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 タイトルを見ただけで胸が高鳴ります。なぜなら、「日記」というのは本来他人の目には触れないものだからです。他人の目に触れないからこそ、そこにはその人の物語が赤裸々に綴られています。そう考えると、ワクワクしてこないでしょうか。見てもいいのだろうか、そんな読み手の密かな罪悪感は、魅力的な日記をさらに「そそる」ものにすることでしょう。

原稿零枚日記 (集英社文庫)
小川 洋子
集英社 (2013-08-21)
売り上げランキング: 53,010


 私の一番好きな作家、小川洋子さんです。このブログでは小川さんの本を何冊も紹介してきました。小川さんはこのブログの名付け親であり、小川さんの作品の世界観は、「こんなブログにしたいな」と私が思う理想の世界観でもあります。

 そんな小川さんが書かれた「日記」の物語ということで。傑作であることは言うまでもないのですが、今回も素敵な世界観を堪能していきたいと思います。



内容紹介



日本現代文学

まない原稿、積み重ねられる記憶―

 この物語は、ある小説家が綴る「日記」という形式をとっています。小説家、と書きましたが、この日記の書き手は困ったことに、なかなか小説を書き進めることができません。書き出そうとしては寄り道したり、少し書いては全てやり直しにしてしまったり、そして、原稿から離れ、不思議な記憶の旅に出たり。三歩進んでは三歩下がるような日々。原稿は結局「零枚」というわけです。

 けれど。

 原稿はいつまでたっても真っ白なのに、不思議なことに、物語はどんどん重層的になっていきます。小説家の日常や記憶の一つは、どれも断片的で、とりとめのないものばかり。一つ一つを見れば本当にさりげない、誰の目にも触れることのない「日記」なのかもしれません。

 しかし、断片的だと思っていた記憶は、互いに重なり合い、触れ合って、いつの間にか揺るぎない「物語」になっていきます。

 「この日記を小説にすればいいじゃないですか」、そう小説家に声をかけたくなります。でも、どこか知らないところにいるその小説家には声は届かないのでしょうか。そう考えるともどかしくなります。あれ、でもこの日記はこうやって「小説」になっているのか・・・

 日記の文学というのは、味わい深く、そして不思議なものです。

書評 ~揺るぎない断片



書評

◆ 秘密の場所

 私は物を書くことが大好きですが、「日記」に限ってはとても書くのが苦手です。なぜかというと、とにもかくにも恥ずかしいからです。自分が丸裸になっています。とても人に見せられたものではありません。人に見せるわけでなくても、勝手に一人で恥ずかしくなってしまい、それで日記は上手く書けないのです。

 小学校の時、土日に日記を書いて出す宿題がありました。書くこと自体は辛くなかったのですが、書いた後読み返してみると、「こんなもの、絶対に出せない!」と顔が真っ赤になったことをよく覚えています。消しゴムで必死に消して書き直したことも・・・。(消しゴムで消しても見えていたと思うので、思い出して今でも恥ずかしくなりますね)

 日記の物語ということで、もうそれだけでワクワクします。きっと主人公の小説家さんも、人に見られるとは思っていないことでしょう。だから、自分を丸裸にするようなことがきっと書いてあるはずです。見てしまってごめんなさい、そんな伏し目がちな気分で読み始めたら、さっそく、小説家さんのとんでもない「丸裸」な部分が書かれていました。

 この小説家さん、近所の保育園や学校の運動会にこっそり「潜入」することを趣味にしておられたのです。え?

原稿零枚日記

 運動会にこっそり忍び込むといっても、何か悪いことを企んでいるわけではありません。何もせず、ただそこに「紛れ込む」だけです。誰の保護者でもない部外者が、ひっそりとそこに紛れ込むのです。周りの人は、何も気付かないか、気付いたとしても誰かの保護者だと思うでしょう。
 
 本来自分の居場所がないところに紛れ込んで、波風一つ立てないことによってそこに「居場所」を作ってしまう。その実に危うげで儚げな行為に、私はいつの間にやらすっかり夢中になっていました。この設定、実に小川洋子さん「らしい」です。

 もちろん、ありふれた運動会の景色も、小川さんの手にかかれば実に美しい風景へと一変します。ちょっと、読んでみてください。

列の先頭が一直線上に揃って誰一人はみ出していない健気さ。前方から後方へ、更に一年生から六年生へと続く二つの平面が織りなす絶妙の曲線。赤と白のコントラスト。何もかもが私をうっとりさせる。



 運動会に忍び込むという危なげなお話が、いつの間にか美しい物語へと変わっていました。小川さんの本を読むと、いつもこの感受性がうらやましくなります。こんな風に世界を見ることができたら、世界はどんなに美しいのでしょうか。

