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  • 宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #8 「永訣の朝」

     31, 2015 23:47

     5月最後は宮沢賢治のコーナーです。8回目になりますが、初めて詩を読んでみようと思います。以前の回でもちらっと紹介したのですが、「永訣の朝」という詩です。「春と修羅」という詩集に収録されており、教科書に掲載されている作品でもあります。

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     教科書でこの作品を読んだとき、心を突き動かされました。「心が震える」ということを比喩でなく実際に体験しました。妹トシとの別れを嘆いたこの詩を、今日は鑑賞してみたいと思います。



    概要



     宮沢賢治の妹トシは、わずか24歳でこの世を去りました。トシは賢治が異常ともいえるほどに溺愛した妹です。そんな最愛の妹との別れを、賢治はいくつもの詩にして残しています。この「永訣の朝」もその1つです。この詩は、トシが亡くなったその日に創作された詩です。教科書に掲載されており、知っているという方も多いと思います。

    ・「あめゆじゅとてちてけんじゃ」のリフレイン
    ・1か所だけ、ローマ字で書かれている「Ora Orade Shitori egumo」
    ・ふたつのかけた陶椀(とうわん)
    ・賢治とトシの人生観



     ポイントを挙げれば数えきれません。国語のテストでこの詩をもとにした問題が出たのですが、長い詩に数多く解釈の分岐点があり、混乱してしまった記憶があります。今回は学校のテストで点を取る、といったこととは離れてこの詩を読んでみたいと思います。あくまで私が思ったことを書いていきます。

    「永訣の朝」 全文はこちら

    「永訣の朝」を読む!



    けふのうちに
    とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
    みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)


     作品はこう始まります。「とおくへいってしまう」というのは単なる婉曲表現なのでしょうか。宮沢賢治という人のことを考えれば、死後の世界をかなり具体的に思い描いていた、と考えられるかもしれません。外の変に明るい景色、というのも「お迎えの光」でしょうか。そうではなく、単に妹の死がどうしても受け入れられなくて「とほくへいってしまう」としたのかもしれませんね。

     ここにある「あめゆじゅとてちてけんじゃ」が作品の中で4回も繰り返されています。これは花巻の方言で「あめゆき(みぞれ)をとってきて」という訳になるかと思います。「けんじゃ」は、私は「賢治や」だと思っていたのですが、これも方言の1つだそうです。「~してちょうだい」という意味になるようですね。とはいえ、「けんじゃ」が「賢治」を指しているという主張ももちろんあるようです。

    これらふたつのかけた陶椀たうわんに
    おまへがたべるあめゆきをとらうとして
    わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
    このくらいみぞれのなかに飛びだした

       (あめゆじゅとてちてけんじゃ)


     「みぞれをとってきて」と言われ、賢治は「まがったてっぽうだま」のように、弾丸の勢いで外に飛び出します。死にゆく妹を目の前にして何もできない自分。そのやるせなさと虚しさが頂点まできていたのだと思います。そんな妹から、最後の頼みがありました。弾丸の勢いで飛び出していく賢治の気持ちは痛いほど分かります。

     ここでの「あめゆじゅ・・・」は賢治の心の中で繰り返される言葉でしょうか。妹のためにみぞれを取ってこようとする時、みぞれをとってきてという妹の声が頭の中によぎります。逼迫する状況、賢治の焦り、必死さが伝わってくるようです。前半のこのリフレインがどういう意図でされているのか、はっきりしたことは分かりません。ただ、このリフレインをとると作品の印象はがらっと変わることが分かります。

     2人で1つだった兄弟。自分よりも大事だった妹。そんな事情を思うと、賢治の奔走とトシの声、この2つは同時に展開させる必要があったのかな、と思います。作品の臨場感がガラッと変わりますからね。

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    わたくしをいっしゃうあかるくするために
    こんなさっぱりした雪のひとわんを
    おまへはわたくしにたのんだのだ
    ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
    わたくしもまっすぐにすすんでいくから


     悲しみに明け暮れて終わるのではなく、この詩はこのように転換していきます。「わたくしもまっすぐにすすんでいく」と強く決意する賢治。何を決意したのか、これは作品の最後につながるようです。賢治の人生そのものともいえる、「自己犠牲」の精神がにじみ出ている最後です。

    わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
    みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
    もうけふおまへはわかれてしまふ
    (Ora Orade Shitori egumo)


     このローマ字は、初めて見た時本当に不思議でした。日本語で書かれた詩に、全くの異世界が、急に顔をのぞかせるのです。
     「オラ オラデ シトリ エグモ」 →「私は 私で 一人で 行くから」
     これも方言です。ローマ字の音を読めば、意味は感覚的に取れると思います。では、なぜローマ字に??なおさら不思議に思うところです。

     「シトリ(一人)」。私はここかな、と思います。自分が最も愛した、体の一部分だったような妹です。常に二人で生きて来た兄弟でした。「一人で行く」そう言われた時のショックはどれほどのものだったか・・・。

     全くの異世界のよう、と書きましたが、この言葉自体が賢治にとって「全くの異世界」だったのだと思います。妹の言うことを理解したくてもできなくて、理解したくなくて、「無機質な音としての言葉だけが残った」のではないでしょうか。


     そして、最後の5行です。心の震えが止まらない、最後の5行です。

    おまへがたべるこのふたわんのゆきに
    わたくしはいまこころからいのる
    どうかこれが天上のアイスクリームになって
    おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
    わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


     「まっすぐすすんでいく」、先程の決意はここにつながるようです。妹の死を乗り越えて、だとか、自分だけ幸せに、ということではありません。妹と、全ての人に幸福がもたらされるように、「わたくしのすべてのさいはひをかけて」願う、というのです。

     ここまで厳しい自己犠牲の精神。なにが、そうさせるのでしょう。次回以降、まだまだ読んでいきたいと思います。





     記事に書いたのは私の解釈で、解釈は多岐に渡ることを付け加えておきます。資料の研究などをしているわけではないので、とんちんかんなことを書いているかもしれません。

     このコーナーは全て「私の解釈」になっています。記事を読んでいただくのももちろんうれしいのですが、原文を見て、自身で感じていただけたらなおうれしいです。

    「セロ弾きのゴーシュ」
     前回読んだ作品です。人間が動物に気付かされる、という視点から・・・。
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    宮沢賢治,



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