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教科書

 保育園から小学校、中学校から高校、そして高校から大学。学校の変わり目というのは何度もありましたが、個人的に一番変化が大きかったのは「小学校から中学校」です。何もかもが変わって、何というのでしょうか、背伸びを「しなければいけない」、そんな雰囲気に飲まれていました。

 国語が大好きで、国語の教科書作品で成長させてもらった私ですが、中学校の始めというのはそういった時期でしたから、その時期に読んだ作品にはとても思い入れがあります。今日は、中学校で最初に読んだ小説、『にじの見える橋』を紹介します。

(約4100字)



ずぶぬれになりたい



にじの見える橋1

 『にじの見える橋』の作者は児童文学作家の杉みき子さんです。杉みき子さんと言えば、このコーナーで以前紹介したことがあります。第5回で紹介した『わらぐつの中の神様』(小学5年生)ですね。教科書に複数の作品が採用されている作家さんというのは、それだけ子どもたちに「読ませたい」作品を生み出している方ということになりますから、素晴らしい作家さんばかりです。杉みき子さんの場合は、人物の感情をすくい取るのが抜群に上手くて、何だか「すっと入ってくる」、そんな印象があります。

 上に載せた教科書の作品をご覧ください。タイトルの下に、学生服を身にまといつつも、どこか幼さの残る少年の挿絵があります。国語の教科書を開いてこのページを見た時、私ははっとしました。まさに当時の私がそこにいるかのようだったからです。

 この作品の主人公が中学1年生であるとはどこにも書いてありません。幼げな少年が学生服を着ている様子はいかにもそう思わせますが、学生服は小学校でも着用する学校があるのでこれだけでは何とも言えませんね。ただ、改めて読み返してみると私にはこの少年は中学1年生なのではないかと思えました。この少年の「心模様」が、私の中ではいかにも中学1年生のそれだったのです。

 雨の中を走ってきた少年。彼の心の中も、どんよりとした雲で覆われていたのでした。

このところ、なにもかも、うまくいってない。このあいだのテストの成績が悪かった。母親は、課外の活動をやめろという。親しかった友達とは、ちょっとしたことから仲たがいをした。好きなCDを買うこづかいが足りない。そのほか、具体的な形になっていないもやもやが、いくつもあった。雨は、自分の上にばかり降るような気がする。いっそぬれるなら、もっともっとずぶねれになったら、かえってさばさばするだろうと思う。



 「このところ、なにもかも、うまくいってない」と少年は言います。実際、彼にそう思わせることの一つ一つはそんな大したことではなくて、特に「好きなCDを買うこづかいが足りない」の部分はかわいらしくて笑みがこぼれます。だけど、彼を笑ってはいけません。小さな世界かも知れませんが、彼は自分の世界の中を精一杯生きていて、だからこそ「なにもかも、うまくいってない」と思うのです。

 自分の中学1年のころのことを思い出すと、とにかく「ずれ」の大きい時期だったなと思います。少し前まで小学校に通っていた子どもです。中身はまだ小学生のようなものでしょう。それなのに、突然連れて行かれた中学校。制服のサイズも、毎日見る景色も、部活や新しく始まった教科も。何だかすべてが、等身大の自分とはずれているような気がしました。冒頭で、背伸びを「しなければいけない」ようだった、と書いたのはそんなところからです。

 作品を改めて読むと、少年もそんな風に「ずれていた」一人ではないかと感じます。最後の場面を読むと、特にそのことを強く感じるのです。「具体的な形になっていないもやもや」、少年が言うそれの正体は、いろいろな「ずれ」ではないかと私はこの作品をそう読み解いています。

 そんな少年のもとに、幼い子供たちの声が聞こえてきました。「にじが出てるよ」、その声に少年は思わず振り返ります。

ああ、確かににじだ。赤、黄、緑、太いクレヨンでひと息に引いたような線が、灰色の空をあざやかにまたいでいる。上端はおぼろに消え、下はビルと森のかげにかくれて、見えているのはほんの一部分だ。



