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風立ちぬ、いざ生きめやも。 -『風立ちぬ』 堀辰雄

 15, 2015 00:56


 お盆ということで、親戚が集まっての会食や墓参りなど、慌ただしい日が続いています。そんな中でも、どうしても記事にしたかったことがあります。

 8月15日。今日は、先祖の墓のほかにもう1つ、手を合わせなければいけない場所があります。

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
堀 辰雄
新潮社
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 「風立ちぬ」というと、宮崎駿監督の引退作品となった2013年の映画を思い出す方が多いと思います。こちらは映画ではなく、堀辰雄が書いた小説の「風立ちぬ」です。映画は堀越二郎をモデルにしたもので、この小説は映画の原作ではありません。しかし、宮崎駿監督はこの小説からも着想を得て映画を製作しました。映画のキャッチコピーを覚えている方はおられるでしょうか。

「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」―。



震える描写



 主人公の「私」には、節子という婚約者がいました。しかし、節子は重い病気を患っていました。結核です。節子と私は、山岳地方にあるサナトリウム(療養所)で病気と闘うことになります。サナトリウムのある地は、広大で美しい自然に囲まれていました。しかし、そんな中でも、節子には「死」の影が着々と迫っていきます。

 この小説は、作者の堀辰雄自身の体験にもとづいて書かれたものです。堀にも、矢野綾子という愛する女性がいました。しかし、彼女もまた結核を患い、療養所での闘病の末、亡くなります。実際の体験にもとづいているだけあり、描写の1つ1つに胸に迫るものがありました。

 この作品の最大の特徴と言えるのは、その風景描写の巧みさではないでしょうか。これは、ただ美しい描写、というわけではありません。「死が迫っている人間の見る、俗物を超越するような圧倒的な存在感を持った景色」を味わうことができます。

 死が迫ると、周りの景色はどのように見えるのでしょうか。今の私には分かりません。しかし、それと近いのではないか、と思うのが、自分が入院した時のことです。命にかかわる病ではありませんでしたが、病院というのはいるだけで人から精気を奪います。私もまるで憑き物が落ちたかのように呆然としてしまい、周りにある何気ない風景の1つ1つが心に刺さったものでした。

 たとえば、こんな描写が出てきます。

そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だ松林だの山畑だのが、半ば鮮やかな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。



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 上の画像では完全に再現できませんでしたが、これは初夏の夕暮れの様子です。健康に生きている人が、そこまで気にとめることはないと思います。それが、病と闘い、死を背中に意識している2人にとってはどうだったでしょうか。

私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措いてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。



 溢れるような幸福の感じ、であったというのです。この作品には、本当にたくさんの風景描写が出てきます。死がすぐ後ろにちらつく2人にとって、「ありふれた景色」など、どこにもなかったのです。私にも少し分かるような気がしました。入院していた時の、あらゆるものに心が動かされる感じが蘇ってきます(普通のニュースを見て泣いていたくらいでした)。

 死が意識されることによって、あらゆる景色が普段とは変わります。死の恐怖に押しつぶされそうになりながらも、周りにあるあらゆるものが「生の幸福」に昇華していく―そのことを味わえる名作です。

終戦記念日に



 終戦記念日にこの記事をアップしています。そのため、この小説が戦争を扱ったものであると思われる方もいるかもしれません。しかし、この作品には戦争に関する描写は一切出てきません。映画は戦争と関係する部分がありましたが、小説は一組の男女が死を覚悟しながらも最期の時を過ごす、という内容であり、戦争に絡むものではありません。

 それでも今日取り上げたのは、作品を読んで、私なりに感じるものがあったからでした。矢川澄子さんは解説でこのように指摘しています。

戦後育ちの今の若者たちと、明治・大正生れのかつての彼ら自身のあいだには、二つの点で厳然と一線の画されていることを私たちは見逃すわけにはいかない。そのひとつは、徴兵制度であり、もうひとつがすなわち、この結核であった。


 (『日本の文学67 風立ちぬ・菜穂子 堀辰雄』 ほるぷ出版 解説より)

