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宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #16 『黄いろのトマト』

 17, 2016 00:00
イーハトーヴ

治が織りなす、幻想と哀感のフィルム


 ようこそ、「イーハトーヴシアター」へ。

 ・・・なんて思わず言いたくなってしまう、今日はそんな作品です。宮沢賢治は素晴らしい感性の持ち主ですが、今日紹介する『黄いろのトマト』はその中でも「色」に関する素晴らしい感性が際立ちます。映像化されたら幻想的な画がとれるだろうな、といつも思います。幻想的で映画的な雰囲気を、レビューでもゆったりと味わいたいと思います。

 ただし、最後にはおなじみの「残酷な結末」も待ち受けていました。

(約3200字)


誘われる読み手


黄いろのトマト (ミキハウスの宮沢賢治絵本)
宮沢 賢治
三起商行
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 主人公の「私」は、町の博物館で、ガラスの戸棚の中にいる蜂雀(はちすずめ)の剥製と話をします。

「お早う。蜂雀。ペムペルという人がどうしたっての。」
蜂雀がガラスの向うで又云いました。
「ええお早うよ。妹のネリという子もほんとうにかあいらしいいい子だったのにかあいそうだなあ。」
「どうしたていうの話しておくれ。」

すると蜂雀はちょっと口あいてわらうようにしてまた云いました。
「話してあげるからおまえは鞄を床におろしてその上にお座り。」



 ペムペルとネリの「かあいらしい」きょうだいに、「かあいそう」なことがあったというのです。何が「かあいそう」だったのか、蜂雀はなかなか明かそうとしません。なかなか踏み込まない蜂雀の飄々とした語りが、読者を物語の世界に引き込んでいきます。

「ね、蜂雀、そのペムペルとネリちゃんがそれから一体どうなったの、どうしたって云うの、ね、蜂雀、話してお呉れ。」



 語り手の「私」は蜂雀をじらすのですが、読者も同じ気持ちですね。いつの間にか体が前のめりになってしまうかのようです。

 序盤から、雰囲気作りの妙がこらされています。物語の中に「語り手」と「聞き手」がいて、読者もいつの間にか耳を傾ける「聞き手」になっているのです。そして、蜂雀の語りに回想シーンが織り交ざっていくのですが、この回想シーンがとても幻想的で美しいのです。冒頭に「映画のよう」と書きましたが、読んでいる時の心地はまさに映画を観ている時のようです。「色」を映した幻想的な描写に触れていると、頭の中に映写機の回る音が聞こえてくるような錯覚に包まれます。

幻想のフィルム



 私が幻想的だと思う描写のいくつかを紹介することにします。

その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。ですから私も挨拶しました。



「ペムペルとネリとはそれはほんとうにかあいいんだ。二人が青ガラスのうちの中にいて窓をすっかりしめてると二人は海の底に居るように見えた。



 カーテンの「茶」やガラスの「青」が、「ビール瓶」や「海の底」という比喩を用いて幻想的な物語の世界のワンシーンとなっています。宮沢賢治の作品にはこういった幻想的な表現が随所に散りばめられていて、その美しさにはため息がこぼれます。「映画を観ているような雰囲気」を少しでも味わっていただけたでしょうか。

 この作品を読みながら、私は時々目を閉じました。目を閉じてその場面の「色」を浮かべるのです。宮沢賢治の素敵な描写に感覚が刺激されて、いつもより想像力が豊かになります。目を閉じた時に浮かぶ「幻想のフィルム」、それはとても贅沢な時間でした。

 さて、色に関する描写の美しさが目を引くこの作品ですが、メインとなるのはタイトルにもなっている「黄いろのトマト」です。

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葉からはトマトの青いにおいがし、茎からはこまかな黄金(きん)の粒のようなものも噴き出した。


そしてまもなく実がついた。
ところが五本のチェリーの中で、一本だけは奇体に黄いろなんだろう。そして大へん光るのだ。ギザギザの青黒い葉の間から、まばゆいくらい黄いろなトマトがのぞいているのは立派だった。



 黄色もそうですが、その前にある「トマトの青いにおい」という表現も本当に素晴らしいですね。これは宮沢賢治の作品の魅力の一つである「共感覚」です。目の前いっぱいに「青いにおい」が広がってくるようです。