 どんよりと進んでいた物語ですが、この場面から一気に霧は引き裂かれ、大胆な旋回を見せます。

1ページの挿絵



少年は、自分でも思いがけない衝動に駆られて。辺りを見回した。
―高い所がないか、あれが全部見える所が。



 心の中でもやもやと思いをめぐらせてその場にとどまってしまう少年と、「衝動」に駆られて考える前に行動に出てしまう少年。その姿はおよそ対照的です。この場面に、作品の大胆な転回点があるように思います。

 教科書のページをめくります。今日一番伝えたかったのは本文ではなく、「挿絵」です。ページを開いた時、この挿絵が目に飛び込んできたのです。

にじの見える橋2

 見事な虹がかかっています。作品冒頭のじめじめした感じの反動もあって、霧が晴れるような爽快感があります。この作品にこの絵あり、文章と挿絵が一体となって、見事な「作品」を作り上げた瞬間ではないかと思います。

 ページを開いた時にこの挿絵が飛び込んでくる。その一連の動作も「作品」の一部であるということに注目です。すっかり作品の一部になっているこの動作は、今改めてやってみても新しい感動が押し寄せてくるものでした。現在は教科書も変わっているはずですから、どんな形になっているかは分かりません。ですが、この「ページを開いて虹が飛び込んでくる」という作品の一部が今も変わらずに残っていることを願うばかりです。

 少年が虹を見た時に抱いた思いが大変印象的です。この場面は、私が落ち込んだときにふと読み返したくなる場面でもあります。

栞 教科書

少年は、大きく息を吸った。この前、にじを見たのはいつだったろう。この子たちくらいの小さいころ、いや、もっとずっと前のような気がする。もしかしたら自分は今、生まれて初めてにじを見たのではないかと、少年は思った。



 語りたいところがたくさんありますね。まずは「大きく息を吸った」。何気ないこの動作ですが、私は大きな意味が込められたものだと思います。よく、「息をするのも忘れるような」という表現をします。ここでとび込んできた虹は、まさに「息をするのも忘れるような」美しさ。それなのに、少年のとった行動は「息を吸う」というものでした。ちょっと際立つ表現ですね。

 作品冒頭の少年は、もやもやと悩みに沈み、息を吸うという表現からつなげれば、息の詰まるような状態でした。少年は、「息を吸う」という当たり前の動作すらも忘れていたのかもしれません。虹が出てくる場面は、薄暗い雲のような色をしていた作品を一気に七色の光で凌駕し、息の詰まるような思いをしていた一人の少年に息を吹き込んだのです。なんてダイナミックな展開でしょうか。

 そしてもう一つ、「生まれて初めてにじを見た」という表現です。この場面にこの言葉を選んだこと、ただただ見事としか言いようがありません。もちろん、少年は生まれて初めて虹を見たわけではないでしょう。しかし、少年にとって、「生まれて初めて」というのは紛れもない実感だったことでしょう。

 この場面、少年の隣に幼い子どもたちがいて、思い思いに歓声を上げているのです。これが私にとっては効果的な対置でした。少年にも、そんなに遠くないころ、幼い子どもの時代があったはずです。けれど、今の少年は学生服に身を包んでいる(包まなければいけない)。心の中身はまたまだ子どもなのに、どこか急がされるように学校を駆けあがらされて、少年はどこか疲れていたのかもしれません。体や心、いろいろな「ずれ」こそが、「具体的な形になっていないもやもや」の正体だったのかもしれません。

 衝動で橋を駆けあがった少年は、幼い子どもたちの横で見事な虹を見るのです。「ずれ」はすっかり消えてしまったようです。そして、それはまさに生まれて初めての経験だったことでしょう。

だれ一人、立ち止まって、この大空のドラマに眺めいるものはいない。
少年はふと、初めて、自分のことを恵まれたものに感じた。



 ここにも、「初めて」という言葉が出てきます。2度も使われる「初めて」の語が、少年の感動の大きさを物語っているようです。先ほどまでの小さな悩みは、もう影も形もありません。

 虹って、不思議な力があると思います。虹が出てくるのは、いつも雨上がり。大切なことなので、もう一度書きますね。虹が出てくるのは、いつも「雨上がり」。暗く覆われた雲が払われた後、ダイナミックに空を駆ける虹は自然がなす奇跡です。雨上がりに出る虹に、いつも、どこかで、誰かが救われているような気がしてなりません。

