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ツェねずみ (ミキハウスの宮沢賢治絵本)
宮沢 賢治
三起商行
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屈なネズミはやがて・・・

 表紙のネズミが、すごい顔をしています 笑。このネズミの顔が、彼の性格を本当によく表わしています。今回紹介するのは宮沢賢治の「ツェねずみ」というお話です。主人公はツェねずみというねずみなのですが、このねずみ、かなり性格が卑屈です。

 卑屈というのは、嫌われる性格でトップ3に入るくらい、人から嫌われる要素だと思います。こんな顔をして生きているねずみに、当然よい結末は待っていませんでした。今日は、皮肉たっぷりのダークな宮沢賢治をお楽しみください。



あらすじ



 天井裏に、「ツェ」というねずみが住んでいました。ねずみが床を歩いているとき、たまたま出くわしたいたちがよい情報を教えてくれました。戸棚から金平糖がこぼれ出しているというのです。ねずみは喜びました。いたちにお礼を言うこともなしに、戸棚の方へ駆け出しました。

 ところが、ねずみが戸棚に向かうとそこにはありの兵隊がいて金平糖をあさっています。弱いねずみにはどうもできません。ありの隊長に「帰れ」と言われ、ねずみはすごすごと帰っていったのでした。

 ねずみは何だか面白くありません。金平糖があることを教えてくれたいたちに向かって、こんなことを言い出します。

(引用)
「いたちさん。ずいぶんお前もひどい人だね。私のような弱いものをだますなんて。」
「だましゃせん。たしかにあったのや」

「みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、償(まど)うてください。償うてください。」



 いたちは自分が持っていた金平糖を投げ出して、怒って行ってしまいました。

 その後も、家中の様々なものたちがねずみに親切にしてくれました。しかし、ねずみは上手くいかないことがあると、その親切をしてくれたものたちにこう言い散らします。

 「償うてください。償うてください。」

 -いつしか、誰もねずみに構ってくれなくなりました。そんな中、唯一ねずみに声をかけてくれたものがありました。それは、「ねずみとり」で・・・

せっかくの親切を



 あらすじを書いているだけで、イライラが止まりません。人間でこんな人がいても、同じような結末になるでしょう。宮沢賢治の痛烈な皮肉が光ります。はっとさせるような美しい表現を生み出す一面もありますが、こういったダークで風刺の効いた作品にもとても魅力があります。人間の卑しい面を鋭く捉えていたのだろう、と感じさせます。

 ねずみの行動は、はっきり言って最悪の極みです。よかれと思って親切にしてくれた人たちに、あろうことか八つ当たりを始めるのです。ねずみの最悪な面を書き出してみることにします。

・自分の責任を認めようとしない狡猾さ
・自分が「弱い」ことをやけにアピールする卑屈さ
・「償ってくれ」と言って、謝罪ではなく見返りを求める卑しさ
・親切をしてくれた相手に、感謝どころか罵倒を始める心の貧しさ

 そろそろ張り倒したくなってきたころでしょうか 笑。こんなことをやっていたら、周りに誰もいなくなるはずです・・・。物語とはいえ、どうしようもないねずみですね。

a0990_001402.jpg

 そんなねずみの元に、最後に残ったのは「ねずみとり」でした。実はこのねずみとりは、人間に反感を持っていて、最初はねずみの味方だったのです。人間にちっとも感謝してもらえないねずみとりは、わなの中のエサをねずみにタダでやろうとしていました。

(引用)
「ねずちゃん、おいで。今夜のごちそうはあじのおつむだよ。お前さんの食べる間、わたしはしっかり押さえておいてあげるから。ね、安心しておいで」



 そこにずけずけとやってきたのがツェねずみです。エサだけ食べて帰って行ったのですが、だんだんと態度が大きくなってきました。

(引用)
「今晩は、お約束通り来てあげましたよ」

「じゃ、あした、また、来て食べてあげるからね」



 ・・・ねずみの最悪な面に、付け足しをしなくてはいけませんね。

・態度がデカい!
・図太い!!


