HOME > ARCHIVE - 2015年03月
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





  •   --, -- --:--
  • イーハトーヴ


     宮沢賢治の特集をお送りしています。前回、前々回は教科書に掲載されている作品、「やまなし」を読みました。今回は、宮沢賢治とはどういう人だったのかをまとめたいと思います。

    IMAG0080_BURST002_1_convert_20150331160418.jpg

     今回紹介する作品は、小説家の故・畑山博さんが宮沢賢治についてまとめた評伝、「イーハトーヴの夢」です。実はこの作品は、「やまなし」とセットになって教科書に掲載されています。宮沢賢治の生き方、思想、そういったものが大変分かりやすくまとめられた作品です。ぜひ、「やまなし」と照らし合わせて読んでいただきたいと思います。
    ※引用は全て「イーハトーヴの夢」からです。



    物語が生まれたわけ




     宮沢賢治は1896年、岩手県の花巻に生まれました。この年は多くの災害に見舞われた年だったそうです。三陸の大津波、洪水、大地震、伝染病・・・1年の間にこれだけのことが起こり、岩手県内だけでも5万人以上が亡くなったという大変な年でした。

     自身は裕福な家庭に生まれた賢治でしたが、自然災害は容赦なく農民たちを苦しめます。そんな光景を見て、賢治は大きな決断をしました。

    「なんとかして農作物の被害を少なくし、人々が安心して田端を耕せるようにできないものか。」賢治は必死で考えた。
    「そのために一生をささげたい。それにはまず、最新の農業技術を学ぶことだ」



     賢治は盛岡高等農林学校に入学します。学者になる道もありましたが、それを断り、25歳の冬に花巻の農学校の教師になりました。

     厳しい自然災害と、苦しい農作業。宮沢賢治の作品には、そんな困難から生まれた「あるメッセージ」が込められていました。畑山さんはこう書きます。

    暴れる自然に勝つためには、みんなで力を合わせなければいけない。力を合わせるには、たがいにやさしい心が通い合っていなければいけない。そのやさしさを人々に育ててもらうために、賢治は、たくさんの詩や童話を書いた。


     
     改めて、「やまなし」を読み返してみます。やまなしだけを読むと、水中の幻想的な様子、透明感のある美しい文章などに目がいきます。ですが、その背景に「自然の厳しさ」があったこと、そして心を通い合わせるというメッセージが込められていたことを含めて読み返すと、ずいぶん印象が変わります。

     幼いころから自然の厳しさを見せつけられてきた彼が、こんなに美しい物語を生み出したということに、私は思うところがありました。自然を恨み、憎んでも不思議ではありません。ですが、彼は受け入れました。それこそが「やさしさ」なのだろうか、と思います。

    イーハトーヴの夢



     宮沢賢治の物語は、「イーハトーヴ」という1つの世界の下で展開しています。イーハートーヴというのは彼が想像して作った地名なのですが、「岩手」をモチーフにしているというのが定説です。

     畑山さんは、宮沢賢治の物語の舞台を地図上にまとめ、イーハトーヴのパラレル地図を作りました。とても素敵な地図です。
    イーハトーヴの地図

    1427784888352_convert_20150331160441.jpg

     「やまなし」の舞台となったのは、「イサドの町」の近くに流れている小さな川です(お父さんのかにが、イサドの町に行く、と言う場面がありました)。

     他にも、有名な作品に出てきた舞台がたくさん登場します。

     風の又三郎や、セロ弾きのゴーシュ、グスコーブドリの伝記・・・などなど。右下にある「種山・銀河鉄道駅」はもちろん「銀河鉄道の夜」ですね。

     このイーハトーヴでの物語を通じて、賢治が追い求めた理想がありました。

    賢治がイーハトーヴの物語を通して追い求めた理想。それは、人間がみんな人間らしい生き方ができる社会だ。それだけでなく、人間も動物も植物も、たがいに心が通じ合うような世界が、賢治の夢だった。一本の木にも、身を切られるときの痛みとか、日なたぼっこのここちよさとか、いかりとか、思い出とか、そういうものがきっとあるに違いない。賢治は、その木の心を自分のことのように思って、物語を書いた。



