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不如意と如意の狭間で -『三島由紀夫―豊饒の海へ注ぐ』 島内景二

 16, 2015 23:28
三島由紀夫―豊饒の海へ注ぐ (ミネルヴァ日本評伝選)
島内 景二
ミネルヴァ書房
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動的な死へと結実する人生

 最近、三島由紀夫について勉強しています。専門書をあたっているところですが、いろいろと見ている時にちょっと趣向が異なる1冊を見つけました。専門書を1冊丸ごと読み込むということはなかなかしないのですが、この本は「読み物」としてもとても面白く、どっぷりと没入するうちに1冊読み切りました。

 著者は国文学者で、『源氏物語』を専門にしておられるそうです。この本は、「和歌」と『源氏物語』、そして古代神話の観点から書いたという(p338)、かなり独自色のある三島論になっています。




死に結実する文学



 私は日本文学が好きですが、三島由紀夫はまだあまり作品を読めていません。「三島由紀夫」という存在に、正直おののいています。三島由紀夫と言えば、まず何よりも始めに言及されるのが、彼の衝撃的な死です。

昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫は「楯の回」のメンバー4人(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)を引き連れ東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室を占拠し、総監を人質に取る。バルコニーから演説し、共に起つことを求めた。天皇陛下万歳を三唱したあと、総監室で切腹し、介錯されて死ぬ。 (7章より)



 いわゆる「三島事件」です。切腹、介錯・・・。錯乱してしまいそうですが、これはまだ今から45年前の出来事です。事件を知る日本人がまだ大勢いると思うと、感覚がおかしくなりそうです。当時ノーベル賞候補とも言われていた著名な作家が割腹自殺をした―日本中を震撼させる出来事だったと思います。

 正直、どうコメントしてよいか私には分かりません。彼は一体何を見ていたのでしょうか。どこまで先を見ていたら、そのような行動に走れるのでしょうか。その衝撃の死を知って彼の文学に踏み出していく人は、いまなお大勢います。それはつまり、彼の死の余波が、45年後の今も広がり続けているということに他なりません。

 三島由紀夫の死については、様々な解釈があるようです。この本では、「死への結実」という視点から書かれています。三島由紀夫は、世界から捨てられる前に、潔く世界を捨てた。「世界を能動的に放棄」した(p320)と・・・。

爆発的なエネルギーが蓄積され、「生きたい」という意欲が沸騰した瞬間に、それが「書きたい」というエネルギーに転化し、ストーリーの第一歩が記される。それは死の始まりなのだった。生と死が重層化したストーリーの誕生する心のおののきこそ、三島文学の醍醐味である。



 「自決」という瞬間を自ら定め、そこに向かうために生きた―筆者はそのような視点から論じていきます。三島由紀夫の人生に、三島由紀夫の文学に、私はただおののくしかありませんでした。

逆照射される人生



 三島由紀夫は自決の日に向かって生きていた―筆者の視点に立つと、三島由紀夫の人生の捉え方は変わります。全ては「死」という未来に結実する、つまり、彼の人生は「死」を起点にして「逆照射」されるのです。

 このような読み方が通用する作家は、三島由紀夫ぐらいでしょう。人生の全てが、作品の全てが自分の「死」に向けての設計図だったというのですから・・・(もちろん、いろいろな解釈があるうちの1つとして)。最後の長編である『豊饒の海』の読み方も、全く変わってきそうです。

 さて、三島由紀夫の作品には重要な概念が存在しています。「不如意」(=思い通りにならないこと)です。不如意は三島由紀夫の様々な作品においてみられる概念です。筆者はこう語ります。

三島の小説は、不如意と不条理に直面した青年に、あえて「如意」の道を最後まで歩ませる。そして、金閣寺に放火させたり、殺人事件を犯させたり、同性愛に走らせたりした。人間の欲望をすべて解放させ、神から最も遠い生き方を選ばせた。(p102)



