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 又吉直樹さんの、待望の2作目が発表されました。今作は、長篇300枚の恋愛小説で、タイトルは「劇場」です。『火花』で芥川賞を受賞した又吉さん。次は、いったいどんな作品を読ませてくれるのだろう。心待ちにしていた舞台の幕が上がりました。

 
新潮 2017年 04月号
新潮 2017年 04月号
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新潮社 (2017-03-07)



 冒頭から、随分と煽ってしまいました。「待望の」「心待ちにしていた」・・・それは、私だけでなく、多くの人から又吉さんに向けられた目でした。次作を期待する周囲からの視線は、又吉さんを大きく苦悩させたことと思います。先月放送されたNHKスペシャルでは、その苦悩の様子がまざまざと記録されていました。

 人が苦悩して何かを生み出すということは、それ自体がかけがえのないくらいに尊いことです。又吉さんが何を描こうとしたのか、ゆっくりと噛みしめるように読ませていただきました。



内容紹介



日本現代文学

界の全てを否定しようとした男が、唯一、受け入れようとしたもの

 主人公の永田は、無名の劇団で脚本を書いています。最初に書いておきます。彼は、どうしようもない男です。彼は平凡であることや、俗物にまみれることを嫌いました。しかし、平凡や俗物への嫌悪は「自己嫌悪」に他なりませんでした。そんな風に書けば、彼がどうしてどうしようもない男なのか分かっていただけると思います。

 全てを否定し、自分と、他人を傷つけるしかなかった永田。そんな彼は、ある日一人の女性と出会いました。青森から女優を目指して東京にやってきた女性、沙希(さき)です。永田は、何の脈絡もなく、唐突にこう思ったのでした。

 -この人なら、自分のことを理解してくれるのではないか

 こうして、物語の幕が上がりました。屈折した永田は、もちろん「普通の恋愛」などするはずがありません。それは、感情が揺さぶられ、ぐちゃぐちゃになる物語の始まりでした。

書評



書評

◆ 目を逸らせない

 生きるということは、いかに「目を逸らすか」ということだ。私はそう思っています。

 人間や世界は、そんなに美しくはできていません。醜さや愚かさ、理不尽さで埋め尽くされています。そんなことは、誰もが分かっています。しかし、そんなことを深く考えて、いちいち「醜い自分」や「醜い世界」を見つめていたら、どうしようもないくらい消耗して、まいってしまうのです。だから、私たちはそういったことからは目を逸らして、見なかったことにしてなんとか生きています。

 もし、目を逸らさない人間がいたらどうでしょうか。醜さや愚かさを、全部見つめようとするのです。そんなことをすれば、深く傷付き、苦しみ、ぐちゃぐちゃになってしまうでしょう。私には、耐えられる気がしません。

 この小説の中には、「目を逸らさない」稀有な人間がいました。主人公の永田です。そして、私が思うに、作者の又吉さんも同じ人種です。

ある感覚をないことにするのは理屈上では簡単だけど、あくまでもそれは自分で理屈に負けてやっているだけの話で、負けを認めたからといっても、そのなかったことが引き連れている苦しみなり痛みなりが消滅するわけではなかった。本当はある負債のようなゴミのような、それでも懐かしいような感覚は自分で抱え続けるか処理しなければならないらしい。



 永田はこんなことを言います。こんな奴です。自分で勝手に深くに潜り込んで、そして傷を負っている-辛辣ですが、そんな言い方もできます。

 引用したこの一節だけでも十分に感じ取っていただけると思いますが、この作品は、読み手を消耗させ、その体力を奪っていきます。それもそのはず、私たちが普段目を逸らしている類のことを、「ほら、見ろよ、見るんだ」とばかりに突き付けてくるからです。

 なんだかいきなりげんなりさせてしまうようですが、忘れてはいけないことがあります。読み手を激しく消耗させるということは、それ以上に「書き手」が消耗しているのです。又吉さんの苦悩、葛藤といったものは、露骨に、痛いくらいに感じることができます。