背伸びを止めて



 中学校に入りたてのころ、私の心はいつも雨模様でした。特にストレスになっていたのが先輩たちの姿です。中学1年生と3年生では体も心も全く違います。こんなところでやっていけるのだろうか、いつもそう思っていました。

 大きな体の先輩たちが大声を張り上げながら部活をしているのを横目に、帰り道を歩いたのをよく覚えています。その時、雨が降っていました。アスファルトのつんとした匂いが、今も鼻の奥を突くようです。

 あの時、もし虹がかかっていたらな。ふと、そんな風に思うのです。私も、少年のように「衝動」に襲われただろうと思います。大きな制服を身にまといながら、かえって小さな世界に閉じこもっていた自分を、虹が解き放ってくれたはずです。結局虹に巡り合うことはありませんでしたが、この作品を読みながら、何か「疑似体験」をした気になりました。

 虹を見た後の少年は、まるで子どもに帰ったかのようです。

「早く早く。」
少年は笑いながら、体をずらして、にじを正面に見る場所を空け、友達が上ってくるのを足踏みをしながら待った。



 最初よりもよっぽど生き生きとしていて、ほほえましくなります。私は、タイムマシンで中学1年生に戻れたらその時の自分にかけてあげたい言葉があります。同じ言葉を、少年にもかけてあげたくなりました。

 「まだまだ、大人にならなくていいからね」。


 
教科書

 「教科書への旅」、今回で20回に到達しました!一覧ページを作っていますが、20回もたまると感慨深いものがあります。紹介した20の作品はどれも思い出の深いものばかりです。自分の子ども時代と絡められる分、特に思い出が深くなりますね。

教科書への旅 一覧ページ

 名作揃いの計20エントリーを一目に見ることができます!

『野原はうたう』 くどうなおこさん

 こちらも中学1年の最初に読んだ作品です。「おれはかまきり」が有名なくどうなおこさんの詩ですね。記事では、中学校の初めにあった忌々しい音読会のエピソードも交えてたっぷりと振り返っています。


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杉みき子, 教科書,



  •   24, 2016 21:46
  •  前回紹介した『命売ります』につづき、三島由紀夫の小説を紹介します。学期末のレポートで三島由紀夫について書くので、最近は三島由紀夫漬けの毎日です。レポートということで細部にまで気を配って読んでいるのですが、彼の小説はとにかく「巧い」の一言なのです。軽く流すように書いているであろうエンタメ小説でも、細部まで技巧が凝らされているのです。まさに天才作家の名にふさわしいと思います。

    永すぎた春 (新潮文庫)
    三島 由紀夫
    新潮社
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     『金閣寺』などの本格的な純文学がもちろん彼の本流で、前回紹介した『命売ります』や今回紹介する『永すぎた春』といったエンタメ小説は「遊び」の部類に入るかと思います。ですが、そこはさすがの天才作家、「遊び」のクオリティーがとても高いのです。時にはコミカルに、時にはシニカルに、軽妙洒脱な筆致が冴えわたります。



    内容紹介


    ブックレビューリトル

     T大法学部の学生宝部郁雄と、大学前の古本屋の娘木田百子は、家柄の違いを乗り越えてようやく婚約した。一年三カ月後の郁雄の卒業まで結婚を待つというのが、たったひとつの条件だった。二人は晴れて公認の仲になったが、以前の秘かな恋愛の幸福感に比べると、何かしらもの足りなく思われ始めた…。永すぎた婚約期間中の二人の危機を、独特の巧みな逆説とウィットで洒脱に描く。

    (「BOOK」データベースより)

    400字書評



    400字書評

     1年3か月という長い婚約期間を経て結婚する2人。彼らが過ごす「永すぎた春」を1章1か月の12章構成で描きます。2人を巡って次から次へと事件が起こり、軽妙洒脱に物語は進行します。恋愛に溺れる2人の瑞々しい感情や、焦らし合うことによる嫉妬、若さゆえの過ちと描写される心情も豊かで、彼らの「端正の若さ」を感じながら楽しく読める物語だと思います。

