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  •  前回の『死んでいない者』に続き、第174回芥川賞受賞作品を紹介します。今回紹介するのは、『死んでいない者』と同時受賞となった本谷有希子さんの『異類婚姻譚(いるいこんいんたん)』です。不気味さと爽やかさを合わせ持ったようなこの一編、言ってみれば爽快ならぬ爽「怪」という感じでしょうか。

    異類婚姻譚
    異類婚姻譚
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    本谷 有希子
    講談社
    売り上げランキング: 4,005


     共に暮らすうちに、夫婦の顔が似ていく―。この作品のテーマです。そして、それは本谷さん自身の体験にも基づいているそうです。血のつながりもない、結婚するまでは赤の他人だった夫婦の顔が結婚後にだんだん似ていくというのですから、何とも不気味な話です。夫婦生活は、夫と妻をどう変えるというのでしょうか。



    奇譚のはじまり



     主人公のサンちゃんは、夫と結婚して専業主婦になりました。結婚して4年目、そろそろ夫婦生活も倦怠期、いや安定期に入ってきた頃でしょうか。夫婦としての基盤がたしかなものになりつつも、独身時代のスリルやときめきが思い出せなくなってしまう、そんな時期であるとも言い換えられそうです。そして、そんな夫婦生活にそっと忍び込むように、「その問題」は顔を出しました。

    「旦那と、顔が一緒になってきました。」



     サンちゃんはふっとそうつぶやきます。冒頭にも述べたように、夫婦には血のつながりはなく、結婚するまでは赤の他人です。きょうだいの顔が似ているというのなら分かりますが、夫婦の顔が似ている、いや、「似ていく」というのです。生活を共にするうちに顔が似ていくというのでしょうか。なんとも不気味な話です。

     夫婦は別人で、顔のパーツ1つ1つを見ると違うのだ、ということは強調されるのです。サンちゃんの知り合いのキタエさんという人がいるのですが、キタエさんもまた「顔が似ていく夫婦」に出会ったことがあるそうです。その不思議な現象がこんな風に語られています。

    目、鼻、口を一つ一つ見ていくと、二人はやはりきちんと別人なのだ。ところが、全体としてとらえ直した途端、なぜか鏡に映ったようにイメージが重なり合う。



     サンちゃん夫婦も、夫と妻の顔は本来全く似ても似つきません。平凡な顔をしたサンちゃんと、ギョロギョロとした目で背中を丸める彼女の旦那さんを似ているという人はいない、とサンちゃん自身も自覚しているのです。似ても似つかない顔をした2人なのに、「イメージが重なり合う」。語られていることが想像できるでしょうか。

     このままではあまりにも不気味なので、もう少しこの現象を掘り下げてみたいところです。サンちゃんは、自分は誰かと親しくなるたびに「取り替えられている」のではないか、と分析します。ここがとても興味深い箇所でした。次の節で詳しく読んでいきたいと思います。

    自分が喰われる



     一緒にいるうちに顔が似ていく、ということは本当にあるのかもしれません。私は、家庭の「空気」がそこに絡んでいるのではないかと思いました。家庭にはその家庭だけが持つ独特の空気があって、一つ屋根の下に暮らす人たちは、同じ空気を吸ううちに少しずつ顔が歪んでいく―そんなことを思い浮かべました。

     突拍子もない考えで自分でもあきれそうになりましたが、不思議なことに、「そんなことはないだろう」とはなから否定する気にはなれないのです。家庭の「空気」というのは、目には見えなくても、実は大きな力を持っているように私には思えました。人間がそれに染まって、変わっていってもおかしくはないぐらいの力です。


    a1180_010281.jpg

     その「顔が歪んでいく」現象を、主人公のサンちゃんはこんな風に捉えています。

    これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。



     「なるほど」、と声を出してしまうくらい、妙な説得力をはらんだ部分でした。ここを読んで私が考えたのは、人間というのは思ったより流動的な存在であるということです。何か、人間には「自分」という確固とした存在があるかのように私たちは思ってしまいがちです。しかし実際はそんなことはなく、まるで水が入れられる容器によって変幻自在に形を変えるかのように、人間もまた、食べるものによって、暮らすところによって、そして「一緒に暮らす人によって」、とどまらずに変質していくのではないか、そんなイメージが浮かびました。

    旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分が全て取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。(中略)今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。



     蛇の亡霊、という例えも手伝って、より一層不気味さが増してきました。蛇の亡霊もそうですが、それ以上に不気味なのは、一緒に暮らす相手が「旦那のようなもの」であろうとも構わない、と言っている主人公の態度ではないでしょうか。「自分の体など失っている」というその直前にあることばを、不気味にも証明しているようです。

     ここで述べておかなければいけませんが、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。「なんでこんな人と一緒にいられるのだ」と思わせるくらい、嫌悪感だけを覚えさせる人でした。旦那さんの行動や言動は随所に不気味なのですが、それ以上に不気味なのは、妻であるサンちゃんが旦那さんのことを何の抵抗もなく受け入れていることです。

