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スクリーンショット (24)


 このブログのコーナー、「宮沢賢治・イーハトーヴへの旅」にたくさんのアクセスありがとうございます。昨年の3月末に開始したコーナーなので、ちょうど1周年を迎えることになります。1周年への感謝とたくさんのアクセスへの御礼の意味合いも兼ねて、第18回の今回は初めてのスペシャルを企画しました。

 「宮沢賢治のオノマトペ・ラボ」と題し、宮沢賢治の創作オノマトペの秘密に迫る2回シリーズです。気合を入れてプロモーションパネルまで作成してみました。いつもとは違う「イーハトーヴへの旅」のスペシャル版、ぜひご期待ください。



斜め上のオノマトペ



「クラムボンは笑ったよ」
「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」
「クラムボンははねて笑ったよ」

「クラムボンは死んだよ」
「クラムボンは殺されたよ」



 ご存知の方も多いと思いますが、これは宮沢賢治の『やまなし』という作品からの一節です。そして、この場面に出てくるクラムボンが「かぷかぷ」笑うという表現は、数多くある宮沢賢治の創作オノマトペの中でももっとも有名なものの一つに挙げられるのではないでしょうか。

 私は小学6年生の教科書でこの作品に出会いました。「かぷかぷ」笑う、という表現はおそらく生きてきて初めて目にしたものだったと思います。笑う様子を形容するオノマトペはたくさんあります。ゲラゲラ、クスクス、ニヤニヤ・・・いろいろありますが、どれも笑っている様子がすぐに目に浮かびます。イメージとすぐに結びつくたくさんのオノマトペ、これだけでも十分な種類が揃っているように思うのですが、宮沢賢治という人はその「斜め上」を行くのです。

 「かぷかぷ」笑う、そのオノマトペが提示する新たなイメージはとても豊かで、私は今まで知らなかった表現の世界に胸躍らせました。独特のオノマトペは「かぷかぷ」だけではありません。たくさんの作品で、まるで息をつくかのように、宮沢賢治は独創的なオノマトペを次々と生み出していきます。教科書や辞典は教えてくれない豊かなオノマトペの数々に出会えることは、私が宮沢賢治を大好きな理由の1つです。

宮沢賢治を語る上で忘れてならないのは、作品に見られる賢治の語感の鋭さである。特に賢治独特のオノマトペおよびその使い方は誰にも真似ることができない、賢治だけに与えられた天賦の才である。宮沢賢治のほとんどどの作品にもオノマトペが溢れ、オノマトペが賢治の作品の特徴の一つとして挙げられるほどである。



 このように語るのは、言語学者の田守育啓(たもり いくひろ)さんです。宮沢賢治のオノマトペを特集したいと思い立ち、何か良い文献がないかと探したところ、田守さんが著されたこんな本と出会いました。

賢治オノマトペの謎を解く
田守 育啓
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 とにかく宮沢賢治のオノマトペがたくさん詰まった、賢治ファンの私にとっては夢のような1冊でした。賢治の作品に出てきたオノマトペをまとめた巻末の「賢治オノマトペ索引」などは永久保存版でしょう。今回のスペシャルはこちらの1冊から多くのことを参考にさせていただいています(記事中の参照・引用は、特に記載のない限り『賢治オノマトペの謎を解く』からのものです)。

 ということで、宮沢賢治の独特のオノマトペについて、さっそく見ていこうと思います。

オノマトペの秘密



 ここまで「オノマトペ」ということばを注釈なしで用いてきましたが、「オノマトペ」には様々な種類があります。まずはその点をおさえておきたいと思います。

語句
オノマトペ

…オノマトペには3種類あります

① 擬声語 …動物の鳴き声や人間の声を真似て創られたもの
例 ) ワンワン(鳴く) きゃーきゃー(騒ぐ)

② 擬音語 …自然界の物音を真似て創られたもの
例 ) ザワザワ(揺れる) ゴロゴロ(鳴る)

③ 擬態語 …音響とは直接関係しない、動作・事物の状態、痛みの感覚、人間の心理状態などを象徴的に表したもの
例 ) めそめそ(鳴く) くるくる(回る)



 オノマトペの種類と具体例を簡単にまとめました。ただ、今回の特集において上で説明したようなことはほとんど意味を持ち合わせていません。理由は2つあります。まずは宮沢賢治が使ったオノマトペの多くは既存のオノマトペの中にはない「創作オノマトペ」であったから、もう一つは、賢治はオノマトペを使うとき、役割や文法などといったことからは時に大きく逸脱していたからです。

 「かぷかぷ」笑う
 「すぱすぱ」歩く(『風の又三郎』)
 「つるつる」とした空(『なめとこ山の熊』)

 このように、賢治の作品には日本語の他の文脈からは考えられないような独創的なオノマトペの数々が登場します。これらのオノマトペを、賢治は一体どういう風に生み出しているのでしょうか。オノマトペの天才などと言われる彼ですから、何もないところから空想力で創作オノマトペをオノマトペを生み出している、とイメージされる方もいるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。宮沢賢治は既存のオノマトペに様々な「法則」のもとで「アレンジ」を加えていたのです。


