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高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い (前編)

 23, 2015 23:53
二十歳の原点 (新潮文庫)
高野 悦子
新潮社
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0歳で燃えつきた人生があった

 20歳になる前にどうしても読んでおきたい本がありました。20歳になってしまっった後だと、同じ本でも全く意味が違うのだと思います。かなり駆け込みにはなりましたが、なんとか20歳になる前に読み終えることができました。

 「二十歳の原点」。高野悦子さんという女性の日記です。高野悦子さんは、昭和44年6月24日の未明に自ら鉄道に身を投げて20年の生涯を終えました。彼女の下宿先に残っていた大学ノート十数冊の日記をまとめたのがこの本です。

 独りであること、未熟であること―これが、私の二十歳の原点である

 彼女が残した言葉を、前後編で見ていこうと思います。



はじめに 高野悦子さんと『二十歳の原点』



スクリーンショット (3)

 高野悦子さんの生涯と、『二十歳の原点』という日記について簡単にパネルにまとめています。高野悦子さんは立命館大学の学生で、文学部で日本史を専攻していました。三回生の時、自ら鉄道に身を投げることになります。『二十歳の原点』は、高野さんが20歳の誕生日を迎えた1969年1月2日から同年6月22日までの日記です。高野さんが自殺したのは6月24日。つまり、亡くなる2日前までの日記が残されています。

 他の本を読んでいると、この日記が引用されている場面に何度も出会いました。それぐらい有名で、社会にも大きな影響を与えた日記です。「若者の『生きづらさ』」「学生運動」といったテーマのとき、必ずと言っていいほどこの日記がひかれます。

 高野さんが自殺した後、下宿からこの日記が見つかりました。それを読んだ高野さんの父親は、こんな風に語っています。

私が、親の私が抱いていた「悦子」と別の人間がそこにいたのです。我が子のことは、生れたときからすべて知りつくしていると思っていたのに……、私とあの娘の間にはこれ程の断絶があったとは。親と子の断絶、それはあの娘が親の手を自ら拒否してしまったのかもしれません。 (失格者の弁 / 高野三郎)



 高野悦子さんはとても朗らかな人だったといいます。自殺の当日も、いつもの通りアルバイトに出かけていたそうです。彼女の自殺に際した人にとっては、まさに「青天の霹靂」の出来事だったのでしょうか。

 この日記を読むと知られざる彼女の姿が浮かび上がってきます。「朗らかな人」というのは、彼女が命を燃やしてまで懸命に演じ続けていた「虚像」であったということ。そして、彼女が出かけていったというアルバイトは、彼女の首を絞め続けていた存在だったこと。

 20歳で自殺した方が残した日記ということで、私はあまりのめり込まないようにと注意して読み始めました。あまりのめり込み過ぎると危険なことになるからです。そう心がけていましたが、読みながらどんどん彼女の言葉にのめり込んでしまいました。魂が叫んでいるような彼女の言葉は、私をどこか違う世界へ引きずり込もうとするかのような、とても危険で、とても強烈な力を放ちます。

 精神的に不安定な方は、絶対にこの日記を読まない方がよいでしょう。

 前後編ということで、「闘い」というキーワードで2回に分けて書いていきます。前編の今回は、「権力との闘い」です。彼女は立命館大学で、いわゆる「学生運動」「学生闘争」に巻きこまれていきます。学生運動のさなかで、彼女は何を見たのでしょうか。

傍観者ではいられない



 立命館大学に入学した高野さん。当時は、いわゆる「学生運動」の時代でした。彼女の通う立命館大学でも、激しい闘争が行われていました。寮の封鎖、民青行動隊と全共闘の衝突、実力排除、クラス討論、直接団交・・・そんなおどろおどろしい言葉が並びます。

 試験は延期、教授は辞職。大学は滅茶苦茶です。今の時代で大学生をやっている私には想像が難しい世界でした。大学は静かなものです。講義を受けて帰ってくる・・・特にイベントがなければ、そんな無味乾燥な日々が続きます。しかし当時はそうではありませんでした。大学で武力衝突が起こり、講義も試験もままならない、そんな「異常」というよりほかならない状況がありました。

 私は今平和な大学生活を送っているからこうして平静を保っていられるわけですが、高野さんのように「学生運動」の中心に放り込まれていたらどうだったでしょう。「自分」を保てていたでしょうか。たぶん、いや絶対に無理です。

クラス討論に出たもののシックリ参加できなかった自分、文学部大衆団交の騒々しい渦の中でそれを「つるしあげ」としか感じなかった自分、それを何とも表現できなかった自分。(中略)大学はどうなるのだろう。自分はどうすればよいのか。



 不安定な大学の状況が、高野さんの「自己」という基盤を揺るがしていくのです。彼女がこの時代に生まれなければ・・・そんなことを思います。間違いなく、「学生運動」によって彼女の短い命は燃やされました。この時点で、自殺の約5か月前になります。

「もうこうなっては傍観者ではいられない」この言葉をまた今あらためて言わざるを得ない。そういえばいつもそう言って来たっけ。でも今度こそ!傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう。



