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  •  5月最後は宮沢賢治のコーナーです。8回目になりますが、初めて詩を読んでみようと思います。以前の回でもちらっと紹介したのですが、「永訣の朝」という詩です。「春と修羅」という詩集に収録されており、教科書に掲載されている作品でもあります。

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    宮沢 賢治
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     教科書でこの作品を読んだとき、心を突き動かされました。「心が震える」ということを比喩でなく実際に体験しました。妹トシとの別れを嘆いたこの詩を、今日は鑑賞してみたいと思います。



    概要



     宮沢賢治の妹トシは、わずか24歳でこの世を去りました。トシは賢治が異常ともいえるほどに溺愛した妹です。そんな最愛の妹との別れを、賢治はいくつもの詩にして残しています。この「永訣の朝」もその1つです。この詩は、トシが亡くなったその日に創作された詩です。教科書に掲載されており、知っているという方も多いと思います。

    ・「あめゆじゅとてちてけんじゃ」のリフレイン
    ・1か所だけ、ローマ字で書かれている「Ora Orade Shitori egumo」
    ・ふたつのかけた陶椀(とうわん)
    ・賢治とトシの人生観



     ポイントを挙げれば数えきれません。国語のテストでこの詩をもとにした問題が出たのですが、長い詩に数多く解釈の分岐点があり、混乱してしまった記憶があります。今回は学校のテストで点を取る、といったこととは離れてこの詩を読んでみたいと思います。あくまで私が思ったことを書いていきます。

    「永訣の朝」 全文はこちら

    「永訣の朝」を読む!



    けふのうちに
    とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
    みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)


     作品はこう始まります。「とおくへいってしまう」というのは単なる婉曲表現なのでしょうか。宮沢賢治という人のことを考えれば、死後の世界をかなり具体的に思い描いていた、と考えられるかもしれません。外の変に明るい景色、というのも「お迎えの光」でしょうか。そうではなく、単に妹の死がどうしても受け入れられなくて「とほくへいってしまう」としたのかもしれませんね。

     ここにある「あめゆじゅとてちてけんじゃ」が作品の中で4回も繰り返されています。これは花巻の方言で「あめゆき(みぞれ)をとってきて」という訳になるかと思います。「けんじゃ」は、私は「賢治や」だと思っていたのですが、これも方言の1つだそうです。「~してちょうだい」という意味になるようですね。とはいえ、「けんじゃ」が「賢治」を指しているという主張ももちろんあるようです。

    これらふたつのかけた陶椀たうわんに
    おまへがたべるあめゆきをとらうとして
    わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
    このくらいみぞれのなかに飛びだした

       (あめゆじゅとてちてけんじゃ)


     「みぞれをとってきて」と言われ、賢治は「まがったてっぽうだま」のように、弾丸の勢いで外に飛び出します。死にゆく妹を目の前にして何もできない自分。そのやるせなさと虚しさが頂点まできていたのだと思います。そんな妹から、最後の頼みがありました。弾丸の勢いで飛び出していく賢治の気持ちは痛いほど分かります。

     ここでの「あめゆじゅ・・・」は賢治の心の中で繰り返される言葉でしょうか。妹のためにみぞれを取ってこようとする時、みぞれをとってきてという妹の声が頭の中によぎります。逼迫する状況、賢治の焦り、必死さが伝わってくるようです。前半のこのリフレインがどういう意図でされているのか、はっきりしたことは分かりません。ただ、このリフレインをとると作品の印象はがらっと変わることが分かります。

     2人で1つだった兄弟。自分よりも大事だった妹。そんな事情を思うと、賢治の奔走とトシの声、この2つは同時に展開させる必要があったのかな、と思います。作品の臨場感がガラッと変わりますからね。

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    わたくしをいっしゃうあかるくするために
    こんなさっぱりした雪のひとわんを
    おまへはわたくしにたのんだのだ
    ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
    わたくしもまっすぐにすすんでいくから


     悲しみに明け暮れて終わるのではなく、この詩はこのように転換していきます。「わたくしもまっすぐにすすんでいく」と強く決意する賢治。何を決意したのか、これは作品の最後につながるようです。賢治の人生そのものともいえる、「自己犠牲」の精神がにじみ出ている最後です。

    わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
    みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
    もうけふおまへはわかれてしまふ
    (Ora Orade Shitori egumo)