「本当によく生きて来れたよね」



 この作品にこの一節あり。間違いなく、そんな台詞です。これは、沙希が永田にかけた言葉です。彼女と手をつなぐことすら恥ずかしく思えてためらってしまう永田。沙希は、笑いながらそう言いました。「本当によく生きて来れたよね」、これは、読者が又吉さんにかけたくなる言葉でもあると思います。

 又吉さんは、愚直な人です。そして、それこそが「小説家・又吉直樹」の最大の魅力であると私は思います。

◆ 歪な恋愛

 さて、そんな永田が出会ったのが沙希でした。「この人なら、自分のことを理解してくれるのではないか」、彼はそんなことを、根拠もなく思ったのでした。そして、彼女に声をかけます。最初は拒絶されかけますが、沙希は何者も拒絶することができない、そんな人でした。唐突な出会いから、二人は関係を深めていきます。

 永田が感じた沙希の魅力というのは、そのあとで語られることになります。沙希は正直な人でした。感情を隠すことができず、あらゆる感情がない交ぜになった表情を見せます。そのようにごちゃまぜになった感情というのは、永田がもっとも惹かれるものでした。

 あらゆる感情がごちゃまぜになっている、というのは、あらゆる感情を「切り捨てることができない」と言い換えることもできます。彼女は、変人としか言いようのない永田に突然言い寄られても、彼を拒絶することをしませんでした。

沙希は顔を引きつらせながらも、いつかの自分を拾ってくれた。排除するのではなく、取り込む。受容する。そうすれば、なにかが見えてくるのではないか。



 愚直なまでに自分を見つめ、「吐き出す」男と、あらゆるものを「取り込む」女。二人は、出会うべくして出会ったのかもしれません。

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 しかし、二人がそのまま愛を結実させるのかといえば、そうではありませんでした。

世界のすべてに否定されるなら、すべてを憎むことができる。それは僕の特技でもあった。沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。だからだ。



 永田の恋愛観は歪んでいます。そのことを象徴するような一節です。これまで世界のすべてを否定することで自分を保っていた永田の前に突然あらわれた愛しい女性。すべてを憎んでいた彼が、普通に「愛する」ことなどできるはずがありません。

 くだらないプライド。醜い自己愛。甘え。

 永田のどうしようもないそれらを、それらでさえも、沙希は全て受け入れようとしました。彼女は本当に、拒絶するということを知らないのでしょう。彼女もまた、「目を逸らすことのできない人間」なのです。

 そして、すべてを受け入れようとした沙希もまた、「消耗」していきます。2人の関係はぐちゃぐちゃになり、物語は終盤に向かいます。

一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。



 物語の最終盤になって、永田はこう言います。当たり前のことに思えるけれど、決して「目を逸らさない」2人からすれば、それはとても難しいことだったのだろう、と私は思いました。

 「恋愛小説」という触れ込みからは到底想像のつかないような、ぐちゃぐちゃで、歪んだ恋愛です。しかし、そこには間違いなく「愛」がありました。又吉さんの愚直な姿勢は、作品として見事に結実しています。


・・・と、いったんまとめておいてですね。この作品は、まったく別の解釈もすることができるのではないか、と私は思っています。それは、沙希が実存しない「幻影」だ、という説。つまり、沙希という女性は、永田が一人部屋の中で描いていた幻影だった、という解釈です。

 読んでいて思いますが、沙希からは「存在感」を感じることができません。それは異様なほどです。突然現れ、永田と心を通わせている。偏屈で腐りきった永田という人間を、どういうわけか全て受容しようとする。読んでいるうちに、沙希というのは永田が思い描いているにすぎない幻影なのではないか、という解釈が頭をよぎりました。

 本当のところはどうなのでしょう。ぜひ、読んで確かめていただきたいと思います。

まとめ



まとめ

 われ続ける作家、又吉直樹。



 腸(はらわた)をねじくり回されるような小説です。痛み、苦しみ、苦悩、葛藤。深く読もうとすればするほど、えぐられます。

 「屈託に呪われている」。文芸誌「新潮」の編集者さんが、テレビで又吉さんのことをこう評しておられました。「いやぁ」、テレビの前で思わず声が出ます。さすが、又吉さんの作品に赤を入れている編集者さんだけあります。見事に又吉さんという人を射抜いている表現です。