このような賢治独特のオノマトペは全くの無から創作されたのではなく、その創作にも法則があり、慣習的オノマトペを何らかの形で利用して創作されたと考えられる。



 田守さんは、慣習的オノマトペと賢治のオノマトペを比較し、賢治が慣習的オノマトペにどのようなアレンジを加えていたのか、そこにある「法則」の存在を明らかにしていきます。私たちの耳になじんだおなじみのオノマトペが、少し手を加えるだけで全く違う響きをもった新しいオノマトペに生まれ変わる。オノマトペが変身していく様はまるで何かの「実験」でも見ているかのよう。そうなると、賢治の作品は様々な創作オノマトペが生み出される「ラボ」というところでしょうか。今回の特集のタイトルはそんなイメージから付けています。

 では、賢治が創作オノマトペを生み出していった法則とはどのようなものなのでしょうか。パネルで簡単に紹介したいと思います。

スクリーンショット (25)

 全部で4つの法則がまとめられています。矢印の左側が慣習的オノマトペ、右側が賢治の創作オノマトペです。2つを見比べて、ニュアンスの違いなど、ぜひイメージしていただけたらと思います。

 まずは「別の音にチェンジ」。普通は足が「ぎくっと」鳴る、とするところを、賢治は足が「きくっと」鳴ると表現するのです(『フランドン農学校の豚』)。「ぎ」が「き」に変わって、印象はどう変化するでしょうか。「きくっと」鳴ると表現すると、ちょっと間が抜けたような、例えば自転車のタイヤがパンクした時のような印象を受けました。足が突然ふにゃっと曲がった様子がよく表現されているのかもしれません。

 こんな風に、賢治が創作オノマトペを生み出していった法則と、創作オノマトペによって得られる印象を考えていくと大変面白いです。まずは「音の挿入」から。「ぐにゃり」に撥音(ん)を挿入した「ぐんにゃり」(『土神ときつね』)は首を垂れる場面の描写ですが、よりがっかりしているような、体から力が抜けるようなさまが伝わってきます。右下の「音の反復」はどうでしょう。「くつくつ」が「くつくつくつ」(『水仙月の四日』)になっただけですが、これだけで場面が生き生きしてくるから不思議です。鍋の中にあるものがより激しくに立っている様子が目に浮かぶようです。全体的に言えることですが、まるで呼吸をしているような生き生きとした文に変化しています。

 私が一番面白いなと思ったのが左下の「音の入れ替え」でした。賢治の創作オノマトペの醍醐味とも言えるかもしれません。「こっそり」咲くではなく、「そっこり」咲く(『鹿踊りのはじまり』)・・・一見意味不明です。無意味に音を入れ替えて遊んでいるだけでは?と思われる方もあるいはいるかもしれません。私も最初は違和感しか覚えませんでしたが、この「そっこり」という表現は味わううちに旨味が出てくるのです。これは私の勝手なこじつけですが、「そっこり」は、「こっそり」と「もっこり」と「ほっこり」のニュアンスが組み合わさったようなイメージを覚えます。こっそりと、もっこり、そしてほっこり咲いているのです。単に音を入れ替えただけで、これだけの味わいが生まれることに驚かされます。

天からの才能



 田守さんの本から4つの法則を紹介しました。せっかくですから、クラムボンが「かぷかぷ」笑うという『やまなし』の描写も考えてみようと思います。勘の良い方はすぐに気付かれると思いますが、これは「ぷかぷか」や「ぷくぷく」から生み出されたオノマトペであると推測されます。水中に泡が浮かぶ様子を、笑うという動作に見立てているのです。

 水中に浮かぶ泡から笑うという動作を連想する流れは比較的分かりやすいです。しかし、この箇所が単純に「ぷかぷか」笑うや「ぷくぷく」笑うだったらそんなに目を引く表現にはならなかったと思います。こういうところでさっと創作オノマトペを生み出す―。宮沢賢治の作品から受ける生き生きとした印象の生命線がここにあります。

 宮沢賢治のオノマトペの法則を紹介しましたが、賢治は上に書いたように理詰めでオノマトペを生み出していったわけではないと思います。賢治の作品を読んでいて思うのは、彼が「本当に見ている」「本当に聴いている」ということです。

 慣習的なオノマトペでも十分にイメージは伝えることが出来ますし、何の不足もありません。しかし、私は賢治の創作オノマトペを見るたびにはっとします。それに触れた後水面を見ると本当に泡は「かぷかぷ」浮かんでいるようですし、空を見上げると空が「つるつる」しているようです。「本当の様子を、ことばで見事につかまえている」、そんな印象があります。

 いうまでもなく、本当の様子をことばでつかまえるということは至難の技のはずです。そんな難しいことを、さらりとやってのけてしまう。その場その場の「本当の様子」にジャストミートするオノマトペを、まるで息を吐くように生み出してしまう。ことばにするとその時点で偽物になったような感覚をいつも抱いてしまう私にとって、賢治のこの才能は本当にうらやましいです。