 言われてみれば、以前読んだ『午後の曳航』もまさにこのパターンでした。『午後の曳航』は少年たちのおぞましいまでの残酷性を描いた小説です。少年たちは堕落した英雄を「処刑」します。ラストの筆の止め方はそれはもう・・・今でも夢に出てきそうです。

 この小説も、「不如意」を乗り越えようと「如意」の道を歩む―そんな構図だったのです。一番最初に三島の壮絶な死について紹介しました。そちらのインパクトが強すぎてかすんでしまいそうですが、三島由紀夫は小説家としてまぎれもない天才です。「この小説は完璧だ・・・」、『午後の曳航』を読んだとき、私はそう思いました。そんな天才が選んだあの最期・・・あらためて、衝撃に身を震わせます。

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 文学と無力さについて書かれた箇所も大変印象に残りました。「文学の無力さ」、私もたまに考えることがあります。三島由紀夫は、そんな文学の無力さをどう捉えようとしたのでしょうか。

行動が無力であるからには、文学はそれ以上に無力であり、何ら外界を変える力を持ち合わせない。だが、現実世界を変える力を持たないことは、決してつまらないことではない。「無力」を自覚すれば、現実世界とは別の芸術の世界の中で、どんな世界でも新たに構築することができる。(p220)



 文学が無力だということを、私は(感じてはいても)言葉にすることに戸惑いがありました。どうしても文学を否定してしまうように感じるからでしょう。しかし、ここでは文学が無力であることを言い切っています。そして、そこから文学が始まるのです。

 無力さの自覚、新たな世界の構築―それは、三島由紀夫だけではなく、文学の極致なのではないでしょうか。私が今までに衝撃を受けてきた文学作品の傑作たちを思い浮かべます。その多くに「無力さの自覚」があったのではないか、今そう気付かされています。

永遠の言葉



 学術書にこういう評をするのは的外れかもしれませんが、なんてロマンと情熱にあふれるテキストだろうか、と思いました。和歌や『源氏物語』の専門である筆者。本歌取りや序詞など、和歌の用語をふんだんに用いながら独特の論を展開します。三島由紀夫の人生に全く違う色が付いたようでした。なるほど、本に没入して読み切ってしまったのも納得です。

 第六章は、最後に残された渾身の長編、『豊饒の海』について。源氏物語の専門家である筆者が、源氏物語と『豊饒の海』を照らし合わせていきます。章のタイトルは、「命を懸けたライフワーク―『源氏物語』を超えて」。日本文学の最高傑作と言われる源氏物語。それを超えようとした三島・・・この章は必見です。第三章もまた、大変読みごたえのある内容でした。

 最後にもう1つ、印象に残った箇所を引用します。

言葉は、心の容器である。心は、一代限りである。寿命が尽きた人間が死去する際に、その心は完全に失われてしまう。だが言葉は、永遠である。


 
 私は正直、三島由紀夫が怖い。彼の最後の行動や、晩年の過激な右翼思想。死してなおも、余波を巻き起こし続けるあまりにも巨大な存在。「三島由紀夫」という人間に、私はおののきます。

 ですが、やはり読みたい。そう思う自分も同時にいました。彼が残した言葉は「心の容器」。言葉は、永遠に続きます。震える手を必死に押さえつけながら、また彼の作品を読もうと思います。

レコメンド

から逆照射される三島の人生―「不如意」を見つめて

 「文学は命がけである」、昔何かの本で読みました。その時は全く受け入れられなかったのですが、今は受け入れつつあります。文学の本質を徹底的に見つめていったら、最後は「命がけ」になるんじゃないか・・・と。文学とは、壮絶。



オワリ

「武士道」 新渡戸稲造

 三島由紀夫は最期に切腹し、介錯されました(一度で首が落とされないかなり壮絶な最期だったようです)。そこで関連図書はこの本です。新渡戸稲造の「武士道」では切腹の精神について詳しく書かれています(切腹の描写は凄惨で、読むのはかなり辛いかもしれません・・・)。

 切腹は日本固有の文化ですが、日本人としてどう思われるでしょうか。切腹の「美」や「けじめ」といったもの・・・私は正直、切腹は(いろいろな意味で)無理です。
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