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  • 新しい友達2

    わるものと、変わらないもの。

     調べてみると、この作品はすでに現在の国語の教科書には掲載されていないようでした。私が小学5年生だったのはそんなに昔のことではないのですが、時の流れは早いですね。

     ということで、今回紹介するのは小学5年生の教科書に掲載されていた作品、石井睦美さんの「新しい友達」です。この作品は、5年生の教科書の一番最初に掲載されていました。おそらく「新年度」を意識した配置でしょう。新たな出会いに期待と不安がいっぱいになる4月。そんな時に私たちに勇気をくれるような、素敵な作品です。



    あらすじ



     主な登場人物は2人。「わたし(ひろ)」と「まりちゃん」です。小学二年生の終わりに、仲が良かった2人は離れ離れになりました。まりちゃんが、お父さんの都合でロンドンに転校したのです。

     お別れの時、「わたし」はまりちゃんにクロッカスの球根を渡しました。

    「あったかくなってるよ。なんの球根。」
    「クロッカス。あっちに行ったら植えてね。」
    「うん、絶対。絶対植えるからね」



     2人は、離れ離れになっても手紙のやり取りを続けていました。それから2年後、まりちゃんがロンドンから帰ってくることになりました。5年生の春から、二人はふたたびいっしょのクラスになります。「わたし」は再会を喜びます。

    「月曜から学校に行くから、そしたら遊ぼうね。」
    「また、いっしょのクラスだといいね。もしちがうクラスになっても、遊ぼうね。」
    約束をして、さよならした。いつでも会えるさよならだと思うと、さよならがうれしかった。



     うれしい再会を果たした私ですが、そのあと、拭えない「違和感」のようなものを覚えることになりました。この「違和感」がこの話の読みどころです。

    初めの何日間か、まりちゃんの周りはざわざわしていたけれど、それもだんだんとおさまって、まりちゃんは、特別な人ではなくなった。

    それでも、何か変な気持ちがしてしまう。

    お母さんの言ったとおり、何も心配なことは起こらなかった。もともと、はきはきとして元気だったまりちゃんは、もっと、はきはきと元気な女の子になっていた。それはすごくうれしいことなのに、すなおに喜ぶことができない自分に気づいて、わたしは、自分が少しいやになる。



     2人は仲の良い親友でした。なのに、どうしてこんなザラザラとした気持ちが生まれてしまうのでしょうか。そのザラザラの正体を、このあとじっくり読みといていきます。

    お互いの変化



    新しい友達1

     私がこの話で面白いなと思ったのが、「転校したまりちゃんが2年後に戻ってくる」という設定です。これが、「わたし」の中に妙な気持ちを生み出してしまうのですね。

     クラスメートが転校したという経験は、おそらく多くの方がお持ちだと思います。では、「転校したクラスメートが再び舞い戻ってくる」という経験はどうでしょうか。一気に数が少なくなりそうです。小学生の頃、転校した人の顔を思い出します。「お別れ会」を開いて、クラスの皆で別れを惜しみました。でも、その人がその後ふたたびクラスに舞い戻ってきたら…ちょっと想像してみます。

     「気まずさ」のようなものがあるかもしれませんね。その「気まずさ」が、この話に通じているように思います。

     私は、転校した人が戻ってきたという経験はありませんが、小学校の時に転校した友達と高校生になってから再会した、という経験があります。その時のことを思い出すと、やはり「気まずさ」や「やりにくさ」があったのです。私も友達も、小学生から高校生になりました。小学生の時と同じように振る舞えるわけもなく、果たしてどうやって振る舞えばよいか、とても戸惑いました。

     名前の呼び方なんかもとても難しいのです。小学校の時と同じ風に呼んでいいのかな・・・と戸惑っていたら、向こうから私の名前を呼んできました。昔とは違う呼び方でした。やっぱり、2人の関係は昔と同じではないのです。

    もともと、はきはきとして元気だったまりちゃんは、もっと、はきはきと元気な女の子になっていた。



     この物語の「わたし」も、こんな風にまりちゃんの変化に気づいています。2人は2年という割と短いスパンで再会しました。しかし、たった2年でも人は大きく変わってしまうのですね(変化の大きな小学生ならなおさらです)。「昔のまりちゃん」と「今のまりちゃん」、明らかに違う2人のまりちゃんがいて、接し方がすごく難しいのだと思います。

    a0990_001474.jpg

     もうひとつ、私が注目したのが2人の手紙のやりとりです。2人は離れ離れになった後も手紙のやりとりをしていました。しかし・・・
     

    そのうち、手紙と手紙の間が、少しずつ空くようになっていった。クリスマスカードと、暑中みまいと、クリスマスカードを書いた。



     手紙と手紙の間が、少しずつ空いていくのです。ここもリアリティーのある描写でした。私は「年賀状」を思い浮かべます。もう合わなくなった人と、年賀状のやり取りをする。でも、やりとりは1年間でその1度だけ。そのうち、「いつまで続ければいいのだろう」なんて・・・。