     当時の価値観を今と比べながら読むのも面白いかもしれません。作中では古い「身分ちがい」の考えと身分にとらわれない2人の恋愛関係が印象的に対置されています。今でこそ恋愛結婚は当たり前ですが、当時は様々な困難があったでしょう。階級的なひがみからとんでもない嫌がらせを受けることもあるのですが、純粋な2人はそれらの障害を乗り越えて行きます。最後のある場面は解釈が分かれそうです。読者に想像させて何ともじれったい気持ちにさせるところはさすが三島由紀夫。軽いタッチですが、細部にまで技巧が凝らされています。(415)

    ピックアップ



    栞

    百子の危惧が郁雄にはわからなかった。百子は、若い独身の男たちの中で、郁雄がすでに彼女の良人(おっと)のように落ち着いて鈍感に見えることを望まなかったのである



     タイトルになっている『永すぎた春』というのは「長い婚約期間」を指します。結婚するまでに2人は1年3ヵ月も猶予の時を与えられるのです。そんなに長い期間、2人の愛が何事もなく持続するわけはなく、愛は様々な感情をミックスしながら変質していきます。そんなところを楽しめるのがこの小説の魅力です。

     おとなしく1年3か月待てば、2人は結婚できるのです。それにもかかわらず、2人は次々と「危ない行動」に出ます。小説とはいえ、ハラハラとさせられますね。若い2人にとって、盲目的に愛し合うことは何かが物足りなく、上の引用でいう「鈍感」さを感じてしまうことだったのです。婚約期間が間延びすることで生まれるけだるさや鈍感さというものが伝わってきます。それをはねのけるような、若い2人のみずみずしいスリル満点の愛に注目です。



    ブックレビューリトル

     関連書籍の情報をお届けします。

    命売ります (ちくま文庫)
    三島 由紀夫
    筑摩書房
    売り上げランキング: 516


    『命売ります』 三島由紀夫

     三島由紀夫のエンタメ小説で2冊続けてみましたが、これが想像以上に面白く、コーナーを作って定期的に紹介したいくらいの勢いです。ちょっと中毒気味になるくらい表現が心地よいのです。

     さて、こちらは前回紹介した『命売ります』です。ちくま文庫さんは今この本を猛プッシュされているみたいですね。この本は三島の代表作というわけではなく、かなりマイナーなほうに入ると思います。それにもかかわらず、なんと・・・

    命売ります

    (ちくま文庫ホームページより)

     26万部!かなり売れているようです。三島のエンタメ小説というのが最近注目され出しているようで、私も開拓していきたいなと思っています。『命売ります』は前回の記事でも書いたとおり、ぜひ「買って読みたい」タイプの文庫本です。ちくま文庫さんの公式ツイッターに私のツイートをリツイートしてもらったので、お礼もかねて宣伝させていただきました。買って読みたい本ですし、宣伝したくもなる本なのです。


    三島由紀夫, 小説,



    •   22, 2016 00:00
  •  以前、三島由紀夫の評伝を紹介した記事でコメントをいただきました。三島由紀夫は三島事件(自衛隊駐屯地での割腹自殺)に理解ができないこともあり、これまで1冊も読んだことがないとのことでした。至極真っ当な感覚だと思います。昭和の時代に自らの腹に刀を突きさして死んだ男の小説です。敬遠したくなる方が普通だと思います。

    命売ります (ちくま文庫)
    三島 由紀夫
    筑摩書房
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     そんなことを冒頭で言っておきながら、今日は三島由紀夫の小説を紹介します。たしかに三島由紀夫には三島事件と絡むような血生臭い作品もありますが、ご安心ください、今日の作品にはそういった雰囲気は一切ありません。三島が書いたことなど忘れ、ただ面白いストーリーを追うことに夢中になれるエンタメ小説、『命売ります』を紹介します。

     実は、今日はレビューを書く前に結構気合が入っています。なぜでしょうか?・・・その理由は記事で紹介します。

    (約3,700字)

    本を買ったんじゃありません



     この『命売ります』は、文庫本を購入して読みました。ですが、この本がもし「普通の状態」で本屋さんに並べられていたとしたら、私は絶対に購入しなかったと思います。なぜなら、大学の図書館で無料で読めることが分かっているからです。

     大学の図書館には、著名な文学作家の全集が取り揃えられています。三島由紀夫ももちろんその一人です。私もよく三島由紀夫全集にお世話になりますし、この作品が全集に収録されていることは当然知っています。図書館で三島由紀夫全集が順番待ちになることもまずありません。・・・つまり、はっきり言ってしまうと「買う必要がない」!