 そしてこの運動会のくだり、一番素晴らしいのはその結末です。私は大笑いしました。まさか小川さんの小説を読んで大笑いするようなことがあるとは、と驚きました。でも、本当に面白くて。世界が一瞬で「反転」するんです。たくさん笑った後で、見事な結末に恍惚としてしまいました。

 運動会に忍び込んでもらったある「戦利品」も、とてもいい味を出しています。その後の展開で私はもう一度笑いました。本当に楽しかったです。今回は、「日記」という形式もあるのでしょうか、小川さんの書かれる文がすごく生き生きとして見えます。

◆ ひたむきなものたち


 運動会のくだりはとてもコミカルでたくさん笑いましたが、全体的にはやはりその文学性が見事です。一つ一つの記憶はほんとうに些細でとりとめのないものばかりです。しかしそれを読者は忘れられないし、いつしか引き込まれている。

 どうしてこんなことができるのでしょうか。私は、小川さんの作品のキーワードの1つだと思っているのですが、「ひたむきさ」というものに惹きつけられるのだろうか、などと思いました。

 例えば、日記の最初を飾っている記憶。主役になるのは、なんと道端に生えている「苔(こけ)」なのです。

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 誰にも注目されず、視線から零れ落ちていくような苔。もしかしたら、ただ踏みつけられるかもしれないだけの苔。しかし、そこには揺るぎないひたむきさがありました。

この風景を目の当たりにして、苔を踏んでみたいと思わない人がいるだろうか。私はそろそろと草履を一歩踏み出す。決して乱暴にしてはならない。苔にはこちらを弱気にさせる気配がある。花びらでもなく樹木でもないあいまいさ、小さきものたちが肩を寄せ合い助け合って生き延びようとしている健気さ、ふんわりとした無抵抗ぶり、それでいて容赦のない侵食の精神。そういった事々が私を慎重にさせる。



 こういった、弱く儚いものに吹き込まれる生命こそ、小川文学の真骨頂かもしれません。小川さんの作品は、「日陰」に「命」が吹き込まれ、そして躍動するのです。躍動といっても、ドラマチックにではなく、あくまで静かに、しかし揺るぎなく燃える。こういうところが本当に好きです。今度道端で苔を見つけたら、たぶん私は目を離せません。

 もう一つ面白かったのが、小説家の主人公が、「あらすじ」を書くのは得意である、ということですね。小説はなかなか進まないけれど、あらすじならばその想像力が躍動しだすのです。

あらすじを朗読している間、小説のさまざまな場面がよみがえってきた。そこに吹いている風の様子や、光の加減や、人物の影の形や、言葉の響きや、あらゆるものが本のページをめくっていた時よりもずっと鮮やかに立ち現れてきた。小説が本の形から解き放たれ、妖精の姿となり、あらすじの結晶の中で舞を踊っているかのようだった。



 「あらすじ」も、やっぱり「日陰」なんです。主役じゃない。小説の邪魔をしないように、けれど、小説の魅力を最大限に引き出すために脇でひっそりと活躍する。小川さんの世界では、「小説」ではなく「あらすじ」が主役になります。

 目立たない脇役たちだけど、ひたむきに生きている。そのような視点で小川さんの本を読んでみるととても面白いと思います。そして、その視点を現実の世界にも持ち込んでみたら。きっと、これ以上ない幸福が目の前に広がるはずです。

◆ 零れ落ちて・・・

まとめ



 結局、小説家さんは原稿を進めることができません。原稿は「零枚」(ぜろまい)です。

“何の役にも立たなかった”
この一行を私は日記の中で何度繰り返しただろう。とても数え切れるものではない。



 最後、自棄になったような言葉も出てきます。けれど、私はこの日記を読み終えて、とても「ゼロ」だったとは思えないのです。

 さっき、書評の中で「零れ落ちる」という言葉を紛れ込ませたのですが、気付かれたでしょうか。「零(ぜろ)」「零れる(こぼれる)」は同じ漢字です。

 たくさんの記憶の一つ一つは些細なもので、零れ落ちていったのかもしれません。だから原稿は零枚です。けれど、こぼれることと消えてなくなることは違います。ふと下を見れば、零れ落ちたものによってできた水たまりがそこにはあるはずです。

 この作品は、そんな「水たまり」のようなものなのかもしれません。その水面を、もう一度のぞき込んでみたくなります。



オワリ

 小川洋子さん、大好きです。同じ世界に生まれてこれてよかった。これからも、よろしくお願いします。

 盤上に広がる海 -『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子

 私が思う最高傑作はこちら。チェスがテーマのお話です。胸がいっぱいになって、爆発するかと思いました。あまりにも傑作すぎて、下手な記事を書いて「汚したくない」、そう思ったくらいです。ぜひ実際に本を読んでいただきたいです。