     離れ離れになった時は、とても悲しかったのだと思います。そして、これからもつながり続けようとします。しかし、人間は常に変わり続けています。常に変わり続けている中では、当然「昔の関係」の意味も変わり続けるのです。離れ離れになった人のことを思って、10年先も20年先も涙を流し続ける人はいないでしょう。

     「思い出」として、きれいなままにしておきたい―。人間はそう思ってしまうのかもしれませんね。昔の友達と再会する気まずさや、やりにくさ。何とも言えないそんな気持ちをよく描写している作品です。

    新しい関係



     2年ぶりに再会したまりちゃんとの間にどこかぎこちなかった私。そんな時、同じクラスの坂本君が、私にこんなことを言います。

    「あのさあ、新しい野中(注 :野中=まりちゃん)なんだよ。野中を、新しい野中だと思えばいいんじゃないの。」



     坂本君、とてもいいことを言いました。先程私は「昔のまりちゃん」と「今のまりちゃん」がいると書きましたが、そんな風に2人のまりちゃんがいると考えるのです。「新しいまりちゃん」、つまり「新しい友達」。タイトルに結びつきました。

     坂本君の一言で、「わたし」はすっかり楽になります。

    新しい友達、新しいまりちゃん。前から知っていたまりちゃんを、初めて知った子みたいに思うのは、なかなかにむずかしそうだった。けれど、ほんの少し気持ちは軽くなって、ありがとうって思った。坂本君、ありがとう。



     私が小学生の時の友達と高校生になって再会し、気まずかったとき、坂本君がこのように言ってくれたらどうだったでしょう。きっと、私も気持ちが楽になったと思います。「新しい友達」、なんていい響きでしょうか。

     人間は常に変わり続けます。変わり続ける人間と、変わらない思い出。そのバランスをとるのは難しいのだと思います。いい思い出の残像を追い求めてしまったり、あるいは悪い思い出をずっと引きずってしまったり。人間はどうしても、「『思い出』に引っ張られる」ところがあるのでしょう。

     仲の良かった2人は、決して思い出に引っ張られることなく、「新しい友達」になることができました。きっと、これまでよりももっとたくさんの素敵な思い出を重ねていけるに違いありません。大きな希望を感じさせる終わり方です。

    新しい友達3


     どこかぎこちない2人の心を再び引き寄せたのは、お別れの時に渡したクロッカスでした。なかなかにくい演出です。

    「あっ、あたしの写真。」つくえの上にかざってあった写真を見つけて、まりちゃんが大きな声を出した。

    「このクロカッスね、毎年さくよ。植えっぱなしでもさく、とってもいい子なんだ。」
    まりちゃんの言い方がおかしくて、私は笑った。
    「よかった。」
    ほっとしたようにまりちゃんは言った。
    「どうしたの。」

    「だって、前みたいにひろが笑ったから。ずっと、なんだかちがうみたいな気がしてたんだもん。」



     まりちゃんもまた、2年間のブランクに戸惑っていたのですね。お別れの時に渡したクロッカスが、どこかぎこちない2人の心をときほぐしてくれました。

     クロッカスは、「変わらないもの」の象徴として描かれたのだと思います。友情には、ずっと変わらない部分と、年月を経て変わっていく部分があると思います。変わらない部分を大事にしながらも、ある部分では変わり続けて、この2人のようにずっと「新しい友達」でいられたらいいですね。



    教科書への旅

     自分で言っちゃうのはなんですが…このコーナーが本当に好きです。教科書に掲載されている作品は、選び抜かれて読み継がれている名作ばかり。毎回物語の素晴らしさと深さに気付かされています。

    教科書への旅 一覧ページ

    「大造じいさんとガン」 椋鳩十(小学5年生)
     今回と同じ、小学5年生の作品です。こちらは差し替えられることなく、長い間子どもたちに読み継がれています。最近この記事へのアクセスが増えてきました。教科書の位置から推測するに、ちょうど今ぐらいの季節に読まれているはずです。


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    石井睦美, 教科書,



    •   30, 2015 17:10
  • 二十歳の原点 (新潮文庫)
    高野 悦子
    新潮社
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    の体内に流れる血は、誰の血なのだろう

     高野悦子さんの「二十歳の原点」という日記を紹介しています。「闘い」をキーワードに、2回に分けて書いています。前編は「権力との闘い」、今回の後編は「自分との闘い」です。2つを並べてみると想像がつくかもしれませんが、「自分との闘い」のほうが、より厳しく、危険で、そして孤独な闘いです。