     何の抵抗もなく受け入れている、というのは、「仲睦まじい夫婦」のことを言いたいわけではありません。それは、夫婦が同一になっていく、という不気味な現象でした。物語はさらに怪奇な雰囲気をまとって後半へと移っていきます。

    自分を喰う



     前の節のタイトルが「自分が喰われる」で、この節のタイトルは「自分を喰う」です。私なりに考えたものなのですが、この「自分が喰われる」から「自分を喰う」への流れがこの物語の中心にあると思います。

     夫婦が同一になっていく、ということの恐ろしさ。それを表現した2人の性行為の場面が秀逸です。

    私は旦那の粘膜の中で、必死にもがこうとするのだが、やがて旦那の体の中は気味が悪いまま、少しずつ気持ちのよい場所になっていく。気付けば私は自分から、せっせと旦那に体を食べさせてやっているのだった。旦那があまりに美味しそうに私の体を呑み込むので、その味覚が自分にも伝染し、私は自分を味わっているような気分になった。



     最初は「旦那に喰われていた」。しかし、夫婦生活を送るうちに、別人だった夫婦は同一になっていく。そうしていつしか、旦那に喰われることは「自分が自分を喰う」ことになっていく(旦那は「自分」だから。旦那が自分を喰う=「自分」が自分を喰う)。ねとりと絡みつくような一連の流れですが、不思議とそこまで嫌悪感はなく、ぐいぐいと読ませていきます。

    a0002_011392.jpg

     前で触れたように、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。外で一生懸命働いている反動かもしれませんが、家では全くよいところがありません。「夜はテレビ番組を3時間見なければいけない」という謎の宣言を始めたり、ゲームでコインをとるという動作をただ無意味に繰り返したり。例えるなら、「怠惰と無気力の妖怪」とでも言えそうな気持ち悪さがあります。

     私が妻の立場だったら、ちゃぶ台を投げるか怒鳴りたくでもなるでしょう。ですが、サンちゃんはそんな行動には出ません。一応不快感は覚えているようですが、だからといって突き放すことはなく、やんわりと受け入れているのです。そう、少しずつ夫婦が同一になっているからです。

     顔のかたちは全く似ても似つかなかった夫婦が、「イメージが重なり合う」ように同一になっていく、という最初に語られたことが、一組の夫婦の描写を通じて、丁寧に描かれていました。夫婦の顔が似ていくという奇妙な現象を、後半では何の違和感もなく受け入れている自分に気付き、驚かされます。作者の高い筆力が成せる技ではないでしょうか。

    譚としての完成度



     不気味不気味と何度も書いていますが、この作品にあったのは不気味さだけではありません。不気味さは醸し出しつつも、妙な「爽やかさ」がある―私はそんな印象を受けました。不気味さと爽やかさというのは本来相容れるものではありません。それを相容れさせているという点も、この作品の大きな魅力だと思います。

     旦那も妻もそれぞれに不気味なのですが、コミカルでどちらかというとライトな描写が手伝うのでしょうか、ほとんど嫌悪感は覚えません。細かいセリフも一つ一つが生き生きとしていて、「キレのよさ」を感じさせます。それでいて、夫婦が同一になって行くという作品の「核」の部分では渾身の描写が展開されています。要するに、完成度が高いのです。小説家でもあり劇作家でもある本谷さん。その実力がいかんなく発揮されているように感じました。

     もう一つ、この作品にキレを生んでいる要因があると思います。本谷さんは、芥川賞の受賞のことばでこんな風に述べられています。

    本谷 長い間、ちゃんとした小説を書かなければいけないと信じていました。魂を削りながら書かなければ、とさえ思っていました。だけどあるとき、「そもそも私には、削るような魂があるのかな。」と思ったのです。

    (中略)私は、小説の亡霊を追いかけるのはやめにして、”ちゃんとしていない小説”を、ちゃんと書いてみようと思いました。(『文藝春秋』2016年3月号より)



     個人的に、とても共感のできる言葉でした。そして、本谷さんが書かれた今作の読みやすさ、キレのよさ、どこか漂う爽やかさといったものは、この心がけがあったから出せたものではないかと思いました。

     小説家が魂を削って小説を書く。そんな言い方をされることはよくありますし、実際そうやって小説を書くタイプの作家さんもいると思います。ただ、魂を削って小説を書く、というイメージに捕らわれているなら、それはありもしない幻影を追いかけているだけです。無理矢理(ありもしない)魂を削ろうとして、結果として空振りしてしまっている―以前読んだ小説でそんな印象を抱いたものがあったことを思い出しました。「ちゃんとしていない小説をちゃんと書く」、という本谷さんの構えは素晴らしいと思います。今回の作品で一皮むけたと評する選評委員の方もおられましたが、実際そうなのだと思います。