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現代日本文学, 小川洋子,



 読み終えた後、私は床にへたり込んでしまいました。そして、この本をブログの記事にしようかどうか、しばし逡巡しました。いい記事になるはずがありません。強烈な嫌悪感があって、できれば読んだ記憶を消去してしまいたいくらいなのです。

 ですが、読者を強烈に嫌悪させることもまた、作家の才能なのでしょう。

ぬるい毒 (新潮文庫)
ぬるい毒 (新潮文庫)
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本谷 有希子
新潮社 (2014-02-28)
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 『異類婚姻譚』で芥川賞を受賞した本谷有希子さん。今日紹介する『ぬるい毒』は、賞を受賞する前の作品で、芥川賞の候補にもなっていました。この作品は解釈の難易度がとても高いです。だからこそ、あまり深くのめり込まない方がいいかもしれません。タイトルにあるように、「毒」が体の中に巡って、動けなくなってしまうでしょうから。



内容紹介



日本現代文学

 は彼のメッキが剥がれ落ちればいいと願っていた。

 主人公は、熊田という女です。
(乱暴なようですが、「女性」ではなく「女」と呼び捨てている理由はのちほど)

 物語は、彼女が19歳の時から24歳になるまで。長いようで、短い時間です。

 ある時、彼女の実家に電話をしてくる男がいました。その名は向伊。高校の時、お金を貸してもらったから返したい。向伊はそう言います。熊田は彼のことが思い出せません。それも当然、熊田と向伊は違う高校に通っていました。知らない女の子に、文化祭の時にお金を借りたのだ、向伊はそんな風にうそぶいて見せます。

 あまりにも怪しげなこの男。しかし、彼には人を惹きつける「魅力」がありました。存在しているだけで、周りに人が集まってくるような。人の弱みに自然にすっと入り込んでくるような。そして、嘘で人を弄んでしまうような。

 見るからに怪しく、その場で終わらせてもいいはずなのに、突然現れた向伊という男の存在を熊田は記憶から消すことができません。そして、再び彼と会うことになります。

 それは、愛と憎悪と嘘が絡まった、毒々しい日々の始まりでした・・・。

書評



書評

◆ 自意識に満たされた世界

 今、「マウンティング」という言葉が流行っていますね。私たち大学生の間では、1日の間にこの言葉を聞かない日はないというくらい。おそらく、若者ほど好んで使う言葉だと思います。

 マウンティングというのは、さりげなく、自分の方が相手より優位に立っていると示すことです。たとえば、会話の中でさりげなく自分の方が高学歴であることを示して見せるような、そんなことです。「さりげなく」というところが重要なのかもしれませんね。表面上は穏やかな関係を装いながら、自分の中で小さな優越感に浸る。そんな行為に人は快感を覚えるのでしょうか。私にも、正直心当たりはあります。

 今はSNSも発達して、そういった人間の汚い部分が見えやすくなりました。改めて考えてみると、おぞましい世界です。

 さて、この本の主人公、熊田の場合はどうでしょうか。単純なマウンティングとはちょっと違うかもしれません。ですが、人を見下して、人より優位に立とうとしているところは共通しているように思います。ものすごく歪んだ「自意識」、あるいはものすごく屈折した「自己愛」、そんなものが底に流れていると思いました。

信じているふりをして聞き続けた。向伊がどういう男なのか知りたかった。



 向伊という男は、とてもひどい人です。「人間を人間とも思わない」、そんな表現が作中にあって、しっくりときます。人の気持ちを弄ぶために罪悪感もなく嘘をつき、それでいて爽やかな表情を振りまいている。他人のことを見下し、自分の手の中で動かしているというその万能感が、彼は心地よいのでしょう。厄介なことに、彼には不思議な魅力があり、彼の元には女性が集まってきます。向伊は、そうやって自分の元に集まってくる女性のことを、「女ども」と虫のように切り捨てているのでした。

 

私は彼のメッキが剥がれ落ちればいいと願っていた。向伊の底の浅さを知りたかった。



 そんな「騙す男」向伊を、主人公の熊田は「さらに上をいって騙してやろう」と思います。つまり、向伊に惚れている従順な女の「ふりをして」、陰では彼を嘲笑おうとするのです。そして、いつの日か彼の「底の浅さ」を見抜いて、どん底に突き落とす。それが、彼女の目論見でした。

 それが上手くいっているのか。私には、とても上手くいっている風には見えませんでした。「騙されるふりをしながら騙す」ということ。「従順を装いながら見下す」ということ。とても歪んだ行為です。そして、高度なテクニックが必要になる。肥大した自意識が、「毒」となって体の中を巡ります。自意識過剰、などとよく言いますが、自意識とは本当に恐ろしいものです。自分の中に収めていたはずなのに、いつの間にか、自分の手ではコントロールできない怪物になっています。