     やさしさや思いやりというのはよく言われることですが、それらが動物や植物にも向けられている、というのが注目すべき点です。優しく、思いやりを持って・・・というのは私も意識していることですが、正直それは「人間に対して」が精一杯です。

     せわしなく、窮屈な毎日は「優しさを削がれる」日々なのかもしれません。失われていく優しさを掘り起こす、宮沢賢治の物語にはそんな側面もあるのだと思います。動物や植物、それらにも目を向けることができるのは物語の魅力ではないでしょうか。

    悲しみの果てに



     下は有名な詩、「雨ニモマケズ」を書いた手帳です。厳しい自然に直面してきた、ということをもっともストレートに表現した作品ではないでしょうか。
    IMAG0082_BURSTSHOT002_1_convert_20150331160513.jpg


     宮沢賢治といえば、忘れてはいけないのは最愛の妹、トシとの別れですね。トシとの別れは作品に色濃く反映されています。この別れを描いた「永訣の朝」という詩があるのですが、私はあまりにも悲しすぎて、この詩を直視することができません。悲しい別れ、そんな言葉には到底収まることのない賢治の痛切な思いを感じることができます。

     自身も、病気と闘った末、37歳の若さでこの世を去りました。悲しみと苦しみが渦巻き続けた人生だったように思います。それでも、彼の中には変わらぬ「やさしさ」があった―その尊さを噛みしめます。

     宮沢賢治は、他の文学者とは全く次元の違う人です。他の文学者たちが難解なテーマに悶々とし、作品を通して懊悩していた間、宮沢賢治は独自に作り上げたイーハトーヴの世界で自然まで包括した優しさを求め続けていました。

     よく言われることですが、まさに天才というべきその感性自然との交感力の高さには特筆すべきところがあります。

     3回シリーズにしようと思っていたこのコーナーですが、今後も継続することにしました。イーハトーヴの世界にはまだまだ魅力的な場所がたくさんあるようです。そこに込められたメッセージは、現代社会が受け止めるべきものだと思っています。今後は定期的に宮沢賢治の作品を紹介していこうと思います。



    こちらもどうぞ

    「永訣の朝」 宮沢賢治
     本文中で触れた、妹トシとの別れを綴った詩です。これも教科書で読んだ気がします。最後の5行は一生忘れられないくらい印象に残っています。

    教科書への旅 #3 「やまなし」 宮沢賢治
     宮沢賢治について学んだあとで読み返すと、作品の印象が大きく変わることに驚かされます。
    スポンサーサイト
    宮沢賢治,



    •   31, 2015 18:47
  • 教科書

     前回に続き、この作品を見ていこうと思います。

    1427613928492_convert_20150329163026.jpg

     宮沢賢治「やまなし」(小学6年生)です。 前回の記事では、5月と12月の描かれ方を比較しながら、どうして宮沢賢治がこの2つの月を選んだのか、ということを考えていました。今回は後編です。この作品で最も印象深い謎の存在、「クラムボン」に迫ります。




     まずは「クラムボン」とは何なのか、説明したいと思います。2匹のかにの子どもが、川の底で「クラムボン」とやらについて語り合っています。「クラムボン」に関する描写を抜き出してみました。

    「クラムボンは笑ったよ」
    「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」
    「クラムボンははねて笑ったよ」

    「クラムボンは死んだよ」
    「クラムボンは殺されたよ」



     かぷかぷ笑って、はねて笑って、殺されてしまう・・・?これを抜き出しただけではさっぱり分かりませんね。前後の描写も加えてみたいと思います。

     笑った かぷかぷ笑った はねて笑った → あわがつぶつぶ流れる → 笑った かぷかぷ笑った → あわがつぶつぶ流れる → 魚が頭の上を過ぎる → 死んだ 殺された → 魚が下に戻ってくる → 笑った → 日光が差し込む