     本谷さんのおっしゃる通り、ちゃんとしていないけれど、ちゃんとしている作品でした。それを感じさせるのが結末部分だと思います。最後に繰り出された一太刀は、山葵のように鼻につんとくるものがあって、見事の一言です。のっぺり、あるいはぬめりと進行してきたこの作品がしっかし締めくくられ、「譚」として完成した瞬間でもありました。

     『爽「怪」奇譚』の異類婚姻譚、いいものを読ませていただきました。



    ブックレビュープレミアム
     
     ブックレビュープレミアムのコーナーでは、通常よりボリュームを拡大してたっぷりと作品を読んでいます。芥川賞受賞作分はいずれもこのコーナーで扱っています。ぜひ他の作品のレビューもご覧ください。

    『死んでいない者』滝口悠生さん

     『異類婚姻譚』と同時に芥川賞を受賞した作品です。毛色は違いますが、こちらもかなりの力作だと思います。


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    現代日本文学, 本谷有希子,



    •   16, 2016 17:15
  •  今回と次回の2回で、第154回芥川賞を受賞した作品を特集します。まず今回紹介するのは、滝口悠生さんの『死んでいない者』です。レビューの量をいつもより増やして、「ブックレビュープレミアム」としてお届けします。

    死んでいない者
    死んでいない者
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    滝口 悠生
    文藝春秋
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     「かつ消えかつ結ぶうたかたの語り」という副題を付けました。これは、御存じの通り鴨長明の『方丈記』に登場する有名な一節をアレンジしたものです。この作品を読んでいる時、頭の中にこの一節が浮かびました。

     この『死んでいない者』という作品は、作品の「語り」が大きく評価されて受賞につながりました。今日のレビューでもこの作品の「語り」に注目していこうと思います。物語を曖昧で重層的なものにした「語り」の技巧に迫ります。



    分からない語り



    誰が誰だか全然分かんねえよ



     これは、私のつぶやきではありません。作中に出てきた一節から引用したものです。私も心の中で同じことを思いながら読んでいたので、心中を見透かされたようで思わずのけぞってしまいました。きっと、作品を書いている滝口さんも同じ思いだったはずで、これは正直な本音の吐露なのでしょう。すでに読まれた方はお分かりになると思いますが、本当に誰が誰だか分からなくなる小説なのです。

     大家族のお通夜を舞台にしたこの作品には、全部で30人ほどの人物が登場するそうです(登場するそうです、という書き方にしたのは、私が自分では数えられなかったからです。インタビューから参照しました)。故人には5人の子どもがいて、10人の孫がいます。それだけでもくらくらしてしまいそうですが、この作品の独特の語りは物語をさらに複雑にします。

     滝口さんが試みた語りとはずばり、「三人称の多視点による語り」でした。この作品では、次々に語り手が移り変わります。大勢の人間が集う通夜の会場を舞台にして、まるでそこに集う人々の「意識」の間をたゆたい、さまようような独特の語りが展開されていくのです。

     滝口さんは複数の語り手を持つ他の小説から大きな影響を受けられたようです。横光利一の『機械』という作品を挙げてこんな風に語っておられます。

    滝口 三人称に加えて、「自身の内面」をもうひとつの人称として描く四人称の小説で、読んでも結局何だか分からなかったりするんです(笑)。でも読んでみて、色々と考えることが出来る、そのことに意味がある作品だと思います。
    (『文藝春秋』2016年3月特別号より)



     滝口さんが横光氏の小説を読んで抱いた感想は、私が滝口さんの小説を読んだときのそれと全く同じでした。はっきり言って、結局何だか分からず、半ば唖然とするような感じで読み終えました。

     ただ、「分からない」というのは、文学において、特に純文学においてはネガティブな感想ではないと私は思っています。分からないものを分からないままにしておく、そこにも「語り」の技巧が求められると思うのです。読み手に不親切で破綻した語りである、というような評も選評会では出たそうですが、私はそうは思いませんでした。滝口さんにならって、この何だか分からない語りを色々と考えてみたいと思うのです。

    混濁への誘い



     副題に鴨長明の『方丈記』からの一節をとった、と書きましたが、改めてその一節を見てみることにします。

    「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」



     「うたかた」は水に浮かぶ泡のことです。水に浮かぶ泡が生まれては消え、また生まれては消えていって、とどまらずに移り変わっていく様子に世の中の儚さが重ねられています。この、「生まれては消え、また生まれては消え」という部分がこの作品の語りから受けるイメージと重なりました。

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     まず作品に登場するのは、故人の長男である春寿(はるひさ)です。冒頭から彼の語りが続き、この小説は彼が回していくのかと思っていると、ふいに会場に子供の声が響きました。それは故人のひ孫、秀斗の声だったのですが、その声が合図になったかのように、語り手はふわりとは秀斗の心の内に移っていくのです。

     移ろいはまだまだ続きます。秀斗の祖母・吉美、さらには秀斗の父親のダニエル、そして秀斗の母親・紗重へと、目まぐるしく視点は変わります。こう書くと物語がだいぶ進んだかのように見えてしまいますが、この時点で物語はまだ数ページしか進んでいません。