 この作品は解釈が分かれるでしょう。私には、「破綻」の物語と強く印象づけられました。彼女は、「馬鹿な女」には絶対になりたくなかった。しかし、実は、自分がもっとも嫌悪していたはずの「馬鹿な女」になっていた。そういうことです。

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◆ 声にならない絶叫

 登場人物のほぼ全員が嫌な奴です。人のことを見下して、人より上に立とうとする。人を見下している瞬間、自分がちょっと偉くなったような気がするのかもしれません。だから、悲しいですが、人間は他人を見下すことをやめようとしないのでしょうか。

こいつらの大好物は、人の内面がずたずたになるところと、声にならない絶叫だから。



 熊田はそう分析します。そして、自分がずたずたになっていることを悟られないようにします。彼女もまた、人を見下したいタイプの人間なのでしょう。騙し合い、化かし合い、それなのに、表面上は「穏やかな世界」。くらくらしてきます。体の中に、まさに毒が回ってきているような感覚かもしれません。

 物語の後半、彼女の自意識はどんどん追い詰められていくことになります。自分が騙していたと思っていた向伊が、実は金目当てのためだけに自分を利用していた、そう彼女は悟ります。

私はもう少し扱いが上なのだと信じ込んでいた。下だったなんて、金を引き出すために騙してもいいと思われる程度の存在だったなんて、いまのいままで知らなかった。たとえ演じている私でも、向伊には人間の本当の姿を見抜く力があると思っていたから。



 狂い出す内面。暴れ出す自意識。彼女は、それをいつまで押さえつけておけるでしょうか。結末をぜひご覧ください。

 ですが、くれぐれも、深くのめり込まないように・・・。最後に付け足しておかないとまずい気がしました。

まとめ

まとめ



 人間の中には、自分でも怖くなるくらい「どす黒い感情」が流れていますよね。たまにそれに気付いた時、人は強烈な嫌悪に襲われることになります。「肥大した自意識」もその一つですね。自分という人間がなにか特別な存在だと思ってしまう。まわりとは違う、自分は分かっている。

 ・・・それはまさに毒でした。気付かぬうちに、毒牙は体内を浸潤します。

 この物語は、「きれいごと」のもっとも対極にある、そんな物語です。



オワリ

『異類婚姻譚』 本谷有希子

 こちらは芥川賞受賞作。今日紹介した『ぬるい毒』よりもまだ読みやすいと思います。でも、本谷さんの作品は「小説という枠にとらわれない」奇妙な怪しさをはらんでいるんです。それがハマる人にはすごくハマると思います。


現代日本文学, 本谷有希子,



 前回の『死んでいない者』に続き、第174回芥川賞受賞作品を紹介します。今回紹介するのは、『死んでいない者』と同時受賞となった本谷有希子さんの『異類婚姻譚(いるいこんいんたん)』です。不気味さと爽やかさを合わせ持ったようなこの一編、言ってみれば爽快ならぬ爽「怪」という感じでしょうか。

異類婚姻譚
異類婚姻譚
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本谷 有希子
講談社
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 共に暮らすうちに、夫婦の顔が似ていく―。この作品のテーマです。そして、それは本谷さん自身の体験にも基づいているそうです。血のつながりもない、結婚するまでは赤の他人だった夫婦の顔が結婚後にだんだん似ていくというのですから、何とも不気味な話です。夫婦生活は、夫と妻をどう変えるというのでしょうか。



奇譚のはじまり



 主人公のサンちゃんは、夫と結婚して専業主婦になりました。結婚して4年目、そろそろ夫婦生活も倦怠期、いや安定期に入ってきた頃でしょうか。夫婦としての基盤がたしかなものになりつつも、独身時代のスリルやときめきが思い出せなくなってしまう、そんな時期であるとも言い換えられそうです。そして、そんな夫婦生活にそっと忍び込むように、「その問題」は顔を出しました。

「旦那と、顔が一緒になってきました。」



 サンちゃんはふっとそうつぶやきます。冒頭にも述べたように、夫婦には血のつながりはなく、結婚するまでは赤の他人です。きょうだいの顔が似ているというのなら分かりますが、夫婦の顔が似ている、いや、「似ていく」というのです。生活を共にするうちに顔が似ていくというのでしょうか。なんとも不気味な話です。

 夫婦は別人で、顔のパーツ1つ1つを見ると違うのだ、ということは強調されるのです。サンちゃんの知り合いのキタエさんという人がいるのですが、キタエさんもまた「顔が似ていく夫婦」に出会ったことがあるそうです。その不思議な現象がこんな風に語られています。

目、鼻、口を一つ一つ見ていくと、二人はやはりきちんと別人なのだ。ところが、全体としてとらえ直した途端、なぜか鏡に映ったようにイメージが重なり合う。



 サンちゃん夫婦も、夫と妻の顔は本来全く似ても似つきません。平凡な顔をしたサンちゃんと、ギョロギョロとした目で背中を丸める彼女の旦那さんを似ているという人はいない、とサンちゃん自身も自覚しているのです。似ても似つかない顔をした2人なのに、「イメージが重なり合う」。語られていることが想像できるでしょうか。