     この日記を読んでいると自分が壊れてしまいそうで、私は最大限に注意を払いながら感想を書いています。「劇薬」というたとえがぴったりの、あまりにも危険な本です。今日は、人間そのものを破壊してしまう、そんな恐ろしい「自分との闘い」へと突入していきます。



    人間が死んでいく



     この本からよく引用される有名な一説があります。「自分との闘い」の壮絶さを端的に表現した、この上ないインパクトのある個所です。短い一説ですが、この部分を読んだだけで闘いの厳しさがひしひしと伝わってきます。それで、よく引用されているのでしょう。

     「私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。」

     あまりにも、あまりにも壮絶です。「血」というのは、ある意味究極の例えだと思います。限界まで追い詰められた人間が、自分の命を感じようとして求めようとして見るのが自分の「血」です。しかし、高野さんは「血」にすら自分を見出すことができませんでした。体内に流れている血は、誰の血なのだろうか。彼女はそう言います。自分の血が自分の血だと思えないくらい、彼女は極限まで追いつめられていたのです。

     (しかし、この一説が出てくるのは2月24日。まだ鉄道自殺の4か月前なのです。究極の例えだとは思いますが、これはまだ「序章」にすぎません。)

     「人間が死んでいく過程」、この日記では、それがあまりにも克明に記されています。たとえどんなに社会が不安定であっても、自分の中で「自分」さえ確保できていれば人間は壊れることはない、と私は思います。逆に言うと、自分の中にある「自分」が壊れていくこと、それは人間が「死」へ向かうことを意味します。

     学生運動をはじめとする社会の異常性が、彼女の中にある「自分」へと侵食していきました。そして、彼女の中にある「自分」を破壊していきました。動物の死骸が、微生物によってあっという間に分解されていく様子を想像してみてください。あれと全く同じことが起きているのです。彼女の中にある「自分」が、ものすごいスピードで喰われていきます。そして、彼女は「死」に向かいます。

    どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛、愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ぬかもしれぬ。



     「自分」を破壊された彼女は、あらゆるものを否定していきます。他者を否定し、愛を否定し、生を否定します。自分を破壊される怖さが痛いほど伝わってきます。「私は自殺をしない」彼女はそう言いました。自殺をする、2か月前のことです。

    死を選ばせた「矛盾」



     ここまで読んできて、彼女のことを弱い人間だ、あまりにも脆い人間だと思われた方もおられるかもしれません。たしかにそうなのかもしれません。自分の中にある「弱さ」や「脆さ」、そのことに一番気付いていたのは彼女自身でした。

    私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出だしている。他者との関係において自己を支えているものとは何なのか。



     自分が弱いから、自分の自我が弱いから自分を追いつめてしまうのだ―彼女はそのことに、他の誰よりもよく気付いていました。そして、最も恐ろしい、1つの矛盾にたどり着くことになります。

     自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出だしている。

     この一説が出てくる時点で、自殺まで1か月を切っています。私は、これが「とどめの一撃」になったのではないか、と感じます。他者の目線を気にして、自分を作り上げていく。他者との関係の中で、自分が作られていく。私もよくやっていることです。というか、常にやっていることです。

     しかし、そこには大きな矛盾が潜んでいたのでした。他者との関係の中でだけ作られていく自己。それは、「自己」とは呼べるのか。もしかして、「自己」なんて存在しないのではないのか。これが、彼女の足を線路へ踏み出させる、最後の一押しになったのかもしれません。

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     人間は大きな矛盾を抱えています。それでも、大多数の人間は言い方は悪いですが「のうのうと」生きています。なぜでしょうか。彼女はそのことも分かっていたのです。

    生きるということは妥協の連続なのか。大事なことはどこに妥協の接点を見つけるかということである。



     彼女の言う通りなのです。大きな矛盾を抱えているとしても、私たちは「妥協の連続」で生きる道を選びます。そのことを分かっていたのに、彼女はどうして自殺を選んだのか。妥協しなければいけないと分かっているなら、妥協することはできなかったのか。そんな悔しい思いがにじみました。でも、そうではなかったんですね。

     すべてを見通していたから、死ぬしかなかった

     彼女は、「見えすぎて」いました。他の人が考えようとしないことまで考え、どんどん深入りしていきました。そして、すべてを見通してしまいました。すべてを見通してしまったから、「死ぬしかなかった」のです。この言い方が正しいのか分かりませんが、私はそう思いました。

     20歳になり、それからわずか半年で死ぬことを選んだ彼女。自己を見つめようとするあまりにも純粋で危険な力を感じます。そして、前編でも書いたように、時代の異様な力がさらに彼女の背中を押しました。異様な時代の中で、彼女が「20歳」だった―そのことが悲劇を生んだのです。