 結末はもう書く必要もないと思います。最後まで腐った性格が直らなかったねずみは人間に捕えられてしまいました。同情する人はいないと思います。ねずみが、一度でも「ありがとう」、もしくは「ごめんなさい」が言えていれば、こんな結末にはならなかったと思います。あるいは、人のせいにするのをやめれば、卑屈になるのをやめれば・・・。でも、ねずみは何も変わりませんでした。いや、ねずみの性格を考えると、「絶対に変われない」と私は思います。その意味でも、皮肉たっぷりで、哀れな結末です。

どうして嫌われる?



 卑屈というのは嫌われる性格でもトップ3に入る、と冒頭で書きました。卑屈な人が好き!なんて人はまずいないと思います。万人に嫌われるのだとしたら、やはりそこには理由があるはずです。

 自分も他人も不幸にするから。私はそれが理由だと思っています。卑屈な人というのは周りの人を不幸にしてしまうでしょう。冒頭の絵本のような顔をした人が、ウジウジとグチを言ってきたり、自分の非を他人のせいにし出したりしたら、大抵の人は気分を悪くすると思います。

 それだけでなく、卑屈な性格はその人自身も不幸にしてしまうようです。このねずみのように、周りからいろいろなものが逃げ出していって、しまいには「ねずみとり」のような不幸に自ら飛び込んでいくことになるでしょう。自分も、他人も不幸にするとは悲しすぎます。

 すごくネガティブな作品に思われるかもしれませんが、宮沢賢治の作品には天才的な心地よいテンポがあって、文章には面白さを感じさせます。ですが、面白い文章の中には、「嫌われる要素」がいくつも散りばめられています。この作品を読むと、「こんなことをすると人に不快な思いをさせるのだな」ということが想像できていいのではないでしょうか。

 自分も他人も不幸にするというのは改めて悲しいことです。発想を変えて、「自分も他人も幸せにするにはどうしたらよいか」を考えてみるのがよいかもしれません。きっと、人生が上手く回り出すはずです。



イーハトーヴ

「宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 旅程表」
 
このコーナーのまとめです。今回で12回目と、たいぶ記事も増えてきました。今回のように、人生の教訓と言えるようなことを考える回もあれば、宮沢賢治が繰り出す美しい描写を鑑賞する回もあり、私自身、楽しくやっています。

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宮沢賢治,



  •   31, 2015 23:51
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    に抱かれてごろごろにゃん

     「100万分の1回のねこ」第3回目はくどうなおこさんです。以前、教科書に掲載されている「のはらうた」を紹介したこともあるくどうなおこさん。「100万回生きたねこ」へ捧げる、素敵な詩を寄せてくださいました。

     タイトルは、「インタビューあんたねこ」。ねこに向かって、「あなたはだれですか」と問いかけ、それにねこが答えていくという形式が繰り返されるのですが、繰り返しの中に深みと味わいを感じさせる詩となっています。



    100mann-3_convert_20150827232452.png
    「インタビューあんたねこ」 くどうなおこ

     100万回生きたねこって、どんなねこだろう。佐野洋子さんにリスペクトを捧げながらも、くどうなおこさんの色も強く感じさせる、そんな素晴らしい詩です。

    ネコ1

     ねこに向かって、「あなたはだれですか」と尋ね、ねこは「あんたねぇ」と言ってからそれに答えます。6つのパートに分かれている詩ですが、それぞれ最初の部分は同じ形になっています。

    (引用)
    あなたは だれですかときくと
    ねこは あんたねぇ といった
    あんたねぇ



     ここから先は、パートごとに異なっています。「あなたはだれですか」と聞かれているので、ねこは自分が誰か答えるのでしょうか?いえ、実はねこは自分が誰であるか答えようとはしません。質問をのらりくらりとかわしながら、ちょっと不思議で、でもどこかロマンチックで、それでいて深く染みわたってくるような答えを返していきます。

    (引用)
    あんたねぇ あたしは ああであったり こうであったり
    ああでなかったり こうでなかったり なおかつ
    ああであるとおもえば こうであり あまつさえ
    こうにちがいないとおもえば ああなっちゃうの



     結局、どうなのでしょうね 笑。こんな感じで、ねこの答えは要領を得ないのですが、どこか惹かれるような、不思議な魅力をはらんでいます。そこにはやはり、あの名作絵本、「100万回生きたねこ」へのリスペクトがあるのでしょう。全文を掲載することはできませんが、この後、できるだけ詳しく見ていこうと思います。

