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きつつきの商売

 クラスで音読会をした記憶が残っています。この物語のテーマは「音読」ですから、きっと私以外の方でもたくさん音読をされた、という方が多いのではないのでしょうか。

 小学校3年生の最初に出てくる物語、『きつつきの商売』を紹介します。この物語を思い出そうとするとき、すごく爽やかで、胸に気持ちのよいものが広がるイメージが心に浮かびました。久しぶりに教科書を開いてみましたが、「爽やか」「胸に気持ちのよいものが広がる」というイメージがどのあたりからくるのか、じっくり読んでみようと思います。



こだまのコーン



 きつつきがあるお店を開くところから物語は始まります。お店の名前は「おとや」。おとやとはどんなお店なのでしょうか。きつつきはこんな風に書き足しました。

「できたての音、すてきないい音、お聞かせします。四分音ぷ一こにつき、どれでも百リル」



 「おとや」は、お客さんのリクエストに応えてきつつきが「音」を聞かせるお店でした。音のお店、という設定がとてもしゃれていて、これだけでうっとりしてしまいそうです。

 この物語では、ここからたくさんの音が登場します。その1つ1つがとても味わい深く、そして心地の良い余韻を読み手に伝えてくれるのです。文字を追っているのに、頭の中に音が聞こえてくるような、素敵な描写がいくつも出てきます。クラスで音読会をした、と書きましたが、なるほど、音読をして表現を味わうのにうってつけの題材です。

 物語は2つのパートから構成されます(この2部構成もとてもしゃれているので、あとで種明かしをします)。まずは第1部。最初にやってきたお客さんは茶色い耳を立てた野うさぎでした。野うさぎは「ぶなの音」を四分音符分リクエストします。

 きつつきは木の上にのぼりました。そして、木のみきをくちばしでたたいて音を鳴らします。この場面の表現と余韻は本当に豊かです。

きつつきは、ぶなの木のみきを、くちばしで力いっぱいたたきました。

コーン。

ぶなの木の音が、ぶなの森にこだましました。野うさぎは、きつつきを見上げたまま、だまって聞いていました。きつつきも、うっとり聞いていました。四分音ぷ分よりも、うんと長い時間がすぎてゆきました。



音読の妙味



きつつきの商売2

 きつつきがぶなの木をくちばしでたたいた「コーン」という音。たった3文字ですが、耳の奥に「コーン」という音が聞こえたような、そんな気がしました。音が森にこだまして、それを「だまって」「うっとり」聞くきつつきと野うさぎ。心地の良い余韻が広がります。

 この場面はきっと、音読をするときに課題となる箇所だと思います。「コーン」というたった3文字を、どんな風に表現したらいいでしょうか。直前に「力いっぱい」とあります。ここを読むと、力任せに「コーン」と声を張り上げたくなる子どももいるかもしれません。しかし、音の後の箇所を読むとそうではなさそうですね。

 この部分は、自然の静寂の中にただ一つ「コーン」という音が放り込まれたところに趣があります。「力いっぱい」の部分は生かしたいですが、静寂の中に唯一響く音、というイメージもしっかり受け取って、「間」を上手く取り込んだ音読ができたらよいですね。小学3年生に何を求めているんだ・・・と思われるかもしれませんが、こういったところの子どもの感性というのは本当に素晴らしいものがあって、きっと素敵な「コーン」を聞かせてくれることだと思います。何より、音読には正解などありません。子どもの数だけある様々な「コーン」が響き渡るとしたら、教室はもう森の中です。

 第1部の素敵な余韻を引きずりつつ、物語は第2部へ向かいます。今度は、野ねずみの家族たちがきつつきのもとにやってくるのです。きつつきは、「おとや」に何か新しいメニューを用意していると言います。

「おとやの新しいメニューができたんですよ。」きつつきは、ぬれた顔をぶるんとふって、言いました。

「へえ。」
「今朝、できたばかりのできたてです。」
「へえ。」
「でもね、もしかしたら、あしたはできないかもしれないから、メニューに書こうか書くまいか、考えてたんですよ」



 きつつきは新しい「とくべつメニュー」をつくっているようです。そしてそれは、明日になるともうできなくなると言います。明日にはできないとは一体どういうことだろう、と興味がそそられます。

