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森が見えた瞬間 -『羊と鋼の森』宮下奈都

 06, 2016 00:00
羊と鋼の森
羊と鋼の森
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宮下 奈都
文藝春秋
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と出会う、そして歩く

 一生かけて追いかけ続けたい、そんなものはありますか?

 一生かけて追いかけ続けたい者を見つけた人は、かっこいい。そして強い。迷いのない、たしかな足取り。力に満ちた目。体じゅうから出るオーラ。彼らは、どうしてそんなにかっこよく、そして強いのでしょうか。何との出会いが、彼らをそうさせたのでしょうか。

 この本の主人公にとって、それは「ピアノの調律」でした。彼は、一生かけてピアノと、そしてピアノの調律と向き合っていくことを決意します。彼をそんな風に突き動かしたある出会いがありました。そして、突き進む彼の目に宿るものがありました。

(約4,000字)



森との邂逅



 高校の時、主人公の外村はピアノの調律と出会います。たまたま教室に残っていた時、来客の案内を先生に頼まれた、そんな偶然がきっかけでした。しかし、その偶然のような出会いが彼の人生のすべてを変えることになります。

 来客の正体はピアノの調律師、板鳥さん。たまたま板鳥さんの調律を見ることになった彼は、一生を変えることになる「森」と出会います。

目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。



 彼は、ピアノに突然「森」を見るのです。

森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。



 場面が少し進みます。彼は、高校を卒業した後専門学校に通い、ピアノの調律師になりました。一言付け加えておきますが、板鳥さんの調律と出会う前、彼はピアノとなんの縁もない普通の高校生でした。「森」との出会いその一瞬が彼を変えたのです。

 ピアノの森と出会ってから人生が180度転換し、調律師になる。冒頭で繰り広げられるその展開はあまりにも唐突で、最初は驚きました。しかし、この一瞬の出会いというのは真理なのかもしれません。出会いは突然訪れ、全ての景色を変えてしまう。その突然の出会いに、大げさな物語を付け足す必要はないのだと思います。

 何かに惹かれ、それにむかってまっしぐらに進んでいく

 人生をかけて何かを追いかけ続ける人の強さの秘密はこの「まっしぐら」の部分にあります。彼もまたそうでした。森が見えた瞬間、彼の人生はピアノの調律に捧げられることになったのです。彼もまた、ただひたすら、まっしぐらに歩を進めていきました。

美しき森へのたしかな前進



 この小説の素晴らしい点に、「力強さと美しさの共存」を挙げたいと思います。彼が出会ったピアノの森の美しさ、そして彼がその森に向かってまっすぐ歩を進めていく力強さ。その二つが見事に共存しています。美しい小説が、力強く進んでいく。まるで奇跡を見ているかのようでした。

 あっという間に調律師になった彼ですが、何も困難がなかったわけではありません。高校から専門学校、そして調律師になるというのはかなりレアな進路です。目の前には道がない状態でしょう。それを自分で切り拓いていく、その困難は容易に想像ができます。そして、調律師になったあと、彼はもう一つの困難とぶつかります。「才能の壁」です。どんなに努力をしても超えることのできない才能の壁。そこにぶつかる度に、才能を見せつけられる度に彼は打ちひしがれるのです。

 しかし、彼の足が後ろに向かうことはありませんでした。彼の足を常に前へ向かわせたものは、やはり「森」の存在だったのです。森が見たい、彼はその一心で歩を進めます。


よろこばれると、うれしい。僕の手柄ではないのだけれど。ピアノの音がよくなっただけで人がよろこぶというのは、道端の花が咲いてよろこぶのと根源は同じなんじゃないか。自分のピアノであるとか、よその花であるとか、区別なく、いいものがうれしいのは純粋なよろこびだと思う。そこに関われるのは、この仕事の魅力だ。



 自分がどんなにあがいていようが、ピアノの森は常に美しい。そこに触れるたび、彼はまた前を向けるのです。「いいものが、うれしい」、彼の言う通り、それは純粋で、何者にも代えがたいよろこびです。彼はこうも言います。

僕がピアノの中に見つけたのは、その感覚だ。ゆるされている。世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか、言葉では伝えきれないから、音で表せるようになりたい。ピアノであの森を再現したい、そう思っているのかもしれない。



 調和していくことを、「ゆるされている」と彼は捉えます。美しいピアノの森に迎え入れられていく、そこにもやはり「よろこび」があるのだと思います。純粋なよろこびと「ゆるされている」という感覚。その2つが、彼の背中を押し、彼の足を前に進めました。

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 「自分は何の才能も持ち合わせていない人間だ」、彼は何度もこう自分に言い聞かせます。調律師は才能や素質が求められる職業です。類まれなる才能を持った調律師やピアニストと出会うたびに、彼は自分の平凡さに気付きました。

 私には、そんな彼の姿が逆に、誰よりも輝いて見えました。

 何も特別な才能を持ち合わせていない、と自覚することの強さ

 何も才能を持ち合わせていないなら、努力するしかない。休まずに歩を進めるしかない。ピアノの音に「ゆるされる」ために、真摯に向き合い続けるしかない。そうやって迷いを振り払い、たしかに前進していく彼の姿に感じる力強さには圧倒されるものがありました。その力強さを生み出すのは、努力の先に待つ美しい「森」です。このように、美しさと力強さが見事に共存しているのです。

