, 谷川俊太郎,





 前後編の2回に分けて、谷川俊太郎さんの詩集、「ともだちがいない!」をご紹介します。タイトルにちょっとドキッとさせられるこの作品は、翻訳者の柴田元幸さんが責任編集をつとめている本の雑誌、「MONKEY」の第11号に収録されています。

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柴田 元幸,チャールズ・ブコウスキー,村上 春樹,村田 沙耶香,伊藤 比呂美,谷川 俊太郎,くどうなおこ,松本 大洋

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 「MONKEY」の今号の特集が、「ともだちがいない!」というものです。谷川さんは、特集に合わせて、「ともだちがいない!」ということばから自由に連想した計10篇の詩を雑誌に寄せています。「ともだちがいない!」ということばから、いったいどんな世界が広がっていくのでしょうか。前編の今回は、「ほんとうのともだち編」と題して、3つの詩をご紹介しようと思います。



M



 詩のすべてを抜粋することはできないので、詩の一部を引用させていただきながら、私が感じたことを加えていく形でご紹介させていただこうと思います。

 それでは、さっそく最初の詩の紹介に移ります。最初の一篇は「M」という作品です。この作品に書かれていることは、きっと誰もが一度は感じたことのあることだと思います。「ともだちって、なんだろう?」考え出すと、その問いに対して驚くほど何も答えられなくなって驚くのです。

「M」 谷川俊太郎

 「私」と「M」は仲の良い2人組のようです。Mは私のことを「親友」と言ってはばかりません。ところが、私のほうはそうではないのです。「私は親友だって思ってない」私はそう言い放ちます。そして、親友どころか友達とも思ってない、と言うのです。

 とても残酷な告白です。どうして相手は親友だと言ってくれるのに、私は友達だと思えないのでしょうか。谷川さんはこんな風に綴ります。

人間として尊敬してる
つきあってて嫌なことはひとつもない
好きな歌だって似てる でも
ハモる気になれない



 私はちょっと驚いて、数回繰り返して読みました。友達じゃない!なんて言い放つのですから、私はMのことが大嫌いなのだと思っていました。しかし、大嫌いどころか、Mは「尊敬」の対象でもあるのです。ちょっと一筋縄ではいかない感情ですよね。

 最初は少し驚きましたが、何度も読むうちに、「分かる」と思い出してきます。「いい人だけど、友達とはまた違うよな」そんな風に思うことはありませんか?私はけっこうあります。「友情」と「尊敬」って、案外遠い感情なのかもしれません。

 子供の頃、「友達」「親友」「クラスメート」の違いを真剣に考え、いつも悩んでいたことを思い出しました。「この人は『親友』、『友達』、それともただの『クラスメート』?」「私は親友だと思っているけれど、向こうはそう思っていないのかもしれない」(←そう思う時点で、すでに親友ではないのでしょうけど・・・)。同じようなことを考えていた方はいないでしょうか。私は、そのあたりの定義にいつも揺れていました。



 谷川さんのこの詩でぐっとくるのは、やはりこのフレーズでしょう。

でも ハモる気になれない



 人間って、とても歪な動物だと思います。高い知能を身に付けて、もっともらしい理屈を並べて自分を飾ろうとします。でも、よく考えると人間も「動物」です。つまり、結局は「本能」の部分に支配されている、ということです。

 私たちが誰かと「ハモる」ということ。何も努力しなくても、自然に「ハモる」人もいれば、この詩に書かれているように、どうしても「ハモる気になれない」ひともいます。そのあたり、何が違うのか、考え出すととても難しいです。だけど、この詩のように自分の気持ちをそっと正直に吐き出してみればいいと思います。何が良いとか悪いとかではなくて、嘘偽りのない、自分の気持ちです。

本田



 つづいては、ちょっと残酷な詩をご紹介しましょう。書かれていることは、「いつもたくさんの人に囲まれているのに、実は友達はいなかったんじゃないか」ということ。背筋がぞくりとしますね。

「本田」 谷川俊太郎

 本田が死んだ、という知らせが私のもとに届きます。遺書はなかった、とありますが、自殺したのでしょうか。本田は「誰とでもすぐ友だちになれる奴だった」、私はそう思い返します。ところが、です。私は降りしきる雨の中で、ある思いにとらわれるのでした。

雨がざあっと降ってきた
本田には友だちは一人もいなかったんじゃないか



 鳥肌が立ちます。外で降りしきる雨と、静かなベットの上。そこで湧き上がってきた思いは、もっとも恐ろしい気付きでした。まるで、パンドラの箱を開けてしまったような気分になります。