     そんな本を手に取ったのには理由がありました。「普通の状態」では買わないのですが、この本には素敵な「あるもの」が付いていたのです。

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     帯についていた、気合満点のポップです。しびれてしまいました。この作品を読んでほしいんだという熱い思いが伝わってきます。写真はのせていませんが、熱い文句は裏面にも続きます。

     一部抜き出してみることにします。

     「想像よりも数十倍オモシロイ」
     「ラスト10頁の衝撃的どんでん返しまで一気読み」
     「こんな面白い作品、ほっといていい訳ない」(裏)
     「これを読まずして三島を語るべからず!!」

     本を売るための誇大要素が含まれているとはいえ、なんとも威勢のよい文句が並びます。図書館で全集が読めることなどすっかり忘れ、レジに直行していました。本を読むことは好きですが、それと同じくらい「人から本を勧められる」ことも好きな私です。特にこのようにその人の熱い思いが伝わってくるものにはこちらまで胸が熱くなります。このポップを作った知らない誰かと思いを交わしたような錯覚に陥って、ワクワクしながらページをめくりました。

     本の中身は図書館に行けば読めてしまいます。というわけで、本を買ったのではありません。帯を買ったのです!

     (参考:本体価格680円+税)

    命売りの逃避行



     三島由紀夫と言えば純文学が中心ですが、この作品は100%エンタメ小説です。気を張る必要はありませんし、肩が凝る心配もありません。文学の素養など全く必要ではありませんし、難解な批評もまた全く必要ではありません。当然、三島が割腹自殺をした作家である・・・といった云々も読んでいるうちにすっかり忘れてしまうでしょう。

     まず、「命売ります」というタイトルが興味をそそる秀逸なタイトルです。主人公の羽仁男(はにお)は冒頭で睡眠薬を飲んで自殺を試みますが、失敗に終わります。この世に戻ってきた羽仁男は、新聞の字がゴキブリに見えてきて(!)こんなことを悟るのです。

    「ああ、世の中はこんな仕組になってるんだな」
    それが突然わかった。わかったら、むしょうに死にたくなってしまったのである。



     彼は、自分の命に全く未練がなくなりました。新聞の字がゴキブリに見えて、全てがどうでもよくなる。一見荒唐無稽な展開に思えますが、読んでいると妙な説得力があることに気付きます。全てがどうでもよくなる瞬間というのはきっと誰にでも突然訪れる可能性があるもので、「新聞の字がゴキブリに見えて」でその瞬間を捉えたのが何とも絶妙です。このように、軽いタッチの小説なのですが、天才作家三島の「巧さ」は堪能することができます。

     個人的には、このように気楽な感じで書いた小説にこそ、その作家の本当の力量が表われるものだと思っています。渾身の描写を放った作品が大事なのはもちろんなのですが、このように茶目っ気たっぷりの「お遊び」小説には、ごまかせないその作家の本当の才能が見える気がするのです。そして、この小説を読んだ後の私の感想は、「やっぱり三島はすごい」というものでした。

     命がどうでもよくなった青年は、自分の命を投げ打って商売を始めることにします。彼はこんな広告を出しました。

    「命売ります。お好きな目的にお使い下さい。当方、二十七歳男子。秘密は一切守り、決して迷惑はおかけしません」



     なんだそれは!?という感じだと思います。それでいいのです。なんたってこれはエンタメ小説。エンタメ小説というのは楽しむために生み出された小説です。

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     命売ります、という広告を出した彼のもとに、多くの人が駆け込んできます。連作短編集のような感じで物語は軽快に進んでいきます。この後の展開は、私も瞬時に想像することができました。そう、「死にたいと思っているのになかなか死ねない」という王道の展開です。男は自分の命などどうでもよく、命を売ろうとするのですが、なかなかどうして簡単には死ねません。命売りますと言いながらのらりくらりと「死」から逃れ続ける男。それはまるで、「命がけの逃避行」ならぬ「命売りの逃避行」を見ているようでした。