 前編の今回は「実験編」ということで、宮沢賢治の創作オノマトペの法則を明らかにして、慣習的なオノマトペからの変化を見てみました。次回は「鑑賞編」として、賢治の創作オノマトペをよりたくさん、じっくりと見ていこうと思います。



イーハトーヴ

「宮沢賢治・イーハトーヴへの旅」 旅程表

 これまでの連載もぜひご覧ください。

 後編の「鑑賞編」は近日中にアップ予定です。
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宮沢賢治,



  •   23, 2016 00:31
  •  突然心にぽっかり穴が空いたような。ふとそんな気分が押し寄せてくることはないでしょうか。私はよくあります。それも、一人で寂しい時に訪れるのではなく、ものすごく充実しているような時にふと訪れるのです。これは一体どんな現象なのか、不思議ですね。

    誰かが足りない (双葉文庫)
    宮下 奈都
    双葉社 (2014-10-16)
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     宮下奈都さんの『誰かが足りない』を紹介します。宮下さんと言えば、今年最初のブックレビューで『羊と鋼の森』という小説を紹介しました。『羊と鋼の森』は本当に素晴らしい作品で、私はあっという間に宮下さんのファンになりました。宮下さんは、私が一番好きな小川洋子さんと似た雰囲気を感じるところがあるのです。そんなわけで、早いスパンで2冊目の本に手を伸ばしました。



    寄り添う作家



     『羊と鋼の森』、そしてこの『誰かが足りない』を読んで感じたのは、宮下さんが登場人物に丁寧に寄り添う作家さんである、ということです。作品に真摯に向き合っておられる、とも言えると思います。作者である宮下さんが登場人物に向けるまなざしは優しく、温かく、それでいて強い。まるで書き手がやわらかな光となって、登場人物を包んでいるようです。

     このように真摯な語り手に出会うと、読者である私は安心して作品に身を任せることができます。まだ2作品しか読んでいませんが、宮下さんの作品からは揺るぎない信頼感を覚えるのです。

     さて、冒頭で「突然心にぽっかり穴が空く」ということについて述べました。この『誰かが足りない』は、まさにそんな、心にぽっかりと空いた穴をテーマにしたお話です。「ハライ」というレストランに予約をした、6組のお客さんたち。彼らはそれぞれにそれぞれの事情があり、それぞれの「喪失」を抱えていました。喪失を抱えた人々が集うレストラン。彼らは何を思い、どう前に歩を進めるのでしょうか。

     登場人物に丁寧に寄り添っていく宮下さん。今作でも、人々の抱える「喪失」に、優しい手を差し伸べています。私たちが普通に生きているだけでは見落としてしまうような、そんな些細な、消え入りそうな心にも、宮下さんの繊細な語りが注ぎ込まれていくのです。

    喪失のそばに



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     まず、「誰かが足りない」というタイトルが秀逸ですね。これは、私たちが常に抱えている喪失感を表しているように思います。どんなに恵まれた生活をしていても、あるいは物事が全てうまく運んでいるとしても、「喪失」から逃れられる人間はいないと思います。例えるとしたら、人間の後ろに付いて回る影のようなものでしょうか。ある時、ふっとその姿を現す。そして、私たちの心を蝕もうとするのです。

     この作品に登場する人物たちも、どこか影、つまり喪失のオーラを抱えた人ばかりでした。抱える事情はそれぞれです。ただ、それぞれが抱える苦悩や喪失は、どれも私たちがいつ経験してもおかしくない、ありふれたものばかりでした。私たちは誰もが喪失と共に生きている。そしてその喪失は、ふっと顔を出し、私たちを蝕もうとする。そんな喪失の静かなゆらめきを感じさせる短編が並んでいるように感じました。

    いい子でいたいんだろう。人に嫌われたくなくて、抱えられそうなものは全部自分で抱えてしまう。それで結局、余裕がなくなって自爆するのだ。ぜんぜんいい子なんかじゃない。



     1つ、抜き出してみました。いろいろな喪失がある中で、私がもっとも寄り添うことのできた喪失です。そして、同じようにここに書かれている喪失に寄り添える方も多いのではないのでしょうか。人に嫌われたくないから、自分で全て抱えてしまう。その上、周りからは「いい子」にされ、本当の自分とのギャップは開いていくばかり・・・。私も、こんな風に感じたことは何度もあります。

     ふと空を見上げてみました。今、この世界に、ここに書かれていることと同じ思いをしている人はどれだけいるのでしょうか。きっと、数えきれないほどたくさんの人が同じ思いをしているはずです。言い換えれば、世界は喪失であふれている

     とてもありふれた喪失です。多くの人が抱えているけれど、人々は特にそんな感情を表出させることもなく、ただその気持ちが薄れ、消えていくのを待っています。喪失を消し去ることはできない。だから、喪失と上手く付き合いながら、なんとか歩を前に進めていく。人生とは、突き詰めればそんなものなのだと思います。

     そんな「ありふれた喪失」を、宮下さんは掬い取っていく。それがとても丁寧で、優しい。まるで語り手が登場人物の背中をそっと押しているような印象を受けました。宮下さんを通して語られること。登場人物を包む、優しく温かい手。それをもう少し見てみたいと思います。