 この詩にも、一見矛盾した複雑なことが述べられていますね。本田は「誰とでも友だちになれる奴」でした。そしておそらく、いつも多くの人に囲まれていたことでしょう。それなのに、「友だちは一人もいなかったのではないか」と「私」は思うのです。自殺の知らせが、ふとそんな思いを去来させたのでしょう。本当のところがどうなのかはわかりません。ですが、私はぞっとするくらいの「真実味」を感じました。

 いつも多くの人に囲まれていたけれど、それらの人々にはいつも「偽りの自分」を見せていた。
 「本当の自分」をさらせる人は、実は一人もいなかった。
 「友だち」のようで、そうではない人たち。彼らの存在が、かえって本田を孤独に追い込んだ。

 「誰とでも友だちになれることは、『誰とも友だちになれない』ことでもあった」

 私なりに、詩に書かれていることを深めてみました。「誰とでも友だちになれる」という文字を最初に見た時は、とても素晴らしいことのような気がしました。しかし、詩を読んだ後にとらわれるのは、それとはまったく逆の思いです。実は、「誰とも友だちになれない」こと。文字を並べてみると似ていますが、恐ろしいくらい、まったく正反対のことですね。

 本田の死を受けて、「私」はこんなことを思います。この詩のキーフレーズでしょう。

友だちは一人でいい
不意にそう思った



 たった一人の友達。なんだか寂しいことのようにも思えます。でも、それが「たった一人の『本当の』友達」なら、決して寂しいことではありません。でも、私たちは同時に知っています。その、「本当の友達」を見つけるのはとても難しいのだということを。

祖父の述懐



「友達がいなかった」という残酷な詩を紹介しました。ちょっと気分が落ちてしまうので、前編の最後はそれとは反対の詩をご紹介することにしましょう。すなわち、「本当の、特別な友達」についての詩です。

 「祖父の述懐」 谷川俊太郎

 「祖父」の親友、三上が亡くなりました。祖父は三上の死のことを静かに語っているようです。

 親友の死に顔を見ても、祖父は泣きませんでした。ただ、死という事実に呆然としただけでした。しかし、朝の日差しが差しこんできたとき、祖父の中で何かが決壊したようです。祖父は、いきなりどこかから湧いてきた涙が止まらなくなりました。

 そして、こう語ります。

悲しいというのとはちょっと違う
三上との付き合いのあれこれを思い出したのでもない
ただ三上という泉からとめどなく涙が湧いてくる
そんな感じだった



 前の二つの詩とは違って、私はここに書かれていることを深く理解できませんでした。というのも、私はまだ大人になったばかりで、「友達の死」というものを経験したことがないからです。同窓会では、欠席する人もいますが、ほとんど皆がそろって、誰かが亡くなった、などということはまだありません。

 大切な友達が亡くなると、どのような気持ちになるのでしょうか?

 大切な友達を亡くした経験のある方は、ここに書かれていることを深く理解できるのかもしれません。しかし、谷川さんのこの詩は、まだそれを経験したことのない私にも、何か大切なことを伝えてくれるようでした。


 谷川さんの書かれた、この一行が胸に染みます。

ただ三上という泉からとめどなく涙が湧いてくる



 大切な友達の存在を、涙が湧き出る泉に例えています。美しく、高潔な一行です。きっと、そこから湧き出たものは涙だけではないと思います。これまで過ごしてきた日々、数々の思い出、時には胸にしまい込んでしまいたくなるような出来事・・・。

 友達という「泉」には、たくさんのものが詰まっていました。だからこそ、そこからは涙があふれ出た。祖父と三上が過ごしてきたかけがえのない日々が、たった一行で語られています。たった一行が、胸にずしりと沈み込んできますね。

 祖父は最後にこう言います。

三上はやっぱり特別な友だちだったんだ



 ふと、思います。
 自分は泣けるのだろうか。誰かに泣いてもらえるのだろうか。

 本当の友達を考えるということは、きっとそういうことなのでしょう。



オワリ



 谷川さんの詩は相変わらず素晴らしいものでした。後編は、「ひとりとふたり編」と題して、2つの詩を紹介した後、最後にまとめの文章を書こうと思っています。

 そして、雑誌「MONKEY」の特集、「ともだちがいない!」をこのブログで特集することにしました!この雑誌には、谷川さんの詩の他にも、「ともだちがいない!」というテーマのもとに集められた素敵な作品が多数収録されています。とても感銘を受けたので、全作品を紹介することにしました。全9回の特集にする予定です。

 この記事の後編は、アップしたらこちらにリンクを貼ります。後編もぜひご期待ください。


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