     まさに生まれては消え、生まれては消えていく泡のような語りです。読んでいくうちに、この作品において登場人物の関係を把握しようとするのは無駄なことだ、と気付きました。誰かが何かを語っている、そんな漠然とした認識で読んでいいのではないでしょうか。そんなことを思ってからは、次々と生まれる語りにただ身を任せるような気持ちで読み進めていきました。

    意識のたゆたい



     選考委員の方々は、この作品の語りをどのように評価されたのでしょうか。以下に選評をいくつか紹介します。いずれも『文藝春秋』2016年3月号からの引用です。

    自在に流動する語り手は、輪郭が堅固でないからこそ、登場人物に対して何の判断も下さず、彼らの心の欠落にそっと忍び込むことができる。 (小川洋子さん)


    受賞作となった「死んでいない者」は、かたりの作りに企み―といっても従来の三人称多元の技法と大きく隔たってはいないが―のある作品で、自在なかたりの構成が小説世界に時空間の広がりを与えることに成功している (奥泉光さん)


    『死んでいない者』が、意欲的な作品であることは間違いない。問題は、作品の「曖昧な視点」が読者の暗黙と共感に依存している部分がどのぐらいあるか、ということだろう。そうやって考えているとき、「作家の才能とは何か」という問いの、一つの回答を得たような気がした。個人的意見だが、作家の才能とは、「どれだけ緻密に、また徹底して、読者・読み手の側に立てるか」ということではないだろうか。 (村上龍さん)



     この作品の語りの巧みさについては、上のお二方、小川さんや奥泉さんの指摘される通りだと思います。それに対し、最後に引用した村上龍さんの選評は少し毛色の異なるものです。「作家の才能」なるものを考える選評にしばし立ち止まりました。

     同じような語りを試みた作品は他にもあると思います。同じような語りを試みて、滝口さんよりも巧みに語ってみせる作家というのもあるいはいるのかもしれません。作者の才能がどれだけのもので、どれだけ評価されるべきものか、正直未熟な私には分かりませんでした。しかし、たとえ才能を測ることができなかったとしても、この作品の受賞には納得するものがあります。村上さんのおっしゃるように、この作品で試みられた語りがその巧拙はともかくとして「意欲的」であることは間違いないからです。

     大家族の通夜という舞台はすんなりと決まった、と滝口さんは述べておられます。この舞台設定は秀逸で、この物語を物語として成立させている生命線といってよいくらいではないかと思います。人の死に触れて、残された者、つまり「死んでいない者」の中に波打つ静かな感情の揺れ動き―。「意識のたゆたい」を描こうとする中で、通夜という舞台が設定に奇妙な説得力を持たせているように感じます。

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     多くの人が行き交う雑踏の中で、私はよく考えてしまうことがあります。ここを行き交う1人1人が、それぞれ別のことを思って、別の世界を生きている。様々な意識が揺れ動いては行き交うこの混沌とした状態を、文学にはできないだろうか―。そんな、たわいもないことです。

     それはとても難しいことで、作者には相当の技量が求められると思います。三人称多視点の語りというのは、語りの技量がなければ作品として成立せず破綻してしまうでしょう。だからといってあまりに緻密な構成を追求したとしても、それは「作られたもの」になってしまい、私が思っているような「意識のたゆたい」状態は描けません。本当に本当に難しいことなのですね。

     しかも、この小説の語り手は2人や3人ではありません。10人、20人単位で語り手が出てくるので、作品として成立させるのは本当に困難だと思います。語り手を増やした分破綻の危機は高まり、実際この小説は破綻の一歩手前にいるようにも感じました。

     破綻に片足を踏み込んだような危うさ。それが、この小説の評価につながったのではないかと思います。危うくはあるのですが、それは「意識のたゆたい」を描く上で必要な危うさ。本当にギリギリのところにある小説ではないかと思うのです。

    無意味が語られるということ



     この小説は、「死んでいない者」という題にどう帰っていくかが読者に委ねられた小説です。選評で宮本輝さんが書いておられますが、「(まだ)死んでいない者」(=生きている者)と捉えてもいいですし、「(もう)死んで、いない者」(=故人)という捉え方もまた可能なのです。

     私は、まだ死んでいない者、の意味で捉えていました。その上で、曖昧な語りが繰り返されていく中で、「(まだ)死んでいない者」と「(もう)死んで、いない者」との境界線もまた曖昧になっていき、最終的には私たちが「生きている」という一見自明に思えることまでもを根本から揺るがしかねないような、そんな不気味さをはらんだ小説のように思えました。

     徹底的に、無意味が追及されている。そんな印象を受けます。

    兄との電話で話すのは、自分の学校生活のささいなことが多く、あまり深い話にはならない。深まらない、長い話がだらだらと続く。意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような話を連ねて連ねて長さだけが延びていくような兄との電話が知花は好きだった。