     小学生の時はクラムボンが何を指しているのかさっぱり分かりませんでした。ですが、今こうして整理してみると、クラムボンの正体はだいぶ絞られてくるということが分かります。登場しているのは「あわ」「魚」そして「光(日光)」の3つです。クラムボンの正体は、この3つのうちのどれか、と推測できます。

     その中で、私がクラムボンではないか、と思ったのは「あわ」です。あわが「笑う」という表現に戸惑いますが、あわの「ブクブク」という音を「笑う」と形容するのはそんなに不自然ではありません。「かぷかぷ」も、あわのイメージによく合った擬音語です。

     あとは「死んだ」と「殺された」ですね。ここで注目したいのは魚の動きとクラムボンです。魚が頭の上を通り過ぎた時にクラムボンが死んで、魚が下に戻ってきたらクラムボンは笑った、という流れになっていることが分かります。これも、クラムボンをあわと考えると上手くいきそうです。魚が通り過ぎた時、浮かんでいたあわを突っ切っていってしまった(あわが「死んだ」)、そして、魚が下に戻ってきたとき、水面が揺れて再びあわが立った(あわが「笑った」)、という訳です。

     これが私が考えた「クラムボン=あわ」説です。自分で言うのもなんですが、結構筋が通っているように見えます。クラムボンはあわで決定、と結論を出しかけました。しかし、大事なのはここからでした。ちょっと参考にしようとネットを調べたところ、驚きの事実が判明しました。クラムボンの正体は、そんなに単純ではなかったのです。

     クラムボンの正体はあわでしょうと思って調べたところ、ネットには(私にとって)厳しい言葉が並んでいました。(この考察に挑んだサイトはたくさんありました)

    泡や光といわれて納得してしまうのは、すでにそれが泡や光だと決めつけてしまっているからではないのか。(中略)他の一切の記述を捨象して、単にここに「笑う」「跳ねる」「死ぬ」「殺される」というこれらの要件を満たしうる存在は何であるか、と問われた場合に、「光です」「泡です」などと答える者がいるとしたら、そいつはバカだ。「アホか」「頭おかしいんじゃないの」と知能を疑われて当然である。そんなくだらない意見まかり通ってしまう国語の授業に、いったい何の意味があろうというのだ。

    出典は こちら

    泡が笑いますか?泡が死にますか?殺されますか?冷静に考えましょう、まずありえません。(中略)泡、光、魚の3つだけはどんなに頑張っても説明がつかない。よってこれらは結局は机上の空論に過ぎないのである。

    出典はこちら

     き、厳しい・・・。ぼろくそに言われました。「あわか魚か光」と言っていた自分が恥ずかしくなります。私の推測はメルヘンチックな机上の空論なのでしょうか・・・。

     いったん私のメルヘンチックな仮説は置いておくことにします。もっと明快で、説得力のある仮説が存在しているようです。それは、「クラムボン=コロボックル」説です。コロボックル、というのは、アイヌ地方に伝わる伝説の小人のことです。

     宮沢賢治はアイヌ文化に大変関心が高く、この「クラムボン」という言葉の由来はアイヌ語にあるのではないか、という説がかなり有力に思えました。

    クラムボンをアイヌ語に分解すると、kur・人、男 ram・低い pon(bon)・子どもとなる 。多くのアイヌ語辞典などの表記においては、ほとんどbの音は使われていない。だが、なまりによって変化することもあり、pとbを混同して表記されることは当時ではよくあった 。「やまなし」の初めての連載においても、「クラムポン」と「クラムボン」の記述は一定していなかったという 。
     クラムボンは、単語の意味をあわせると、アイヌ各地に分布する伝説の小人・コロボックルだと考えられる。       

    出典はこちら

     アイヌ語にすると、しっかり意味が通るのですね。ちなみに、この作品には「イサド」という架空の町の名前も登場するのですが、この「イサド」もアイヌ語に訳すと「例の乾いた沼」となり、意味が通るそうです。「クラムボン」や「イサド」は、宮沢賢治が頭の中で練り上げた造語ではなく、アイヌ語をベースにしている、というのはおそらく間違いなさそうです。

    a1760_000008.jpg

     以上、今日は「クラムボン」について考えてみました。クラムボンがコロボックルというのが最有力の仮説ですね。ですが、実際「クラムボンはコロボックル」と言われたところで全くすっきりはしませんでした。その理由は簡単、「コロボックルの正体が分からない」からです。