 又吉さんは、今後も「呪われ」続けるでしょう。そして、その呪いの先にあるものが、呪いの結実としてあるものが、又吉さんにとっては「小説」なのではないでしょうか。

 多くの人に手に取っていただけたであろう『火花』。この作品も、ぜひそれに続いてもらいたいものです。




オワリ

又吉直樹さん「火花」を読む #1 「平凡と非凡」

 デビュー作、『火花』。このブログでは3回シリーズでたっぷりと感想を書きました。ぜひ合わせてごらんください。

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 雑誌「MONKEY」第11号の特集「ともだちがいない!」をブログで取り上げています。前回は谷川俊太郎さんの詩集、「ともだちがいない!」を2回にわたってご紹介しました。第3回の今回は、アメリカの詩人、チャールズ・ブコウスキーの詩を2篇ご紹介します。

MONKEY vol.11 ともだちがいない!

スイッチパブリッシング (2017-02-15)


 チャールズ・ブコウスキーは、アメリカの「無頼派」と言われる詩人です。酒におぼれ、放浪を繰り返す、そんな人だったようです。そんな破天荒な彼の詩を、私は今回初めて読みました。そして、「ともだちがいない!」というこの特集に彼の詩が組み込まれた理由を私なりに感じることができました。パンクで荒っぽい作風。しかしそこにはとても繊細で、脆いかすかな「脈」が流れているように感じたのです。



はじめに



 実は、今回の特集の「ともだちがいない!」のタイトルは、チャールズ・ブコウスキーの作品からインスピレーションを得ているそうです。雑誌の責任編集をつとめ、ブコウスキーの詩を翻訳している柴田元幸さんはこんな風に書いています。

ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない--この思考の連鎖から特集「ともだちがいない!」が生まれました。



 スラングの少なさ、という視点から「ともだちがいない!」という特集が生まれました。実際に彼の作品を読んでみると、「ともだちがいない!」ということばは実に言い得て妙です。まるで、彼の詩を見事に一言で要約してみせたような、そんなことばに思えました。

 特集では、短編「アダルト・ブックストア店員の一日」と詩「俺の電話」「カーソン・マッカラーズ」が収録されています。今回は2つの詩のほうを取り上げることにします。荒っぽく言い放たれるブコウスキーのことばに隠されたちょっと寂しげな雰囲気を感じていただけたら幸いです。なお、引用する死の日本語訳は前述の柴田さんによるものです。

俺の電話



 主人公の男のもとにはひっきりなしに電話がかかってきます。単に話をしたいという人から、深く落ち込んでいる人、寂しい人、そして時間を持て余している人まで・・・。ひっきりなしに、彼の電話は鳴り続けるのでした。

俺の電話は近ごろ優しくない



 彼はこんな風に独白します。

 電話が「優しくない」とは面白い表現です。全体的に荒っぽく、投げやりな雰囲気の詩ですが、この一行は実に繊細で、彼の物憂げな気持ちを短い言葉で見事に表現しています。

 電話が優しくない、というのは私にはすごくよく分かります。私は電話がとても苦手です。かける方も、かかってくる方もです。いきなりかかってくるとビクッととしますし、自分がかける方になっても、相手の人は今忙しくないだろうか、などと思い出すとなかなかタイミングがつかめません。なんというか、脈絡のない、ぶつ切りのコミュニケーションで、そんなことが苦手なのかもしれません。

 かかりっぱなしの電話にうんざりした彼が、こんな風に語ります。向こうは一方的に電話をかけてくるけれど、実は自分にも言いたいことはあるのです。

俺だって
問題を抱えてて
かりに抱えてなくたって
俺にも
たまには
一人静かに
何もしない時間が必要だってこと。



 全体的には荒れ狂う波のような雰囲気の詩で、この部分はとても印象的です。彼の本音が、むき出しで、飾ることなく吐き出された部分で、ストンと心に落ちてくるのです。

 すごく、分かる。

 多くの人に囲まれれば囲まれるほど、一人になりたくなる気持ち。

 たぶん、そんなことなのではないかと思います。彼のもとにはひっきりなしに電話がかかってきて、とても賑やかなようにも思えます。ですが、賑やかになればなるほど、彼は孤独を自覚するのでした。

