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宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #5 「宮沢賢治のちから」

 22, 2015 23:40

 ブログ開始から100日が経過しました!訪問者も、区切りよく今日で2000人に到達です。最初は常連さんのアクセスがほとんどだったのですが、最近は検索でアクセスされることが多く、全体の半分が検索によるアクセスです。もちろん、常連の方もいつもありがとうございます!変わらず感謝しております。

 先月からやっているのが、宮沢賢治の特集「イーハトーヴへの旅」です。教科書の作品、「やまなし」を読んだとき、もっと宮沢賢治の作品に触れたいと思って始めたものでした。名前は聞いたことがあるけど読んだことがない・・・そんな作品ばかりでした。このコーナーではたくさんの作品に触れていきたいと思います。

 宮沢賢治の作品だけでなく、宮沢賢治について書かれた本も紹介していきます。第5回目の今日は、こちらの本を参考に、宮沢賢治についてまとめてみたいと思います。

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 大事なキーワードを選んでみました。キーワードごとにまとめてみたいと思います。



その1 自己犠牲

 これまでも触れたかもしれませんが、「自己犠牲」は宮沢賢治の作品において重要なキーワードです。自己犠牲とは、自分を削ってまで他者に尽くすことをいいます。この本でも、賢治の自己犠牲について触れられていました。

賢治の作品において、贅沢な食べ物を口にするものは、必ずと言っていいほど悲惨な結末が用意されている。(中略)こうした物語を書くことで、賢治は自らを断罪していたのだろうか。日々の糧にも困る農民たちにとっては夢のようなこれらのご馳走を、賢治は実際に食べることができる立場にあったのだから。



 宮沢賢治は地元花巻の名門一家に生まれました。恵まれ、裕福な環境です。しかし、恵まれた環境のもとに生まれながら、賢治の隣には常に「厳しい農村の姿」がありました。自分が食べるものに困らない中で、すぐ近くには、食べるものがなく、飢えに苦しんでいる人がいる・・・。そんな環境で培われていったのが、「自己犠牲」の精神です。

 小さい頃読んだ宮沢賢治の伝記漫画で、すごく記憶に残っている絵があります。豪華なご飯を前に、子供のころの賢治が張り裂けそうな顔をしているシーンです。「自分だけこんなに恵まれていてよいのだろうか」・・・そういった葛藤だと思います。

 今の日本人にも、少し共感できる部分はあるでしょうか。世界で貧困に苦しむ子供の姿を見た時、「日本人だけこんなに恵まれていていいのか」と思うことがあります。そういう気持ちは多くの人が持つのかもしれませんが、宮沢賢治の場合は、その自己犠牲の精神が徹底的に追求されていました。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ



 教科書に載っていた「永訣の朝」という詩です。最愛の妹トシの死に際して作った詩なのですが、この最後の部分は圧巻です。妹の死は、最後に世界中に押し広げられます。「おまえと、世界のみんなに幸せをもたらしてくれるように」、それを、賢治は「わたくしのすべてのさいはひをかけて」願っています。自分などどうなってもいい、皆に幸せをもたらしてほしい。この徹底した自己犠牲の精神が、読むものの心を打ちます。特に日本人は、共感できる部分が多いのではないでしょうか。

その2 共感覚

 これは初めて聞く言葉でした。筆者が引用したのは、代表作「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニとカムパネルラが「プリシオン海岸」の白い岩の上を銀河鉄道に向かって走る場面です。森の中からきれいな音色が聞こえてくるのですが・・・

だまってその譜を聞いていると、そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のような露が太陽の面をかすめて行くように思はれました。



 音色を聞きながら、景色が見える。聴覚と視覚が同時に働いている状態ですね。こういった感覚の超越を、「共感覚」というそうです。1つの刺激に2つ以上の期間が反応し、感覚が混合してしまうのだとか。

 小説を読んでいたらそういう描写がよく出てくると思います。ですが、私はそれは一種の演出だと思っていました。自分が共感覚を経験したことはおそらくないですし、こういうのは小説によくある描写なのだ・・・と。

 そうではなく、おそらく本当に感覚を超越していたのが宮沢賢治という人だと思います。ただの演出ではないことは、先日読んだ「やまなし」を思い返せばすぐに分かります。きっと、私たちには見えないものが見えて、私たちには聞こえないものが聞こえて・・・そんな感覚の超越が、幻想的な物語世界を作るのだと思います。

 共感覚の例として、もう1つあげられているのが「黄いろのトマト」という作品。この作品でどんな感覚が融合しているのかというと・・・。

まるでまるでいい音なんだ。切れ切れになって飛んでは来るけれど、まるですずらんやヘリオトロープのいいかをりさへするんだらう、その音がだよ。


 「聴覚」と「嗅覚」の融合ですね。本当に音と匂いを同時に感じていたのでしょうか。体験してみたくなります。

その3 「ほんたう」の探究者

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 宮沢賢治は教師を務めている間にもっと大きなものを目指していたと分析する筆者。その、もっと大きなものとは?

それまでにも賢治は、「ほんたう」や「まこと」を強く意識し、とくに童話作品のいたるところにこれらの言葉をちりばめてきた。



 前回読んだ「注文の多い料理店」の冒頭にも、「ほんたうのたべもの」とありました。ほかの作品にも「ほんとう」はかなり意識されているようです。先ほど紹介した、「銀河鉄道の夜」の冒頭文も、

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」

と、やはり「ほんとう」が出てきます。

 「銀河鉄道の夜」で何度も「ほんとう」に言及されていることを指摘する筆者。しかし、賢治がそこにたどりつくことはなかったと言います。

同作で賢治は、「ほんたうのさいはひは一体何だらう」というジョバンニの問いかけに対して、カムルパネラに「わからない」と答えさせている。(中略)彼は、終生「ほんたう」へたどり着くことができなかったのである。「ほんたう」へ行きつくための「迷いの跡」こそが、彼の歩んだ道であった。


 私たちも、「ほんとう」とは何なのか、それは全く分かっていません。しかし、分かっていないことをたいして意識もせず、当たり前のように受け流しているのだと思います。

 しかし、賢治の場合そうはいきません。先ほども書いたように、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ・・・という超越した感覚の持ち主でした。宗教の信仰や、妹トシとの別れもあります。そう考えると、彼が追い求めてきた「ほんとう」は、私たちが想像しているよりもずっと深く、遠いところにあったのではないでしょうか。

 最後のほうに、こんなことが書かれていました。確かにそうだよなあ、と思わせられたのです。

賢治の原作を読んだことがなくても、宇宙を走る汽車のビジュアル・イメージに接したことのない日本人はいあにのではないか。


 そうだと思います。よく言われますが、宮沢賢治の作品は日本人の思想の深くに根付いています。日本人ならだれでも銀河を走る汽車の姿を浮かべることができる、というのはよく考えればすごいことです。どうして日本人全員の認識に根付いているのか。そして、何が根付いているのか。「イーハトーヴの旅」は次回以降に続きます!



こちらもどうぞ

「注文の多い料理店」 宮沢賢治
前回はこの作品を読みました。「食べ物」に対する賢治の思いをふまえて読むと、印象が変わります。

次回予告
 「セロ弾きのゴーシュ」を読む予定です。予定は変更するかもしれません。
 ※「銀河鉄道の夜」はこのコーナーの一番最後、とっておきとして扱おうと思います。
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宮沢賢治,



  •   22, 2015 23:40