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宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #7 「セロ弾きのゴーシュ」

 17, 2015 23:12

 いくつも作品を読んでいると、パターンが見えていきます。宮沢賢治の作品は、「動物」の存在が作品において大変重要な役割を果たしています。今回はいつもにもましてたくさんの動物が出てきました。この作品です。

セロ弾きのゴーシュ (角川文庫)
宮沢 賢治
角川書店
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 「音楽」をテーマにしている点が興味深いです。宮沢賢治と言えば、研ぎ澄まされた天才的な感覚の持ち主です。そんな感覚の持ち主が「音楽」を扱ったらいったいどうなるのだろう、そう期待して読みました。読んでみて、やはりその感覚は人並み外れたものがあるように感じます。



あらすじ



 ゴーシュは、「金星音楽団」でセロ(チェロ)を担当していました。しかし、彼は楽団の中で最も下手くそで、楽長にいつもいびられていました。

 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ」
 「音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ」

 悔しさにゴーシュはボロボロ涙をこぼします。といっても、落ち込んでいる暇はありません。気を取り直して練習を再開します。家に帰っても、彼は楽譜を開きます。その時、彼の家に来客がありました。

 やってきたのは三毛猫でした。「ゴーシュの演奏を聞かなければ眠れない」といいい、生意気な口をきいてきます。鬱憤のたまっていたゴーシュは、演奏をしてやるのですが、それに乗じて三毛猫をいびり倒します。「もう来るなよ、ばか」最後もそういって三毛猫を追い帰しました。

 次の晩、また屋根裏を叩く音があります。「猫、まだこりないのか」そういって応対しようとしたゴーシュでしたが、そこにいたのはかっこうで・・・

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この作品のポイント



 楽団の落ちこぼれだったゴーシュですが、最後は素晴らしい演奏をし、他のメンバーから認められます。彼を変えたのは、動物たちの前で行った演奏でした。

 人間が知らずのうちに動物から教えられている 

 こんな構図が見えてきます。宮沢賢治の作品を通して伝わってくる、「人間と動物の心のやりとり」はこの作品でも主題となっています。ゴーシュの態度はかなり高圧的で、動物を上から見下ろすような節があるのですが、その態度がどのようにときほぐされていくのかにも注目です。

「セロ弾きのゴーシュ」を読む!



 読んだことがない方は想像しづらいかもしれませんが、主人公のゴーシュはかなりイヤな奴です。最初にやってきた山猫のことは、自分の鬱憤がたまっていたということもあり、いびり倒します。その後の動物たちへの態度も常に高圧的で上から見下げるような物言いをします。それはまるで、「傲慢な人間」の象徴のようでした。

 傲慢な人間が主人公、といえば、これまで読んだ中では「注文の多い料理店」が浮かびます。あの話は、傲慢な2人がボコボコにされる、という内容でした。そうすることによって、宮沢賢治は人間の愚かさや傲慢さを戒めていたのだと思います。

 今回はちょっと手法が異なります。主人公のゴーシュはボコボコにされるのではなく、「気付かされる」のです。自分の音楽に足りないものを、彼は動物たちから教わります。一方的に見下げていた動物たちは、実は自分に「気付き」を与えてくれる存在だった、というわけです。そのことを察してか、彼の心はほぐれていきます。

 2番目にやってくるかっこうとの会話からは、改めて宮沢賢治の研ぎ澄まされた感覚に気付きます。ゴーシュは、かっこうは「かっこう」とワンパターンに鳴くだけで、そんなもの音楽でもなんでもないと馬鹿にするのですが、それに対してかっこうが反論する場面です。

「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさん啼くのがひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
「ちがわないね。」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。」



 他の小説家がこれを書けば、一つの表現ということになるのかもしれません。ですが、宮沢賢治はおそらく別物です。彼は一万通りの「かっこう」を聞いていた、私はそう思います。私は凡人ですから、かっこうがどう鳴こうと同じようにしか聞こえないと思います。だから、こういう描写が出てくると何だかとてもうらやましくなるのです。

 私は一万通りのかっこうの鳴き声を想像することしかできません。それは何だか寂しいことのようですが、そもそもかっこうに一万通りの鳴き声がある、ということを想像させてくれる、そんな物語の力が大好きです。彼の研ぎ澄まされた感覚を、物語を通して少しでも理解出来たらいいなと思います。

 ゴーシュのもとにやってきた動物たちは、ゴーシュの演奏に足りなかった部分を教えてくれました。リズムであり、音程であり、気持ちであり。かっこうのあとにやってきたタヌキからは・・・。

「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅おくれるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」
 ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いてもすこしたってからでないと音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。


 こんな風に、自分だけでの練習では気付きもしなかったことを、彼は動物から教えてもらいます。

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 一番最後、彼が教えてもらったのは「自信」でした。自分の演奏が動物たちの病気を治していたことを、彼は教えてもらいます。自分の音楽が、誰かを救っている。そんな自信が、最後大舞台での成功につながりました。リズムや音程ではなく、最後に「自信」を持ってくるところがよいですね。

 そして、この話の一番象徴的なシーンがやってきました。あれだけ見下していた動物に、ゴーシュはこう声をかけます。

ゴーシュは何がなかあいそうになって、「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」とききました。(中略)
「いや、そのことではないんだ。ただたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
 ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。


 パンを与えるこのシーンです。人間から動物への、「対等な、無償の愛」を描きます。

 以前も同じようなことを書きましたが、宮沢賢治は何もかもお見通しです。人間が自分たち中心に世界を回していること。他の動物よりも、自分たちの方が偉いと思っていること。強いと思っていること。全部分かっていて、その上でこんな作品を書いているのでしょう。

 たった一切れのパンが、人間が省み、反省しなければいけない大きな大きな問題を表しているようでした。



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 これで物語が4作、評伝が2作になりました。次回は宮沢賢治の書いた詩を扱おうかなと思っています。ブログ横にはまとめページへのリンクもあるので、ぜひご参照ください。

「どんぐりと山猫」 宮沢賢治
 前回の作品です。争いの無益さを描きました。漫才のような掛け合いも楽しむことができますよ。
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宮沢賢治,



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