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  • 高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い(後編)

     26, 2015 00:12
    二十歳の原点 (新潮文庫)
    高野 悦子
    新潮社
    売り上げランキング: 22,740


    の体内に流れる血は、誰の血なのだろう

     高野悦子さんの「二十歳の原点」という日記を紹介しています。「闘い」をキーワードに、2回に分けて書いています。前編は「権力との闘い」、今回の後編は「自分との闘い」です。2つを並べてみると想像がつくかもしれませんが、「自分との闘い」のほうが、より厳しく、危険で、そして孤独な闘いです。

     この日記を読んでいると自分が壊れてしまいそうで、私は最大限に注意を払いながら感想を書いています。「劇薬」というたとえがぴったりの、あまりにも危険な本です。今日は、人間そのものを破壊してしまう、そんな恐ろしい「自分との闘い」へと突入していきます。



    人間が死んでいく



     この本からよく引用される有名な一説があります。「自分との闘い」の壮絶さを端的に表現した、この上ないインパクトのある個所です。短い一説ですが、この部分を読んだだけで闘いの厳しさがひしひしと伝わってきます。それで、よく引用されているのでしょう。

     「私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。」

     あまりにも、あまりにも壮絶です。「血」というのは、ある意味究極の例えだと思います。限界まで追い詰められた人間が、自分の命を感じようとして求めようとして見るのが自分の「血」です。しかし、高野さんは「血」にすら自分を見出すことができませんでした。体内に流れている血は、誰の血なのだろうか。彼女はそう言います。自分の血が自分の血だと思えないくらい、彼女は極限まで追いつめられていたのです。

     (しかし、この一説が出てくるのは2月24日。まだ鉄道自殺の4か月前なのです。究極の例えだとは思いますが、これはまだ「序章」にすぎません。)

     「人間が死んでいく過程」、この日記では、それがあまりにも克明に記されています。たとえどんなに社会が不安定であっても、自分の中で「自分」さえ確保できていれば人間は壊れることはない、と私は思います。逆に言うと、自分の中にある「自分」が壊れていくこと、それは人間が「死」へ向かうことを意味します。

     学生運動をはじめとする社会の異常性が、彼女の中にある「自分」へと侵食していきました。そして、彼女の中にある「自分」を破壊していきました。動物の死骸が、微生物によってあっという間に分解されていく様子を想像してみてください。あれと全く同じことが起きているのです。彼女の中にある「自分」が、ものすごいスピードで喰われていきます。そして、彼女は「死」に向かいます。

    どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛、愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ぬかもしれぬ。



     「自分」を破壊された彼女は、あらゆるものを否定していきます。他者を否定し、愛を否定し、生を否定します。自分を破壊される怖さが痛いほど伝わってきます。「私は自殺をしない」彼女はそう言いました。自殺をする、2か月前のことです。

    死を選ばせた「矛盾」



     ここまで読んできて、彼女のことを弱い人間だ、あまりにも脆い人間だと思われた方もおられるかもしれません。たしかにそうなのかもしれません。自分の中にある「弱さ」や「脆さ」、そのことに一番気付いていたのは彼女自身でした。

    私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出だしている。他者との関係において自己を支えているものとは何なのか。



     自分が弱いから、自分の自我が弱いから自分を追いつめてしまうのだ―彼女はそのことに、他の誰よりもよく気付いていました。そして、最も恐ろしい、1つの矛盾にたどり着くことになります。

     自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出だしている。

     この一説が出てくる時点で、自殺まで1か月を切っています。私は、これが「とどめの一撃」になったのではないか、と感じます。他者の目線を気にして、自分を作り上げていく。他者との関係の中で、自分が作られていく。私もよくやっていることです。というか、常にやっていることです。

     しかし、そこには大きな矛盾が潜んでいたのでした。他者との関係の中でだけ作られていく自己。それは、「自己」とは呼べるのか。もしかして、「自己」なんて存在しないのではないのか。これが、彼女の足を線路へ踏み出させる、最後の一押しになったのかもしれません。

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     人間は大きな矛盾を抱えています。それでも、大多数の人間は言い方は悪いですが「のうのうと」生きています。なぜでしょうか。彼女はそのことも分かっていたのです。

    生きるということは妥協の連続なのか。大事なことはどこに妥協の接点を見つけるかということである。



     彼女の言う通りなのです。大きな矛盾を抱えているとしても、私たちは「妥協の連続」で生きる道を選びます。そのことを分かっていたのに、彼女はどうして自殺を選んだのか。妥協しなければいけないと分かっているなら、妥協することはできなかったのか。そんな悔しい思いがにじみました。でも、そうではなかったんですね。