 このままではあまりにも不気味なので、もう少しこの現象を掘り下げてみたいところです。サンちゃんは、自分は誰かと親しくなるたびに「取り替えられている」のではないか、と分析します。ここがとても興味深い箇所でした。次の節で詳しく読んでいきたいと思います。

自分が喰われる



 一緒にいるうちに顔が似ていく、ということは本当にあるのかもしれません。私は、家庭の「空気」がそこに絡んでいるのではないかと思いました。家庭にはその家庭だけが持つ独特の空気があって、一つ屋根の下に暮らす人たちは、同じ空気を吸ううちに少しずつ顔が歪んでいく―そんなことを思い浮かべました。

 突拍子もない考えで自分でもあきれそうになりましたが、不思議なことに、「そんなことはないだろう」とはなから否定する気にはなれないのです。家庭の「空気」というのは、目には見えなくても、実は大きな力を持っているように私には思えました。人間がそれに染まって、変わっていってもおかしくはないぐらいの力です。


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 その「顔が歪んでいく」現象を、主人公のサンちゃんはこんな風に捉えています。

これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。



 「なるほど」、と声を出してしまうくらい、妙な説得力をはらんだ部分でした。ここを読んで私が考えたのは、人間というのは思ったより流動的な存在であるということです。何か、人間には「自分」という確固とした存在があるかのように私たちは思ってしまいがちです。しかし実際はそんなことはなく、まるで水が入れられる容器によって変幻自在に形を変えるかのように、人間もまた、食べるものによって、暮らすところによって、そして「一緒に暮らす人によって」、とどまらずに変質していくのではないか、そんなイメージが浮かびました。

旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分が全て取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。(中略)今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。



 蛇の亡霊、という例えも手伝って、より一層不気味さが増してきました。蛇の亡霊もそうですが、それ以上に不気味なのは、一緒に暮らす相手が「旦那のようなもの」であろうとも構わない、と言っている主人公の態度ではないでしょうか。「自分の体など失っている」というその直前にあることばを、不気味にも証明しているようです。

 ここで述べておかなければいけませんが、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。「なんでこんな人と一緒にいられるのだ」と思わせるくらい、嫌悪感だけを覚えさせる人でした。旦那さんの行動や言動は随所に不気味なのですが、それ以上に不気味なのは、妻であるサンちゃんが旦那さんのことを何の抵抗もなく受け入れていることです。

 何の抵抗もなく受け入れている、というのは、「仲睦まじい夫婦」のことを言いたいわけではありません。それは、夫婦が同一になっていく、という不気味な現象でした。物語はさらに怪奇な雰囲気をまとって後半へと移っていきます。

自分を喰う



 前の節のタイトルが「自分が喰われる」で、この節のタイトルは「自分を喰う」です。私なりに考えたものなのですが、この「自分が喰われる」から「自分を喰う」への流れがこの物語の中心にあると思います。

 夫婦が同一になっていく、ということの恐ろしさ。それを表現した2人の性行為の場面が秀逸です。

私は旦那の粘膜の中で、必死にもがこうとするのだが、やがて旦那の体の中は気味が悪いまま、少しずつ気持ちのよい場所になっていく。気付けば私は自分から、せっせと旦那に体を食べさせてやっているのだった。旦那があまりに美味しそうに私の体を呑み込むので、その味覚が自分にも伝染し、私は自分を味わっているような気分になった。



 最初は「旦那に喰われていた」。しかし、夫婦生活を送るうちに、別人だった夫婦は同一になっていく。そうしていつしか、旦那に喰われることは「自分が自分を喰う」ことになっていく(旦那は「自分」だから。旦那が自分を喰う=「自分」が自分を喰う)。ねとりと絡みつくような一連の流れですが、不思議とそこまで嫌悪感はなく、ぐいぐいと読ませていきます。

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 前で触れたように、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。外で一生懸命働いている反動かもしれませんが、家では全くよいところがありません。「夜はテレビ番組を3時間見なければいけない」という謎の宣言を始めたり、ゲームでコインをとるという動作をただ無意味に繰り返したり。例えるなら、「怠惰と無気力の妖怪」とでも言えそうな気持ち悪さがあります。

 私が妻の立場だったら、ちゃぶ台を投げるか怒鳴りたくでもなるでしょう。ですが、サンちゃんはそんな行動には出ません。一応不快感は覚えているようですが、だからといって突き放すことはなく、やんわりと受け入れているのです。そう、少しずつ夫婦が同一になっているからです。