「朝からの雨で、おせんたくができないですものから。」母さんねずみが言うと、「おにわのおそうじも。」「草の実あつめも。」「草がぬれてて、おすもうもできないよ。」



 野ねずみの一家が、雨の日にできないことを口々に言い合います。たしかに雨の日はフラストレーションがたまりますね。ですが、この部分はこれから披露されるきつつきの「とくべつメニュー」のための大事な「ため」です。憂鬱な気持ちになって、フラストレーションがたまる雨の日。そういったマイナスの要素を先に見せておいたからこそ、この後の場面がみずみずしい感動を運んでくれます。

雨を奏でる



 きつつきが計画した「とくべつメニュー」とは、「雨の音」を聞かせることでした。

ぶなの葉っぱのシャバシャバシャバ。地めんからのパシパシピチピチ。葉っぱのかさのパリパリパリ。そして、ぶなの森の、ずうっとふかくから、ドウドウドウ。ザワザワワワ。



 素敵なオノマトペの宝箱です。野ねずみの家族は雨の日を嘆いていましたが、「雨の日だからこそ聞ける音がある」という発想が、景色を一変させました。雨を嘆いていた家族が素敵な雨の音に包まれ、作品の外にまで幸せがあふれてくるようです。この作品を読んだ後の爽快感は、大人になった後に読んでも全く変わっていませんでした。

きつつきの商売3


 第1部ではきつつきは自らのくちばしで音を奏でました。それが、第2部では自分のくちばしは使わず、自然が奏でるありのままの音に野ねずみの一家をエスコートしています。いわば、「演奏家」から「演出家」へ。1部と2部の対比がしゃれていてここにも趣を見つけることができます。

 第2部のきつつきは、自分のくちばしを使っておらず、ただ自然の音を聞かせただけです。ですが、そこにはきつつきの「才能」を感じました。普段私たちの周りにはいろいろな音があふれています。じっと目を閉じ、耳をすませてみればそこには素敵な音楽があふれているのではないでしょうか。ただ、私たちがなかなかそれに気付くことができないという一面があると思います。

 それを「とくべつメニュー」にして、「気付かせる」きつつきの目の付け所に感心しました。しかも、きつつきは「今日だけのとくべつな音」と言って、目を閉じ、声を出さずに聞くように言っているのです。いろいろな音が生まれては消えてを繰り返す中で、いつも自然の中にはその時だけの「とくべつな音」が隠れている。そんな音に気付ける感性、目を閉じて、口を閉じて大切に聞こうとする感性。どちらも、とても素晴らしい感性と言えるのではないでしょうか。

 振り返っているうちに、小学校の時の授業をおぼろげながら思い出してきました。雨の音の場面で、言葉だけではなく、「モノ」も使って音を奏でていたような記憶があります。「パリパリパリ」「シャバシャバシャバ」など、本当に音が豊かなこの場面。実際に葉っぱを持ち寄ったり、音楽室から楽器を持ってきたりして音の「実験」をしていたのです。今思い出してもとても楽しい授業でした。

 教科書に掲載される作品には必ずとっておきの特色がある、と何度も書いてきました。この作品にも、もちろんそんな特色があると思います。『きつつきの商売』は、私たちが大切にしたい「感性」を教えてくれるお話ではないでしょうか。



オワリ



教科書への旅 一覧ページ

 国語の教科書の作品を紹介しています。今回が21作品目。また素敵な作品が1つ加わりました。




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教科書,



  •   29, 2016 00:01
  • 第154回芥川賞

     このブログ「最果ての図書館」では、半年に1度発表される芥川賞受賞作品のレビューを書くのが恒例となっています。芥川賞受賞作品は、通常の本より記事のボリュームを増やし、より深く、詳しく読んでいく「ブックレビュープレミアム」のコーナーでレビューを取り扱っています。

     さて、少し遅くなりましたが、1月19日に発表された第154回芥川賞の受賞作品を紹介します。今回は2作同時受賞となりました。滝口悠生さんの『死んでいない者』、そして本谷有希子さんの『異類婚姻譚』です。2つの作品のレビューをじっくりと書いています。リンク先より、ぜひ記事をご覧ください。