     このコロボックルの正体についても、いろいろと説があるようです。「蕗の葉の下の人」という意味があるそうですね。画像検索をかけると、かわいらしいキャラクターがたくさん出てきました。

     もしクラムボンがコロボックルだとすると、コロボックルが「死んだ」「殺された」ということになるのでしょうか・・・。そうなると「やまなし」のイメージがまるっきり変わってしまいます。

     前回の記事で、「やまなし」を理解するには宮沢賢治のことを知らないといけない、と書きましたが、本当にそうみたいです。少しでもクラムボンの正体に近づこうと思ったのですが、かえってややこしくなってしまいました。

     「やまなし」についてはこれにて終了します。ですが、宮沢賢治のことを知る必要があると判明したので、次回の記事ではある資料をもとに宮沢賢治の生涯を簡単に振り返ってみたいと思います。宮沢賢治が作品に込めた思いなどを、分かりやすく説明している資料です。こちらもどうぞお楽しみに。

     個人的には、「クラムボン=あわ」説を気に入っていたのですが、やはりこれは的外れなのでしょうか・・・。未練が拭えません。学校によってクラムボンの正体は違う教え方をされているそうですから、個人の想像もきっと許されるはず!と自分を慰めています・・・。

    宮沢賢治, 教科書,



    •   30, 2015 18:40
  • 教科書

     「教科書への旅」のコーナーです。記事へのコメントや、思い出の教科書作品の紹介など、このコーナーにはたくさんの反応をいただいております。第3回に取り上げるのは、長年にわたって教科書に掲載されているこの作品です。

    1427613928492_convert_20150329163026.jpg

     宮沢賢治「やまなし」(小学6年生)です。その独特の世界観は、教科書に掲載された他のどの作品にもない不思議な存在感があります。この作品はには読みどころがたくさんあります。今回と次回、2回に分けてじっくりとみていきたいと思います。



    あらすじ



     小さな谷川の底に、2匹のかにの子どもがいました。川の底から、2匹は様々な景色を見つめます。泡、魚、日光、かばの花・・・そして「やまなし」。

     静かに流れる時間と、夢の世界のような美しい風景描写。宮沢賢治が綴る文章に嘆息します。

    この作品の思い出



    クラムボン

     「あ、なつかしい」と思われた方もいたでしょうか。この作品で印象に残るのは、何といっても「クラムボン」です。作中に何度も出てくるのですが、その正体が明確に明かされることはなく、「クラムボン」が何なのかは謎のままです。小学生の時に出会ったこの言葉を、私はいまでもよく覚えています。

     そして、もう一つ印象に残っているのは、「この作品は何が言いたかったのだろう」ということ。上にあらすじを書きましたが、作品の中に特に目立った動きはありません。小学生の当時は情感をよく理解することもできず、とにかく頭の中に「?」が渦巻いていた作品だったように思います。

    この作品のポイント



     教科書には、「やまなし」とセットで宮沢賢治の生涯を振り返る評伝が掲載されています。つまり、「やまなし」だけを読んでもこの作品を十分に理解することはできず、作品を味わうには宮沢賢治を理解することが欠かせない、ということが分かります。

    また、こんなことも書いてありました。

    題名のつけ方、構成、文章中の表現、言葉の使い方の全てから、読者は作者の思いを推測し、考えるのである。


     本当に表現が繊細な作品、表現の読み取りが生命線と言ってもよい作品です。そんな表現に気を配りながら、「やまなし」を再読してみたいと思います。


    再読!やまなし



     この作品は、5月と12月の2つのパートに分かれています。

    1427613945749_convert_20150329163045.jpg

    にわかにぱっと明るくなり、日光の黄金(きん)は、夢のように水の中に降ってきました。波から来る光のあみが、底の白い岩の上で、美しくゆらゆらのびたり縮んだりしました。あわや小さなごみからは、、まっすぐなかげの棒が、ななめに水の中に並んで立ちました。