     象徴的な場面です。何の意味もないような、どうでもいい話。その場が散れば記憶からも消えてしまい、存在すらなかったようになってしまう話。まさに、水面に浮かんではすぐに消えてしまう泡です。こういうところに手を差し伸べていく。それも、そっと寄り添うような手を。これは、とても尊いことではないかと思います。

    はっちゃんは強くそう決心した。思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。



     ここもそうです。「死ぬまで思い出さないかもしれない記憶」、そんなところに手が差し伸べられるのです。大仰な言い方をすれば、こういった姿勢は「純文学の役割」といってもよいのではないかと思います。

     先程、「作られたもの」への嫌悪に触れました。私は文学を読んでいてそこに「作られたもの」の気配を感じると、その時点で酔いからさめたような気持ちになってしまいます。何かを語るということは、普通に考えればそこに意味を与えるということですから、それが意味を持ってしまうのは自然なことです。その意味で、文学から「作られたもの」の気配を取り除くことはとても困難だと思います。

     しかし、この作品に関して言えば、私は酔いからさめた瞬間はありませんでした。無意味なことを、無意味なままで語っている。改めて思い返して見れば、これは相当に讃えられるべきことなのかもしれません。まだ一度しか読んでいないのですが、これは読み返したくなる作品だということを確信しています。無意味なうたかたの語りが、不思議な魅力を醸し出して私に再び手を伸ばさせるのでしょうか。



    ブックレビュープレミアム

     久しぶりにどっぷりと純文学作品のレビューでした。本文にも書いたように純文学は「分からない」ことの連続なのですが、その分からなくて悶々とした感じが私は大好きです。

     「ブックレビュープレミアム」では前回の芥川賞受賞作品も取り扱っています。「プレミアム」は通常のブックレビューよりボリュームを増やした拡大版です。じっくりと書いています。

    『火花』又吉直樹さん

    『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介さん


    滝口悠生, 現代日本文学,



    •   06, 2016 18:59
  • 琥珀のまたたき
    琥珀のまたたき
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    小川 洋子
    講談社
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    鑑をめくる 一瞬は永遠

     私が一番好きな作家、小川洋子さんの最新刊です。あらすじを見た時から、ずっと読むのを楽しみにしていました。いかにも小川さんらしいストーリーで、傑作が読める予感がしたからです。

     やはり小川さんらしく、静謐さと美しさをまとった傑作でした。作品を読む前、読んでいる時、読んだ後、小川さんの作品は、全てにおいて至高です。人生で一番豊かな時間を、いつも小川さんの小説からいただいています。



    閉ざされた世界



     あらすじを読んだときから期待が高まった、と書きましたが、この本はどんなあらすじなのでしょうか。

     一言でまとめれば、「母親の手によって別荘に閉じ込められた3人のきょうだいの話」です。もともと、きょうだいは4人でしたが、一番末の妹は死んでしまいました。妹が犬になめられて殺された、そんな「魔犬の呪い」を信じてやまない母親は、3人の子どもたちを連れて別荘に移ります。そして、子どもたちにこう言い放つのです。

    「壁の外には出られません」



      こうして、子どもたちは別荘という閉ざされた空間の中で人生を過ごすことになりました。母親が子供を心配する気持ち、守ろうとする気持ちが歪み、「閉じ込める」という行為へと発展したのです。

     子どもたちは、これまでの名前も奪われ、新たな名前を与えられます。3きょうだいの名前は、琥珀(こはく)、オパール、瑪瑙(めのう)。こうやって人物の名前がぼかされる、あるいは名前が与えられないというのも小川作品の特徴です。そうやって、作品の純度が高められていきます(よかったら、琥珀、オパール、瑪瑙でそれぞれ画像検索をしてみてください。なんて美しい3きょうだいでしょう。小川洋子さんのセンスにため息が出ます)。

     さて、この作品が小川洋子さんらしいといったのは、「別荘に閉じ込められる」という設定です。小川さんは自分の作品の特徴について、このように語っています。

    ナチスの迫害を逃れるために隠れ家に潜んだ少女アンネ・フランクの言葉に心を揺さぶられ、作家デビューしてから彼女の足跡を訪ねた。数学やチェスなど扱う題材は多彩だが、その多くで『アンネの日記』と重なる「閉ざされた世界」を描く。「理屈では説明できないけれどそんな世界が無視できない。新しいものを書いたつもりで同じ泉の水をくんでいる」と笑う。

    産経ニュース「長編『琥珀のまたたき』小川洋子さん 閉ざされた家の美と崩壊」(2015.9.16) http://www.sankei.com/life/news/150916/lif1509160015-n1.html



     「閉ざされた世界」、これが小川洋子さんの作品のキーワードになると思います。そして、その閉ざされた世界のルーツはあの「アンネの日記」にあるのですね。別荘に閉じ込められる、という設定はいつも以上に「閉ざされた世界」を感じさせる設定でした。それで、傑作の予感がしたのです。