    『死んでいない者』



    三人称多視点の移ろいゆく語り・・・
    大家族の通夜を舞台に、人々の魂はたゆたい、交錯する―


    ▼短文レビュー(ブクログ)

     大家族の通夜を舞台に、三人称多視点の語りが展開されていきます。大量の登場人物が登場し、次々に語り手が移ろっていく独特の構造に、困惑を覚えつつも読み進めていきました。

     正直、かなり読みづらく、作品として成立しているのかが微妙な箇所もあるように感じました。しかし、それは作者の技量不足ではなく、作者が描こうとしているものを文学として成立させる困難さのほうに原因があるのだと思います。

     通夜というのは独特の空間だと思います。作中でも言及がありましたが、「死」というものに触れて緊張が生まれつつも、「死んでいない者」が集ううちにその緊張がほぐれ、人々の意識は思い思いの方向へと向かっていきます。その「意識が思い思いの方向へと向かっていく」ということを文学として描いているのです。移ろう視点を通して表現された意識のたゆたいは妙な説得力を感じさせるもので、作者の筆力を感じました。

     意識が思い思いの方向に向かっていくわけですから、そこに秩序や意味はありません。そのような無秩序や無意味といったものも語りを通して大変巧みに描かれていると思いました。どうでもいいような会話、記憶から消えて存在すら失われたような思い出…。そういった点にも意識が及んでいくのですが、それらは通夜という舞台に触発されてこそ感じうる意識だと思います。無意味な語りが続くようで、こういった細部の描写1つ1つまでもが実に巧みに描かれている、そんな印象でした。

     かつ浮かびかつ結び…。鴨長明の『方丈記』に出てきたうたかたの描写を思い出しました。


    ▼長文レビュー(ブログ) ※約4500字
    こちらから

    『異類婚姻譚』



    共に暮らすうち、夫婦の顔が似ていく!?
    のっぺりとした家庭という空間に忍び寄る、ある「奇譚」・・・


    ▼短文レビュー(ブクログ)

     一緒に暮らすうちに顔が似ていく夫婦。顔のパーツがぐにゃりと変質していく様はかなり不気味ですが、コミカルな筆致で描かれていることもありサクサクと読み進めていくことができます。不気味さとは対極にあるような爽やかさのようなものも感じることができて、とても好きな文章でした。「ちゃんとした小説は書かなくていいんだ」と受賞のことばで語られた本谷さん。その心がけはいい風に小説に作用していると思います。

     旦那さんはかなり不気味に描かれているのですが、それ以上に不気味に感じたのが奥さんでした。不気味な夫を「深く考えず丸飲みしている」という小川洋子さんの評に納得です。その気味悪さに触れた時、私たち他人が踏み込めない夫婦という空間の不気味さに気付き、ほのかな恐怖を覚えました。兄弟などとは違い、夫婦というのは血のつながりのない「他人」です。そんな他人が、同じ家で暮らしているんだよなあ、などと思いを巡らせました。夫婦が不気味である、というのは本質を突いていると思います。

     結末はすごく好きでした。「譚」となっていますから、これでいいのだと思います。作品をまとっていた不気味さと爽やかさを生かしつつ、つんとするような感覚がある見事な一太刀。余韻はとてもよいです。


    ▼長文レビュー(ブログ) ※約4500字
    こちらから






    •   28, 2016 00:00
  •  偉大な作家の文章には「圧」があります。文章からものすごい「圧」が押し寄せてきて、それが読者を「圧」倒し、制「圧」します。単純に面白いだけの作品を書く作家とは乗り越えられないような大きな差があって、それこそがこの「圧」の存在だと私は思うのです。

     先日紹介したカズオ・イシグロさん(『わたしを離さないで』)はまさに圧で読者を凌駕した作家でした。イシグロさんの素晴らしかったところは「抑圧」の力です。徹底的に抑圧された文体は、一見波風が立たない静かな雰囲気を醸し出しつつも、その裏で蠢く圧倒的な感情が作品を際立たせていたのです。文学界の巨星と呼ぶにふさわしい、偉大な作家でしょう。

    時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)
    筒井 康隆
    角川書店
    売り上げランキング: 19,254