     まずは5月です。挿絵と文章を一緒に見ていただきました。ため息のでるような美しい描写を味わっていただけたと思います。川と光と泡・・・そんなどこにでもある風景なのに、まるでどこか遠い世界の風景を見ているようです。

     川の底から見上げる、という視点もよいです。普段、私たちが川を見るとしたら上から「見下ろす」視点をとります。この作品の視点は、川の底にいる子がにが川を「見上げる」というもの。どこか異世界を映したような不思議な雰囲気は、この視点の違いによって演出されているともいえそうです。

     美しい風景を描いているのですが、5月のパートで起こるのは自然界の厳しさを痛感させる出来事でした。川にいた魚が、カワセミに食べられてしまうのです。

    「お魚は・・・。」
    そのときです。にわかに天井に白いあわが立って、青光りのまるでぎらぎらする鉄砲だまのようなものが、いきなり飛び込んできました。(中略)魚の白い腹がぎらっと光っていっぺんひるがえり、上の方へ上ったようでしたが、それっきりもう青いものも魚の形も見えず、光の黄金のあみはゆらゆらゆれ、あわはつぶつぶ流れました。



     ここがその場面です。魚が食べられてしまったあとも、何事もなかったかのように光が差し込み、泡が流れています。あっという間に過ぎ去った出来事。美しい川の描写とは対照的な、残酷な印象が残ります。

     次に12月です。

    1427613954557_convert_20150329163238.jpg

    白いやわらかな丸石も転がってき、小さなきりの形の水晶のつぶや金雲母のかけらも、ながれてきて止まりました。その冷たい水の底まで、ラムネのびんの月光がいっぱいにすき通り、天井では、波が青白い火を燃やしたり消したりしているよう。辺りはしんとして、ただ、いかにも遠くからというように、その波の音がひびいてくるだけです。



     再び挿絵と文章をみていただきました。5月の絵と比べて、川の色が変化しています。2つの絵を見比べながら、川もまた生き物なのだなということに気付かされます。

     そして、私は12月のこの描写がすごく好きです。「ラムネのびん」を通して月光が川に差し込んできたり、川に立つ波を「青白い火」に例えたり・・・。憎いぐらい、美しく繊細なセンスです。宮沢賢治の目からは、世界がこんな風に見えていたのでしょうか。そんな「美しい世界」を文章を通じて共有できることに喜びを感じます。

     12月に出てきたのは、作品のタイトルにもなっている「やまなし」でした。水の中に落ちてきた黒い物体を、子どもたちはまたカワセミがきたのかと身構えるのですが、その正体はやまなし(山に実る梨)でした。

    なるほど、そこらの月明かりの水の中は、やまなしのいいにおいでいっぱいでした。(中略)「待て待て。もう2日ばかり待つとね、こいつは下に沈んでくる。それから、ひとりでにおいしいお酒ができるから。さあ、もう帰ってねよう。おいで」



     お父さんがにが、子どもたちに優しく語り掛ける場面です。川に広がってくる、やまなしの香りが作品を締めくくります。美しい風景を想像して楽しむこの作品ですが、最後には「匂い」まで追加され、天国のような美しさに酔いしれて読み終えることができます。

     どうして5月と12月だったのだろう、ということが疑問に浮かびます。実は、12月という記述は誤りで、実際草稿に書かれていたのは11月だった、という説が有力なのだそうです。実際やまなしが実るのは秋ですから、後半は11月の描写と考えた方が自然かと思います。5月と11月、で考えてみることにします。

     5月は春の終わりから夏のはじまり。11月は秋の終わりから冬のはじまり。春や秋というのは過ごしやすく、心地よい季節です。それに対し、夏と冬は自然の厳しさを感じる季節だと思います。なかなか快適には過ごせません。5月と11月には、「厳しい季節に向かっていく変わり目」という共通点が見つかりそうです。

