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  • 天上からの見えぬ糸 -『小僧の神様』 志賀直哉

     12, 2015 01:39
    小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)
    志賀 直哉
    岩波書店
    売り上げランキング: 116,801


    は小説を支配する

     久しぶりの日本文学です。今回は志賀直哉の「小僧の神様 他十篇」を紹介します。

     志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれています。・・・私はその知識だけがありました。志賀直哉の作品を読むのは今回が初めてです。「小説の神様」という呼び名は、この本の表題作「小僧の神様」にかけてそう呼ばれていのですが、小説好きとしてはとても気になる呼び名です。

     というわけで、「神様が書いた小説」を読んでみました。あちこちで「上手いなあ」と唸らせる、そんな作品だったように思います。



    万能な語り手



     当たり前のことですが、小説には語り手がいます。語り手には、主に小説内の人物が「私は・・・」という形で語る「一人称の語り手」と、小説内の全ての人物を見下ろす「三人称の語り手」がありますね。

     特に「三人称の語り手」は、読んでいるときにあまり意識しないかもしれません。作品の中では見えないからです。「三人称の語り手」は、小説の表には出てきませんが、語りによって小説を支配しています(「全知の語り手」などとも言われるようです)。まるで、雲の上から見えない糸を垂らして登場人物を動かしているような、そんなイメージでしょうか。

     普段は意識しない語り手ですが、小説ではとても重要な役割を果たしています。残念な小説だと、語り手の位置がぶれてしまったり、単なる説明役になってしまったり、「ご都合主義」と呼ばれるような展開になってしまったり・・・(見えない糸を垂らさなければいけないのに、糸が見えてしまうというのが最も残念かもしれません)。小説をどう「支配」していくか、ということは小説を形作る上で最も重要と言ってもよい要素です。

     この短編集には、一人称の語り手が語る作品もあれば、、三人称の語り手が語る作品もあります。志賀直哉はそれらの語りを巧みに使い分け、小説を構築していきます。初めて読んだのですが、多才で器用な作家、という印象が強かったです。そうやって小説を巧みに構築していくさまは、なるほど「神様」のよう・・・というのはこじつけですね。

    巧みに語る



     表題作、「小僧の神様」はとても有名な短編です。鮨屋に入ったものの、お金がなくて鮨を食べることができなかった小僧がいました。それを見ていた貴族院の男は、小僧に鮨をおごってやります。しかし、小僧は見られていたことなど知りませんから、なぜ自分が鮨屋で鮨を食べられなかったことを男が知っているかが分からないのです。

    (引用)
    とにかくあの客は只者ではないという風に段々考えられて来た。自分が屋台鮨屋で恥をかいた事も、番頭たちがあの鮨屋の噂をしていた事も、その上第一自分の心の中まで見透して、あんなに充分、御馳走をしてくれた。到底それは人間業ではないと考えた。神様かもしれない。



     小僧は自分に奢ってくれた男のことを神様だと思うのですが、奢ってやった男の方はそんなことは知りません。人を喜ばすことをしたとはいえ、どこか淋しい、嫌な気持ちを覚えてしまうのです。小僧に奢ってやろう、という上からの目線があったからでしょうか。あるいは、いいことをしてやった、という驕りの気持ちでしょうか。小僧をある意味騙していることに、心の中で罪悪感が生じたのでしょうか。

     そんな風に、奢ってくれた男のことを神様だと思う小僧と、奢ってやるという行為にどこかしこりを残してしまった男の姿を、語り手は巧みに語っていきます。小説のお手本とも言えるような、整理され巧みに構築されたお話です。

     さて、そんな作品は最後の最後で思わぬ方向に転びました。

    a0006_000220.jpg

     この作品の最後では、唐突に作者が登場します。姿の見えない、空の上から見えない糸を垂らしてきた作者です。突然の登場に、私も目を疑ってしまいました。

    (引用)
    作者は此処で筆を擱く(おく)ことにする。実は・・・・(秘密)・・・・とこういう風に書こうと思った。しかしそう書くことは小僧に対して少し残酷な気がしてきた。それ故作者は前の所で擱筆(かくひつ)する事にした。



     作者が想定していたラストを最後に示して、そのようなラストにはしなかったことを告白する場面です。最初パッと見た時は、出しゃばり過ぎというか、タブーを犯しているのではないか、という印象がありました。しかし、改めて作品の全体を見渡してみると、印象が変わります。最後に作者が語るこの場面も含めて、作品は見事に構築されていました。

     「小僧の神様」を評するなら「上手さ」の一言だと思います。作者により、巧みに小説は構築されていきます。見えない糸を垂らしつつ、最後にはその糸をあえて「見せる」。1つ1つの場面が、作者の手の中で巧みに構築されていく様子は、一種の芸術品といった感じです。

    手を変え品を変え



     「小僧の神様」は、11収録されている短篇のうちの、最初の1篇です。まだ、最初の1篇なのです。この後も、様々な小説が並んでいます。それぞれ趣が大きく異なっている作品ですが、見事な小説が続きます。まるで小説のテクニックを教える教科書を読んでいるようです。志賀直哉は、手を変え品を変え、様々なタイプの小説を生み出しているのでした。

     その中でも、「城の崎にて」「范の犯罪」は特に優れていたように思います。「城の崎にて」は、「小僧の神様」とは違って、主人公の「私」が語る一人称小説です。動物を見ながら湧き起ってくる語りを主観とも客観とも言えないような語りで淡々と語っていきます。「小僧の神様」が構成の上手さを打ち出していたのとは全く異なり、作品は主人公の絶妙な語りに委ねられています。この人は本当に何でもやれるんだなあ・・・と、途中からは驚嘆の思いでした。
     
     解説を読むと、確かに志賀直哉は小説の技巧的な面で大変優れた作家のようです。しかし、こんなことが書いてあります。

    (引用)
    なんでもスイスイと自由に闊達にコトをなすことの出来る志賀直哉、という安易なイメージで彼を捉えてはならぬ。そういう部分もあるが、不安で、暗い、暗いトンネルをくぐっていかねばならぬ時期があったのである。
    (解説 紅野敏郎さん)



     私が抱いていたイメージが、まさに「なんでもスイスイと・・・」というものだったので、思わず苦笑いしてしまいました。そういう安易なイメージで終わってはいけないということです。一冊読んだだけで作家を理解できるとは私も思っていないので、今後も志賀直哉の作品を読んでいく中でイメージをつかんでいきたいと思います。「不安で暗いトンネル」、とても気になります。

    レコメンド

    みな語りと構成、小説の「上手さ」と「旨味」を味わえる一冊

     「小説の神様」というより、「小説の先生」という呼び名の方が合っているように私には思えました。本文でも書きましたが、「小説の教科書」を読んだような、そんな気分になるのです。



    オワリ

     日本文学は大好きなのですが、なかなか読めていません。文学史や文学理論といったものを勉強して、ある程度「厚い読み」ができるようになってから読みたいなと思っているからです。ということで、たくさんの文学に当たる前に、まずは知識を増やそうかなと考えています。

    「銀の匙」 中勘助
     日本文学の前回のレビューはこちら。子供目線からの語りが圧巻でした。

    読者が選ぶ私の好きな岩波文庫100ラインナップ
     眺めているだけで幸せになりそうな、黄金の岩波文庫リスト!ちなみに、上にある「銀の匙」は第3位にランクインしています。「小僧の神様」も、数ある名作の中から65位にしっかりランクインしていました。いつか完全制覇したい・・・。

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    志賀直哉, 近代日本文学,



    •   12, 2015 01:39
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