     今日はもう一人、文学界の巨星を紹介したいと思います。文章の「圧」・・・ということを考えていて私が真っ先に思い浮かべたのが、今日ご紹介する作家、筒井康隆さんの書く文章でした。今日は代表作の『時をかける少女』を紹介します。去年読んだ『旅のラゴス』が秀作で相当期待値が高まっていましたが、期待に違わず「圧」を感じさせる文章でした。しかも、その「圧」はイシグロさんとは全く異なるタイプのものだった、というのが面白いところです。

    (約3200字)

    時をかけても



     たまには、私の「率直な感想」から始めようかな、と思います。ブログを書こうとすると、公開する以上はちゃんとした文章を書かなければいけないと思っていつも肩に力が入ってしまいます。いつも自分を大きく見せようと思って何だか文章が肩肘張ったものになってしまうので、たまには自分の率直な感想を書いてみよう、と思った次第です。

     読んでいた時に感じていた率直なこと、というと以下のような感じになります。


     すごい
     面白い
     ビリビリする
     なんだこの「ワクワク感」は!

     これだとあまりにも貧しくて、チラシの裏に書いておけ、という感じのブログになってしまいます。ただ、今作に関しては、長々と難しいことを書くよりも、上のような率直な感想の方が作品の魅力をより正確に捉えているような気がするのです。『時をかける少女』はどういう小説ですか、と聞かれたら、「すごく面白くて、ビリビリして、なんだこの『ワクワク感』は!と叫びたくなる小説です」と私は答えたいです。

     ストーリはSFの王道をゆくものです。主人公の和子は、「時間をさかのぼる」という不思議な体験をします。最初は和子の言うことなど信じなかった友人の吾朗も、彼女が未来で体験した火事や地震のことを過去の世界でぴたりと言い当てたので、彼女の言うことを信じるようになります。

     もう1人の友人、一夫が言いました。

    「ううん。ぼくもよく知らないけれど、本で読んだことがあるんだ。世の中にはときどき、超能力のある人がいて、その人は、自分の思った場所へ、瞬間に移動することができるんだってさ。テレポーテーション(身体移動)っていうんだそうだ。君はきっと、トラックにひかれそうになったとき、君自身も知らなかった君の能力を使って、時間と空間を移動したんじゃないだろうか?」



     「ザ・SF」という感じの、王道の展開ですね。和子に起こったのは、テレポーテーション(身体移動)タイムリープ(時間跳躍)でした。

     この作品の刊行から約50年がたっているということに心から驚きます。全く色あせない。1967年に子どもたちをワクワク指せた小説は、2016年にも変わらずに子どもたちをワクワクさせることでしょう。映画にドラマと何度も何度も繰り返し映像化されている理由がよく分かります(おそらく、シリーズもの以外の小説では映像化された回数が最も多い作品ではないでしょうか)。50年の時をかけ、これからもかけ続けていく作品だと思いますが、その魅力は未来永劫色あせないような気がします。

    筒井康隆の「圧」



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     『時をかける少女』は少年少女向けに書かれた作品です。ですから、文章はとても平易なものとなっています。冒頭で『旅のラゴス』に触れましたが、『旅のラゴス』のような硬派で本格的な文章とは大きく異なります。

     文章の「圧」という話をするなら、『旅のラゴス』を引っ張ってくるべきだと思います。あの作品にはこちらの体を突き動かすような圧がありました。思い返すだけでワクワクします。

     ですが、『時をかける少女』にも、私はたしかに筒井さんの「圧」を感じました。硬派な作品とは全く趣が異なるのですが、そうだからこそ際立つ圧というものもあるのではないでしょうか。

     作品をリードする福島先生はこう語りかけます。

    栞

    「科学というものは、不確かなものを確実にしていかなければならないためのその過程の学問なんだ。だから、科学が発展していくためには、その前の段階として、つねに不確実な、ふしぎな現象がなければならない



     この場面を読んでいて、これは筒井康隆さんの「決意表明」のようなものではないか、と私は思いました。科学の前提にある「不確実性」、そこに「物語」が絡むとこんなにも胸躍るストーリーが生まれるのです。SF世界を自由自在にかける筒井さんが立つ、たしかな土台の存在を感じました。