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     レストランへ向かうお客さんの中に、「今」を怖がる青年がいました。彼はいつも手にビデオカメラを構えています。世界は彼にとってあまりに刺激の強いものだったのです。「今」を見つめることに怯え、カメラを通した世界の中に生きている青年。そんな青年に、別の登場人物がこんな風に語りかけました。

    「まるで過去を生き直しているみたいに見えました。でも、たぶん、違う。歌ったあなたも、泣いたあなたも、今のあなたなんです。あなたは取り戻している最中なんです。」



     少しずつ、心はほぐされていきます。そうです、少しずつでよいのだと思います。少しでもいいから、確実で、着実な一歩を。

    この驚きも、きっと今だ。今は風で、今は笑いで、涙で、よろこびで、かなしみで、驚きで。



     よろこびも、かなしみも、驚きも。全ては「今」でした。それを当たり前のこととして受け入れている私たちとは違って、彼はそれを受け入れることができていませんでした。彼の今は、今から始まるのです。説教でもない、綺麗ごとでもない、正論でもない。宮下さんは、こういう風に、登場人物に「確実で、着実な一歩」を歩ませているように感じます。

     ある女性と出会って、こんな風に感じた登場人物もいました。

    彼女を見たときに黄色い信号が緑に変わったのを覚えている。今までずっと黄信号で足踏みしていた場所から、進んでもいいといわれた感じだった。止まれ。ただし、止まれなければ進め。――それが黄信号だ。



     ここにもまた、「確実で、着実な一歩」の存在を見つけることができます。彼にとって、それまでの黄信号は足を止めるための装置でしかなかったのでしょう。それが、ある出会いを通してふっと世界は急回転をする。そうか、黄信号は「止まれなければ進む」ものなのか―そう気付いて、彼は足を前に進めます。

     たしかに、喪失は常に私たちのそばにいるものです。しかし、喪失が常にそばにいるとしたら、喪失から立ち上がる「確実で、着実な一歩」もまた、その隣で息を潜めているのではないでしょうか。世界は、私たちがそれをどう見るかによって、あっという間に形を変えてしまう。世界が形を変える瞬間。確実で着実な一歩がまさに踏み出されようとする瞬間。その描かれ方が抜群に上手いと思います。

    思いがけぬ発露



     登場人物たちにある瞬間訪れる「変化」。作者の宮下さんは、それを「感情の発露」というもので捉えているのではないか、と思いました。それを感じさせたのがこの箇所です。

    美しい記憶がそのままその人の美しさを支えるわけではないように、悲しい記憶が人のやさしさを支えることがあるように、いいことも、悪いことも、いったん人の中に深く沈んで、あるとき思いもかけない形で発露する。



     ああ、そうだよなあ。心がそんな風につぶやいて、次の瞬間、言葉が体の中に染みわたってきました。いいとか、悪いとか、それはその瞬間で単純に割り切れるものではないのだと思います。いったん心の中に沈んで、ある時、それが思いもかけない形で発露する。その発露したものが、突然訪れる世界の変化なのでしょうか。

     今まで見たこと、聴いたこと、感じたこと。会ってきた人、食べてきたもの、行った場所。それらが全て蓄えられて、ある時、ある場所で「発露」するんだ。そんな風に思ったら、それはあまりに深遠なことで、そのあまりの深さにしばし本のページをめくる手を休めました。それと同時に思うのです。宮下さんの作品を読んでいて感じる圧倒的な「信頼」というのも、ここからくるものではないか、と。

     おそらくこの本に出てくる全ての登場人物たちに、宮下さんはこう語りかけました。

    「失敗自体は病じゃないんだ。絶望さえしなければいいんだ」



     背中を押してもらったのは、登場人物たちだけではないはずです。



    オワリ

    『羊と鋼の森』 宮下奈都さん

     冒頭でも触れましたが、私が今年最初に読んだ本です。もしかしたら、今年読む本の中で一番の傑作かもしれない。最初の1冊なのにそんなことを思った、それくらいの傑作です。


    小説, 宮下奈都,



    •   18, 2016 21:27
  •  前回の『死んでいない者』に続き、第174回芥川賞受賞作品を紹介します。今回紹介するのは、『死んでいない者』と同時受賞となった本谷有希子さんの『異類婚姻譚(いるいこんいんたん)』です。不気味さと爽やかさを合わせ持ったようなこの一編、言ってみれば爽快ならぬ爽「怪」という感じでしょうか。

    異類婚姻譚
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    本谷 有希子
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     共に暮らすうちに、夫婦の顔が似ていく―。この作品のテーマです。そして、それは本谷さん自身の体験にも基づいているそうです。血のつながりもない、結婚するまでは赤の他人だった夫婦の顔が結婚後にだんだん似ていくというのですから、何とも不気味な話です。夫婦生活は、夫と妻をどう変えるというのでしょうか。



    奇譚のはじまり



     主人公のサンちゃんは、夫と結婚して専業主婦になりました。結婚して4年目、そろそろ夫婦生活も倦怠期、いや安定期に入ってきた頃でしょうか。夫婦としての基盤がたしかなものになりつつも、独身時代のスリルやときめきが思い出せなくなってしまう、そんな時期であるとも言い換えられそうです。そして、そんな夫婦生活にそっと忍び込むように、「その問題」は顔を出しました。