 激しい運動を目の当たりにして、彼女は「傍観は許されない」という思いに駆り立てられていきます。何かを行動しなければならない、そう思います。しかし、注目していただきたいのはそのあとの場面です。「その何かとはなんなのだろう」。そう、彼女は何かに駆り立てられながらも、駆り立てるものの正体が分かっていないのです。

 当時の学生運動は、「傍観は許されない」というような雰囲気を生んでいたのだと想像します。異常な時代の中にいた人たちは、「自分も何かをしなくてはいけない」という正体不明の衝動に駆られ、そして振り回されたのではないでしょうか。

 若者というのは、変わりやすく感じやすい、脆い存在です。そんな若者にとって、「学生運動」というのはあまりにも影響が強い劇薬なような存在だったのでしょう。その暴力的な力によって、一体いくつの人生が台無しにされたのでしょうか。

 生まれた時代が違うとはいえ、自分と同じ年代の若者がかつて直面していた出来事です。全く他人事だとは思えませんでした。運命のいたずらで、自分もこの時代に生み落とされていたかもしれない。もしそうだったら、私にも全く別の人生が待っていたのでしょう。

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 「何か行動しなければいけない」と感じた彼女。苦悩するうちに、「大学」そして「国家」という大きな権力とぶつかることになります。そして、恐ろしい問いにぶつかることになるのです。

 ちょっと長いですが、該当する部分を引用してみます。私は耳をふさぎたい気分でした。「そんなことを言わないで」。きっと、心のどこかで思っていたからでしょう。ぐさりと刺さります。

大学にとって、あなたという人間―学生とよばれているあなたという人間―が必要なのかと思ってみたことがありますか?ちょっと考えてほしい。あなたが大学から受け取ったものは、合格通知と入学金支払の振込用紙と、授業料催促の手紙だけだったろう。そしてあなたは、立命館大学の学生であるという学生証をもらった。そしてあなたは、四ヵ年の時間をかけて受講登録、試験とやって100という単位をかち得て(?)晴れて卒業することだろう。そしてあなたはこの「自由なる」「平和なる」学園を去る。大学(側)にとって、あなたはそれだけのことに過ぎないのだ。卒業名簿の中にあるあなたの名前など、大学側にとっては授業料の領収書の意味しかないのだ。



 高野さんは、恐ろしいことに気付いてしまったようです。これは1969年に書かれた文章ですが、「立命館大学」を自分が通っている大学に置き換えれば、今の私にも全くそのまま当てはまってしまうのです。

 自分は、大きな社会、組織の中の「パーツ」でしかない。自分ではなく、他の誰かでもいい。・・・私も考えることがあります。考え出すと恐ろしくなるのでやめます。高野さんは考え続けることをやめませんでした。考え続けた先には、自分の目の前に向かってくる列車があったのでした。

 大学に行くときに「学生証」を持っていきます。学生証を忘れると大変です。講義に出ても出席したことになりませんし、大学の売店で買い物もできません。たった1枚のカードを忘れただけで、自分はあっという間に大学から「排除」されるのです。私と私の学生証、どちらが大事なのでしょうか?私は、学生証がなかったら「私」ではなくなってしまうのでしょうか。

 大学生だけでなく、社会で働いている方も同じ疑問を自分にぶつけてみることができると思います。身分証明書の類を一切奪われた時の自分を、所属している場所をすべて奪われてしまった時の自分を、ほんの少しだけ想像してみてください。私はすぐに想像をやめます。怖くて続けられません。

 「自分など、存在しない」「自分など、必要ではない」。高野さんは恐ろしい場所に向かっていきました。ちょっと、書き続けるのが辛くなってきました。

「自分」が壊れていく



 大きな「権力」というものを目の当たりにして、高野さんはそれと闘おうとしました。権力との闘いは、しだいに形を変えていくようでした。「自分との闘い」に変わっていくのです。

 後編は、「自分との闘い」がテーマになります。自分との闘いは、権力との闘いとは比べ物にならないくらい、厳しく、辛く、孤独な闘いだったように思います。それこそ、一人の人間を鉄道に飛び込ませてしまうくらいの、恐ろしい敵です。後編では、今日書いたこと以上に想像を絶するようなことを書かなくてはいけないでしょう。

 社会の不安定が波及することによって、「自己」が確立できなくなる

 この日記からは、そんな構図を発見することも出来るのでしょうか。「自分が破壊される」、恐ろしいことです。しかし、誰にでもその危険は潜んでいます。自分が破壊されるということがいかに恐ろしいことか、この日記は教えてくれます。

 「一人の少女が思いつめて鉄道に身を投げた」、そんな言い方で片付けられる内容ではありません。これから二十歳になる私のような人も、あるいはもうすでに二十歳を通過した人も、読む価値のある本だと思います。後編は自分でも書くのが怖いですが、本の中から私たちが感じなければいけないことがあると思うので、慎重に書いていくことにします。



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高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い (後編)

 「大学に自分に必要なのか」の部分が本当に心に刺さっています。例えば寝坊してちょっと遅く学校に行ったとき、そんなことを思いますね。私がいなくても、大学は何事もなかったように回っています。何一つ変わりません。ちょっと恐ろしくなる瞬間です。高野さんの言うように、大学にとって私という存在は「授業料の領収書」でしかないのか、なんて・・・。


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  •   23, 2015 23:53