    ネコ1どうなおこさんのねこ

     この「100万分の1回のねこ」という本では、作品のはじめに作者のコメントが掲載されています。「100万回生きたねこ」への思い出や想いをつづった短いコメントです。ほんの数行ですが、そこはさすがプロの作家さんで、どの方の文章からも、「100万回生きたねこ」への深い想いを感じます。

     その中でも、くどうなおこさんのコメントには特に深みを感じました。なぜなら、くどうさんのコメントには「100万回生きたねこ」の作者、佐野洋子さんが登場するからです。そのコメントを見てみることにしましょう。

    (引用)
    むかし、この絵本が出たばかりのころ、私は佐野洋子さんに「100万回死んだねこ、いいね」と、タイトルを言い間違えた。洋子さんは即座に「い・き・た・だよ!」と言い返した。そのときのこと、いまでもよく思い浮かべる。



     どうでしょうか。この短いコメントから、何を感じるでしょう。ねこが100万回生きたということは、100万回死んだということでもあります。でも、タイトルは100万回「生きた」ねこなのです。佐野洋子さんが、そのタイトルに強くこだわっていたことを感じさせます。

     このコメントを見てから詩を読むと、さらに詩の深みが増します。「ああ、やっぱり100万回『生きた』ねこなんだよなあ・・・」と、胸に染みてくるものがあります。

    ネコ1に抱かれて

     前回の「竹」というお話で、ねこの名前について考えました。ねこに名前を付けているのは人間で、ねこにとってはそんなことは「知ったこっちゃない」ことなのかもしれません。

     ねこだけではありません。名前というのはとても不思議なものです。人間は生まれた時に名前を付けてもらって、名前=自分のような感じがありますが、少し考えてみると、これはとても深いことです。

     もし自分に違う名前が付けられていたら、自分は違う「自分」になっていたのだろうか。

     もし自分に名前がなかったら、自分は「自分」でいられるのだろうか。

     そんな名前の不思議を感じさせる部分が、くどうさんの詩にも出てきます。

    (引用)
    あんたねぇ あたしは いつから 「あたし」か しらない
    えいえんに つきに だかれて いる 
    いつまで 「あたし」か しらない
    えいえんに つきにだかれている



     「あなたはだれですか」という質問に答えてはくれないのですが、こんな答えが返ってきたら何だか不思議な気分になって、答えが分からなくても満足してしまいそうです。「つきにだかれている」という表現がまたいいですね。この詩には何度も「月」が登場するのですが、ねこと月の不思議な親和性を感じさせます。

    a0960_006801.jpg

     「あなたはだれですか」と尋ねても、ねこはのらりくらりとかわしてしまいます。このあたりは、ねこの憎めなさや図太さといったものがよく表現されているように思います。

    (引用)
    あんたねぇ それより ごはん たべない?
    そういって あなたは あまのがわに つめを のばし
    ほしいろの さかなを くちに くわえた
    あなたは こころから さかなを くわえた



     「ほしいろのさかな」・・・もうこのあたりは、ハートを撃ち抜かれてしまいそうです。ねこが誰だかなんて、もうそんなことはどうでもよくなってきます。質問されて「それよりごはんたべない?」とかわす様はかなり図太く、いじらしくもあるのですが、そこから先の、ロマンチックでそれでいて力強い展開への変化が見事です。すっかり、このねこの「ファン」になってしまうでしょう。

     「のはらうた」でも感じましたが、くどうさんの詩に出てくる生き物は、ダイナミックで力強さを感じさせます。あらゆる生き物が、力強く、自分らしく生きている様子が伝わってきます。そんなくどうさんがねこを描けば、まるでこのねこが本当に100万回生きたような、そんな感覚にさせられてしまうのだから不思議です。

    100mann-3_convert_20150827232452.png
    匹目のねこ~私のつぶやき~

    このねこは本当に100万回生きたんだろうな・・・くどうさんが描けば、そんな説得力を帯びてくるから不思議です。

    質問をかわしながら、のらりくらりと生きていくねこ。そんなつかみどころのなさこそ、ねこの生命力になっているのかもしれませんね。


     


    こちらもどうぞ

    「野原はうたう」 くどうなおこさん
     前回紹介した「のはらうた」、中学校の教科書に掲載されているものです。「おれはかまきり」と聞けば、一瞬で記憶が蘇る人も多いのではないでしょうか。それぐらい、インパクトのある詩でしたね。