    「旦那と、顔が一緒になってきました。」



     サンちゃんはふっとそうつぶやきます。冒頭にも述べたように、夫婦には血のつながりはなく、結婚するまでは赤の他人です。きょうだいの顔が似ているというのなら分かりますが、夫婦の顔が似ている、いや、「似ていく」というのです。生活を共にするうちに顔が似ていくというのでしょうか。なんとも不気味な話です。

     夫婦は別人で、顔のパーツ1つ1つを見ると違うのだ、ということは強調されるのです。サンちゃんの知り合いのキタエさんという人がいるのですが、キタエさんもまた「顔が似ていく夫婦」に出会ったことがあるそうです。その不思議な現象がこんな風に語られています。

    目、鼻、口を一つ一つ見ていくと、二人はやはりきちんと別人なのだ。ところが、全体としてとらえ直した途端、なぜか鏡に映ったようにイメージが重なり合う。



     サンちゃん夫婦も、夫と妻の顔は本来全く似ても似つきません。平凡な顔をしたサンちゃんと、ギョロギョロとした目で背中を丸める彼女の旦那さんを似ているという人はいない、とサンちゃん自身も自覚しているのです。似ても似つかない顔をした2人なのに、「イメージが重なり合う」。語られていることが想像できるでしょうか。

     このままではあまりにも不気味なので、もう少しこの現象を掘り下げてみたいところです。サンちゃんは、自分は誰かと親しくなるたびに「取り替えられている」のではないか、と分析します。ここがとても興味深い箇所でした。次の節で詳しく読んでいきたいと思います。

    自分が喰われる



     一緒にいるうちに顔が似ていく、ということは本当にあるのかもしれません。私は、家庭の「空気」がそこに絡んでいるのではないかと思いました。家庭にはその家庭だけが持つ独特の空気があって、一つ屋根の下に暮らす人たちは、同じ空気を吸ううちに少しずつ顔が歪んでいく―そんなことを思い浮かべました。

     突拍子もない考えで自分でもあきれそうになりましたが、不思議なことに、「そんなことはないだろう」とはなから否定する気にはなれないのです。家庭の「空気」というのは、目には見えなくても、実は大きな力を持っているように私には思えました。人間がそれに染まって、変わっていってもおかしくはないぐらいの力です。


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     その「顔が歪んでいく」現象を、主人公のサンちゃんはこんな風に捉えています。

    これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。



     「なるほど」、と声を出してしまうくらい、妙な説得力をはらんだ部分でした。ここを読んで私が考えたのは、人間というのは思ったより流動的な存在であるということです。何か、人間には「自分」という確固とした存在があるかのように私たちは思ってしまいがちです。しかし実際はそんなことはなく、まるで水が入れられる容器によって変幻自在に形を変えるかのように、人間もまた、食べるものによって、暮らすところによって、そして「一緒に暮らす人によって」、とどまらずに変質していくのではないか、そんなイメージが浮かびました。

    旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分が全て取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。(中略)今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。



     蛇の亡霊、という例えも手伝って、より一層不気味さが増してきました。蛇の亡霊もそうですが、それ以上に不気味なのは、一緒に暮らす相手が「旦那のようなもの」であろうとも構わない、と言っている主人公の態度ではないでしょうか。「自分の体など失っている」というその直前にあることばを、不気味にも証明しているようです。

     ここで述べておかなければいけませんが、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。「なんでこんな人と一緒にいられるのだ」と思わせるくらい、嫌悪感だけを覚えさせる人でした。旦那さんの行動や言動は随所に不気味なのですが、それ以上に不気味なのは、妻であるサンちゃんが旦那さんのことを何の抵抗もなく受け入れていることです。

     何の抵抗もなく受け入れている、というのは、「仲睦まじい夫婦」のことを言いたいわけではありません。それは、夫婦が同一になっていく、という不気味な現象でした。物語はさらに怪奇な雰囲気をまとって後半へと移っていきます。

    自分を喰う



     前の節のタイトルが「自分が喰われる」で、この節のタイトルは「自分を喰う」です。私なりに考えたものなのですが、この「自分が喰われる」から「自分を喰う」への流れがこの物語の中心にあると思います。

     夫婦が同一になっていく、ということの恐ろしさ。それを表現した2人の性行為の場面が秀逸です。

    私は旦那の粘膜の中で、必死にもがこうとするのだが、やがて旦那の体の中は気味が悪いまま、少しずつ気持ちのよい場所になっていく。気付けば私は自分から、せっせと旦那に体を食べさせてやっているのだった。旦那があまりに美味しそうに私の体を呑み込むので、その味覚が自分にも伝染し、私は自分を味わっているような気分になった。



     最初は「旦那に喰われていた」。しかし、夫婦生活を送るうちに、別人だった夫婦は同一になっていく。そうしていつしか、旦那に喰われることは「自分が自分を喰う」ことになっていく(旦那は「自分」だから。旦那が自分を喰う=「自分」が自分を喰う)。ねとりと絡みつくような一連の流れですが、不思議とそこまで嫌悪感はなく、ぐいぐいと読ませていきます。