 電話をかけてくる人はいっぱいいても、それらは全て一方通行のコミュニケーションでしかありませんでした。どこの誰とでもつながれる電話という道具は、私たちの世界を広げてくれるようにも映ります。でもそれは、実際には驚くほど何も満たしてくれなかったのです。

「あんたの問題が何なのか知らんけど、俺には助けてやれないんだよ!」



 彼はそんな風に叫びます。溜まりにたまった鬱憤を吐き出したような叫びです。

 電話が苦手な理由がもう1つ思い浮かびました。電話の向こうにある相手の顔が分からないというのがあるかもしれません。「分からない」という漠然とした不安を、私は電話に感じます。なるほど、たしかに「優しくない」ものかもしれません。

 でも、この詩にはとても面白いオチが待っています。そうか、電話にはこんなこともあるんだよな、というオチです。

カーソン・マッカラーズ



 次は「カーソン・マッカラーズ」という詩です。この詩では、「孤独」というものが、より露骨に、えげつなく牙を剥いてきます。物悲しく寂しい雰囲気の中に、ぞっとするような恐怖が並存しているような、そんな詩です。

彼女はアルコール中毒で死んだ



 最初の一行は、そう始まります。簡潔な記述なのに、底知れない悲しみを感じました。悲しくて悲しくて仕方ないから、簡潔な言い方で感情に蓋をするしかなかった、そんな印象を受けました。この詩は、全体にそのような雰囲気が漂っています。

 アルコール中毒で亡くなった「彼女」は、本を書いていたといいます。

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 ここからの5行が、気が狂いそうなくらいに、深くて悲しく、そして寂しい言葉の海です。ぜひ、ゆっくりと一行ずつ読んでみていただきたいです。

彼女が何冊も書いた

怯えた孤独の本

愛なき愛の

残酷さをめぐる

何冊もの本



 どうでしょうか。特に、「怯えた孤独」、そして「愛なき愛の残酷さ」というフレーズが、果てしなく深い海ではないでしょうか。

 孤独のことを「孤独」と書くのは簡単です。でも、「孤独」とだけ書いても、それ以上深くには潜っていくことができません。孤独って何だろう。それはとても恐ろしい問いで、私なんかは怖くなってすぐに蓋をしたくなります。

 チャールズ・ブゴウスキーという人は、その恐ろしい問いに向き合うことから目をそらしませんでした。そして、どこまでも深く、暗い海の底まで潜っていけた。私にはそう思えました。そうしてたどり着いた言葉が、「怯えた孤独」「愛なき愛の残酷さ」

 上に書いたように、孤独というのはそれを考えること自体がとても恐ろしいことです。孤独という言葉に、人は怯えます。「怯えた孤独」というのは、そんなところから導き出せる言葉なのだろうか、と思いました。

 「愛なき愛の残酷さ」はどうでしょうか。これが、とても難しいです。「愛」というのは、本来「孤独」の対義語といってよいかもしれません。孤独から私たちを解き放ち、満たしてくれるもの。しかし、ここで書かれているのは「愛なき愛」です。この言葉は、一体何を意味するのでしょうか。

 「愛」だと思っていたものは、実は「愛」などではなかった
 「愛」という名のもとに、自分の傷をなめ、なぐさめているだけだった

 -私はそんなことを考えました。どちらも、考えるのも恐ろしいくらい残酷なことでした。「愛なき愛」は、たしかに「孤独」でした。この部分はたくさんの解釈ができると思います。作者に引きずり込まれるように、私も暗い海の中を漂いました。