     若者は、自分という存在が確立されていないがゆえに、思い悩みます。私が大人たちを見ていて思うことですが、年を重ねていくうちにそんな深いことは考えなくなるのでしょう。こういう感情は若者特有のことで、そして誰もが通る道です。それを乗り越えなければ、「大人」にはなれないのですね。

     彼女は乗り越えられませんでした。時代があまりにも異様だったことが原因だと思います。まだ自分を固め切れていない若者に、「異様な時代」が襲い掛かってきたのです。

     時代を今に戻します。今もまた「異様な時代」である、と多くの人が指摘します。高野さんが生きた時の学生運動ほどではありませんが、それと似たようなことが現にこの夏起こっていたことを思い出しました。たしかに、異様な時代なのかもしれません。

     ということは、私も同じだということになります。「異様な時代を生きる『20歳』」という、高野さんと同じ状況に置かれていることになります。

     気を付けなければいけない。「自分」を破壊されないように、気を付けなければいけない。異様な時代に襲われ、喰われてしまわないように気を付けなければいけない。この本を読んで、私が受け取ったことです。

     「時代が若者を殺す」、それは起こり得ることだと思います。今がそういう時代になっていないか、不安で仕方がありません。

    未熟であり、孤独である



     これは「日記」です。高野さんは人に見せようと思ってこの文章を書いたわけではありません。死後に自分の書いたものがこうやって出版されることなど想像もできなかったでしょう。彼女のお父さんもそのあたりは苦しまれたようですが、私はこの日記を世の中に出していただいたことに感謝します。

     人に見せようと思って書かれて書かれた文章ではないので、純粋な彼女の本音がつづられています。まさに「魂の叫び」です。命を削ってでも自分を見つめようとするあまりにも孤独な闘いでした。

     ずっと読んでこられた方は気付くかもしれませんが、自殺をする半年前から、自殺をする時点へ近付けるように記事を書いてきました。この流れで行くと、自殺の直前に書かれた文章を最後に引用しなければいけません。

     でも、できませんでした。引用できません。怖くてキーボードなんか叩けないのです。人物が最後に自殺をするというのは小説でもよくあることですが、そんなものとはわけが違います。彼女は『本当に』電車に飛び込んだ。この文章を書いた直後に電車に飛び込んだ。そう思うと、とても引用などできませんでした。

     前編の一番最初に書いたように、彼女は二十歳の原点として「独りであること」と「未熟であること」を挙げています。別の部分では、こうも書いています。

    私は独りである。私は未熟である。恐ろしい宿命だ。それは。



     「孤独」「未熟」。私も、それらが二十歳の原点、いや、人間の原点だと思います。そしてそれは、「恐ろしい宿命」です。自分が孤独であって、未熟であるということから私たちは逃れられません。それが「原点」だからです。

     どうやったら「大人」になれるだろう、と最近思います。20歳の誕生日を踏み越えただけでは大人にはなれないでしょう。乗り越えなければいけないことがあまりにもたくさんあって、じゃあいつになったら大人になれるんだと絶望する気持ちになります。

     自分が孤独であることと未熟であること。そのことに気付いて、受け止めなければいけない。そのうえで、たくさん「妥協」をしていかなければいけない。それがたぶん、大人になるということです。

    ◆殿堂入り決定!

    「最果ての図書館」は、『二十歳の原点』を「プラチナ」に認定しました。おめでとうございます。





    ブックレビュープレミアム

    高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い (前編)

    特集 読書の秋 私がやりたい7つのこと

     この本は、「読書の秋 私がやりたい7つのこと」に含まれていた本です。20歳になる前に、20歳で自殺した人の日記を読む・・・「頭がおかしいんじゃないか」と思う人もいるかもしれませんね。でも、私にとっては絶対に読まなけれないけない本でした。この本を読まないければ大人になれないと思うのです。





    •   26, 2015 00:12
  • 二十歳の原点 (新潮文庫)
    高野 悦子
    新潮社
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    0歳で燃えつきた人生があった

     20歳になる前にどうしても読んでおきたい本がありました。20歳になってしまっった後だと、同じ本でも全く意味が違うのだと思います。かなり駆け込みにはなりましたが、なんとか20歳になる前に読み終えることができました。

     「二十歳の原点」。高野悦子さんという女性の日記です。高野悦子さんは、昭和44年6月24日の未明に自ら鉄道に身を投げて20年の生涯を終えました。彼女の下宿先に残っていた大学ノート十数冊の日記をまとめたのがこの本です。

     独りであること、未熟であること―これが、私の二十歳の原点である

     彼女が残した言葉を、前後編で見ていこうと思います。



    はじめに 高野悦子さんと『二十歳の原点』



    スクリーンショット (3)

     高野悦子さんの生涯と、『二十歳の原点』という日記について簡単にパネルにまとめています。高野悦子さんは立命館大学の学生で、文学部で日本史を専攻していました。三回生の時、自ら鉄道に身を投げることになります。『二十歳の原点』は、高野さんが20歳の誕生日を迎えた1969年1月2日から同年6月22日までの日記です。高野さんが自殺したのは6月24日。つまり、亡くなる2日前までの日記が残されています。