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     前で触れたように、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。外で一生懸命働いている反動かもしれませんが、家では全くよいところがありません。「夜はテレビ番組を3時間見なければいけない」という謎の宣言を始めたり、ゲームでコインをとるという動作をただ無意味に繰り返したり。例えるなら、「怠惰と無気力の妖怪」とでも言えそうな気持ち悪さがあります。

     私が妻の立場だったら、ちゃぶ台を投げるか怒鳴りたくでもなるでしょう。ですが、サンちゃんはそんな行動には出ません。一応不快感は覚えているようですが、だからといって突き放すことはなく、やんわりと受け入れているのです。そう、少しずつ夫婦が同一になっているからです。

     顔のかたちは全く似ても似つかなかった夫婦が、「イメージが重なり合う」ように同一になっていく、という最初に語られたことが、一組の夫婦の描写を通じて、丁寧に描かれていました。夫婦の顔が似ていくという奇妙な現象を、後半では何の違和感もなく受け入れている自分に気付き、驚かされます。作者の高い筆力が成せる技ではないでしょうか。

    譚としての完成度



     不気味不気味と何度も書いていますが、この作品にあったのは不気味さだけではありません。不気味さは醸し出しつつも、妙な「爽やかさ」がある―私はそんな印象を受けました。不気味さと爽やかさというのは本来相容れるものではありません。それを相容れさせているという点も、この作品の大きな魅力だと思います。

     旦那も妻もそれぞれに不気味なのですが、コミカルでどちらかというとライトな描写が手伝うのでしょうか、ほとんど嫌悪感は覚えません。細かいセリフも一つ一つが生き生きとしていて、「キレのよさ」を感じさせます。それでいて、夫婦が同一になって行くという作品の「核」の部分では渾身の描写が展開されています。要するに、完成度が高いのです。小説家でもあり劇作家でもある本谷さん。その実力がいかんなく発揮されているように感じました。

     もう一つ、この作品にキレを生んでいる要因があると思います。本谷さんは、芥川賞の受賞のことばでこんな風に述べられています。

    本谷 長い間、ちゃんとした小説を書かなければいけないと信じていました。魂を削りながら書かなければ、とさえ思っていました。だけどあるとき、「そもそも私には、削るような魂があるのかな。」と思ったのです。

    (中略)私は、小説の亡霊を追いかけるのはやめにして、”ちゃんとしていない小説”を、ちゃんと書いてみようと思いました。(『文藝春秋』2016年3月号より)



     個人的に、とても共感のできる言葉でした。そして、本谷さんが書かれた今作の読みやすさ、キレのよさ、どこか漂う爽やかさといったものは、この心がけがあったから出せたものではないかと思いました。

     小説家が魂を削って小説を書く。そんな言い方をされることはよくありますし、実際そうやって小説を書くタイプの作家さんもいると思います。ただ、魂を削って小説を書く、というイメージに捕らわれているなら、それはありもしない幻影を追いかけているだけです。無理矢理(ありもしない)魂を削ろうとして、結果として空振りしてしまっている―以前読んだ小説でそんな印象を抱いたものがあったことを思い出しました。「ちゃんとしていない小説をちゃんと書く」、という本谷さんの構えは素晴らしいと思います。今回の作品で一皮むけたと評する選評委員の方もおられましたが、実際そうなのだと思います。

     本谷さんのおっしゃる通り、ちゃんとしていないけれど、ちゃんとしている作品でした。それを感じさせるのが結末部分だと思います。最後に繰り出された一太刀は、山葵のように鼻につんとくるものがあって、見事の一言です。のっぺり、あるいはぬめりと進行してきたこの作品がしっかし締めくくられ、「譚」として完成した瞬間でもありました。

     『爽「怪」奇譚』の異類婚姻譚、いいものを読ませていただきました。



    ブックレビュープレミアム
     
     ブックレビュープレミアムのコーナーでは、通常よりボリュームを拡大してたっぷりと作品を読んでいます。芥川賞受賞作分はいずれもこのコーナーで扱っています。ぜひ他の作品のレビューもご覧ください。

    『死んでいない者』滝口悠生さん

     『異類婚姻譚』と同時に芥川賞を受賞した作品です。毛色は違いますが、こちらもかなりの力作だと思います。


    現代日本文学, 本谷有希子,



    •   16, 2016 17:15
  •  今回と次回の2回で、第154回芥川賞を受賞した作品を特集します。まず今回紹介するのは、滝口悠生さんの『死んでいない者』です。レビューの量をいつもより増やして、「ブックレビュープレミアム」としてお届けします。

    死んでいない者
    死んでいない者
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    滝口 悠生
    文藝春秋
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     「かつ消えかつ結ぶうたかたの語り」という副題を付けました。これは、御存じの通り鴨長明の『方丈記』に登場する有名な一節をアレンジしたものです。この作品を読んでいる時、頭の中にこの一節が浮かびました。