 そして、赤いトマトの中で一つだけ「黄金」に輝いていたトマト。本当にみずみずしい描写です。目の奥に光るトマトが見えるようです。思わず目を見開いてしまいます。

 小さな二人にとって、輝きを放つトマトは本物の「黄金」のようだったでしょう。この場面が作品の頂点になると思うのですが、実はこの場面は、これからやってくる残酷な結末を演出する役割も果たしていたのです。

 …気が重いですが、「残酷な結末」のほうも紹介しようと思います。2人のきょうだいはサーカス小屋にたどり着きました。入場するにはお金が必要です。兄のペムペルは、そこで思いつくのです。そう、彼がお金の代わりにと思って差し出したのが、光り輝く黄いろのトマトでした。

 しかし、トマトがお金の代わりになるはずはありません。彼は、サーカスの番人からこんな罵声を浴びてしまいます。

「何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝(おまえ)たちを押し込んでやってたまるか。失せやがれ、畜生。」



あせない黄金



 あまりに激しく、汚れきったセリフがいきなり出てくることに驚かされます。これまで物語が幻想的に進んでいたからなおさらです。頭の中で回っていた「幻想のフィルム」が、いきなり止められ、土足で踏みにじられてしまったようでもあります。そして、幼いきょうだいが抱いていた美しい想像の世界も一瞬で崩壊したのです。

 幻想的な描写と、上にある汚れきったセリフを生み出したのが同じ人物であるとはなかなか信じられないかもしれません。ですが、この展開こそ宮沢賢治の作品のテンプレートであり、宮沢賢治「らしさ」を感じる結末だと思います。

 宮沢賢治は、幻想的な物語を数多く生み出した作家です。同時に、現実に深く絶望していた作家でもあります。賢治の描く現実というのは、腐りきって、荒みきって、汚れにまみれています。そこにある深い悲しみと果てまでつづく絶望・・・。暗い世界ですが、その世界と「幻想的な物語」はこの作品のように地続きになっているのです。

 絶望と悲しみを瞳の奥に見ていたからこその物語だな、と改めて思いました。同じ物語でも、絶望を知らない人の書く物語はどうしても「きれいごと」になってしまう。悲しみと絶望の深い海は、美しい物語に絶対に必要なのだと思います。

 黄いろのトマトは美しい物語の世界を、サーカスの番人は汚れきった現実の世界を暗示しているのではないでしょうか。美しい物語が進行していたところに、汚れきった現実の世界が突然交わりました。こうして、物語全体が悲しみに包まれるのです。

 私は、結末まで読んでページを戻しました。黄いろのトマトが燦然と輝いていた場面がもう一度読みたくなったのです。当たり前ですが、トマトの場面は一回目に読んだときと同じように美しい光に満ちていました。

 美しい「物語」という夢から、いつかは醒める日がやってくるのだと思います。生まれた時は濁りのない瞳をしていた子どもたちも、いつかは「現実」に瞳を汚さなければいけない。ですが、たとえ現実に汚れてしまったとしても、「物語」の世界は変わらずに輝きを放っています。

 私が宮沢賢治の作品が好きなのは、美しい物語の世界に「戻る」ことができるからだろうか、とふと思いました。いつ読んでも彼の作品は美しく、そして「悲しみ」をまといながら輝いています。トマトの場面は何度でも読み返したくなるのです。幼いきょうだいが見た、本物の黄金のように輝くトマトの姿は、輝きを失わない物語の世界として私の目に焼き付いています。



イーハトーヴ

 このコーナーのロゴには青い雫のイラストを使わせてもらっています(↑)。実はこれは、「宮沢賢治の涙」から連想して選んだものです。美しい物語の世界と深い悲しみの世界を瞳の奥に見ていた宮沢賢治・・・そんな宮沢賢治が流した涙ということでイメージを膨らませました。とても気に入ったので、ブログ全体のイメージやツイッターのアイコンとしても採用しています・・・という豆知識でした。

宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 旅程表

 ブログのデザインを頻繁に変えてきた前歴がありますが、宮沢賢治からインスピレーションを得て作ったこのテンプレートは、いろいろ考えて作ったものなので大切に使っていこうと思っています。

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