     他の本を読んでいると、この日記が引用されている場面に何度も出会いました。それぐらい有名で、社会にも大きな影響を与えた日記です。「若者の『生きづらさ』」「学生運動」といったテーマのとき、必ずと言っていいほどこの日記がひかれます。

     高野さんが自殺した後、下宿からこの日記が見つかりました。それを読んだ高野さんの父親は、こんな風に語っています。

    私が、親の私が抱いていた「悦子」と別の人間がそこにいたのです。我が子のことは、生れたときからすべて知りつくしていると思っていたのに……、私とあの娘の間にはこれ程の断絶があったとは。親と子の断絶、それはあの娘が親の手を自ら拒否してしまったのかもしれません。 (失格者の弁 / 高野三郎)



     高野悦子さんはとても朗らかな人だったといいます。自殺の当日も、いつもの通りアルバイトに出かけていたそうです。彼女の自殺に際した人にとっては、まさに「青天の霹靂」の出来事だったのでしょうか。

     この日記を読むと知られざる彼女の姿が浮かび上がってきます。「朗らかな人」というのは、彼女が命を燃やしてまで懸命に演じ続けていた「虚像」であったということ。そして、彼女が出かけていったというアルバイトは、彼女の首を絞め続けていた存在だったこと。

     20歳で自殺した方が残した日記ということで、私はあまりのめり込まないようにと注意して読み始めました。あまりのめり込み過ぎると危険なことになるからです。そう心がけていましたが、読みながらどんどん彼女の言葉にのめり込んでしまいました。魂が叫んでいるような彼女の言葉は、私をどこか違う世界へ引きずり込もうとするかのような、とても危険で、とても強烈な力を放ちます。

     精神的に不安定な方は、絶対にこの日記を読まない方がよいでしょう。

     前後編ということで、「闘い」というキーワードで2回に分けて書いていきます。前編の今回は、「権力との闘い」です。彼女は立命館大学で、いわゆる「学生運動」「学生闘争」に巻きこまれていきます。学生運動のさなかで、彼女は何を見たのでしょうか。

    傍観者ではいられない



     立命館大学に入学した高野さん。当時は、いわゆる「学生運動」の時代でした。彼女の通う立命館大学でも、激しい闘争が行われていました。寮の封鎖、民青行動隊と全共闘の衝突、実力排除、クラス討論、直接団交・・・そんなおどろおどろしい言葉が並びます。

     試験は延期、教授は辞職。大学は滅茶苦茶です。今の時代で大学生をやっている私には想像が難しい世界でした。大学は静かなものです。講義を受けて帰ってくる・・・特にイベントがなければ、そんな無味乾燥な日々が続きます。しかし当時はそうではありませんでした。大学で武力衝突が起こり、講義も試験もままならない、そんな「異常」というよりほかならない状況がありました。

     私は今平和な大学生活を送っているからこうして平静を保っていられるわけですが、高野さんのように「学生運動」の中心に放り込まれていたらどうだったでしょう。「自分」を保てていたでしょうか。たぶん、いや絶対に無理です。

    クラス討論に出たもののシックリ参加できなかった自分、文学部大衆団交の騒々しい渦の中でそれを「つるしあげ」としか感じなかった自分、それを何とも表現できなかった自分。(中略)大学はどうなるのだろう。自分はどうすればよいのか。



     不安定な大学の状況が、高野さんの「自己」という基盤を揺るがしていくのです。彼女がこの時代に生まれなければ・・・そんなことを思います。間違いなく、「学生運動」によって彼女の短い命は燃やされました。この時点で、自殺の約5か月前になります。

    「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。



     激しい運動を目の当たりにして、彼女は「傍観は許されない」という思いに駆り立てられていきます。何かを行動しなければならない、そう思います。しかし、注目していただきたいのはそのあとの場面です。「その何かとはなんなのだろう」。そう、彼女は何かに駆り立てられながらも、駆り立てるものの正体が分かっていないのです。

     当時の学生運動は、「傍観は許されない」というような雰囲気を生んでいたのだと想像します。異常な時代の中にいた人たちは、「自分も何かをしなくてはいけない」という正体不明の衝動に駆られ、そして振り回されたのではないでしょうか。

     若者というのは、変わりやすく感じやすい、脆い存在です。そんな若者にとって、「学生運動」というのはあまりにも影響が強い劇薬なような存在だったのでしょう。その暴力的な力によって、一体いくつの人生が台無しにされたのでしょうか。