     この『死んでいない者』という作品は、作品の「語り」が大きく評価されて受賞につながりました。今日のレビューでもこの作品の「語り」に注目していこうと思います。物語を曖昧で重層的なものにした「語り」の技巧に迫ります。



    分からない語り



    誰が誰だか全然分かんねえよ



     これは、私のつぶやきではありません。作中に出てきた一節から引用したものです。私も心の中で同じことを思いながら読んでいたので、心中を見透かされたようで思わずのけぞってしまいました。きっと、作品を書いている滝口さんも同じ思いだったはずで、これは正直な本音の吐露なのでしょう。すでに読まれた方はお分かりになると思いますが、本当に誰が誰だか分からなくなる小説なのです。

     大家族のお通夜を舞台にしたこの作品には、全部で30人ほどの人物が登場するそうです(登場するそうです、という書き方にしたのは、私が自分では数えられなかったからです。インタビューから参照しました)。故人には5人の子どもがいて、10人の孫がいます。それだけでもくらくらしてしまいそうですが、この作品の独特の語りは物語をさらに複雑にします。

     滝口さんが試みた語りとはずばり、「三人称の多視点による語り」でした。この作品では、次々に語り手が移り変わります。大勢の人間が集う通夜の会場を舞台にして、まるでそこに集う人々の「意識」の間をたゆたい、さまようような独特の語りが展開されていくのです。

     滝口さんは複数の語り手を持つ他の小説から大きな影響を受けられたようです。横光利一の『機械』という作品を挙げてこんな風に語っておられます。

    滝口 三人称に加えて、「自身の内面」をもうひとつの人称として描く四人称の小説で、読んでも結局何だか分からなかったりするんです(笑)。でも読んでみて、色々と考えることが出来る、そのことに意味がある作品だと思います。
    (『文藝春秋』2016年3月特別号より)



     滝口さんが横光氏の小説を読んで抱いた感想は、私が滝口さんの小説を読んだときのそれと全く同じでした。はっきり言って、結局何だか分からず、半ば唖然とするような感じで読み終えました。

     ただ、「分からない」というのは、文学において、特に純文学においてはネガティブな感想ではないと私は思っています。分からないものを分からないままにしておく、そこにも「語り」の技巧が求められると思うのです。読み手に不親切で破綻した語りである、というような評も選評会では出たそうですが、私はそうは思いませんでした。滝口さんにならって、この何だか分からない語りを色々と考えてみたいと思うのです。

    混濁への誘い



     副題に鴨長明の『方丈記』からの一節をとった、と書きましたが、改めてその一節を見てみることにします。

    「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」



     「うたかた」は水に浮かぶ泡のことです。水に浮かぶ泡が生まれては消え、また生まれては消えていって、とどまらずに移り変わっていく様子に世の中の儚さが重ねられています。この、「生まれては消え、また生まれては消え」という部分がこの作品の語りから受けるイメージと重なりました。

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     まず作品に登場するのは、故人の長男である春寿(はるひさ)です。冒頭から彼の語りが続き、この小説は彼が回していくのかと思っていると、ふいに会場に子供の声が響きました。それは故人のひ孫、秀斗の声だったのですが、その声が合図になったかのように、語り手はふわりとは秀斗の心の内に移っていくのです。

     移ろいはまだまだ続きます。秀斗の祖母・吉美、さらには秀斗の父親のダニエル、そして秀斗の母親・紗重へと、目まぐるしく視点は変わります。こう書くと物語がだいぶ進んだかのように見えてしまいますが、この時点で物語はまだ数ページしか進んでいません。

     まさに生まれては消え、生まれては消えていく泡のような語りです。読んでいくうちに、この作品において登場人物の関係を把握しようとするのは無駄なことだ、と気付きました。誰かが何かを語っている、そんな漠然とした認識で読んでいいのではないでしょうか。そんなことを思ってからは、次々と生まれる語りにただ身を任せるような気持ちで読み進めていきました。

    意識のたゆたい



     選考委員の方々は、この作品の語りをどのように評価されたのでしょうか。以下に選評をいくつか紹介します。いずれも『文藝春秋』2016年3月号からの引用です。

    自在に流動する語り手は、輪郭が堅固でないからこそ、登場人物に対して何の判断も下さず、彼らの心の欠落にそっと忍び込むことができる。 (小川洋子さん)


    受賞作となった「死んでいない者」は、かたりの作りに企み―といっても従来の三人称多元の技法と大きく隔たってはいないが―のある作品で、自在なかたりの構成が小説世界に時空間の広がりを与えることに成功している (奥泉光さん)


    『死んでいない者』が、意欲的な作品であることは間違いない。問題は、作品の「曖昧な視点」が読者の暗黙と共感に依存している部分がどのぐらいあるか、ということだろう。そうやって考えているとき、「作家の才能とは何か」という問いの、一つの回答を得たような気がした。個人的意見だが、作家の才能とは、「どれだけ緻密に、また徹底して、読者・読み手の側に立てるか」ということではないだろうか。 (村上龍さん)



     この作品の語りの巧みさについては、上のお二方、小川さんや奥泉さんの指摘される通りだと思います。それに対し、最後に引用した村上龍さんの選評は少し毛色の異なるものです。「作家の才能」なるものを考える選評にしばし立ち止まりました。