 時代背景、というものを見逃してはいけなかったのです。今は徴兵制度は存在しません。結核で死ぬということもまずありえなくなりました。それが「あった」時代の話である、ということです。徴兵されることで、あるいは結核にかかってしまうことで、人の人生と運命が大きく狂わされてしまう、そんな時代でした。美しい風景の描写に目がいきがちですが、この2人が今とは違う時代の中で、今は全く想像もできないような苦難にまみれて生きていたことを、忘れてはいけないと思います。

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 もう一つ、この作品を読んで感じたのは、「ひとつの命の尊さ」です。結核にかかった節子が、死に向かって、少しずつ、少しずつ歩を進めて行きます。生きていられることの幸福、その一方で迫ってくる死への恐怖・・・。まるで闇に少しずつ飲まれていくように、手から砂が少しずつ零れ落ちて行くように、彼女は「死」へ向かっていくのでした。

 こうやって、一人の人間が死んでいくんだ

 そのことを、これほどまでに実感を伴って感じた作品はありませんでした。

 戦争で亡くなった人の数はあまりにも膨大です。私は、その数の多さに、感覚がマヒしそうになります。何十万人、何百万人の人が死ぬとはどういうことでしょう。それは、この作品で描かれているような、「人の命の終わり」が、何十万も、何百万も積み重なっているということです。

 きのう発表された「戦後70年談話」。読んでいて私がもっとも感じるものがあったのは、この箇所でした。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。(「戦後70年談話」)



 戦争に関しては、いろいろな価値観や歴史認識があるかと思います。この談話に関しても、様々な反応を目にしました。そのような価値観や歴史認識の違いがあっても、思いを1つにしなければいけない部分があります。それが、引用中にある太字の部分です。これは、談話にあるように「当然の事実」だと思います。このことに反論など存在しません。

 「ひとつの命の尊さ」、そのことを改めて感じたのでした。

生きめやも



 記事のタイトルにした「風立ちぬ、いざ生きめやも」というのは、「風立ちぬ」の中で何度も繰り返される語句です。

 これは、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を作者が翻訳したものです。原文では、「風が吹いた、生きなければ」というようなニュアンスなのですが、訳語を「風立ちぬ、いざ生きめやも」にしてしまうと、ニュアンスが変わってしまいます。「やも」は反語の意味を持つので、これは「風が立った、さあ生きようか、いや生きまい」というような意味になるのです。

 ということで、この「風立ちぬ、いざ生きめやも」は堀辰雄誤訳である、とも言われているようです。真実はどうなのでしょうか。私は研究者ではないので詳しいことは書けないのですが、あくまでこの表現は作者が用いたものとして残しておこうと思うのです。そう思って、記事のタイトルにもしています。

 この作品では、生の幸福と同時にもう一つのことが描かれています。作者の別の作品である『菜穂子』に出てくる言葉を借りるのですが、「死の一歩手前の存在としての生の不安」がそれです。

 生きていることはたしかに幸福である。しかし、死を意識するようになり、それがゆらいでくる感覚。生が、「死の一歩手前」にあることを感じた時の恐れ・・・そういったことが描かれている作品でした。

私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?・・・・・



 「生きめやも」は、一見、生きることを否定しているようです。しかし私は、ここには「生きることの恐ろしさ」が込められているのではないか、などと勝手な解釈を膨らませます。原文にあるような、「生きなければ」という意味と、堀辰雄が訳に加えた「生きることの恐ろしさ」、この2つが合わさっての「生きめやも」ということではだめでしょうか。

 終戦の日に何を言いたくてこの記事を書き始めたのか、自分でも分からなくなってきました(先ほども書いたように、戦争を扱った作品ではありません)。ですが、私は上に引用した部分が心に残っています。

 私たちが今日生きているということすらも、束の間のことで、気まぐれなのかもしれない

 そう思いました。そうだとしたら、私たちはどうするべきでしょうか。私は、噛みしめていたいです。死を前にしたこの2人がそうであったように、生きていること、そして周りにあるあらゆることの幸福を、噛みしめていたいです。

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堀辰雄, 近代日本文学,



  •   15, 2015 00:56