     このローマ字は、初めて見た時本当に不思議でした。日本語で書かれた詩に、全くの異世界が、急に顔をのぞかせるのです。
     「オラ オラデ シトリ エグモ」 →「私は 私で 一人で 行くから」
     これも方言です。ローマ字の音を読めば、意味は感覚的に取れると思います。では、なぜローマ字に??なおさら不思議に思うところです。

     「シトリ(一人)」。私はここかな、と思います。自分が最も愛した、体の一部分だったような妹です。常に二人で生きて来た兄弟でした。「一人で行く」そう言われた時のショックはどれほどのものだったか・・・。

     全くの異世界のよう、と書きましたが、この言葉自体が賢治にとって「全くの異世界」だったのだと思います。妹の言うことを理解したくてもできなくて、理解したくなくて、「無機質な音としての言葉だけが残った」のではないでしょうか。


     そして、最後の5行です。心の震えが止まらない、最後の5行です。

    おまへがたべるこのふたわんのゆきに
    わたくしはいまこころからいのる
    どうかこれが天上のアイスクリームになって
    おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
    わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


     「まっすぐすすんでいく」、先程の決意はここにつながるようです。妹の死を乗り越えて、だとか、自分だけ幸せに、ということではありません。妹と、全ての人に幸福がもたらされるように、「わたくしのすべてのさいはひをかけて」願う、というのです。

     ここまで厳しい自己犠牲の精神。なにが、そうさせるのでしょう。次回以降、まだまだ読んでいきたいと思います。





     記事に書いたのは私の解釈で、解釈は多岐に渡ることを付け加えておきます。資料の研究などをしているわけではないので、とんちんかんなことを書いているかもしれません。

     このコーナーは全て「私の解釈」になっています。記事を読んでいただくのももちろんうれしいのですが、原文を見て、自身で感じていただけたらなおうれしいです。

    「セロ弾きのゴーシュ」
     前回読んだ作品です。人間が動物に気付かされる、という視点から・・・。
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    宮沢賢治,



    •   31, 2015 23:47

  •  書きたい、ではなく、「書かなければいけない」。その言葉に、作家・原田マハさんの強い決意がうかがえます。今日は昨年発表された原田さんのこの作品―。

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    原田 マハ
    文藝春秋
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     この作品には、重要な2つのテーマがありました。「沖縄」、そして「美術」です。どちらも、原田マハさんとは切っても切り離せないテーマです。そんな2つのテーマが、あるきっかけをもとに結びつき、今回の小説が生まれました。キーワードは、「ニシムイ美術村」です。



    運命の出会い



     まず、テーマの1つ目、「沖縄」です。沖縄は原田マハさんがすっかり惚れこんだ土地でした。インタビューで次のように語られています。

    フリーのキュレーターをしていた頃に沖縄を訪れ、すっかり惚れ込んで、「癒しの島」沖縄を描いてみたいと思い立った。そうして書いたのがデビュー作となったラブストーリー「カフーを待ちわびて」である。

    本の話web 『太陽の棘』 原田マハさん

     そしてもう1つのテーマ、「美術」。これもまた、原田さんの小説とは切っても切り離せないテーマです。それもそのはず、原田さんは作家になる前20年近くも美術関係の仕事をされていました。美術への愛と、確かな「眼」はこの作品からも存分に伝わってきます。

     そんな2つのテーマを結び付けたのが、「ニシムイ美術村」です。これは、「戦後間もない沖縄にあった、美術の村」のこと。なるほど、沖縄と美術が結びつきました。

    ニシムイ美術村・・・1948年米軍文化部の廃止に伴い、新たな拠点を探していた画家たちが、儀保にあるニシムイ(北の森の意。首里城の北に当たる)に、「オキナワン・アート・ソサエティ」と称しアトリエ付住居を作って移り住んだのが始まり。



     この村を訪れた、米軍の精神科医がいました。日本とアメリカ、絵を通じての海を渡った交流がありました。彼の存在を知った原田さんは、すぐさま取材のため那覇に飛び立ちます。沖縄と美術を見つめてきた作家が書く、「真実の物語」です。

    突き抜ける生命力



     主人公のエドは米軍の精神科医を務めています。恋人との婚約が決まり、人生の頂点を迎えようとしていた矢先、彼に非情な命令が下りました。沖縄行きです。
     
     愛する人を置いて、沖縄へ旅立つエド。彼の仕事は精神科医ですが、「戦場の」精神科医の仕事がどれほど過酷なものかは想像ができると思います。戦争や殺戮を見て心が壊れてしまった兵士たちが運び込まれてきます。