    福島先生は、熱心にしゃべりはじめた。目は、急に輝きだした。和子はこんな福島先生を見るのははじめてだった。一夫も吾朗も、先生の調子にのまれてかたずをのんで聞いていた。



     福島先生は「筒井さん」で子どもたちは「読者」。私にはそんな風に思えました。胸躍るSF世界を語ってくれる筒井さんと、かたずをのんでそれを聞く私たち。この一説には、筒井作品の魅力がぎゅっと詰まっています。

     上に引用した中盤の場面が、私の言う「圧」だったのですが、伝わったでしょうか。ダイナミックな文章は紙の上で躍動し、時代を超え、世代を超えて私たちを夢中にさせます。

     テレポーテーションとタイムリープの結末はどうなるのでしょうか。読み進めていくと、期待を膨らませた読者を裏切らず、さらに惹きつけるような終盤が待ち受けていました。

    未来への照射力



     結末を知る面白さを損なわないためにネタバレを最小限にさせていただくと・・・終盤にはある「未来人」がやってきます。その未来人が暮らしていたのは、西暦2600年の世界です。

    二六二〇年。原子力の平和利用で、地球の文明は大きく飛躍し、さまざまな科学的な発明が行なわれた。だが一方では、あまりに科学が高度に発達したため、一般の人たちは、これらの科学知識に、ついていくことができなくなってしまった。

    ・・・(中略)そして、二六四〇年。とうとう画期的な発明がなされた。これが・・・



     このあたり、好きな人は本当に好きだと思います。私も大好きです。小学校の時に星新一さんのショートショートをむさぼるように読んでいたことを思い出しました。星さんのショートショートで鍛えられただけあって、このあたりになると想像力がたくましくなります。未来人が時をさかのぼって現代にきたわけとは?一文字も逃すまいと夢中になって読みました。

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     はるか先の未来を描くわけですから、作者は想像力に頼るしかないわけです。想像力が乏しい人だったら、物語はここで一気に枯れていくでしょう。しかし、筒井さんは真逆でした。この場面から、物語はさらにギアを上げ、加速していったのです。そのことが、筒井さんの持つ想像力の豊かさを雄弁に物語っていました。

     誰も知らないことなのに、説得力すら感じてしまうのです。筒井康隆さんは、どんな未来を、どこまで見抜いていたのでしょうか。実際の2600年が訪れるとして(それまでに地球は滅びていると思いますが・・・)、筒井さんの描く世界が待っていたとしても不思議ではない、そんな説得力を帯びた描写でした。

     未来を射抜く、たしかな「照射力」。それもまた筒井さんの作品の魅力です。序盤はまさに「時をかける」ようなストーリーに胸を躍らせ、中盤から終盤にかけての謎解きで圧倒する。筒井康隆さんを堪能させていただいた1冊でした。



    オワリ

     筒井さんの最新作、まだ読んでいないのですが読んでみたいです。ご本人があそこまでおっしゃるのですから、読み手としても相当気合を入れて挑まなければいけないと思っています。

    『旅のラゴス』筒井康隆さん

     『旅のラゴス』のレビューです。謎のヒットが続いているということですが、読まれればきっとその理由が分かると思います。


    小説, 筒井康隆,



    •   24, 2016 18:32
  • イーハトーヴ

     私が毎週楽しみに聴いている小川洋子さんのラジオ番組があります。「パナソニック メロディアスライブラリー」といって、小川洋子さんが毎週ある文学作品を取り上げ、「文学遺産」として音楽とともに紹介するプログラムです。小川さん好きの私にとってこの番組があることは本当に幸せで、毎週素敵な時間をいただいています。

    スクリーンショット (20)

     さて、その「メロディアスライブラリー」ですが、きのう(2月22日)紹介された作品は宮沢賢治の『注文の多い料理店』でした。小川洋子さんと並んで宮沢賢治が好きな私です。素敵な時間を超えてもう夢の中にいるようでした。小川さんの解説する『注文の多い料理店』をたっぷり堪能させていただきました。
     この流れで『注文の多い料理店』を紹介したいところですが、『注文の多い料理店』はもうすでにこのコーナーの第4回で紹介済みです。今日紹介するのは、番組の終盤でも触れられた『なめとこ山の熊』という作品です。テイストは大きく異なりますが、『注文の多い料理店』と共通するものも見出すことができて、宮沢賢治の作品の中でも重要な位置を占めている、と言えるかと思います。ラジオの幸せな余韻も感じつつ、今日はこの作品を読んでいきましょう。

