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「悪魔の小説」を読む(前編) (痴人の愛 / 谷崎潤一郎)

 29, 2015 11:59

 4月の最後はブックレビュープレミアムのコーナーです。「悪魔の小説」などという物々しいタイトルをつけてみましたが、今回紹介するのは、今年大きく話題になっている文豪の、この作品です。

痴人の愛 (新潮文庫)
痴人の愛 (新潮文庫)
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谷崎 潤一郎
新潮社
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 真っ赤に燃えるようなカバーですね。本の中身もまさにそのような感じになっていました。私自身、遅ればせながら、初・谷崎潤一郎です。書きたいことはたくさんあるので、前後編に分けてこの「痴人の愛」を読んでいきたいと思います。



 「痴人の愛」を笑えるか?

 「痴人の愛」。一言でまとめるなら、1人の男が、ある女に没頭するあまりに身を破滅させていく話ということになると思います。性的倒錯や、マゾヒズムといったものが描き出されています。

 主人公の譲治は、15歳の美少女、奈緒美に一目惚れします。彼が惹きつけられたのは、奈緒美の名前がもつ、西洋風の響きでした。

この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMIと書くとまるで西洋人のようだ、とそう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧(りこう)そうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。



 奈緒美という名前に西洋人の雰囲気を感じた譲治は、彼女を同居生活に誘い込みます。食事や習い事など、あらゆるものを奈緒美に用意して、理想の女に仕立て上げようとするのです。2人の同居生活が始まります。

 はっきり言って、異常な設定です。まるでガムシロップを直接飲まされているような、甘く苦しい描写が悶々と最後まで続きます。噂には聞いていましたが、谷崎潤一郎、すごい人です。「愛と激情の男」という感じがします。

 冒頭以降、奈緒美は「ナオミ」とカタカナで表記されます。この小説は譲治の一人称語りで進む告白小説です。譲治が、「感じをだすため」と断って、奈緒美の表記をカタカナにしています。これ以降は、それに従ってカタカナで表記していきたいと思います。

 一人称語りの小説、と言いましたが、私はこれはこの作品を読むうえですごく大事な要素だと思います。主人公による、一人称の語り。小説には一人称の語り手と三人称の語り手がありますが、この作品は三人称の語りを採用していたら全く意味をなさない別の小説になっていたと思います。ナオミ、というカタカナの表記も、無視できない重要な要素です。

 そして、この本の帯にはこんなことが書いてあります。

 独自の悪魔主義的作風が一気に頂点にきわまった傑作!

 悪魔主義、という言葉に読む前はピンときませんでした。読んだ後には、たしかにしっくりとくる言葉です。何をもって「悪魔主義」なのかは解釈が分かれそうなところですが、私は作品の冒頭と終盤に見られる「読者への手招き」がそれにあたるのだろうか、と読みました。

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 おおいに評価されている文学作品にこんなことを言い放つのは失礼かもしれませんが、正直に言うと気持ち悪かったです。とても肌にあったものではありませんでした。

「世間によくある夫婦のようにお前を決して粗末にはしないよ。ほんとに僕はお前のために生きているんだと思っておくれ。お前の望みは何でもきっと聴いてあげるから、お前ももっと学問をして立派な人になっておくれ。・・・」


 
 一回りも違う男女が同居しています。男の方は気持ちの悪い猫なで声を出し、女を自分の理想の女にしようとてなずけている・・・これを延々と読まされるわけですから、「気持ち悪い」が第一感なのは自然なことだと思います。

 ただ、気持ち悪いだけでは終わらない作品であることも確かです。それを示す分かりやすい部分が、冒頭と終盤だったように思います。

<冒頭>私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私たち夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いてみようと思います。それは私にとって忘れがたい貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君にとっても、きっと何かの参考資料になるに違いない。



 読み終えた後に冒頭に戻るとビックリします。谷崎は、この告白小説が、読者にとって「参考資料」になる、と言わせているのです。女に一目惚れし、自分の家で同居させ、理想の女に仕立て上げる。女の要望はすべてかなえ、女のために馬になって背中に女を乗せるような男が、読者にとって「参考資料」になる、と。

 そんなわけあるか、と一瞬思ってしまいそうですが、考えてみると、そんなわけがあるように思えてくるのです。作品の最後にはこうあります。ここを読んだとき、私は冒頭の「参考資料」に込めた谷崎の皮肉というか読者への「挑戦状」のようなものを感じました。

これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。


 今風に言えば、谷崎が読者に向けて「喧嘩を売っている」とでも言えそうな場面です。笑いたければ笑え、そう言いますが、その裏には、「笑いたくても笑えないだろう」と不敵に笑う作者の姿が見えます。また、「教訓」という言葉があります。冒頭の「参考資料」と同じです。こんな一見気持ち悪いだけの話に、谷崎は「教訓」があると言っています。

 先程、一人称の語りと三人称の語りがあると言いました。これは、小説でとても大事な要素です。一人称の語りでは、語り手の主観的な面が強くなります。奈緒美のことを「ナオミ」とカタカナで表記しているのはその典型です。

 もう一つ、この作品が一人称の語りを選んだ理由としては、今挙げた冒頭と終盤のような、「読者への呼びかけ」がしたかったからだと思います(解説の野口武彦さんも指摘しています)。一見1人の男が自分の惚れた女について好き勝手に語り倒しているようで、実は読者のことが強く意識されている小説です。なぜ意識しているかというと、それは冒頭と終盤にあるようにこの話に「教訓」があるからだと思います。

 その教訓は何だろう、ということを、後編で考えてみようと思います。考えているときに思い出したのが、先日読んだ、村上春樹さんのこの短編集でした。

女のいない男たち女のいない男たち
(2014/04/18)
村上 春樹

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 「女のいない男たち」 村上春樹さん

 男と女、その逆らいがたい「運命」のようなもの、と言えばいいでしょうか。村上春樹さんの言葉も借りながら、次回は後編です。「女のいない男たち」のレビューも描いているので、よかったらリンク先からどうぞ。
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谷崎潤一郎, 近代日本文学,



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