     そんな彼に、沖縄で奇跡の出会いが待っていました。ふと迷い込んだ森。そこにあったのが「ニシムイ美術村」です。エドは彼らの絵に魅了されます。

    いったい、どういうことなのだろうか。
     戦争終結からまもない、米軍占領下の沖縄に、なぜ、これほどまでに高い技術と表現力を持った画家たちがいるんだ?しかも、こんな何もないような丘の上の森の中に集まって・・・。
     ここは、まさに芸術家のコロニーのような場所じゃないか。



     エドは、国籍を超えて、日本人の画家たちに心を開いていきます。

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     以前読んだ本でも感じたのですが、原田さんの書く文章の「勢い」には圧倒されてしまいます。生きる喜び、生命力がページからこぼれおちてくるようです。戦争という重いテーマですが、そこは全く変わりませんでした。

    それに比べて、この画家たちのたくましさはどうだろう。むさぼるようにみつめて、がむしゃらに描き写す。夢中で筆を走らせて、はつらつと彩る。そのエネルギー、情熱、個性。命のすべてで「描くこと」にぶつかる、荒々しい力強さ。


     ここまで勢いのある文を書く作家さんはなかなかいません。読んでいるこちらも、思わず前のめりになってしまいます。それに加え、今回は沖縄と美術という、原田さんがこだわる2つのテーマが出会った作品です。その喜びがあふれだし、突き抜けるような生命力になっています。

     アートには、国境がない。

     原田さんはそのことを書きたかったそうです。戦争に負けた日本と、勝ったアメリカ。そんな2つの国の人々が分かりあうには、相当険しい道のりが待っていると思います。そんな険しい道のりを、一瞬にして越えていくのが「アート」でした。

     私たちを分け隔てるものはたくさんあった。けれど、私たちには、それらのいかなる現実よりもはるかに強い、たったひとつの共通するものがあった。
     美術。私たちには、アートがあった。私たちは、アートをこよなく愛していた。(中略)それは、一編のうつくしい詩に代わるもの。耳に心地よい歌に代わるもの。一杯の芳醇なワインに代わるものだった。



     私は沖縄に行ったこともなければ、美術に関する知識を持ち合わせているわけでもありません。それなのに、この胸にくる感じはなんでしょう。それは、アートが持つ、全てを超える普遍の力なのだと思います。

    空と太陽



     ラストもすごいです。おとなしく、きれいに終わっても十分よい作品だったと思うのですが、荒れ狂う大海原のような終わり方でした。よく考えれば、これだけ勢いのある作家さんが普通の終わり方をするはずがありませんね。ラストは原田マハさんの充実ぶりを示すようでした。

     すごく気に入った一節があります。

    「いいや。空が、あんまりに大きくてさ。これが全部、カンヴァスだったらなあ。ちょっとでいいから、おれたちに分けてほしいよ。あのへんを。



     基地問題をはじめ、沖縄は今でも戦争の爪跡を残したままです。沖縄の人たちが真に悲しみから解放される日はまだまだ遠いかもしれません。

     それでも、私は「空と太陽」さえあればいつかその日がやってくるのではないか、と思います。果てしなく、永遠に続く、誰のものでもない、「空」というキャンバス。そこから降り注ぎ、私たちを照らす「太陽」というエネルギー。それさえあれば、なんだってできる。本が、そう言っているようでした。

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    き抜ける生命力―。国境をも越える「アート」の力をぜひ体感してみてください。

     原田マハさん、今回も大満足です。以前に「カフーを待ちわびて」をおすすめいただきました。この作品と同じ、沖縄が舞台ということです。代表作、「楽園のカンヴァス」とともに、ぜひ読んでみたいと思います。



    こちらもどうぞ

     私は沖縄にいったことがないので、沖縄にいったことのある方から沖縄のことを教えていただけたらうれしいです。

    「太陽の棘」 特設サイト
     この作品の背景についてより詳しく説明されています。

    「さいはての彼女」 原田マハさん
     前回紹介した作品。短編集でも、原田マハさんの作品のエネルギーはとどまるところを知りません。
    小説, 原田マハ,



    •   30, 2015 21:15

  •  小学生の時以来に読んだのですが、話のあらすじが私の思っていたものとは違っていたので驚きました。今日は小学5年生を代表するこの作品です。

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     椋鳩十の「大造じいさんとガン」(小学5年生)です。改めて読んでみると、短い作品でありながら話の構成がたまらなく素晴らしかったです。いつもの話のテーマをメインに書くのですが、今日は文章や構成の素晴らしさについても書きたいと思います。