     三島はこの作品に大きな皮肉を込めていると思います。自分の命を投げ出すというのはなかなか覚悟のいる決断に思えますが、実はそれは「無責任」な決断である、という皮肉です。

    自殺は億劫だし、大体、あんまりドラマティックで趣味に合わなかった。また、殺されるには何か理由がなくてはならない。そんな怨恨や憎悪は何ら身に覚えがなく、殺されるほど他人に関心を持たれるのはきらいだった。命を売る、というのは無責任ですばらしい方法だった。



     命売ります、という男にとっては全てがどうでもよいことになります。日本経済の先行きを心配する必要もありませんし、老後のためにコツコツと積み立てをする必要もありません。自分の好きなタイミングで、命を売ってコロッと死んでしまえばいい。何だかパラダイスな人生に見えてきてしまうのが不思議です。これこそが、三島由紀夫がこの小説に込めた皮肉なのではないでしょうか。

     もちろん、小説の中だからこそすべてが上手く転ぶわけです。この小説を読んで「よし、私も命売ります!」とはならないのがなんとも上手い落としどころです。楽しく面白く、そして巧い小説であることが伝わったでしょうか。

    衝撃の結末とやら



     ちょっと待て、とおっしゃる方がいるでしょう。この本の帯に「衝撃的どんでん返し」の文字があることを紹介しました。これについても説明しておかなければなりません。

     正直、私はこの「衝撃的どんでん返し」にはあまり期待していませんでした。衝撃衝撃と、セールスをする側は安易に使ってしまうものです。毎週のように次回予告で「衝撃の真実」などとうたうドラマ『相棒』はその最たる例です。「衝撃」というのは「ダークナイト」のような話を言うのであってですね・・・

     話がそれてしまいました。要するに、「衝撃」というのは煽りであまり信用できないということが言いたかったのです。この作品にもあまり期待していなかったのですが、さすが三島由紀夫、オチはなかなかのものでした。

     最後に出てきた痛快なセリフを引用したいところですが、ここはこらえるところです。真相は書かないのですが、ぼかした言い方にしたいと思います。

     「三島由紀夫は、最後にもう一つの『皮肉』を用意していた」、こんなところでしょうか。命を売りますという男がなかなか死なずに生き延びる、それはとても面白い皮肉なのですが、話の終盤にはそんな男の心境が変わり、最後にはもう一つの皮肉が突き付けられる、とでもいった感じです。

    本体価格680円+税

     最初に書いたとおり、0円でも読めたものです。680円+税を払うことには馬鹿馬鹿しさを覚える人もいるかもしれません。ですが、読み終えてみると全くそんなことはありませんでした。熱意が伝わるいい帯に、皮肉たっぷりの面白ストーリー、それに見事なオチがついて680円+税というのはなかなかよい買い物でしょう。

     レビューもほうも真面目な話はほとんどなく、なんだかおっちゃらけたものになってしまいましたがたまにはいいと思います。こういう感じで文章を書くのもなかなか楽しいもので、何よりあっという間に記事が完成してしまったことに驚きます(お遊び小説に作家の本当の力量が表れるように、お遊び記事にもブロガーの本性のようなものがのぞいてしまうのでしょう)。面白い小説を流れるように読み終えたのと、流れるようにレビューを書いてしまったのが何だか似ているようで笑ってしまいます。

     読めばきっと三島由紀夫が好きになる、そんな一冊です。本当に「これを読まずして三島を語るべからず!!」でしたね。



    オワリ

     三島由紀夫とまっっっったく関係ありませんが、今夜放送の「相棒」は恒例の陣川回です。予告には例のごとく「衝撃の」事態とありますが、さてどうでしょうか。記事の中で馬鹿にするような形になってしまいましたが、もし本当に衝撃の結末なら謝らなければいけませんね。さてさてどうなることでしょう。

    『三島由紀夫―豊饒の海へ注ぐ』 島内景二さん

     三島由紀夫の評伝です。三島事件についてもたっぷり語られています。今日紹介した本や記事とは全く異なり、とてもシリアスな内容なのでご注意を。あまりに落差が激しくて、自分でもびっくりします。