 顔のかたちは全く似ても似つかなかった夫婦が、「イメージが重なり合う」ように同一になっていく、という最初に語られたことが、一組の夫婦の描写を通じて、丁寧に描かれていました。夫婦の顔が似ていくという奇妙な現象を、後半では何の違和感もなく受け入れている自分に気付き、驚かされます。作者の高い筆力が成せる技ではないでしょうか。

譚としての完成度



 不気味不気味と何度も書いていますが、この作品にあったのは不気味さだけではありません。不気味さは醸し出しつつも、妙な「爽やかさ」がある―私はそんな印象を受けました。不気味さと爽やかさというのは本来相容れるものではありません。それを相容れさせているという点も、この作品の大きな魅力だと思います。

 旦那も妻もそれぞれに不気味なのですが、コミカルでどちらかというとライトな描写が手伝うのでしょうか、ほとんど嫌悪感は覚えません。細かいセリフも一つ一つが生き生きとしていて、「キレのよさ」を感じさせます。それでいて、夫婦が同一になって行くという作品の「核」の部分では渾身の描写が展開されています。要するに、完成度が高いのです。小説家でもあり劇作家でもある本谷さん。その実力がいかんなく発揮されているように感じました。

 もう一つ、この作品にキレを生んでいる要因があると思います。本谷さんは、芥川賞の受賞のことばでこんな風に述べられています。

本谷 長い間、ちゃんとした小説を書かなければいけないと信じていました。魂を削りながら書かなければ、とさえ思っていました。だけどあるとき、「そもそも私には、削るような魂があるのかな。」と思ったのです。

(中略)私は、小説の亡霊を追いかけるのはやめにして、”ちゃんとしていない小説”を、ちゃんと書いてみようと思いました。(『文藝春秋』2016年3月号より)



 個人的に、とても共感のできる言葉でした。そして、本谷さんが書かれた今作の読みやすさ、キレのよさ、どこか漂う爽やかさといったものは、この心がけがあったから出せたものではないかと思いました。

 小説家が魂を削って小説を書く。そんな言い方をされることはよくありますし、実際そうやって小説を書くタイプの作家さんもいると思います。ただ、魂を削って小説を書く、というイメージに捕らわれているなら、それはありもしない幻影を追いかけているだけです。無理矢理(ありもしない)魂を削ろうとして、結果として空振りしてしまっている―以前読んだ小説でそんな印象を抱いたものがあったことを思い出しました。「ちゃんとしていない小説をちゃんと書く」、という本谷さんの構えは素晴らしいと思います。今回の作品で一皮むけたと評する選評委員の方もおられましたが、実際そうなのだと思います。

 本谷さんのおっしゃる通り、ちゃんとしていないけれど、ちゃんとしている作品でした。それを感じさせるのが結末部分だと思います。最後に繰り出された一太刀は、山葵のように鼻につんとくるものがあって、見事の一言です。のっぺり、あるいはぬめりと進行してきたこの作品がしっかし締めくくられ、「譚」として完成した瞬間でもありました。

 『爽「怪」奇譚』の異類婚姻譚、いいものを読ませていただきました。



ブックレビュープレミアム
 
 ブックレビュープレミアムのコーナーでは、通常よりボリュームを拡大してたっぷりと作品を読んでいます。芥川賞受賞作分はいずれもこのコーナーで扱っています。ぜひ他の作品のレビューもご覧ください。

『死んでいない者』滝口悠生さん

 『異類婚姻譚』と同時に芥川賞を受賞した作品です。毛色は違いますが、こちらもかなりの力作だと思います。


現代日本文学, 本谷有希子,



  •   16, 2016 17:15
  •  今回と次回の2回で、第154回芥川賞を受賞した作品を特集します。まず今回紹介するのは、滝口悠生さんの『死んでいない者』です。レビューの量をいつもより増やして、「ブックレビュープレミアム」としてお届けします。

    死んでいない者
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    滝口 悠生
    文藝春秋
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     「かつ消えかつ結ぶうたかたの語り」という副題を付けました。これは、御存じの通り鴨長明の『方丈記』に登場する有名な一節をアレンジしたものです。この作品を読んでいる時、頭の中にこの一節が浮かびました。

     この『死んでいない者』という作品は、作品の「語り」が大きく評価されて受賞につながりました。今日のレビューでもこの作品の「語り」に注目していこうと思います。物語を曖昧で重層的なものにした「語り」の技巧に迫ります。



    分からない語り



    誰が誰だか全然分かんねえよ



     これは、私のつぶやきではありません。作中に出てきた一節から引用したものです。私も心の中で同じことを思いながら読んでいたので、心中を見透かされたようで思わずのけぞってしまいました。きっと、作品を書いている滝口さんも同じ思いだったはずで、これは正直な本音の吐露なのでしょう。すでに読まれた方はお分かりになると思いますが、本当に誰が誰だか分からなくなる小説なのです。