     そんな季節の変わり目の2つのエピソード。5月には「カワセミ」12月には「やまなし」が出てきます。上で見たように、カワセミは魚を食べるという自然界の厳しさを示した存在、対してやまなしは川いっぱいにいいにおいをもたらすという自然界の実りを示す存在、とその役割は対照的です。

     殺戮と豊穣、対照的な2つのテーマを、宮沢賢治は2つの季節の変わり目を通して描きたかったのでしょうか。小学生の時には何がいいたかったのかよく分からない話でしたが、ある程度作品に通じるテーマがありそうです。

     タイトルが「やまなし」というのも興味深いです。カワセミとやまなし、2つを対比しておきながら、タイトルは「やまなし」です。また、この作品に何度も登場する「クラムボン」(次回触れます)をタイトルにしてもよさそうなのですが、それでもタイトルは「やまなし」です。ここはすごく興味深いところです。

     先程触れたように、やまなしを「豊穣」の象徴に見立てたとすると、それこそがこの作品のメインテーマになるのでしょうか。・・・そんなに簡単でないような気もします。この「やまなし」というタイトルに込められた宮沢賢治の思いをじっくりと考えてみるのも、作品を味わう一つの方法ではないでしょうか。

     さて、今回はここまでです。次回は作品に登場する謎の存在、「クラムボン」について考えてみます。このクラムボン、本当にいろいろな解釈がありそうです。ちなみに教科書の注釈は、「作者が作った言葉。意味はよく分からない」とのこと。答えになっていませんね 笑。次回は、そんな「意味はよく分からない」存在に迫ります。



    こちらもどうぞ

    「やまなし」 宮沢賢治 (えあ草紙)
     美しい雰囲気を味わってみたい、という方はぜひ。教科書11ページ分の、短いお話です。


    宮沢賢治, 教科書,



    •   29, 2015 18:22
  •  「心のどくを消すほうほうはない」-。
     今日紹介するのは、青春の危うさと影を描き切ったこの作品です。

    ボトルネック (新潮文庫)
    米澤 穂信
    新潮社
    売り上げランキング: 19,095


     米澤穂信さんの『ボトルネック』。ミステリーというより、青春小説としての価値を持った小説だと思いました。金沢の暗い空の下で繰り広げられる、悲しすぎる1人の少年の物語です。




    生きる意味



     2日前の記事で、私はこんなことを書きました。

    まがりなりにも「誰かの役に立っている」「自分が必要とされている」と思うことで創造性のない日々にも意味を持たせています。


     自分が誰かの役に立っている、誰かに必要とされている、そう思うことによって人は前を向いて生きていられます。今日は、そんな思いが打ち砕かれたら・・・ということを考えてみたいと思います。

     この本で起こったことは、私が書いた文とは全く逆のことです。

     東尋坊で崖から転落して死んだ彼女、ノゾミに花を手向けていた主人公の嵯峨野リョウ。その時、ぴょうと海風が吹きました。風と共に、どこからかかすれ声が聞こえます。「おいで、嵯峨野くん」-。ふわり、とリョウの体が浮きました。リョウは崖を落ちていきます。

     ・・・リョウが目を覚ましたのは彼の地元、金沢市。今しがたまで東尋坊にいたのになぜ?困惑するリョウ。種明かしをすれば、そこはリョウのいない世界、パラレルワールドでした。リョウは自分の代わりに生を授かった姉、サキに出会います。そこから、リョウにとって地獄のような3日間が始まりました。

    脆い自尊心



     リョウに「自分がいない世界」を見せていたのは、グリーンアイドモンスター(GEM)と呼ばれる怪物です。

    グリーンアイド・モンスター・・・ねたみのかいぶつ。生をねたむ死者のへんじたもの。一人でいるとあらわれ、いろいろな方法で生きている人間の心にどくをふきこみ、死者のなかまにしようとする。心のどくを消すほうほうはない。(本文より)


     その心に吹き込まれた毒、というのが「自分のいない世界」を見せられることでした。ネタバレになるので詳しく言えないのですが、リョウは3日間、自分の代わりにサキが生まれてきた世界をさまようことになります。サキと一緒に元の世界に戻るために手がかりを探すのですが、リョウが見せられたのはあまりにも残酷な現実でした。