    (約4400字)



    殺生を憎んで



     『注文の多い料理店』と『なめとこの山』には、どちらも動物を狩る人間が登場します。しかし、その人間の描かれ方は大きく異なっています。『注文の多い料理店』には若い2人の「紳士」が出てきますが、彼らはとても横暴で、動物を撃ち殺すことに何の良心の呵責も覚えないようです。「紳士」とはよく言ったもので、2人は相当ひどい人物として描かれています。

     さて、『なめとこ山の熊』にも動物を狩る人間が登場します。それが、主人公の小十郎です。小十郎は山で熊を買って生活しています。しかし、その描かれ方は『注文の多い料理店』に出てくる2人とは大きく異なっているのです。

    小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。



     小十郎は殺す側、熊は殺される側です。それなのに、熊は小十郎のことを好きだというのです。「そこであんまり・・・」という力強い一説から、小十郎がどれだけ山とそして熊に根付いた暮らしをしてきたかが伝わってきます。

     熊を撃ち殺した後、小十郎は熊の亡骸にこう語りかけました。

    「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰(たれ)も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ



     小十郎は貧しい暮らしをしていて、生きていくためには熊を狩るしかありませんでした。この場面は「殺したくないんだけど仕方ないんだ」と言い訳をしているように読めます。ですが、ここをただの「言い訳」で片付けてしまうのはもったいないと私は思います。ここには、狩りをしていくうちに一種の「悟り」の境地を拓いた小十郎の深い葛藤が込められているのではないかと思います。

     宮沢賢治は、「殺生」を憎みました。ですから、命を奪うことの罪深さを考えもせずに動物を殺していた『注文の多い料理店』の2人にはああいった形で「制裁」を加えたのです。この作品でも、殺生を憎んでいるという考え方は変わらないでしょう。しかし、この作品の小十郎が『注文の多い料理店』の2人と決定的に異なるのは殺生に苦悩しているという点です。

     自分が人間に生まれて来たこと、熊が熊として生まれて来たこと。小十郎はそれを「因果」と捉えて呪っています。『注文の多い料理店』では、人間が動物より偉いんだ、という構図(人間の傲慢さ)が2人の間で固まっていました。小十郎は違います。人間も動物もあるいは植物も、最初は平等な存在だったのです。それが、奇妙な因果がはたらいて、殺す側と殺される側に分かれてしまった。その「因果」のほうを憎むというのがなんとも深いですし、宮沢賢治の思想が大きく反映された部分だと思います。

     宮沢賢治は児童文学作家で、『注文の多い料理店』のようなコミカルで読みやすい作品が多いです。しかし、この作品に漂う雰囲気はそういったコミカルな作品とは異なります。「人間として生まれ落ちてきたことの苦しさ」、あるいは「命をめぐる葛藤」。悲しみと苦しみをいっぱいに湛えたこの短編から感じる雰囲気は、まるで冷たい冬の空を切り裂く風のようです。決して読みやすい作品ではありませんが、私はこの作品のような雰囲気こそ宮沢賢治作品の真骨頂ではないかと思います。

    資本主義を憎んで



     この作品の大きなポイントの一つに、「資本主義の搾取の側面を描き出した」という点が挙げられます。序盤を終えて、場面は小十郎が町に熊の皮と肝を売りに行くところに移ります。小十郎は荒物屋の主人に皮を売ろうとするのですが、皮は前も買ったという主人に安く買い叩かれてしまうのです。作中の言葉を借りれば、「みじめさ」や「気の毒さ」を感じさせる場面です。

     山では熊を撃ち、ある種の威厳を保っていた小十郎が、町に出ると搾取される側という弱い立場に転落し、搾取する側(資本家)である主人の前にひれ伏すしかないのです。山から町に場面が移るとともに「勢力図」も決定的に変化した格好となりました。