 小説を読みながら思い出す風景がありました。昨年、男子フィギュアスケートのNHK杯で羽生結弦選手が前人未到の300点超えを成し遂げた時の演技です。「次元が違います」、演技の後にアナウンサーの口からもれた言葉は、あの演技を目にしていた者全員の思いを代弁していたでしょう。私も見ていました。「次元が違う」あの演技は、主人公の前に浮かんだピアノの森と重なるところがあるかもしれません。羽生選手のあの演技にも、たしかに美しさと力強さが共存していました。

 努力だけではたどり着けない、正直そんな印象がありました。しかし、演技のあと、羽生選手はこう言いました。

 「血のにじむような練習をしてきた」―。

 実は、この小説にも同じ表現が出てくるのです。主人公が先輩の調律師、柳さんと話す場面です。

基礎や技術的な訓練は不可欠だろうけれど、どうやって表現を磨くか。ほんとうにいい音楽のためになるのは何か。それが何なのか、たぶん、誰にもはっきりしたことはわからない。

「あああ、俺、血がにじむような努力をしてみたいよ」
右手で拳をつくった柳さんは、僕がじっと見つめているのに気づいたらしい。
「そう思わないか」



 偶然でしょうか。ピアノと向き合う音の表現者と、音楽と向き合う氷上の表現者が同じ「血のにじむような」という言葉を使ったのは偶然でしょうか。

 それはきっと、偶然ではないと思います。「血のにじむような」努力は、たしかに必要とされているのです。そうしなければ、表現の高みにはたどりつけない。「森」に足を踏み入れることは許されない。だから、音の表現者も、氷上の表現者も、血のにじむような努力をします。

 努力、根気・・・この小説に出てくる言葉はなんとも泥臭い。小説全体から感じる美しい雰囲気とは相容れない感じがします。しかし、両者はつながっていたのです。

 血のにじむような努力の先にしか、美しい森はない。美しい森にゆるされるために、一歩ずつ、一歩ずつ、足を前に進めていくしかない。それは最高に泥臭く、そして最高に美しい真理でした。森というのはピアノだけではないでしょう。勉強、スポーツ、絵、写真、料理・・・なんだって同じです。血のにじむような努力の先にある美しい「森」の、そしてその森に向かって歩を進める人間の、なんと尊いことでしょう。

祝福の光



 文芸評論家の市川真人さんは、この作品のことを「村上春樹と小川洋子、2人の作家の魅力を併せ持った作品」と評します。小川洋子さんの名前を見て、私もこの小説を手に取ったわけです。

 おっしゃる通りでした。作品が持つ独特の湿っぽさはいかにも村上春樹さん。そして、静謐で美しい作品の雰囲気はまさに小川洋子さん。言葉では伝えきれないことを音で表現する、というコンセプトなどはそのまま小川さんの小説になりそうです。

 私はここに、もう2人の作家さんの名前を加えようと思います。三浦しをんさんと原田マハさんです。この小説は職業小説に区分できると思います。職業小説といえば三浦しをんさん。道が開けた時の感動や終盤に押し寄せるカタルシスなどに共通したものを感じました。そして、芸術を目にした時に訪れる感情の躍動と心が洗われていくさまは原田マハさんの美術小説を思い出させるものでした。

 村上春樹、小川洋子、三浦しをん、原田マハ、そして、他の誰でもない「宮下奈都」。

 本当に素晴らしい小説です。奇跡のような小説です。こういった本に出会った時、私が思うことはいつもひとつです。素晴らしい作品を生み出してくださり、本当にありがとうございました。

 不断の努力を重ねた主人公は、着実に成長を遂げていきました。「自分は何の才能も持ち合わせていない」、彼は改めてそう思います。そんな彼に、先輩の柳さんが声をかけました。

 その成長は、実力なんだ

 ひたすらに努力を重ねる、それはとても尊いことです。そして、彼が努力を重ねて得たものは、彼の「実力」に他なりませんでした。地道に歩を進めてきた彼に、祝福の光が注ぎ込んだ瞬間だったと思います。そして、この小説を読む全ての人の、「がんばっている」全ての人の背中が、力強く押された瞬間でもあったと思います。

◆殿堂入り決定!

「最果ての図書館」は『羊と鋼の森』を「ゴールド」に認定しました。おめでとうございます!





オワリ

 元日に読んだ今年最初の一冊でしたが、素晴らしい小説から2016年を始めることができてうれしく思います。すでに話題となっているこの本ですが、2016年にますます多くの人の手元に届くことを願っています。

『仏果を得ず』三浦しをんさん

『太陽の棘』原田マハさん

 記事中で名前を出した三浦しをんさんと原田マハさんの作品から、一番最近レビューを書いた作品です。三浦さんや原田さんに加え、この宮下奈都さんもこれからブログでたくさんの作品を紹介したい作家さんになりました。


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  •   06, 2016 00:00