     別荘に閉じ込められた子どもたち。閉ざされた世界で、彼らだけの時間が漂います。小川作品独特の静謐さを漂わせつつも、そこに「危うさ」も感じさせる―どこか心がザワザワするような、不安な静けさが広がります。

    図鑑から広がる世界



     別荘に閉じ込められた子どもたち。彼らに与えられた唯一の世界は「図鑑」でした。彼らは図鑑をめくります。そして、様々な想像を巡らせます。閉じ込められているのに、彼らの世界は無限に広がるのです。見事としか言いようがありません。

    図鑑の中はとても静かだ。世界中のありとあらゆる事物が詰め込まれているというのに、その余白は驚くほどしんとしている。どんな分類にも系統にも含まれず、すべての項目からはじき飛ばされ、ぽつんと取り残された余白が彼らを安堵させる。静けさはいつでも彼らにとって、一番馴染み深いものだ。



     読んでいて時間の流れを忘れるような、あるいは周りが何も見えなくなるような・・・小川洋子さんの描く世界は、そんな静寂に包まれています。私は小川さんの描くこの世界観が他の何よりも好きです。この静寂に触れるために、小川さんの作品を手に取ります。彼らは母親から別荘という閉ざされて空間に閉じ込められています。それはよく考えればおぞましい事態なのですが、そんなことを全て忘れさせるかのように、静寂は物語を包み込みます。

    大丈夫だ。誰も欠けていない。壁は高く頑丈で、図鑑の地層は深い。世界の全てがここにある。合唱を邪魔しない無音の声でつぶやきながら、琥珀は次のページをめくる。



     外に一歩も出ることのできない異常な世界。だけど、彼らはどこまでも駆けていく―。

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     図鑑から、彼らは想像を広げていきます。そして、さまざまな遊びを生み出すのです。「オリンピックごっこ」「事情ごっこ」・・・本当に素晴らしかったです。想像から、ここまで物語が広がるものか―そう思いました。決して感動する場面ではないのですが、想像力が訴えてくるものがあまりにも大きくて、こみ上げてくるものがありました。

     そして、最も素晴らしかったのは「一瞬の展覧会」。本を読んでいない人も、「一瞬の展覧会」という名前を聞いただけでワクワクしてしまうでしょう。図鑑をめくるという何気ない作業は、「一瞬」の積み重ねでできていたのです。

    一ページが瞬き一回だと琥珀はすぐに理解した。瞬きの瞬間、暗闇がよぎる。ほんの短い時間でも、あたりはすべて真っ暗になる。それが、ページとページの間に訪れる空白だ。再び光が戻った時、直前に起こった小さな中断のことなど皆忘れてしまうが、間違いなくそこには空白が差し挟まれている。

    (中略)自分のいるこの世界は、瞬きによって切り取られた一瞬一瞬の連なりで出来上がっているのだ、彼は気づく。



     上は、「図鑑のページをめくる」場面です。普通なら、気に留めることもない、何気ない場面なのです。それを小川洋子さんが描くと上のようになります。どんな些細な出来事も、世界に埋もれた普通の瞬間も、小川さんの手によって切り取られればそれは『物語』になる。

     物語を生成する力、物語の可能性、物語の役割・・・全てが最高水準。私の中では、やはり小川洋子さんが世界で最高の書き手です。

    物語の終焉



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     小川洋子さん自身も、書いていて「物語の役割」のようなものを再確認されたようです。

    「肉体は外には行けないけれど、彼らは彼らなりに想像力を働かせて壁の内側を自由に呼吸ができる楽園にした。こういう環境で人間が自由になるとしたら物語を頼りにするしかない。この小説を書いて思いましたね、『やっぱり人間には小説が必要なんだ』と」



     小説というのは、何のために存在するのでしょう。もしかしたら、単なる娯楽として、面白おかしく小説を読む人もいるのかもしれません。実際に、面白おかしく読んでもらうための小説も世の中には溢れています。

     ただ、小川洋子さんの書く小説には、そういったことは一切当てはまらないのです。毎回思わされるのは、「小説が存在する意味」についてです。小川さんの小説は「閉ざされた世界」を舞台にしているものが多く、山もなければ谷もなく、ただただ静寂に包まれています。

     それでも、毎回思います。「この小説は、世界に必要である」、あるいは「この小説は、誰かに必要とされている」-。そう思わせるのは、上に書いたように、小川さんが小説の必要性について誰よりも深く理解して物語を生み出しているからです。読み終えた後の、静寂の中にも確かに残るこの余韻・・・毎回至福の時間を過ごしています。

     「終わってほしくない」、いつも思います。しかし、残念ながら本をめくり続けていると終わりが近付いてきます。そして、小川さんの作品では「最後」にも要注目です。実は、ものすごく残酷な結末が用意されていることもけっこう多いのです。

     今回も、ものすごく残酷な結末が待っていました。本を読み終えた後に改めて考え直してみるのですが、かなり残酷で、救いのない結末です。

     他の作家さんだったらかなり衝撃を受けて終わるところですが、小川洋子さんの場合、衝撃はありません。なぜなら、「残酷な結末さえ静かに描くから」です。容赦のない残酷な結末までが、静寂の中に飲み込まれていく―これもまた恒例の、独特の余韻です。

     小川洋子さん、今回も素晴らしい作品を届けていただき、ありがとうございました。一番好きな作家の本ですから、レビューを書いている時も一番充実しているのです。

    レコメンド

    けさの中に危うさをはらんだ、「彼らだけの世界」-。

     次は短編を書かれるそうです。小川さんの短編小説は独特の世界観が凝縮されていてこれもまたすごくいいのです。この小説の余韻を大切にしながら、また楽しみにしています。

    ◆殿堂入り決定!

