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  • 大嫌いだった体育の授業へ

     08, 2015 20:42
    コラム

     もうすぐ「体育の日」ということで、今日はそこからひらめきを得て、「体育の授業」に関するコラムです。最初にことわっておきますが、激しく共感できる人と全く共感できない人の差が激しくなる内容だと思います。

     タイトルにもある通り、私は体育の授業が大嫌いでした。想像を絶するくらいの運動音痴だったからです。クラスに1人か2人くらい、私のように運動ができない人がいたと思います。そんな人の姿を浮かべて、私に重ねながら今日の記事を読んでいただけたら分かりやすいかもしれません。



    体育は苦難と試練に満ち溢れている



    20151008.png

     いきなりネガティブ全開の図から始めてしまい大変心苦しいところがあるのですが、上の図は私が体育の授業が嫌いだった理由を簡単にまとめたものです。いろいろある中で4つのトラウマを選びました。1つずつ説明していこうと思います。

     まず、「大勢の前で恥をかかなければいけない」。これは、例えば1500メートル走などを浮かべてもらうと分かりやすいと思います。私のような人間は、どんなに頑張っても他の人たちから1周ほど遅れてしまいます。最後の1周は、1人(2人の時もありました)でグラウンドを走るわけです。なかなか辛い時間です。クラスの皆が見ている前でできなかったり失敗したりと、この手のトラウマは思い出すときりがありません。ですが、これはまだましなほうです。

     「自分のせいでチームが負けてしまう」。チーム競技になると、自分が恥をかくだけでなく、他の人に迷惑をかけるという事態も発生してきます。子供ですから、勝負にエキサイトしてかなり熱くなるような人もいます。そして、エキサイトすると思ったことがそのまま口をついてしまいます。そんな状態で浴びた言葉の数々は、今でも思い出しますね。

     「下手くそだからパスをもらえない」。これは4つの中で一番トラウマになっているかもしれません。サッカーやバスケがこれに当たります。例えばゴール前に私とスポーツが得意なA君がいたとします。ボールを持ってやってきた人は、私のほうをちらっと見てからA君にパスを出すわけですね(この「ちらっと見てから」のダメージが大きい!)。特にバスケでは、ゴール前でバンザイをしてパスを待っていたのにパスをもらえず、そのままバンザイ・・・なんてことも。パスをもらえないのにバンザイをして喜んでるのか・・・なんて冗談を言う余裕はありません。

     最後に、「『がんばれ』がかえって辛い」。これもダメージがけっこう大きいです。「がんばれ」や「ドンマイ」に、多くの場合に悪意はなくて、むしろ自分は励ましてもらっているのですが、できない人間に浴びせられるこういう言葉はけっこう辛いものがあります。分かる人は分かるのではないかと思います。

     冒頭から私の気分は底をついてしまっているのですが、いちおうこの記事はここから趣向が変わります。嫌なことが100%だったら、たぶんこの記事を書く気力はなかったでしょう。ということは、いちおう良いこともあったということです。

    もう1枚の表


    「オレは、できたかできなかったかを見てるんじゃない」



     中学校の時の体育の先生は、授業の終わりに必ず「演説」をしていました。体育座りで生徒を座らせ、毎回いろいろな話をしていました。上のセリフはその先生がある時口にしたものです。その先生は、こんな風に続けました。

    「やったかやらなかったかを見てるんだよ」



     昔の話なのに、その時の情景がありありと浮かぶくらいはっきりと覚えています。なぜ私がはっきり覚えているかというと、自分に言われたように感じたからです。全体に向けて話していたのですが、先生の頭の中にあったのは私のことではないか、と推測しています。

     中学校の時の私と言えば、積み重なった劣等感とトラウマですっかり腐ってしまっていました。体育の時間は時計とグラウンドの隅ばかり見ていたような気がします。時計は「早く終わらないかな」という思いから。グラウンドの隅は見学の人がいたところで、うらやましくて見ていました(仮病を使って休むような勇気はなかったです)。

     今思えば、全体を見渡している先生の目には私の姿がしっかり捉えられていたのでしょう。それであの話が出てきたのではないかと思っています。そんなわけで、「先生に目を付けられた!」と危機感を抱いた私は、次の時間からは時計とグラウンドの隅は見ないようにしました。「やったかやらなかったを見ている」、そう言われると「やる」しかないわけで、かなり効果的な一言でしたね。

    a0050_000169.jpg

     さて、この話には「第2章」があります。高校に入ってからのことです。高校の時は、中学の時に比べたら体育はちゃんとやるようになっていたと思います。先生の例の一言が頭から離れなかったというのもありますし、全体の前で恥をかくようなことにもすっかり慣れてしまっていたからです。

     そんな高校の体育でしたが、試練のイベントがありました。「クラス平均が5分50秒を切り続けるまで走り続ける1500メートル走」です。何が辛かったのかはもう説明する必要がないと思うのですが、タイムの遅い私はクラスの平均を上げてしまいます。私のせいでクラスメートが何度も走らなければならない・・・!というそれはもう地獄のような絵が生まれるわけです。

     すごく恥ずかしいのですが、最初に走った時の私のタイムは7分20秒くらいだったと思います。目を覆いたくなるようなタイムです。クラス平均に90秒迷惑をかけているので、他の人がその分90秒を稼がないといけません。穴があったら入りたいというか、逃げ出したくなるような気分でした。