    三島由紀夫, 小説,



    •   20, 2016 00:39
  • イーハトーヴ

    治が織りなす、幻想と哀感のフィルム


     ようこそ、「イーハトーヴシアター」へ。

     ・・・なんて思わず言いたくなってしまう、今日はそんな作品です。宮沢賢治は素晴らしい感性の持ち主ですが、今日紹介する『黄いろのトマト』はその中でも「色」に関する素晴らしい感性が際立ちます。映像化されたら幻想的な画がとれるだろうな、といつも思います。幻想的で映画的な雰囲気を、レビューでもゆったりと味わいたいと思います。

     ただし、最後にはおなじみの「残酷な結末」も待ち受けていました。

    (約3200字)


    誘われる読み手


    黄いろのトマト (ミキハウスの宮沢賢治絵本)
    宮沢 賢治
    三起商行
    売り上げランキング: 754,365


     主人公の「私」は、町の博物館で、ガラスの戸棚の中にいる蜂雀(はちすずめ)の剥製と話をします。

    「お早う。蜂雀。ペムペルという人がどうしたっての。」
    蜂雀がガラスの向うで又云いました。
    「ええお早うよ。妹のネリという子もほんとうにかあいらしいいい子だったのにかあいそうだなあ。」
    「どうしたていうの話しておくれ。」

    すると蜂雀はちょっと口あいてわらうようにしてまた云いました。
    「話してあげるからおまえは鞄を床におろしてその上にお座り。」



     ペムペルとネリの「かあいらしい」きょうだいに、「かあいそう」なことがあったというのです。何が「かあいそう」だったのか、蜂雀はなかなか明かそうとしません。なかなか踏み込まない蜂雀の飄々とした語りが、読者を物語の世界に引き込んでいきます。

    「ね、蜂雀、そのペムペルとネリちゃんがそれから一体どうなったの、どうしたって云うの、ね、蜂雀、話してお呉れ。」



     語り手の「私」は蜂雀をじらすのですが、読者も同じ気持ちですね。いつの間にか体が前のめりになってしまうかのようです。

     序盤から、雰囲気作りの妙がこらされています。物語の中に「語り手」と「聞き手」がいて、読者もいつの間にか耳を傾ける「聞き手」になっているのです。そして、蜂雀の語りに回想シーンが織り交ざっていくのですが、この回想シーンがとても幻想的で美しいのです。冒頭に「映画のよう」と書きましたが、読んでいる時の心地はまさに映画を観ている時のようです。「色」を映した幻想的な描写に触れていると、頭の中に映写機の回る音が聞こえてくるような錯覚に包まれます。

    幻想のフィルム



     私が幻想的だと思う描写のいくつかを紹介することにします。

    その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。ですから私も挨拶しました。



    「ペムペルとネリとはそれはほんとうにかあいいんだ。二人が青ガラスのうちの中にいて窓をすっかりしめてると二人は海の底に居るように見えた。



     カーテンの「茶」やガラスの「青」が、「ビール瓶」や「海の底」という比喩を用いて幻想的な物語の世界のワンシーンとなっています。宮沢賢治の作品にはこういった幻想的な表現が随所に散りばめられていて、その美しさにはため息がこぼれます。「映画を観ているような雰囲気」を少しでも味わっていただけたでしょうか。

     この作品を読みながら、私は時々目を閉じました。目を閉じてその場面の「色」を浮かべるのです。宮沢賢治の素敵な描写に感覚が刺激されて、いつもより想像力が豊かになります。目を閉じた時に浮かぶ「幻想のフィルム」、それはとても贅沢な時間でした。

     さて、色に関する描写の美しさが目を引くこの作品ですが、メインとなるのはタイトルにもなっている「黄いろのトマト」です。

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    葉からはトマトの青いにおいがし、茎からはこまかな黄金(きん)の粒のようなものも噴き出した。


    そしてまもなく実がついた。
    ところが五本のチェリーの中で、一本だけは奇体に黄いろなんだろう。そして大へん光るのだ。ギザギザの青黒い葉の間から、まばゆいくらい黄いろなトマトがのぞいているのは立派だった。



     黄色もそうですが、その前にある「トマトの青いにおい」という表現も本当に素晴らしいですね。これは宮沢賢治の作品の魅力の一つである「共感覚」です。目の前いっぱいに「青いにおい」が広がってくるようです。