    「最果ての図書館」は『琥珀のまたたき』を「ゴールド」に認定しました。





    オワリ

     どれだけ言葉を尽くして絶賛を重ねても、全く足りる気がしません。本当に偉大な作家さんです。


    「いつも彼らはどこかに」 小川洋子さん

     前回のレビューです。こちらは動物をテーマにした短編集です。改めて言う必要もありませんが、素晴らしい作品でした。

     前のレビューの最後に、私はこんなことを書いています。

    >一番好きな作家を聞かれた時は小川洋子さんと答えます。でも、理由を聞かれた時に説明するのがすごく難しいんです。その結果、きょとんとされてしまい・・・。もっとうまく語れるようになりたいものです。そして、もっとうまくレビューを書けるようになりたいものです。

     ・・・今も全く同じ思いです。なかなか共感してもらうのが難しい作風だと思います。表現するのは難しいけれど、自分の知っている表現の限りを尽くして伝えてみたいです。前回に比べたら、少しはレビューが上達しているでしょうか・・・。


    小川洋子, 現代日本文学,



    •   06, 2015 23:03
  • スクラップ・アンド・ビルド
    羽田 圭介
    文藝春秋
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    の前にいる人間の、何が分かるのか―。

    ☆この記事は2回シリーズの後編です。後編からいらした方は、ぜひ前編の記事のほうもご覧ください。
    → 羽田圭介さん「スクラップ・アンド・ビルド」を読む (前編)

     羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」、今回は後編です。祖父と同居する孫息子が、祖父に穏やかな死を迎えさせてやるために、「足し算の介護」で祖父の体力を奪っていこうと決意する場面までを読みました。

     孫息子の危うい考えは、破綻することなく最後まで貫き通されるのでしょうか。「価値観の合わない人間の顔が見えた時、人間は何を思うか」という羽田さんが描きたかったテーマが、ラストに向け、徐々に浮き彫りになってくるのです。



    愚かな前進



     読み手の側から眺めていると、健斗の思想はかなり危ういところに位置しており、読んでいてハラハラするものがあります。そんな読み手の気持ちなどつゆ知らず、健斗は自分の考えに確信を深めていきます。

    (引用)
    苦しみに耐え抜いた先にも死しか待っていない人たちの切なる願いを健康な者たちは理解しようともせず、苦しくてもそれでも生き続けるほうがいいなどと、人生の先輩に対し紋切り型のセリフを言うしか能がない。未来のない老人にそんなことを言うのはそれこそ思考停止だろうと、健斗は少し前までの自分をも軽蔑する。凝り固まったヒューマリズムの、多数派の意見から外れたくないとする保身の豚が、深く考えもせずそんなことを言うのだ。



     作品を読んで思ったのですが、核心を突くような場面においては物怖じしないかなり突っ込んだ表現が多用されています。そのような表現が一人の若者の愚かさ、未熟さ、そして世界の狭さをよく描写しています。

     介護の傍らで、健斗が自分の筋肉を鍛えることにまい進する、という設定が面白いです。目の前の老人には未来がなく、この先死に向かって進んでいくしかないのに対し、自分にもこの先も長い未来と人生がある。筋肉を鍛えることは、未来のない祖父を突き放し、自尊心を確保するための行為なのでしょうか。ユーモラスで、どこかちぐはぐな感覚を作品にもたらしています。

     彼は未熟なのですが、私たちに問題提起をしていると考えることもできます。

    介護にも役立つと考えて筋肉の鍛錬に励んだり、祖父が生き長らえる気力を削いでやろうと努力したりしながら、介護についての観念的認識と実在的感覚のギャップを開示してもいる (選評 島田雅彦さん)



     介護のゴールは、「死」です。被介護者に穏やかな死を迎えさせてやった時、介護者はようやく介護から解放されます。穏やかに逝かせてやる、ということが目的になると思います。ですが、死んだら解放されるということは、そこに「違う気持ち」が沸き起こってきても不思議ではないのです。

     とはいえ、彼は実は介護のことをそこまで深く捉えてはいないように思います。結局、目の前にいる祖父のことを何も分かっていなかった、ということが明らかになってくるのです。