     1秒でもタイムを縮めて、クラスにかける迷惑を減らさなければと思ったことを覚えています(今思えばなかなか鬼畜なイベントです)。そんな私の焦りが足を速く進めたのか、はたまた何度も走るうちに効率よく走れるようになったのか、最終的に私のタイムは6分30秒ほどになりました(残念ながら、「かなり遅い」が「遅い」に変わったぐらいのタイムですが・・・)。

     それでも、縮めたタイムは50秒。必死に走ったことを覚えています。ゴールした瞬間にグラウンドに倒れ込み、体操服は砂でいっぱい、口の中は血のにおいでいっぱいでした。相変わらずクラス平均をひっぱっていることには変わりませんが、紛れもなくあれが私の全力なのでそこは勘弁してくださいといった感じです。

     さて、恐怖のイベントが終わった後、学校の掲示板に表が貼られていました。「1500メートル タイム順」そんな題だったでしょうか。運動音痴の私にとってはどう頑張っても縁のない表です。腐りかけて立ち去ろうとしたところで、そこにあった「もう1枚の表」が目に入りました。

     「自己ベスト更新 タイム順」。そして、私は自分の名前を見ました。1位ではなかったと思いますが、たしかに名前はありました。体育の授業で貼りだされた表に自分の名前が載ることなど考えてもいませんでした。

     中学の時に先生に言われた言葉が頭をよぎります。「タイム順」の表は、「できたか、できなかったか」の表。それに対して、「自己ベスト更新順」は、「やったか、やらなかったか」の表。元のタイムが遅い人の方が自己ベストの更新は大きくなりやすいですが、そんなことは忘れて私はとても嬉しく思いました。

     「やった!」思わず口にしたその言葉には、うれしかったという意味のほかに、もう1つの意味があったのかもしれません。

    能力と人格



     小説みたいにきれいな結末で何だか美談のようになってしまいましたが、私は絶対に体育を美談にはできません。いいことが1つあったら10倍くらいの嫌なことがあって、とても釣り合いのとれるものではないからです。

     リレーで一気に抜かされたことがありました。跳び箱を破壊したことがありました。組み立て体操で崩れてしまったこともあったし、ソフトボールで「代打」を出されたことも・・・もうやめましょう。

     ただ、縄跳びが得意で持久とびで3分間最後まで飛び続けたこととか、夏休みに水泳教室に通って(通わされて)記録会で50メートル泳いだこととか・・・嫌なことに比べるとずいぶん数が少なくて思い出すのには苦労するのですが、報われたこともたまにはありました。

     大嫌いだったことには間違いありませんが、「なかったほうがよかったか」というと、全くそうは思いません。 嫌なことと苦しいことばかりの人生なんて辛いですが、嫌なことも苦しいことも何もない人生は、いや、「嫌なことや苦しいことから逃れ続けた人生」は、辛いというより恐ろしいです。どんな人間が出来上がるのかと思うと。

    a0011_000172.jpg

     私がここまで体育にトラウマがある理由は、「能力を人格と結び付けてしまったから」です。言い方を変えれば、能力が劣っていることで人格まで否定しにかかったということです。自分自身に劣等感を植え続けていたという反省もありますし、学校の体育の授業の中に「能力が劣っている人の人格まで否定してかかるような空気」があったのではないか、という思いもあります。「(役に立たないから)見学してくれよ」と言われたこともありましたし。

     能力と人格を結び付けてはいけなくて、これはテストの点数などでも全く同じです。全国統一学力テストで、点数が低い子に「学校を休んで」という圧力があった、なんて話を聞いて、「体育を見学してくれと言われた私と全く同じ構図だ!」と思いました。そんな歪んだ力で「勉強嫌い」「運動嫌い」を生んではいけないと、私自身のことも振り返りながら強くそう思います。

     最後に1つだけ!私の書いたものを読んで「根性論」を浮かべる方がいるかもしれませんが、そういう方向には持っていかないでほしいと思います。「根性論」は大嫌いです。やれるならやるべきだと思いますが、やれないことを「根性」を持ち出してやらせるなんて、考えるだけで気分が悪くなります。

     体育で人格までズタボロにされてどうしようもなくなってしまうなら、保健室があるし、グラウンドの隅もあります。ずっと体育で嫌な思いばかりしていた者として、どうかそれだけは言わせてほしいと思います。

    コンクルージョン

    れることとやれないことの区別をする
     
     私が言いたいことと「根性論」の境目は大変難しいところがあります。ただ、「自分はやれるのにやっていない」ということと、「これはどうしてもやれない」ということの違いは自分の中にあって、その違いが境目になるのかもしれません。



    オワリ

     ちなみに、「やったかやらなかったを見ているんだよ」論者の先生は、唯一私に5段階で「4」の成績をくれました(その他の時はいつも「3」)。私の運動神経で体育が「4」というのはちょっと無理がありすぎるような気もしますが、その先生は自分の信念を貫いて成績を付けておられたのでしょうか。

    体育嫌いbot (twitter)

     爆笑しました。ツイッターは本当に何でも網羅していてすごいと思います。分かる人は本当に分かるといったことがつぶやかれています。フォローしようと思ったのですが、このアカウントをフォローすると自己紹介するのと同じことなので、恥ずかしくなってやめました。
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    •   08, 2015 20:42
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