     大家族のお通夜を舞台にしたこの作品には、全部で30人ほどの人物が登場するそうです(登場するそうです、という書き方にしたのは、私が自分では数えられなかったからです。インタビューから参照しました)。故人には5人の子どもがいて、10人の孫がいます。それだけでもくらくらしてしまいそうですが、この作品の独特の語りは物語をさらに複雑にします。

     滝口さんが試みた語りとはずばり、「三人称の多視点による語り」でした。この作品では、次々に語り手が移り変わります。大勢の人間が集う通夜の会場を舞台にして、まるでそこに集う人々の「意識」の間をたゆたい、さまようような独特の語りが展開されていくのです。

     滝口さんは複数の語り手を持つ他の小説から大きな影響を受けられたようです。横光利一の『機械』という作品を挙げてこんな風に語っておられます。

    滝口 三人称に加えて、「自身の内面」をもうひとつの人称として描く四人称の小説で、読んでも結局何だか分からなかったりするんです(笑)。でも読んでみて、色々と考えることが出来る、そのことに意味がある作品だと思います。
    (『文藝春秋』2016年3月特別号より)



     滝口さんが横光氏の小説を読んで抱いた感想は、私が滝口さんの小説を読んだときのそれと全く同じでした。はっきり言って、結局何だか分からず、半ば唖然とするような感じで読み終えました。

     ただ、「分からない」というのは、文学において、特に純文学においてはネガティブな感想ではないと私は思っています。分からないものを分からないままにしておく、そこにも「語り」の技巧が求められると思うのです。読み手に不親切で破綻した語りである、というような評も選評会では出たそうですが、私はそうは思いませんでした。滝口さんにならって、この何だか分からない語りを色々と考えてみたいと思うのです。

    混濁への誘い



     副題に鴨長明の『方丈記』からの一節をとった、と書きましたが、改めてその一節を見てみることにします。

    「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」



     「うたかた」は水に浮かぶ泡のことです。水に浮かぶ泡が生まれては消え、また生まれては消えていって、とどまらずに移り変わっていく様子に世の中の儚さが重ねられています。この、「生まれては消え、また生まれては消え」という部分がこの作品の語りから受けるイメージと重なりました。

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     まず作品に登場するのは、故人の長男である春寿(はるひさ)です。冒頭から彼の語りが続き、この小説は彼が回していくのかと思っていると、ふいに会場に子供の声が響きました。それは故人のひ孫、秀斗の声だったのですが、その声が合図になったかのように、語り手はふわりとは秀斗の心の内に移っていくのです。

     移ろいはまだまだ続きます。秀斗の祖母・吉美、さらには秀斗の父親のダニエル、そして秀斗の母親・紗重へと、目まぐるしく視点は変わります。こう書くと物語がだいぶ進んだかのように見えてしまいますが、この時点で物語はまだ数ページしか進んでいません。

     まさに生まれては消え、生まれては消えていく泡のような語りです。読んでいくうちに、この作品において登場人物の関係を把握しようとするのは無駄なことだ、と気付きました。誰かが何かを語っている、そんな漠然とした認識で読んでいいのではないでしょうか。そんなことを思ってからは、次々と生まれる語りにただ身を任せるような気持ちで読み進めていきました。

    意識のたゆたい



     選考委員の方々は、この作品の語りをどのように評価されたのでしょうか。以下に選評をいくつか紹介します。いずれも『文藝春秋』2016年3月号からの引用です。

    自在に流動する語り手は、輪郭が堅固でないからこそ、登場人物に対して何の判断も下さず、彼らの心の欠落にそっと忍び込むことができる。 (小川洋子さん)


    受賞作となった「死んでいない者」は、かたりの作りに企み―といっても従来の三人称多元の技法と大きく隔たってはいないが―のある作品で、自在なかたりの構成が小説世界に時空間の広がりを与えることに成功している (奥泉光さん)


    『死んでいない者』が、意欲的な作品であることは間違いない。問題は、作品の「曖昧な視点」が読者の暗黙と共感に依存している部分がどのぐらいあるか、ということだろう。そうやって考えているとき、「作家の才能とは何か」という問いの、一つの回答を得たような気がした。個人的意見だが、作家の才能とは、「どれだけ緻密に、また徹底して、読者・読み手の側に立てるか」ということではないだろうか。 (村上龍さん)



     この作品の語りの巧みさについては、上のお二方、小川さんや奥泉さんの指摘される通りだと思います。それに対し、最後に引用した村上龍さんの選評は少し毛色の異なるものです。「作家の才能」なるものを考える選評にしばし立ち止まりました。