     生まれた時代が違うとはいえ、自分と同じ年代の若者がかつて直面していた出来事です。全く他人事だとは思えませんでした。運命のいたずらで、自分もこの時代に生み落とされていたかもしれない。もしそうだったら、私にも全く別の人生が待っていたのでしょう。

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     「何か行動しなければいけない」と感じた彼女。苦悩するうちに、「大学」そして「国家」という大きな権力とぶつかることになります。そして、恐ろしい問いにぶつかることになるのです。

     ちょっと長いですが、該当する部分を引用してみます。私は耳をふさぎたい気分でした。「そんなことを言わないで」。きっと、心のどこかで思っていたからでしょう。ぐさりと刺さります。

    大学にとって、あなたという人間―学生とよばれているあなたという人間―が必要なのかと思ってみたことがありますか?ちょっと考えてほしい。あなたが大学から受け取ったものは、合格通知と入学金支払の振込用紙と、授業料催促の手紙だけだったろう。そしてあなたは、立命館大学の学生であるという学生証をもらった。そしてあなたは、四ヵ年の時間をかけて受講登録、試験とやって100という単位をかち得て(?)晴れて卒業することだろう。そしてあなたはこの「自由なる」「平和なる」学園を去る。大学(側)にとって、あなたはそれだけのことに過ぎないのだ。卒業名簿の中にあるあなたの名前など、大学側にとっては授業料の領収書の意味しかないのだ。



     高野さんは、恐ろしいことに気付いてしまったようです。これは1969年に書かれた文章ですが、「立命館大学」を自分が通っている大学に置き換えれば、今の私にも全くそのまま当てはまってしまうのです。

     自分は、大きな社会、組織の中の「パーツ」でしかない。自分ではなく、他の誰かでもいい。・・・私も考えることがあります。考え出すと恐ろしくなるのでやめます。高野さんは考え続けることをやめませんでした。考え続けた先には、自分の目の前に向かってくる列車があったのでした。

     大学に行くときに「学生証」を持っていきます。学生証を忘れると大変です。講義に出ても出席したことになりませんし、大学の売店で買い物もできません。たった1枚のカードを忘れただけで、自分はあっという間に大学から「排除」されるのです。私と私の学生証、どちらが大事なのでしょうか?私は、学生証がなかったら「私」ではなくなってしまうのでしょうか。

     大学生だけでなく、社会で働いている方も同じ疑問を自分にぶつけてみることができると思います。身分証明書の類を一切奪われた時の自分を、所属している場所をすべて奪われてしまった時の自分を、ほんの少しだけ想像してみてください。私はすぐに想像をやめます。怖くて続けられません。

     「自分など、存在しない」「自分など、必要ではない」。高野さんは恐ろしい場所に向かっていきました。ちょっと、書き続けるのが辛くなってきました。

    「自分」が壊れていく



     大きな「権力」というものを目の当たりにして、高野さんはそれと闘おうとしました。権力との闘いは、しだいに形を変えていくようでした。「自分との闘い」に変わっていくのです。

     後編は、「自分との闘い」がテーマになります。自分との闘いは、権力との闘いとは比べ物にならないくらい、厳しく、辛く、孤独な闘いだったように思います。それこそ、一人の人間を鉄道に飛び込ませてしまうくらいの、恐ろしい敵です。後編では、今日書いたこと以上に想像を絶するようなことを書かなくてはいけないでしょう。

     社会の不安定が波及することによって、「自己」が確立できなくなる

     この日記からは、そんな構図を発見することも出来るのでしょうか。「自分が破壊される」、恐ろしいことです。しかし、誰にでもその危険は潜んでいます。自分が破壊されるということがいかに恐ろしいことか、この日記は教えてくれます。

     「一人の少女が思いつめて鉄道に身を投げた」、そんな言い方で片付けられる内容ではありません。これから二十歳になる私のような人も、あるいはもうすでに二十歳を通過した人も、読む価値のある本だと思います。後編は自分でも書くのが怖いですが、本の中から私たちが感じなければいけないことがあると思うので、慎重に書いていくことにします。



    ブックレビュープレミアム

    高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い (後編)

     「大学に自分に必要なのか」の部分が本当に心に刺さっています。例えば寝坊してちょっと遅く学校に行ったとき、そんなことを思いますね。私がいなくても、大学は何事もなかったように回っています。何一つ変わりません。ちょっと恐ろしくなる瞬間です。高野さんの言うように、大学にとって私という存在は「授業料の領収書」でしかないのか、なんて・・・。







    •   23, 2015 23:53
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    果てぬ夢は続く

     個人的な失敗の話をして申し訳ないのですが、この記事を書いているのは2回目です。記事を書いて更新しようと思ったら、上手くできなくて内容が全て消えてしまいました。夜に1人泣きました。

     1回目の内容を思い出して、もう1度書き始めることにします。8月24日からやってきたこのコーナーは、今日で最終回です。2か月もやっていると、本当にいろいろな思いが浮かんできます。そういった思いを整理してもう1回書き直せと神様が言っているのでしょう。