     宮沢賢治は、そんな資本主義の側面に包み隠さず怒りを表明します。

    ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。


     激しい怒りに身を震わせたのでしょう。語り手が前に乗りだしてきて怒りをぶちまけます。資本家のことを「こんないやなずるいやつら」と呼び、「ひとりで消えてなくなっていく」ことを望んだ賢治。
     
     ここまで作者の怒りが前に出てきていて、物語としてはもう崩壊寸前かもしれません。それでも、そんなことを差し置いてでも私たちはこの叫びに向き合わなければいけないのだと思います。「こんないやなずるいやつら」―。何を思って彼がここでこの表現をぶつけたか。この場面では長く立ち止まって考えてしまいます。

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     このあとの展開には脱帽するしかありません。おそらく宮沢賢治にしか書けない、そう思わせる展開です。ここで明かしてしまえば、小十郎は最終的に熊に襲われて命を落としてしまうことになります。

     人間世界では搾取され、最後は獲物にしていた熊に襲われたのか・・・。読んだことのない方はそう思われ、小十郎を哀れな存在だと感じられたかもしれません。そう思われるのが普通ですが、この作品はそうではなかったのです。たしかに小十郎は熊に襲われて亡くなりました。しかし、それは哀れな死でも犬死にでもありませんでした。

     「安寧」「解放」「救済」・・・そのようなことばが浮かびます。熊に襲われて死ぬという一見哀れな死に方には、宮沢賢治が込めた精一杯の救済の気持ちがあったのではないでしょうか。

     最後の節で、小十郎の死の場面を見ていきます。

    人間を憎んで



    ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
    「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
     もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
    「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。



     小十郎を襲った熊は「殺すつもりはなかった」とわび、一方の小十郎も、死へ向かう中で「熊ども、ゆるせよ」とわびています。一見おかしな場面ですが、上に出てきた「因果」ということばを思い出せばこの場面が理解できるのではないでしょうか。

     人間として生まれたこと。熊として生まれたこと。襲うこと、襲われること。それは奇妙な因果でした。それが全て「元に戻った」―私はそんなイメージでこの場面を解釈しています。人間も熊も、その生き方は本意ではなかったのではないでしょうか。本当は全てが「平等」でなければいけない―。宮沢賢治にはそんな思想が見られます。

    その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。



     小十郎のなきがらを、熊たちが囲んでいる場面です。自分たちを襲う敵でありながらも、小十郎のことが大好きだったという熊たち。何かが語られることはなくても、弔いの気持ちは十分に伝わってきます。

     私は「死骸」という部分を太字にしました。読んでみて、この語句に目がとまったのです。「死骸」それはとても残酷で、冷たく乾いた響きをもったことばです。死骸、という表現は私たちに小十郎の死を確認させますし、何か空虚な気持ちが押し寄せてくるような印象もあります。

     しかし、この場面は美しい。美しさとは全く相容れないような「死骸」ということばを使っているにもかかわらず、です。先程も書いたように、小十郎が熊たちによって弔われる場面は安寧や救済を感じさせる場面です。私は『よだかの星』を思い出しました。『よだかの星』と比べたら、彼は天に昇ったわけでもないし、それどころか「死骸」などと書かれている。それにもかかわらず、『よだかの星』に比肩するような美しさを感じる場面なのです。言葉が足りず申し訳ありませんが、これはもう、ただただ「すごい」としか言いようがない。

     悲しみや苦しみ、そして憎しみまでも抱き寄せた「美しさ」。憎しみが美しさになる、これはとてつもないことでしょう。しかし、宮沢賢治はそれをやってのける。好きな作家だと書きましたが、好きというより「畏敬の念」を感じる作家です。



    イーハトーヴ

      知名度的には『注文の多い料理店』が圧倒的に勝ると思いますが、私はこの作品の方が賢治の本質に迫れる作品ではないかと思います。『注文の多い料理店』だけ知っている、という方にはぜひおすすめしたいです。

    宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 旅程表

     宮沢賢治の作品を読んでいます。次回は作品の読解からちょっと趣を変えたスペシャルをやってみようかな、と思っています。


    宮沢賢治,



    •   22, 2016 20:17