     同じような語りを試みた作品は他にもあると思います。同じような語りを試みて、滝口さんよりも巧みに語ってみせる作家というのもあるいはいるのかもしれません。作者の才能がどれだけのもので、どれだけ評価されるべきものか、正直未熟な私には分かりませんでした。しかし、たとえ才能を測ることができなかったとしても、この作品の受賞には納得するものがあります。村上さんのおっしゃるように、この作品で試みられた語りがその巧拙はともかくとして「意欲的」であることは間違いないからです。

     大家族の通夜という舞台はすんなりと決まった、と滝口さんは述べておられます。この舞台設定は秀逸で、この物語を物語として成立させている生命線といってよいくらいではないかと思います。人の死に触れて、残された者、つまり「死んでいない者」の中に波打つ静かな感情の揺れ動き―。「意識のたゆたい」を描こうとする中で、通夜という舞台が設定に奇妙な説得力を持たせているように感じます。

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     多くの人が行き交う雑踏の中で、私はよく考えてしまうことがあります。ここを行き交う1人1人が、それぞれ別のことを思って、別の世界を生きている。様々な意識が揺れ動いては行き交うこの混沌とした状態を、文学にはできないだろうか―。そんな、たわいもないことです。

     それはとても難しいことで、作者には相当の技量が求められると思います。三人称多視点の語りというのは、語りの技量がなければ作品として成立せず破綻してしまうでしょう。だからといってあまりに緻密な構成を追求したとしても、それは「作られたもの」になってしまい、私が思っているような「意識のたゆたい」状態は描けません。本当に本当に難しいことなのですね。

     しかも、この小説の語り手は2人や3人ではありません。10人、20人単位で語り手が出てくるので、作品として成立させるのは本当に困難だと思います。語り手を増やした分破綻の危機は高まり、実際この小説は破綻の一歩手前にいるようにも感じました。

     破綻に片足を踏み込んだような危うさ。それが、この小説の評価につながったのではないかと思います。危うくはあるのですが、それは「意識のたゆたい」を描く上で必要な危うさ。本当にギリギリのところにある小説ではないかと思うのです。

    無意味が語られるということ



     この小説は、「死んでいない者」という題にどう帰っていくかが読者に委ねられた小説です。選評で宮本輝さんが書いておられますが、「(まだ)死んでいない者」(=生きている者)と捉えてもいいですし、「(もう)死んで、いない者」(=故人)という捉え方もまた可能なのです。

     私は、まだ死んでいない者、の意味で捉えていました。その上で、曖昧な語りが繰り返されていく中で、「(まだ)死んでいない者」と「(もう)死んで、いない者」との境界線もまた曖昧になっていき、最終的には私たちが「生きている」という一見自明に思えることまでもを根本から揺るがしかねないような、そんな不気味さをはらんだ小説のように思えました。

     徹底的に、無意味が追及されている。そんな印象を受けます。

    兄との電話で話すのは、自分の学校生活のささいなことが多く、あまり深い話にはならない。深まらない、長い話がだらだらと続く。意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような話を連ねて連ねて長さだけが延びていくような兄との電話が知花は好きだった。



     象徴的な場面です。何の意味もないような、どうでもいい話。その場が散れば記憶からも消えてしまい、存在すらなかったようになってしまう話。まさに、水面に浮かんではすぐに消えてしまう泡です。こういうところに手を差し伸べていく。それも、そっと寄り添うような手を。これは、とても尊いことではないかと思います。

    はっちゃんは強くそう決心した。思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。



     ここもそうです。「死ぬまで思い出さないかもしれない記憶」、そんなところに手が差し伸べられるのです。大仰な言い方をすれば、こういった姿勢は「純文学の役割」といってもよいのではないかと思います。

     先程、「作られたもの」への嫌悪に触れました。私は文学を読んでいてそこに「作られたもの」の気配を感じると、その時点で酔いからさめたような気持ちになってしまいます。何かを語るということは、普通に考えればそこに意味を与えるということですから、それが意味を持ってしまうのは自然なことです。その意味で、文学から「作られたもの」の気配を取り除くことはとても困難だと思います。

     しかし、この作品に関して言えば、私は酔いからさめた瞬間はありませんでした。無意味なことを、無意味なままで語っている。改めて思い返して見れば、これは相当に讃えられるべきことなのかもしれません。まだ一度しか読んでいないのですが、これは読み返したくなる作品だということを確信しています。無意味なうたかたの語りが、不思議な魅力を醸し出して私に再び手を伸ばさせるのでしょうか。



    ブックレビュープレミアム

     久しぶりにどっぷりと純文学作品のレビューでした。本文にも書いたように純文学は「分からない」ことの連続なのですが、その分からなくて悶々とした感じが私は大好きです。

     「ブックレビュープレミアム」では前回の芥川賞受賞作品も取り扱っています。「プレミアム」は通常のブックレビューよりボリュームを増やした拡大版です。じっくりと書いています。

    『火花』又吉直樹さん

    『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介さん


    滝口悠生, 現代日本文学,



    •   06, 2016 18:59