     すべてを見通していたから、死ぬしかなかった

     彼女は、「見えすぎて」いました。他の人が考えようとしないことまで考え、どんどん深入りしていきました。そして、すべてを見通してしまいました。すべてを見通してしまったから、「死ぬしかなかった」のです。この言い方が正しいのか分かりませんが、私はそう思いました。

     20歳になり、それからわずか半年で死ぬことを選んだ彼女。自己を見つめようとするあまりにも純粋で危険な力を感じます。そして、前編でも書いたように、時代の異様な力がさらに彼女の背中を押しました。異様な時代の中で、彼女が「20歳」だった―そのことが悲劇を生んだのです。

     若者は、自分という存在が確立されていないがゆえに、思い悩みます。私が大人たちを見ていて思うことですが、年を重ねていくうちにそんな深いことは考えなくなるのでしょう。こういう感情は若者特有のことで、そして誰もが通る道です。それを乗り越えなければ、「大人」にはなれないのですね。

     彼女は乗り越えられませんでした。時代があまりにも異様だったことが原因だと思います。まだ自分を固め切れていない若者に、「異様な時代」が襲い掛かってきたのです。

     時代を今に戻します。今もまた「異様な時代」である、と多くの人が指摘します。高野さんが生きた時の学生運動ほどではありませんが、それと似たようなことが現にこの夏起こっていたことを思い出しました。たしかに、異様な時代なのかもしれません。

     ということは、私も同じだということになります。「異様な時代を生きる『20歳』」という、高野さんと同じ状況に置かれていることになります。

     気を付けなければいけない。「自分」を破壊されないように、気を付けなければいけない。異様な時代に襲われ、喰われてしまわないように気を付けなければいけない。この本を読んで、私が受け取ったことです。

     「時代が若者を殺す」、それは起こり得ることだと思います。今がそういう時代になっていないか、不安で仕方がありません。

    未熟であり、孤独である



     これは「日記」です。高野さんは人に見せようと思ってこの文章を書いたわけではありません。死後に自分の書いたものがこうやって出版されることなど想像もできなかったでしょう。彼女のお父さんもそのあたりは苦しまれたようですが、私はこの日記を世の中に出していただいたことに感謝します。

     人に見せようと思って書かれて書かれた文章ではないので、純粋な彼女の本音がつづられています。まさに「魂の叫び」です。命を削ってでも自分を見つめようとするあまりにも孤独な闘いでした。

     ずっと読んでこられた方は気付くかもしれませんが、自殺をする半年前から、自殺をする時点へ近付けるように記事を書いてきました。この流れで行くと、自殺の直前に書かれた文章を最後に引用しなければいけません。

     でも、できませんでした。引用できません。怖くてキーボードなんか叩けないのです。人物が最後に自殺をするというのは小説でもよくあることですが、そんなものとはわけが違います。彼女は『本当に』電車に飛び込んだ。この文章を書いた直後に電車に飛び込んだ。そう思うと、とても引用などできませんでした。

     前編の一番最初に書いたように、彼女は二十歳の原点として「独りであること」と「未熟であること」を挙げています。別の部分では、こうも書いています。

    私は独りである。私は未熟である。恐ろしい宿命だ。それは。



     「孤独」「未熟」。私も、それらが二十歳の原点、いや、人間の原点だと思います。そしてそれは、「恐ろしい宿命」です。自分が孤独であって、未熟であるということから私たちは逃れられません。それが「原点」だからです。

     どうやったら「大人」になれるだろう、と最近思います。20歳の誕生日を踏み越えただけでは大人にはなれないでしょう。乗り越えなければいけないことがあまりにもたくさんあって、じゃあいつになったら大人になれるんだと絶望する気持ちになります。

     自分が孤独であることと未熟であること。そのことに気付いて、受け止めなければいけない。そのうえで、たくさん「妥協」をしていかなければいけない。それがたぶん、大人になるということです。

    ◆殿堂入り決定!

    「最果ての図書館」は、『二十歳の原点』を「プラチナ」に認定しました。おめでとうございます。





    ブックレビュープレミアム

    高野悦子「二十歳の原点」と2つの闘い (前編)

    特集 読書の秋 私がやりたい7つのこと

     この本は、「読書の秋 私がやりたい7つのこと」に含まれていた本です。20歳になる前に、20歳で自殺した人の日記を読む・・・「頭がおかしいんじゃないか」と思う人もいるかもしれませんね。でも、私にとっては絶対に読まなけれないけない本でした。この本を読まないければ大人になれないと思うのです。
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    •   26, 2015 00:12
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