     自分の代わりにサキが生まれたことによって、あちこちで変化が起こりました。リョウの両親、兄、死んだ彼女のノゾミ、ノゾミのいとこであるハルカ、そして重要な伏線になる「イチョウの木」。「リョウがいた世界」と「サキがいる世界」では、それらの行く先が異なっていました。そんな違いを見せつけられて、リョウの中で「心の毒」が増幅していきました。

     ついに、リョウはある「恐ろしい結論」にたどり着きます。未熟ながらも精一杯に生きている「つもり」だったリョウ。一人の少年の脆い自尊心を打ち砕く、恐ろしい結論です。後味はかなり悪かったです。

    a0830_000362.jpg

     この作品はどういう評価をされているのか、気になってたくさんのサイトを調べました。大きな特徴として、「読み手によって大きく評価が変わる」ということがありそうです。実際、アマゾンのレビューを見ても、星5つのレビューが多い中で、星1つのレビューもかなり目立ちます。

     評価が分かれる理由は2つありそうです。まずは、ミステリーとして読むかどうか、という点。伏線の見事な回収はありますが、ミステリーとしては辛口の評価が目立ちました。推理の要素があまりないからでしょうか。冒頭でも書いたように、青春小説として読むのがおすすめです。若さの危うさ、影といったテーマで読むと群を抜いた鋭さがありました。

     2つ目が大事なのですが、読み手がどのような青春を過ごしてきたのか、という点です。青春と一口に言っても、その中身は人それぞれだと思います。

     青春 青春 青春 青春

     青春の「青」に、皆さんはどのような色を浮かべられたのでしょうか。この小説は、読み手の青が反映される作品といってもいいかもしれません。作品のイメージは一番右の青です。抽象的な例えですが、青春と聞いた時に一番右の闇と影を抱えた青を浮かべた人は、主人公に大きく共感できると思います。

     

    「どんなことが起きても、それを自分のことじゃないように受け止めることができる子」

    ぼくも、ぼくなりに生きていた。別にいい加減に生きてるつもりはなかった。しかし、何もかも受け入れるよう努めたことが、何もしなかったことが、こうも何もかも取り返しがつかなくするなんて。



     主人公の描写です。「自分を見つめる」ことってとても難しいですね。しかも、まだ人間として固まりきれていない少年・少女の時期。青春とは、だれにとっても不安定なものだと思います。反抗期があって、大人を見下して、そして、自分がそんな見下していた「大人」に近づいていく・・・。そんあ青春を直視できずに、自分に背中を向けていたリョウ。そんな彼に、もう1つの世界が容赦なく襲いかかっていきました。

    青色の結末


     作中で、「想像力」ということばがしつこいほどに登場します。あまりにも出てくるので、読み手も想像力を働かさざるを得ません。想像をしていくと、リョウが出した「恐ろしい結論」がぼんやりと見えてくるかもしれません。

     若い頃って、必要以上に悩んだり苦しんだりすることがあるのではないでしょうか。青春とは盲信です。馬鹿みたいに希望を信じることができれば、絶望に向かっていくこともできます。青春のガラスのような脆さを痛感する作品でした。

     ラストははっきりとは描かれません。「答えは、この本を読み終えた読者の中にある」、解説にはこう書かれていました。ラストはどう解釈すればよいでしょうか・・・。先程の青春のように、人によって浮かべる色は異なると思います(私は最悪なバッドエンドしか浮かびませんでした・・・)。

     ネタバレを最小限に書こうと思ったのですが、難しいですね。興味のある方はぜひ読んでみてください。後味の悪さは覚悟された方がいいと思います・・・。




    オワリ


    「リカーシブル」 米澤穂信さん
     米澤さんの作品は今回で2冊目でした。2冊読んで思ったのですが、この方は若い世代、青春に容赦がない人です。主人公を容赦なくズタズタにするスタイルは、なかなか読みごたえがあります。
    小説, , 米澤穂信,



    •   27, 2015 19:15
  • 上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。