    煩悶のラスト



     さて、作品は終盤にさしかかってきました。羽田さんは、この作品のラストを書くときにたいへん悩んだといいます。別のインタビューで、こんな風におっしゃていました。

    (引用)
    「役に立っているつもりの若者が、最終的には老人にしっぺ返しをされる、なんとなくそういうイメージで書いていたんですけど。本当にそれでいいのかどうか、最後の数頁は本当に悩みました」



     羽田圭介氏 又吉との芥川賞同時受賞は「ラッキー」と言い切る(NEWS ポストセブン )

     読んでいて、羽田さんが苦労されたということがひしひしと伝わってくるようなラストでした。文学らしくというか、表だって大きなことが起こるわけではないのですが、緊張感の漂う中で、微妙なせめぎあいがあったことを印象づけるラストになっていました。

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     核心に迫る場面です。祖父が健斗にこんなことを言います。

    (引用)
    「健斗は」
    額に手を当てていた祖父が突然、健斗を向いた。

    「じいちゃんが死んだらどげんするとね」



     健斗は息を止めました。このあたりから少しずつ見えてきます。これまで、自分が祖父よりも優位に立ち、祖父の死に向かって手を貸してやっているつもりでいた健斗。しかし、支えられていたのは健斗のほうではないのか。

     祖父の介護をしている、祖父が死に向かう手助けをしている―そのことが、健斗の自負であり、精神的支えになっていたのです。就職活動中という厳しい状況にありながら、自分を保つことができていたのは、祖父がいたからではないのか・・・そんな風に思ったのかもしれません。

     誰かの役に立っていると思えることは、その人の生きる意味になります。社会学者の阿部彩さんはこんな風に述べています。

    (引用)
    社会の中で「役割」「出番」があるということは、人が尊厳を保つのに欠かせない前提である。自分が役に立つ存在であるという固い信条を持つ人間は幸せであり、美しい。





     健斗にとっての役割や出番は、祖父の面倒を見ているというその一点だったのでしょう。しかしそれは、社会の中でではなく、狭い家の中での役割です。家の中にしかない、とても脆くて、危うい役割。「じいちゃんが死んだらどげんするとね」という祖父の言葉は、まさに核心を突いた一言でした。

     祖父は死にゆく人間として、一方的に健斗に見下げられていました。健斗目線で書かれてきた小説ですから、「本当の祖父」はここまでにはいなかったのかもしれません。祖父は健斗の危うい自尊心なるものを、どこまで見通していたのでしょうか。たった一言で、恐ろしくさせてくれます。

     価値観の合わない相手と額を突き合わせて生活していくというのは、本当に難しいことだと思います。そんな難しい生活の中で、健斗の心の平衡感覚が、どこかで狂ってしまったように思います。私も、同じような状況になったら、自分を保っていられる自信はありません。いろんなことから目をそらそうとするでしょう。自分に都合のよい思い込みを、無理矢理にでもするでしょう。そうでもしないと、価値観の合わない相手と一緒には生きていけない気がします。

     それはとても危ういことです。結局、私たちは目の前にいる人間の何が分かっているのか。いや、何かを分かろうとはしているのか。

     そして、健斗に最後の衝撃を与える出来事が、風呂場の中で起こりました。

    距離感の怖さ



     最近は、他者との距離感が難しくなった時代だと思います。面倒に巻き込まれないために、相手と距離感をとっておくのが無難という風潮が強くなっているように思います。その一方で、ネットではどこの誰かも分からない人とコミュニケーションをとる。距離感の平衡感覚がつかめなくなってきているとでもいえるでしょうか。

     他者との距離感を間違うと、面倒ごとに巻き込まれるよりもはるかに恐ろしいことが待っていると思います。

     ユーモラスな雰囲気があり、文章は軽めです。あっさり読めてしまいそうなものですが、煮詰めていくと底の見えない恐ろしさが浮かんでくる小説でもあります。だからこそ私は、ユーモラスな部分は抑えて、その恐ろしさのさらに深い部分まで潜り込んでいってほしかったとも思いました。

     羽田さんがこのテーマの下で「介護」を題材に選んだことは、必然であったのかもしれませんが本当に秀逸だと思います。「介護」をさらに深く捉えた先にある、「人間と人間の関係」。その深遠さを噛みしめています。

    レコメンド

    うい世界の中にいた若者が、最後に見せられる「もうひとつの世界」―。

     2回合わせると約7000字と大変ボリュームのあるレビューになりましたが、読んでいただきありがとうございました。純文学のレビューはいつも長くなりますが、やはり作品の裏に秘められたテーマが深いからだと思います。



    ブックレビュープレミアム

    芥川賞受賞作「九年前の祈り」を読む (3回シリーズ)
     前回の芥川賞、「九年前の祈り」です。狭い場所に押し込められてきたものということでは、「スクラップ・アンド・ビルド」と似たものがあるかもしれません。こちらは王道というか、正統派の芥川賞作品という感じだったと思います。


    羽田圭介, 現代日本文学,



    •   06, 2015 23:37
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