 この詩は、最後まで救いがありません。最後の方にこのような一節があります。彼女の遺体が移された後に、こう綴られます。

そうして何もかもが
そのまま続いていった

何もかも
彼女が書いたとおりに。



 人が死ぬというのは、とても大きな出来事です。「彼女が生きていたこと」と「彼女が死んでしまったこと」には、本来大きな違いがあるはずです。

 それなのに、です。「何もかもが、そのまま続いていった」とあります。それは、彼女が生きていた事と死んでしまったことの境界をかき消します。「彼女は本当に生きていたのだろうか」-そんなことすら思い起こさせる、これ以上ないくらいに残酷な表現のように思いました。

 ぞっとするくらいの、本当の孤独を見たような気がしました。




オワリ

 いかがでしたでしょうか。最初に紹介した谷川俊太郎さんは、「ともだちがいない!」という題を付けながらも、その作品には溢れんばかりの人間への愛を感じることができました。対して、チャールズ・ブコウスキーはどうでしょう。ユーモアや皮肉もたっぷりな作風ですが、ぞっとするような本当の孤独が書かれているように私は感じました。



 このあとの作家さんたちは、どのような「ともだちがいない!」を見せてくれるでしょうか。こういった作品集の素晴らしいところは、作家の数だけ違った色があるというところです。「ともだちがいない!」という言葉がどう深まっていくのか、楽しみです。

「詩集 ともだちがいない!」 谷川俊太郎(前編) ~ほんとうのともだち~

 シリーズ第1弾。互いに異なる人と人とが顔を突き合わせる意味。谷川俊太郎さんが教えてくれます。


, チャールズ・ブコウスキー,



 テレビなどでもすっかりおなじみになっている池上彰さんのベストセラーをご紹介します。池上さんは、分かりやすく、それでいて本質を鋭く突いた論述で人気を集めていますね。私も、知りたいことがあったらまずは当たってみる、そんな信頼できる論者の1人だと思っています。

そうだったのか!現代史 (集英社文庫)
池上 彰
集英社
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 池上さんが、おもに第2次大戦以降の世界の現代史を分かりやすく解説した、「そうだったのか!現代史」をご紹介します。



内容紹介


人文科学

っているようで知らない現代史、池上さんと総復習!

 世界の現代史といえば、授業の最後のほうで時間がなくなって、つい雑に扱われてしまいがちなところです(私がそうでした)。ところが、そんな現代史こそが、今、わたしたちが生きている世界に直結している部分であり、知っておかない歴史であると言えます。

 多くの世界史の本でもどうしても紙幅が薄くなりがちな世界の現代史を、池上彰さんがとことん解説しています。朝鮮戦争からキューバ危機、そしてベルリンの壁崩壊まで、世界現代史の主要トピックが、「広く、深く」解説されています。

知識・教養とは何か



 この本から得られることは何でしょうか。読む前、私はどちらかというと「知識を得ること」を目的にしていました。世界現代史にかなり弱い自覚があり、なんとかしなければと思っていたからです。

 読んでみて思うことがあります。この本からはもちろんたくさんの知識を得ることができますが、それ以上に重要なのは、「教訓」のほうでした。池上さんの巧みな構成とたくさんの知識に裏打ちされた記述が教えてくれたのは、「世界が今までいかに、『同じあやまち』を繰り返してきたのか」ということ、そしてもう1つ、「あやまちを繰り返さないために私たちは何をすべきなのか」ということでした。

スケッチブック

第二次世界大戦後の歴史を振り返ると、この六○年間は、イデオロギーの対立と、自国の利益だけしか考えない大国の身勝手な行動に彩られています。

また、「理想」を追求したはずが、いつしか「同志」や「人民」を虐殺してしまうという、冷酷な現実も見えてきます。
( 「おわりに」 p406)



 全部で18章に分かれていますが、私が印象に残っているのは「文化大革命」(9章)と「ポル・ポト」(11章)でした。特に後者のポル・ポトについては戦慄すら感じる内容でした。恥ずかしながら名前しか知りませんでした。ポル・ポトはカンボジアの独裁者です。彼がやったことを学ぶと、本当にこれは現代に起こったことなのか・・・」と思わされます。池上さんが書いたように、それは「悪夢」に他なりませんでした。