     同じような語りを試みた作品は他にもあると思います。同じような語りを試みて、滝口さんよりも巧みに語ってみせる作家というのもあるいはいるのかもしれません。作者の才能がどれだけのもので、どれだけ評価されるべきものか、正直未熟な私には分かりませんでした。しかし、たとえ才能を測ることができなかったとしても、この作品の受賞には納得するものがあります。村上さんのおっしゃるように、この作品で試みられた語りがその巧拙はともかくとして「意欲的」であることは間違いないからです。

     大家族の通夜という舞台はすんなりと決まった、と滝口さんは述べておられます。この舞台設定は秀逸で、この物語を物語として成立させている生命線といってよいくらいではないかと思います。人の死に触れて、残された者、つまり「死んでいない者」の中に波打つ静かな感情の揺れ動き―。「意識のたゆたい」を描こうとする中で、通夜という舞台が設定に奇妙な説得力を持たせているように感じます。

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     多くの人が行き交う雑踏の中で、私はよく考えてしまうことがあります。ここを行き交う1人1人が、それぞれ別のことを思って、別の世界を生きている。様々な意識が揺れ動いては行き交うこの混沌とした状態を、文学にはできないだろうか―。そんな、たわいもないことです。

     それはとても難しいことで、作者には相当の技量が求められると思います。三人称多視点の語りというのは、語りの技量がなければ作品として成立せず破綻してしまうでしょう。だからといってあまりに緻密な構成を追求したとしても、それは「作られたもの」になってしまい、私が思っているような「意識のたゆたい」状態は描けません。本当に本当に難しいことなのですね。

     しかも、この小説の語り手は2人や3人ではありません。10人、20人単位で語り手が出てくるので、作品として成立させるのは本当に困難だと思います。語り手を増やした分破綻の危機は高まり、実際この小説は破綻の一歩手前にいるようにも感じました。

     破綻に片足を踏み込んだような危うさ。それが、この小説の評価につながったのではないかと思います。危うくはあるのですが、それは「意識のたゆたい」を描く上で必要な危うさ。本当にギリギリのところにある小説ではないかと思うのです。

    無意味が語られるということ



     この小説は、「死んでいない者」という題にどう帰っていくかが読者に委ねられた小説です。選評で宮本輝さんが書いておられますが、「(まだ)死んでいない者」(=生きている者)と捉えてもいいですし、「(もう)死んで、いない者」(=故人)という捉え方もまた可能なのです。

     私は、まだ死んでいない者、の意味で捉えていました。その上で、曖昧な語りが繰り返されていく中で、「(まだ)死んでいない者」と「(もう)死んで、いない者」との境界線もまた曖昧になっていき、最終的には私たちが「生きている」という一見自明に思えることまでもを根本から揺るがしかねないような、そんな不気味さをはらんだ小説のように思えました。

     徹底的に、無意味が追及されている。そんな印象を受けます。

    兄との電話で話すのは、自分の学校生活のささいなことが多く、あまり深い話にはならない。深まらない、長い話がだらだらと続く。意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような話を連ねて連ねて長さだけが延びていくような兄との電話が知花は好きだった。



     象徴的な場面です。何の意味もないような、どうでもいい話。その場が散れば記憶からも消えてしまい、存在すらなかったようになってしまう話。まさに、水面に浮かんではすぐに消えてしまう泡です。こういうところに手を差し伸べていく。それも、そっと寄り添うような手を。これは、とても尊いことではないかと思います。

    はっちゃんは強くそう決心した。思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。



     ここもそうです。「死ぬまで思い出さないかもしれない記憶」、そんなところに手が差し伸べられるのです。大仰な言い方をすれば、こういった姿勢は「純文学の役割」といってもよいのではないかと思います。

     先程、「作られたもの」への嫌悪に触れました。私は文学を読んでいてそこに「作られたもの」の気配を感じると、その時点で酔いからさめたような気持ちになってしまいます。何かを語るということは、普通に考えればそこに意味を与えるということですから、それが意味を持ってしまうのは自然なことです。その意味で、文学から「作られたもの」の気配を取り除くことはとても困難だと思います。

     しかし、この作品に関して言えば、私は酔いからさめた瞬間はありませんでした。無意味なことを、無意味なままで語っている。改めて思い返して見れば、これは相当に讃えられるべきことなのかもしれません。まだ一度しか読んでいないのですが、これは読み返したくなる作品だということを確信しています。無意味なうたかたの語りが、不思議な魅力を醸し出して私に再び手を伸ばさせるのでしょうか。



    ブックレビュープレミアム

     久しぶりにどっぷりと純文学作品のレビューでした。本文にも書いたように純文学は「分からない」ことの連続なのですが、その分からなくて悶々とした感じが私は大好きです。

     「ブックレビュープレミアム」では前回の芥川賞受賞作品も取り扱っています。「プレミアム」は通常のブックレビューよりボリュームを増やした拡大版です。じっくりと書いています。

    『火花』又吉直樹さん

    『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介さん


    滝口悠生, 現代日本文学,



    •   06, 2016 18:59