     そして、赤いトマトの中で一つだけ「黄金」に輝いていたトマト。本当にみずみずしい描写です。目の奥に光るトマトが見えるようです。思わず目を見開いてしまいます。

     小さな二人にとって、輝きを放つトマトは本物の「黄金」のようだったでしょう。この場面が作品の頂点になると思うのですが、実はこの場面は、これからやってくる残酷な結末を演出する役割も果たしていたのです。

     …気が重いですが、「残酷な結末」のほうも紹介しようと思います。2人のきょうだいはサーカス小屋にたどり着きました。入場するにはお金が必要です。兄のペムペルは、そこで思いつくのです。そう、彼がお金の代わりにと思って差し出したのが、光り輝く黄いろのトマトでした。

     しかし、トマトがお金の代わりになるはずはありません。彼は、サーカスの番人からこんな罵声を浴びてしまいます。

    「何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝(おまえ)たちを押し込んでやってたまるか。失せやがれ、畜生。」



    あせない黄金



     あまりに激しく、汚れきったセリフがいきなり出てくることに驚かされます。これまで物語が幻想的に進んでいたからなおさらです。頭の中で回っていた「幻想のフィルム」が、いきなり止められ、土足で踏みにじられてしまったようでもあります。そして、幼いきょうだいが抱いていた美しい想像の世界も一瞬で崩壊したのです。

     幻想的な描写と、上にある汚れきったセリフを生み出したのが同じ人物であるとはなかなか信じられないかもしれません。ですが、この展開こそ宮沢賢治の作品のテンプレートであり、宮沢賢治「らしさ」を感じる結末だと思います。

     宮沢賢治は、幻想的な物語を数多く生み出した作家です。同時に、現実に深く絶望していた作家でもあります。賢治の描く現実というのは、腐りきって、荒みきって、汚れにまみれています。そこにある深い悲しみと果てまでつづく絶望・・・。暗い世界ですが、その世界と「幻想的な物語」はこの作品のように地続きになっているのです。

     絶望と悲しみを瞳の奥に見ていたからこその物語だな、と改めて思いました。同じ物語でも、絶望を知らない人の書く物語はどうしても「きれいごと」になってしまう。悲しみと絶望の深い海は、美しい物語に絶対に必要なのだと思います。

     黄いろのトマトは美しい物語の世界を、サーカスの番人は汚れきった現実の世界を暗示しているのではないでしょうか。美しい物語が進行していたところに、汚れきった現実の世界が突然交わりました。こうして、物語全体が悲しみに包まれるのです。

     私は、結末まで読んでページを戻しました。黄いろのトマトが燦然と輝いていた場面がもう一度読みたくなったのです。当たり前ですが、トマトの場面は一回目に読んだときと同じように美しい光に満ちていました。

     美しい「物語」という夢から、いつかは醒める日がやってくるのだと思います。生まれた時は濁りのない瞳をしていた子どもたちも、いつかは「現実」に瞳を汚さなければいけない。ですが、たとえ現実に汚れてしまったとしても、「物語」の世界は変わらずに輝きを放っています。

     私が宮沢賢治の作品が好きなのは、美しい物語の世界に「戻る」ことができるからだろうか、とふと思いました。いつ読んでも彼の作品は美しく、そして「悲しみ」をまといながら輝いています。トマトの場面は何度でも読み返したくなるのです。幼いきょうだいが見た、本物の黄金のように輝くトマトの姿は、輝きを失わない物語の世界として私の目に焼き付いています。



    イーハトーヴ

     このコーナーのロゴには青い雫のイラストを使わせてもらっています(↑)。実はこれは、「宮沢賢治の涙」から連想して選んだものです。美しい物語の世界と深い悲しみの世界を瞳の奥に見ていた宮沢賢治・・・そんな宮沢賢治が流した涙ということでイメージを膨らませました。とても気に入ったので、ブログ全体のイメージやツイッターのアイコンとしても採用しています・・・という豆知識でした。

    宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 旅程表

     ブログのデザインを頻繁に変えてきた前歴がありますが、宮沢賢治からインスピレーションを得て作ったこのテンプレートは、いろいろ考えて作ったものなので大切に使っていこうと思っています。


    宮沢賢治,



    •   17, 2016 00:00