    くどうなおこ,



    •   30, 2015 23:53
  • ないた赤おに (ひろすけ童話絵本)
    浜田 廣介
    集英社
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    れた涙が教えてくれること

     今日は、名作絵本「ないたあかおに」を紹介します。この絵本には、本当にたくさんのことが詰まっています。感想や解釈はさまざまだと思うのですが、ここでは私の解釈を紹介します。

     「つり合わない2つのもの」と題して、テーマを2つに絞ってみました。一体、何と何がつり合わないのでしょうか。今日は、あらすじの紹介もたっぷりと交えながら書いていきます。読書感想文にも向いている題材だと思いますし、参考になる部分もあるかもしれません。本のことを知っているという方も、知らないという方も、ぜひお付き合いください。



    カフェラテ その 友情

     この本のテーマの1つに、「友情」が挙げられます。赤おにと青おにの間に何があったのか、もう一度振り返ってみることにしましょう。

     主人公の赤おには、その容貌に見合わず、優しい心の持ち主です。人間と仲良くなりたい、赤おにはその一心でこんな立札を作ったのでした。

    (引用)
    ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。
    ドナタデモ オイデ クダサイ。
    オイシイ オカシガ ゴザイマス。
    オチャモ ワカシテ ゴザイマス。



     しかし、立札だけでは人間との距離を縮めることができませんでした。やはりその見た目の恐ろしさから、人間は赤おにに近づいてはくれません。心を開こうとしても、分かってもらえない。そんな赤おにのやりきれない気持ちが、前半では描かれます。

    ないたあかおに2

     落ち込む赤おにのもとに、彼の友人の青おにがやってきます。人間に分かってもらえないことを青おにに話す赤おに。すると、青おには「ある提案」をします。

     この本には、「赤おにと青おにのそれまで」が描かれていません。彼らの仲がどれほどよかったのか、説明する記述がないのです。青おには落ち込んでいる赤おにのもとにふらりとやってきて相談に乗り、そして提案をします。

     2人の友情について一切説明をしないのは、とても上手い仕掛けだと思います。その友情について分かるのは、このあとの青おにの提案、そして最後の場面です。彼らのこれまでのことが一切分からなくても、読者は彼らの間にあったものについて、後に痛いほど感じることになります。

     青おにの提案は、自分が人間のもとで暴れているところに、赤おにが助けに来ることによって、赤おにが人間の味方だと分からせるというものでした。自分の望みをかなえるために友達を踏み台にするというのです。当然赤おには反発するのですが・・・

    (引用)
    「ふうん、うまい やりかただ。しかし、それでは、きみに たいして すまないよ。」
    「なあに、ちっとも。水くさい ことを いうなよ。なにか 一つの 目ぼしい ことを やりとげるには、きっと どこかで いたい おもいか、そんを しなくちゃ ならないさ。だれかが ぎせいに-身がわりに なるので なくちゃ できないさ」

    なんとなく、ものがなしげな目つきを 見せて 青おには、でも、あっさりと いいました。



     ここは、この本で一番大事な部分でしょう。赤おにから相談を受けてから、提案をするまで、青おには「決意の瞬間」があったはずです。青おには、この話の結末までを、ある程度ここで見通していたと思います。自分がもう、赤おにとは会えなくなることもあるいは見通していたかもしれません。

     何かを成し遂げるために、痛い思いをしなければいけない。何かを犠牲にしなければならない。確かにそうですし、私たちが普段の生活の中で知らずのうちにやっていることでもあります。ですが、「友達の望みをかなえるために、自分を犠牲にする」となると、一気にハードルは高くなります。そのハードルを、青おには赤おにから相談を受けているほんの短い間にためらわずに乗り越えることを決意しています。

     しかも、表向きは「あっさり」と言っているのです。赤おにに悟られないため、あるいは心配をかけないためでしょうか。どこまでも強く、すさまじい覚悟です。私がこんな推測をするのは、たった一言、「ものがなしげな目つき」という部分があるからです。青おにがどれだけ赤おにを思っていたか・・・そんなことはこの部分が全てを語っていて、説明する必要がなかったことが分かります。