     最後を締めるのは、絵本の作者、佐野洋子さんの元夫、谷川俊太郎さんです。



    あらすじ



     その野良猫は、ずっと界隈に居着いていた。野良の虎猫である。私が物心ついた時には、すでにその猫には連れ合いがいた。

    白い綺麗な猫だったが、野良の虎猫とその白猫は妙に馬が合うらしく、猫には珍しく発情期になってもそわそわもせず、二匹で静かに寄り添っていた。



     虎猫と白猫で「虎白カップル」。私が成長していっても、カップルは常に私のそばにいた。

    私が成人して職を得て結婚しても、虎白カップルは生きていた。私の結婚した相手が猫アレルギーだということが分かっていたらしく、遠慮して我が家の庭には寄り付かなくなっていたが、近くの空き地でよく見かけた。驚いたことにまだまわりで子猫がうろちょろしていた。



     私と妻の生まれ変わりではないかと思うくらい、カップルは常にそこにいた。だが、ついに私たち夫婦にも別れがやってきた。そして・・・

    谷川俊太郎さんのねこ



     この本には、作品の冒頭に作者のコメントがあります。絵本「100万回生きたねこ」や、作者の佐野洋子さんへの想いを綴ったコメントです。さすがプロの作家さんとあって、コメントもただのコメントではなく、大変味わいのある1つの「作品」になっています。この本の大きな見どころと言えるでしょう。

     さて、谷川俊太郎さんもコメントを残しておられます。とてもシンプルですが、作品全体を貫きとすようなコメントです。佐野洋子さんのことを誰よりも理解しているであろう谷川俊太郎さん。きっと、多くの言葉はいらなかったのでしょう。

    『100万回生きたねこ』は、佐野洋子の見果てぬ夢であった。それはこれからも、誰もの見果てぬ夢であり続ける



     「見果てぬ夢」、谷川さんはそう言います。作品を締めくくるのに、こんなに相応しい言葉はありませんでした。これまでに12の作品を紹介してきましたが、それは絵本「100万回生きたねこ」から出発して、それぞれの作家が想いを巡らせて生み出した「夢」であると言えます。

     「100万回生きたねこ」は本当にいろいろなことが詰まった絵本です。多くの人に手に取られ、そして、1冊の絵本から様々な夢が、つまり想像が今もこうやって生み出され続けています。1冊の絵本がもはや1冊の絵本ではなくなっているということに気付き、私は震えました。

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     これまで何度も「元夫」と書いて気になっていたのですが、谷川俊太郎さんと佐野洋子さんはすでに離婚されています。お二人が結婚されたのが1990年、離婚されたのは1996年だということです。

     離婚されたようですが、あまりネガティブな捉え方をするべきではないようです。お二人は互いに相手のことを語っておられますし、こうやって谷川俊太郎さんが佐野洋子さんの絵本に短編を捧げるなど、今も交流が続いています(佐野洋子さんはすでに亡くなられてしまいましたが)。佐野さんと最初の夫との間に生まれた息子の広瀬弦さんも加わって、おそらく本人たちにしか分からない、とても不思議な関係が形成されています。

     離婚について事情は知らないのですが、少し想像してみることにします。おそらく、佐野洋子さんと谷川俊太郎さん、2人のエネルギーがあまりに大きすぎたのではないでしょうか。2人とも間違いなく後世に名を残していく作家です。そんな2人が夫婦であった時期があるということに驚きます。それに、奔放で常識にとらわれない谷川さんが、「夫」という枠には収まらなかった、ということもあるかもしれません。離婚して「元夫婦」になられたわけですが、その方が谷川さんには合っていると思います。

     離婚された2人に言うのはおかしいかもしれませんが、言わせていただきたいと思います。佐野洋子さんと谷川俊太郎さん、素敵な夫婦です。

    悲しげな顔つき



     作品については、ほとんど語りたいことはありません。作品の素晴らしさが高まると、「語らずにそのままにしておきたい」という思いが働くようになります。私がそんなことを思う作家はほとんどいませんが、谷川俊太郎さんは数少ないそのうちの1人です。

     ただ、何も語らないでおくというのはぶしつけなので、少しだけ語ろうと思います。この作品には虎猫と白猫のカップルが出てきて、人間と重ね合わされています。虎猫と白猫というのは、絵本「100万回生きたねこ」に出てくる2匹です。白猫に出会って、虎猫は愛を知りました。本当に大切な関係です。谷川さんは、そんな2匹の関係がいかに深いものか、佐野洋子さんの想いを汲みとって描かれていると感じました。