    あらすじ



     ―それは、72歳になっても元気な老かりゅうど、大造じいさんが若いころに経験した、あるガンとの物語です。

     残雪(ざんせつ)というガンがいました。残雪はガンたちの頭領で、仲間のガンたちを連れて沼にやってきます。残雪は利口な鳥でした。狩人に捕まらないように油断なく気を配っていて、決して人間をよせつけません。残雪が来るようになってから、じいさんは一匹もガンを手に入れることができなくなってしまいました。

     そんなじいさんでしたが、上手い方法で生きたガンを手に入れます。久しぶりの獲物です。「しめたぞ」、じいさんは喜びを隠せません。この調子で2匹、3匹・・・と勢いづいたじいさんでしたが、そこは残雪が一枚上手でした。残雪は、仲間たちがわなにかからないよう指導しているようです。「ううむ」、じいさんも思わず感嘆の声をあげます。

     その翌年も、じいさんは残雪に敗北。それからさらに1年がたちました。今年もまたガンがやってくる季節です。じいさんは、あることを思いつきました。2年前に生け捕りにしたガンを「おとり」にして、ガンたちをおびきよせようというのです。

     ところが、じいさんは異変に気付きます。おとりになるはずのガンが、飛び遅れてしまいました。じいさんに捕えられ、すっかり野生のかんが鈍っていたのでした。そんなガンのもとに、一匹のハヤブサが襲い掛かってきます。じいさんのガンが大ピンチ!はたして・・・!

    この作品のポイント



     何かテーマを見出しながら読む・・・というのももちろん大切なのですが、この作品の一番の読みどころは「情景描写の美しさ」だと思います。

     本当に美しい。憎いくらい、無駄な要素がなくて、日本語として最高級の完成度だと思います。これが「日本文学の最高傑作」だと言われても、私は笑いません。

     文の質、構成が際立っており、小学校の教科書で読む作品の中でもひときわ光っています。この作品を読める小学5年生は本当に幸せです。私も、小学生の時にもう少しこの文章の素晴らしさを理解できていたら、と思わずにはいられませんでした。

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    再読!「大造じいさんとガン」



     じいさんのガンを助けにやってきたのは、じいさんの天敵、「残雪」でした。底から始まるハヤブサとのデッドヒートは、作品の一番の見せ場です。その部分の描写がこちら。

    ぱっ
    ぱっ
    羽が、白い花弁のように、すんだ空に飛び散りました。


     最大の山場です。最高潮まで盛り上げたい、そんなこの場面に作者が託したのは、「ぱっ」という羽音でした。そして、羽が白い花弁のように飛び散る、という一行が続きます。この三行からは、まるでここだけ時間が止まったかのような、そんな錯覚を覚えます。「最大の山場で、余計なものは全てそぎ落とした」、見事の一言です。

     この場面、映像化したら素晴らしいものになるでしょう。二匹の鳥の、大空での格闘。響く羽音。花弁のように飛び散る羽。映像というのは、ある意味ずるいものです。言葉が一生懸命に、ありとあらゆる手段を使って伝えようとするものを、一瞬で視覚に訴えることができるからです。そこに映像の強みがあります。

     でも、私はこの場面を映像化する必要はないと思います。想像できるからです。短い、たったの三行なのですが、驚くほど鮮明に、映像が浮かびませんか?映像が浮かんで、空間が静止する様まで浮かびます。これがこの三行のすごさです。言葉の力を極限まで引き出したからこそ、たどり着ける境地です。

     ハヤブサとの戦いのあと、深い傷を負った残雪。近づいてきたじいさんの前で、最後の意地をふりしぼります。

    第二のおそろしい敵が近づいたのを感じると、残りの力をふりしぼって、ぐっと長い首を持ち上げました。そして、じいさんを正面からにらみつけました。それは、鳥とはいえ、いかにも頭領らしい、堂々たる態度のようでありました。


     鳥は言葉を持ちません。言葉を持たない鳥に、いかに訴えさせるか。ここも、作者の力量が問われるところです。鳥の一つ一つの動作が、下手な言葉よりもよっぽど強く訴えてくる。この場面も見事です。