 文化大革命のほうは、中国で毛沢東が起こした政治闘争です。さて、池上さんはこの毛沢東~ポル・ポトの流れで、1つの「線」が見えてくるような巧みな構成をとっています。見えてくるのは、「知識人の抹殺」という線であると私は感じました。

 知識を持つ者は、体制を揺るがす恐れがあるから知識ごと消し去ってしまえ

 そんな恐ろしいことが、世界で現実に起こっていたのでした。

「ものごとを知り、自分の頭で考える」ことのできる人間は、支配の邪魔にしかならないと考えたのです。と同時に、「肉体労働こそがすべての基本」という素朴な原始共産制の思想が根底にあったのです。
(「第11章 ポル・ポトという悪夢」 p263)



 これがいかに恐ろしい思想なのか、ぜひ立ち止まって考えていただきたいと思います。私は、知識や教養を身に付ける意味は何だろう、と考えました。知識や教養は、それ自体でお腹を満たすことはできませんし、お金を得られるわけでもありません。だからといって必要ないのか、と言われればそうではないと思います。独裁者は「知識」や「教養」を怖れました。それは、知識や教養が大切なものであるということの裏付けになっていると考えます。

 あやまちを見つめること
 そして、問い直すこと。繰り返さないようにすること。

 そのために必要なのが、知識であり教養なのではないかと思います。人間は間違いを繰り返す生き物なのだ、と本を読んで改めて思いました。愚かにも思えますが、あやまちを繰り返さないように、見つめ、学ぼうとするのもまた人間だけができることなのだと気付きます。

 それに気付いた時、この本の価値が分かったような気がしました。

 ここで紹介したトピック以外にも、たくさんのトピックが収録されています。そこから見えてくる歴史のつながり、「線」は人によって様々だと思います。ぜひ、読みながら「線」を見つけ、そして考えていただけたら、と思います。



オワリ

 池上彰さん『そうだったのか!現代史』の紹介でした。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



 さて、姉妹編とも言える「そうだったのか!日本現代史」のほうも購入してみました。こちらも、読んだらぜひブログで紹介したいと思います。

人文科学, 池上彰,



コラム

 俳優の渡瀬恒彦さんが亡くなられました。大好きな俳優さんだったので、残念で仕方ありません。ブログの本筋からは外れますが、少しだけ、コメントを書き残させていただきたいと思います。

 今日の朝に訃報が入ってきて、最初は信じることができませんでした。「9係」の続編制作が発表されて、楽しみにしていた矢先の出来事でした。朝早くに家を出なければいけなかったのですが、体から力が抜け、しばし座り込んでしまいました。

 渡瀬さんにはたくさんの主演作がありますが、私が一番好きな作品が上にも書いた「9係」です。小さいころからずっと見ていた作品でした。それだけに、渡瀬さんが亡くなられたことには大きな喪失感を覚えます。9係の続編が発表されていただけになおさらです。亡くなられる前日まで打ち合わせをしておられたとのニュースを見て、胸が詰まります。

変わらない9係 -『警視庁捜査一課9係アニバーサリーブック』

 9係が大好きなもので、10周年記念のアニバーサリーブックが出た時にはこのブログで紹介をしました。レギュラーキャストの皆さんは誰一人欠けることなく、11シーズンまで放送を続けてこられました。それが、このドラマの一番の魅力です。

 渡瀬さんも、このドラマには並々ならぬ意欲を燃やしておられたそうです。最新シーズンの撮影が叶わなかったことは残念でなりません。もう加納係長が見られないということを、いまだに信じられずにいます。

 9係の他にも、たくさんの作品に出演してこられました。本当に、大きな方を失いました。

 亡くなられて改めて、その存在の大きさを想います。他の誰にも取って代わることのできない俳優さんであったことに気付きます。特に、犯人を諭す時の、厳しくも優しいまなざしがとても好きでした。

 加納係長、おみやさん、夜明さん、十津川警部、さようなら。

 どうぞ安らかにお眠りください。