    ないたあなおに4

     青おには、赤おにのもとを去っていきました。最後の一通の手紙を残しています。赤おには人間と仲良くなることができました。その関係を壊さないためにも、青おには赤おにの前に出るわけにはいきません。

    (引用)
    「ソウ カンガエテ、ボクハ コレカラ タビニ デル コトニ シマシタ。ナガイ ナガイ タビニ ナルカモ シレマセン。ケレドモ、ボクハ イツデモ キミヲ ワスレマイ」



     彼らの間に深い友情があったことは疑いがありません。では、どうしてこんな結末になってしまったのでしょうか。

     友情は、互いの気持ちがあって成立するものです。ですが、互いの気持ちが「つり合っている」とは限りません。自分が相手のことを思っている以上に、相手は自分のことを深く思っていることがあります。それとは反対に、自分が相手のことを深く思っていても、相手の思いはそこまでではない、ということもあるかもしれません。

     互いの思いがつり合っていないから、友情は難しくなります。儚く、そして脆くなります。だからこそ、すれ違いが生まれ、衝突が生まれ、わだかまりが生じます。

     でも、忘れてはいけないこともあります。つり合っていないから、儚くて脆いからこそ、「友情」はかけがえのないものになる、ということです。つり合っていないことも、友情の大事な定義の1つなのです。

     このお話では、青おにの思いがあまりにも深すぎました。赤おには、青おにが去っていくことなど想像もしていなかったようです。友ともう二度と会えなくなることを選んでまで、友の思いをかなえてやろうとする-青おににそうさせるほど深い「友情」とは何だったのだろうか、と考えてしまいます。

    カフェラテその 正しさと強さ

     この話はともすれば美化されがちなのですが、正直私は全てを受け入れられているわけではありません。具体的に言うと、人間に分かってもらうために、青おにが考え、赤おにと実行した手段を、私は受け入れることができません。

    ないたあかおに3

     人間に赤おにの本当の気持ちを分かってもらうために、2人は一芝居うちました。青おには、人間の住む村に下りて行って、人間の家で思い切り暴れたのです。つまり、「暴力」を働いたのです。そして赤おには、そんな青おにを成敗するふりをして、青おにをぶちました。つまり、「暴力」を働いたのです。

     「暴力」と「暴力」。この手段を支持できるでしょうか。私はできません。暴力が正しい手段になるわけがないことを知っているからです。暴力という誤った手段が、2つも重なっているのです。

    (引用)
    「だめだい。しっかり ぶつんだよ。」
    「もう いい。早く にげたまえ。」
    そう、赤おには 小さな 声で いいました。



     この場面は注目です。赤おにも、そして青おにもとにかく「優しい」のです。ここは2人の優しさが交錯する場所でもあります。優しい2人が、互いに「暴力」という手段に訴えている-2人が選んだこの方法は、この点で深刻な矛盾をはらんでいるのです。

     ではなぜ彼らは暴力という手段を選んでしまったのでしょうか。それは、暴力が「強い手段」だからです。暴力は、「間違っているが、強い手段」であると言えます。

     最初、赤おには自分のことを分かってもらうために、立札を作りました。優しい優しい赤おにです。選んだのは、暴力とは正反対の「対話」という手段です。しかしこれは、「正しいが、弱い手段」であると言えます。

    ないたあかおに1

     立札を作って自分のことを分かってもらおうする、その手段は人間に受け入れてはもらえませんでした。人間が鬼に対して抱いているイメージが、両者の間の厚い壁となります。この話は、友情以外にもう1つの見方ができると思います。「正しいが、弱い手段」への挫折から、「間違っているが、強い手段」への変化、という見方です。

     つり合わないものの2つ目が見えてきました。正しさと、強さはつり合いません。だからといって、彼らを責めるかと言うと、そういう気にもならないと思います。赤おにがどれだけ心を開いて訴えかけようとしても、人間におにを理解することは不可能だったでしょう。繰り返しますが、対話は「弱い手段」だからです。

     正しいのに、弱い。間違っているのに、強い。この矛盾にどう立ち向かえばよいのでしょうか。自分が話し合おうと思っても、相手がより強い「暴力」で向かってきたら?あるいは、話し合おうと思っても、相手が絶対に理解してくれない状況にあったら?・・・難しいですね。