     じいさんもまた、余計な言葉は口にしません。残雪がハヤブサの前に現れた時、じいさんは銃を構えるのですが、何を思ったか、その銃を下ろします。上に引用した、傷だらけの残雪との対面シーンも、じいさんの言葉はありません。強く心を打たれ、ただ目の前の鳥に対しているのです。こういった一つ一つのシーンが、物語の次元を高めます。

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     文章の美しさもそうなのですが、「場面展開」も見事です。例えば、先程のじいさんと残雪の対面シーンを見てみます。じいさんと残雪が無言で向かい合った後、ページは変わり、場面は転換します。

     ページをめくると、そこは春でした。じいさんは残雪を保護し、冬の間傷をいやしてやったのです。元気を取り戻した残雪。そこに、春の景色が見事に重なります。

    ある晴れた春の朝でした。
    じいさんは、おりのふたをいっぱいに開けてやりました



     この場面展開では、ずいぶん多くのことが省略されています。じいさんが傷を負った残雪を保護してやったこと。厳しい冬を共に過ごしたこと。そして、冬を過ごすうちに残雪に対する気持ちが変化したこと。いろいろなことが含まれているでしょう。しかし、それらを述べる必要はありません。

     「春になり、おりをあけた」、これだけでよいのです。これが、全てを語ってくれています。この場面展開には痺れます。その後、残雪が飛び立つシーンがあるのですが、これもまた見事です。圧倒されつつ、読み終えるのです。

     今日は文章の美しさや場面展開を中心に見てきました。「大造じいさんとガン」が日本文学の最高傑作、などというかなり大胆なことを書きましたが、それが冗談ではないことが分かっていただけたかと思います。大人になってから読み返す、そんな価値は十分にある作品です。




     今日は流れるように文を書きました。名作に出会った時の、この体中の細胞が沸騰するような感じはたまりません。教科書の作品を懐かしんでもらおう、と始めたこのコーナーですが、一番楽しんでいるのは間違いなく私ですね。
     他の作品もぜひどうぞ!



    「カレーライス」 重松清さん(小学6年生)
     記念すべき第1回。4月に入ってからたくさん検索されるようになったのですが、勢いはまだまだ続いています。4月の人気記事ランキング1位を獲得しましたが、5月も余裕の1位がほぼ確実です。どうしてこんなに検索されているんだろう??

    「わらぐつの中の神様」 杉みき子さん(小学5年生)
     5年生つながりでこちらの作品。わらぐつに込められた思いが温かいです。「大造じいさんとガン」にこの作品、小学5年生ってなんて幸せだったのだろうと思います。
    椋鳩十, 教科書,



    •   27, 2015 22:58

  •  土・日・月と、プレゼンのための資料をつくっていました。久しぶりに更新します。どれだけ頑張って資料を作っていっても、先生に叱られるのが決定事項・・・。なかなか堪えますが、そんなことを言っていても仕方がありません。「先生の前で言い訳をしない」ということだけは心がけておきたいと思います(発表前からすごい悲壮感ですね)。今週は、修羅場!

    海に生くる人々 (岩波文庫)
    葉山 嘉樹
    岩波書店
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     実生活が修羅場なら本の内容は心が温まるものに・・・と言いたいところですが、残念ながら私が読んだ本は実生活以上の修羅場でした。本から血の生臭い匂いがしてくるようです。葉山嘉樹の「海に生くる人々」という作品を紹介します。



    蟹工船の元ネタ



     これまでに紹介した日本文学に比べると、だいぶ知名度が劣るかもしれません。この作品は、「プロレタリア文学」の代表的な作品の一つにあげられます。

    プロレタリア文学・・・戦前の日本文学のひとつ。1920年代~30年代。社会主義や共産主義の思想を大きく反映している。「プロレタリア」は労働者階級、無産者階級のこと。



     「海に生くる人々」は分からなくても、「蟹工船」ならほとんどの人が分かります。 蟹工船はご存知小林多喜二の小説で、近年「蟹工船ブーム」で再脚光を浴び、爆発的に売れました。特に若い世代からは人気があります。(どうして若い世代に人気があるのでしょう??理由はのちほど)

     恥ずかしながら、私も去年初めて「蟹工船」を読みました。その解説で出てきたのがこの作品です。知名度では圧倒的に蟹工船が有名ですが、実はこの作品、蟹工船の元ネタになった作品です。