     そのことを感じさせるのが、白猫を失った虎猫が、「私」のもとにやってくる場面です。

    しみじみ顔を見た。長いつきあいだ。よく見るとこれまで見たことのない悲しげな顔つきをしている。ははあ、こいつも連れ合いをなくしたんだなと、ぴんときた。



     私が注目したのは、「悲しげな顔つき」という部分です。普通の小説だったら、気に留める箇所ではありません。ただ、この小説では特別な箇所になります。虎猫は白猫に愛を教えてくれました。そんなかけがえのないパートナーを失った、その時に見せる「悲しげな顔つき」ですから、普通の状況とは重みが違います。

     谷川さんがパートナーを失った虎猫の「悲しげな顔つき」を書いたということに、私は谷川さんの強い意志を感じました。悲し気な顔つきとはどのような顔つきか、谷川さんは想像して書かれているはずです。

     人を愛するとはどういうことか。愛する人を失うとはどういうことか。愛する人を失うとどのような気持ちに襲われ、どのような顔をするのか。この箇所は、そういった流れでいくつものことを問いかけてきます。

     これまで紹介してきた13の物語を締めくくるにふさわしい場面だと思いました。たくさんの「愛」を見てきましたが、その中で印象に残っているものを浮かべてみると、「痛み」であったり、「苦しみ」であったり、ここで書かれている「悲しみ」であったりします。

     それらの感情は、「愛」のイメージとは裏腹のネガティブなものかもしれません。だけど、それらが間違いなく愛の裏側にあって、愛を成り立たせているということをこの本は教えてくれました。この場面の深い深い悲しみが、つまりは深い深い愛が、13の物語全体を包み込んでいます。

    おわりに



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     13の物語をすべて紹介しました。13回シリーズというのはやる前に想像していたよりもはるかに長いものでした。ただ、紹介し終えて改めて思うのですが、この本の中に省略してよい物語など1つもありませんでした。1つでも欠けてしまうと全く違う本になっていた、そんな風にさえ思います。2か月もかかってしまいましたが、すべて紹介することができてよかったです。

     この本を読んで浮かぶ感想は、「よかった」とか「面白かった」というのようなものではありません。普通の本ではなかなか思わない珍しい感想だったのですが、何だと思いますか?

     私も小説を書きたい

     これでした。13人の作家がそれぞれの物語を生み出していくその想像力、独創性が本当に素晴らしいのです。私の頭の中には、それらの作品を読んで浮かんでくるたくさんのイメージが溢れんばかりのようになっていて、それを形にしたいという思いに駆られています。

     私は小説を書いたことはありませんし、正直どこから手を付けていいのか分かりませんが、いつか自分の手で「14匹目のねこ」を生み出してみたいと思います。単に面白かったという感想を超えて、「自分も小説を書きたい」と思わせるくらい、この本は豊かな想像力と物語の素晴らしさが結集しているのです。

     小説を書きたい、という私の思いは、実は「100万分の1回のねこ」という本のタイトルに通じる部分があります。「100万回生きたねこ」は、100万回の人生を送りました。その1回1回の人生は、どんなものだったのでしょうか。それは、読者の一人一人が想像するものです。読者の一人一人がそれぞれ「100万分の1回」を想像できる、そこにこの本の素晴らしさがあります。

     「誰もの見果てぬ夢であり続ける」。谷川俊太郎さんはそう言いました。私も、夢を見たいと思います。「100万回生きたねこ」を読んだ人が、それぞれの夢を見て、こうやってそれぞれの物語が生み出されていきます。

     1冊の本から始まって、私たちはどこまでも行くことができる。実は、このことはこのブログのタイトルである「最果ての図書館」に込めた意味でもあります(「最果て」というのは、たくさんの本を読んだ先に行きつくところ。人生の中でどんな本を読むかはその人によって違うので、どこか決まった場所ではなく、「最果て」という曖昧な言い方になるのです)。

     私はどんな本を読んでどこに行くのだろうということをいつも考えます。どんな本と出会うのだろう、何を想像するのだろう。本が持つ無限の可能性を、物語がもつ無限の広がりを、この本の中の13の物語は教えてくれました。



    オワリ

     次回がないと思うと寂しいですね。読み終えて喪失感さえ覚える、忘れられない本になりました。

    特集 100万分の1回のねこ

     13の物語の中でベストを選ぶなら、第4回に紹介した、井上荒野さんの「ある古本屋の妻の話」です。この小説の余韻は今でもよく覚えています。角田光代さんや、最初に紹介した江國香織さんの作品もとてもよかったです。特別賞は「ドラクエ小説」に贈りたいと思います。読み終えてからじわじわ面白くなってきました。

     谷川俊太郎さんと広瀬弦さんは別格という感じでした。お二人は佐野洋子さんのことを誰よりもよく理解しているから、ストレートな物語を書くことができるのだと思います。


    谷川俊太郎,



    •   22, 2015 04:52
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