     青おにが赤おにのもとを離れ、赤おには失って初めて彼の思いの深さに気付く、というやりきれない結末になりました。残酷なことを言いますが、「暴力と暴力」という手段を選んだ時点で、結末は決まっていたのかもしれません。暴力から生まれたハッピーエンドを、私は見たことがないからです。

    (引用)
    赤おには、だまって それを よみました。二ども 三ども よみました。戸に 手を かけて、かおを おしつけ、しくしくと なみだを ながして なきました。



     青おにの思いを知って泣いたのかもしれません。もう青おにに会えなくなったことに泣いたのかもしれません。あるいは、いくら青おにから持ちかけられたこととはいえ、大切な友達を殴ってしまったことに泣いたのかもしれません。

     やっぱり、彼らは優しいのです。優しい彼らに、私は「つづき」を与えたいなと強く思いました。優しい彼らに、「暴力」や「偽り」は似合いません。彼らには違うものを与えて、人間と分かり合うことよりもっと大事なものを取り戻してほしいと思います。

     こんなに「つづき」が欲しいと思った物語は初めてです。



    こちらもどうぞ

     絵本は深読みしようと思えばどこまでも深読みできます。ある意味、他のどんな種類の本よりも多くのことを中に含んでいるとも言えます。実際私も、小説1冊を読むのと同じぐらいの時間をかけて、この作品を読みました。

    「ごんぎつね」 新美南吉
     やりきれない結末、そして絵本と言えばこの作品も挙げなくてはいけないでしょう。「ごんぎつね」もまた、「つづき」で救いを与えたい作品です。 
     
    絵本,



    •   28, 2015 23:24
  • 100万分の1回のねこ
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    らりくらりと猫はゆく

     「100万分の1回のねこ」という本から、短編を1つずつ紹介しています。第2回目の今回は、岩瀬成子(いわせ・じょうこ)さんの短編、「竹(たけ)」を紹介します。

     初めて読む作家さんだったのですが、「あ、この人、好きだ」というのが読み始めて数ページですぐに分かります。ぶっきらぼうな印象を受ける文章ですが、気付けばぐいぐい引き込まれていきます。



    100mann-2.png 
    「竹」 岩瀬成子

     突然いなくなったねこ、「竹」。ふらっと突然姿をくらませるねこ。一体どこで何をしているのでしょう。ねこを心配する人間と、そんなことはどこ吹く風と言った感じのねこが織りなす、ちょっと不思議な物語-。

    ネコ3らすじ

     竹が帰ってこない。

     主人公の家のねこ、「竹(たけ)」が行方不明になったのです。竹は3日前から行方をくらませていました。けれど、「私」はそのことに気付いていませんでした。ここ数日間、隣のクラスの寺山くんのことばかり気になっていたからです。

     「私」が寺山くんのことを気にするようになったのは、寺山くんと自転車ですれ違った時に彼の口から聞こえてきた一言でした。

     「おれ、わかってたんだよ、イエイ」
     それは、彼がつぶやいた何気ないひとりごとだったのかもしれません。しかし、「私」には忘れられない一言でした。「イエイ」と聞いた瞬間、心臓が大きく「どっきん」となったのです。

     さて、「私」と家族は竹を探します。必死に自転車をこぐ姉、「帰ってくる」と余裕のある笑みを浮かべる母、そして、心の中に浮かぶ「死」の影を振り払いながらも、涙がこみあげてきてしまう「私」。こんなに心配をかけて、竹はどこにいったのでしょう・・・。

     ひょんなことから、「私」は竹を見つけました。そこは、庭にたくさんのねこが出入りしているあるおばあさんの家でした。私はその中から、竹の姿を見つけます。ですが・・・

    (引用)「たけ。おいで」手を差し伸べた。

    「あの子は八兵衛ちゃんよ」
    おばあさんが言った。「ずっと前からうちにいる子」



     私は混乱してしまいます。目の前にいるのは竹なのに、そのねこは「八兵衛」だというのです。目の前のねこは、竹なのでしょうか、それとも八兵衛なのでしょうか。そして、竹は帰ってくるのでしょうか。