     読んでみて驚きます。「蟹工船」とうり二つです。特にプロットはそっくりそのままで、「蟹工船」のアレンジを読んでいるようでした。ですが元になっているのはこちらの作品です。小林多喜二はこの作品から強い影響を受けたと言われています。

     読んでみての感想ですが、私はもっとこちらの作品が脚光を浴びてもよいのではないか、と思います。蟹工船はアマゾンのレビューがたくさんあるのに、この本はわずか1件(!)そりゃないよ・・・という感じです。

    真っ向からの反論



     プロレタリア文学の作品を2冊読んでの感想なのですが、私にとってはあまり好きにはなれないジャンルだと思います。やはり、文学にこれほどイデオロギーが介入していることが受け入れられないのかもしれません(ここでのイデオロギーとは社会主義、共産主義になります)。

     ここまでイデオロギーが介入するということで、プロレタリア文学はかなり特殊なジャンルです。過酷な時代の状況が伝わってきて、まるでページに血の香りがにじんでいるようでもあります。

     そんな風に「苦手」と言っておきながらですが、この作品で語られていることは紛れもない「正論」です。正論だからこそ、読み手に刺さり、読み手を苦しめるのだと思います。「労働者」と「資本者」。絶対に乗り越えられない階級の壁がありありと描かれています。

    人間が人間を喰う時代の存続する限り、労働者は、その生命が軛(くびき)の下にあることを自覚しなければいけない

    疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛に満たされているのだ。



     「人間が人間を喰う時代」の部分は思わず唸ってしまいました。もちろんここに書かれていることは全てが純粋な事実というわけではないですし、演出も大いに含まれています。それでも、労働者がゴミのように扱われる様子が克明に綴られていくプロレタリア文学を読む際は、相当の心の痛みを伴います。社会主義や共産主義というのは置いておいても、「人間らしく生きたい」というのは、誰もが思う根源的欲求です。

     この作品の発表から約90年たっても、「人間が人間を喰う時代」自体は何一つ変わっていないことには虚しさを覚えるしかありません。

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     そんな労働者たちが、一致団結しストライキを起こす、というのがこれらの作品の流れです。

    「人間を、軽蔑する権利は、だれもが許されていないんだ。また、他人の生命を否定するものは、その生命も、否定されるんだ!わかったか」


     力強いメッセージだったので、全部太字にしました。この言葉を否定できる人はいないと思います。彼らの主張はまぶしいくらいの正論なのです。

     この作品の結末はどうなると思いますか?この作品も、「蟹工船」もまったく同じです。労働者は団結して声をあげるのですが、それはあまりにあっけなく、一瞬で握りつぶされます―。

    蟹工船ブームに想う




     冒頭でも書きましたが、近年、「蟹工船ブーム」が起こり、「蟹工船」が再び光を浴びるようになりました。2か月で30万部売れたとか!新刊でも2か月30万部はとてつもなく高いハードルです。どれだけ爆発的ヒットか分かります。

     このブームを支えたのが、若年層、特にニートやフリーターと呼ばれる人たちだったそうです。このころは、「格差社会」「派遣切り」「年越し派遣村」「ワーキングプア」こんな言葉が飛び交う時代でした。なるほど、困窮する若者が「蟹工船」に自分たちを重ねたくなるわけです。

     もちろん「蟹工船」からも学ぶことはあると思います。でも、「蟹工船」は小説です。この「海に生くる人々」も小説です。小説の中で労働者は華々しく革命を起こしますが、現実はどうでしょうか・・・。この時代の労働者と、現代の若者を一緒にしていいのか、という問題もあります。「蟹工船ブーム」にはあまり熱くなりすぎず、冷静な目を持つべきだと思います。

     それにしても、悲しいです。「蟹工船」がこんなにも読まれている現代が。特に若者が、「蟹工船」に陶酔する現代が・・・。

     最後に、「海に生くる人々」に戻ります。このタイトルがとても良いです。「海」という言葉にはある意味が込められていました。今日の最後は、その部分で締めくくります。

    海は最も低いところで、そこへ流れて来た「人間のくず」どもは、現社会の一切ののろいを引き受けているように見えた。



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    生這い上がれない社会という海の底・・・。この作品が読み継がれること自体が最大の不幸なのかもしれません。

     今日は気分が悪くなるようなレビューでしたね。プロレタリア文学は好きになれそうにないですが、時間を置いてまた読みたいと思います。というか、「読まなければいけない」と思います。
    近代日本文学, 葉山嘉樹,



    •   25, 2015 22:43
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