    ネコ3瀬成子さんのねこ

     「100万回生きたねこ」にささげるこの短編集。この作品に出てくる竹は、「100万回生きたねこ」を意識しているようですね。

    (引用)「どういう猫かしら」
    「えーと、黒い毛と白い毛の、トラ猫っていうか」



     猫がふらふらと家出して、いつの間にか他の家のねこになっていた!という話は案外よくあるそうです。のらりくらりと出て行ってしまうねこは、一体どんなところで、どんな生活をしているのでしょうか。ねこの不思議さというか、つかみどころのなさがよく伝わってくる作品です。

    ネコ3は何思う

     主人公の私は、「死」に対してとても敏感です。ソファーで寝ている母親を見るだけで、死を連想してしまうような敏感さです。竹を探しているときも、私の頭の中には死がよぎってしまうのでした。

    (引用)そう思ったら竹が林の中で死んでいる姿を思い浮かべてしまった。車が竹をはねて、運転席から降りてきた人が横たわった竹を掴んで林の中に抛(ほう)った、とか。

    そんな悪い人がそこにもここにもいるような気がしてくる。猫を憎んでいる人がそこらじゅうにいるような気がしてくる。

    竹、と思う。生きてろよ。



     不安なときに「死」が頭をよぎる、というのはすごくよく分かります。特に小さい子供だったらなおさらではないでしょうか。私も昔のことを思い出します。親が帰ってくるのがいつもより少し遅くなっただけで、「交通事故に遭ったのではないか」などと考えてしまうのです。

     竹がどこか遠くにいってしまった気がして、私の目からは涙がこぼれます。

    (引用)竹が闇に消えた気がして涙が出てきた。涙はどんどん出た。おぅおぅおぅ。喉の奥のほうから声がこみあげてきた。



     私以外の家族も、竹のことを気にかけます。竹のことを心配して、必死に自転車をこぐお姉さん。お母さんは「見当がつかんから念じるしかないね」と余裕そうにウイスキーを飲んでいますが、やっぱり竹のことが心配なのです。

     こんなに家族に心配をかけているのに、竹はどこまでも自由気ままで、そして不思議です。

    a0960_006168.jpg

     人間がねこを想う気持ちと、そんなことはどこ吹く風のねこ。そのギャップが印象的です。よく考えると、ねこに名前をつけてかわいがっているのは人間がある意味「勝手に」やっていることで、ねこはそんなことを知らないはずです。ねこがふらふらと出て行って、いつの間にか他の家のねこになっていた、という話は案外おかしくないのかもしれません。

     それでも、人間はねこを想います。勝手に名前を付けているだけかもしれないけど、そんなことは考えずに、ねこを想います。ねこには、その気持ちは伝わるのでしょうか。きっと伝わっている、そう思えるから、人間はねこをはじめ動物を飼っているのだと思います。

     さて、家族みなに心配をかけていた竹は、最後に帰ってきました。これまた何の前触れもなく、ふらりと帰ってくるのです。

    (引用)「なんじゃろうね、猫ってさあ。人をさんざん心配させといてさあ」と母が言った。
    おっと、とわたしは思った。

    眠っている竹を見ながら、マーマレードを塗ったパンを食べ、牛乳を飲んだ。ほんとに、なんじゃろうね、猫ってさあ、と思った。



     おばあさんの家にやってきた猫が竹だったのか八兵衛だったのか、そして家に帰ってきたねこは竹なのか八兵衛なのか・・・結局真相はやぶの中です。人間とねこ、長い間一緒に暮らしてきたのに、分からないことだらけです。目の前にいるねこが本当に我が家のねこなのかさえ分からない、何だかおかしくなります。

     それでも、人間はねこと暮らします。大切に想います。「分からないのに、大切に想う」人間だけができるそのことが、とてもかけがえのないことに思えてくるのでした。

    100mann-2.png
    匹目のねこ~私のつぶやき~

    ねこは何を考えているのだろう。身近にいる存在なのに、何も分からないことに気付いてビックリ・・・。

    想像するしかないけれど、想像するしかないのなら、よい想像をしたいです。ねこはきっと、「自分の家」に帰ってきたのだ、と。





    こちらもどうぞ

    特集 100万分の1回のねこ
     まだまだつづく13回シリーズです。次回はこのブログでも紹介したことのある詩人が登場します。ねこをテーマにした、味わい深い詩です。


    岩瀬成子,



    •   27, 2015 22:14