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宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 #17 「なめとこ山の熊」

 22, 2016 20:17
イーハトーヴ

 私が毎週楽しみに聴いている小川洋子さんのラジオ番組があります。「パナソニック メロディアスライブラリー」といって、小川洋子さんが毎週ある文学作品を取り上げ、「文学遺産」として音楽とともに紹介するプログラムです。小川さん好きの私にとってこの番組があることは本当に幸せで、毎週素敵な時間をいただいています。

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 さて、その「メロディアスライブラリー」ですが、きのう(2月22日)紹介された作品は宮沢賢治の『注文の多い料理店』でした。小川洋子さんと並んで宮沢賢治が好きな私です。素敵な時間を超えてもう夢の中にいるようでした。小川さんの解説する『注文の多い料理店』をたっぷり堪能させていただきました。
 この流れで『注文の多い料理店』を紹介したいところですが、『注文の多い料理店』はもうすでにこのコーナーの第4回で紹介済みです。今日紹介するのは、番組の終盤でも触れられた『なめとこ山の熊』という作品です。テイストは大きく異なりますが、『注文の多い料理店』と共通するものも見出すことができて、宮沢賢治の作品の中でも重要な位置を占めている、と言えるかと思います。ラジオの幸せな余韻も感じつつ、今日はこの作品を読んでいきましょう。

(約4400字)



殺生を憎んで



 『注文の多い料理店』と『なめとこの山』には、どちらも動物を狩る人間が登場します。しかし、その人間の描かれ方は大きく異なっています。『注文の多い料理店』には若い2人の「紳士」が出てきますが、彼らはとても横暴で、動物を撃ち殺すことに何の良心の呵責も覚えないようです。「紳士」とはよく言ったもので、2人は相当ひどい人物として描かれています。

 さて、『なめとこ山の熊』にも動物を狩る人間が登場します。それが、主人公の小十郎です。小十郎は山で熊を買って生活しています。しかし、その描かれ方は『注文の多い料理店』に出てくる2人とは大きく異なっているのです。

小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。



 小十郎は殺す側、熊は殺される側です。それなのに、熊は小十郎のことを好きだというのです。「そこであんまり・・・」という力強い一説から、小十郎がどれだけ山とそして熊に根付いた暮らしをしてきたかが伝わってきます。

 熊を撃ち殺した後、小十郎は熊の亡骸にこう語りかけました。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰(たれ)も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ



 小十郎は貧しい暮らしをしていて、生きていくためには熊を狩るしかありませんでした。この場面は「殺したくないんだけど仕方ないんだ」と言い訳をしているように読めます。ですが、ここをただの「言い訳」で片付けてしまうのはもったいないと私は思います。ここには、狩りをしていくうちに一種の「悟り」の境地を拓いた小十郎の深い葛藤が込められているのではないかと思います。

 宮沢賢治は、「殺生」を憎みました。ですから、命を奪うことの罪深さを考えもせずに動物を殺していた『注文の多い料理店』の2人にはああいった形で「制裁」を加えたのです。この作品でも、殺生を憎んでいるという考え方は変わらないでしょう。しかし、この作品の小十郎が『注文の多い料理店』の2人と決定的に異なるのは殺生に苦悩しているという点です。

 自分が人間に生まれて来たこと、熊が熊として生まれて来たこと。小十郎はそれを「因果」と捉えて呪っています。『注文の多い料理店』では、人間が動物より偉いんだ、という構図(人間の傲慢さ)が2人の間で固まっていました。小十郎は違います。人間も動物もあるいは植物も、最初は平等な存在だったのです。それが、奇妙な因果がはたらいて、殺す側と殺される側に分かれてしまった。その「因果」のほうを憎むというのがなんとも深いですし、宮沢賢治の思想が大きく反映された部分だと思います。

 宮沢賢治は児童文学作家で、『注文の多い料理店』のようなコミカルで読みやすい作品が多いです。しかし、この作品に漂う雰囲気はそういったコミカルな作品とは異なります。「人間として生まれ落ちてきたことの苦しさ」、あるいは「命をめぐる葛藤」。悲しみと苦しみをいっぱいに湛えたこの短編から感じる雰囲気は、まるで冷たい冬の空を切り裂く風のようです。決して読みやすい作品ではありませんが、私はこの作品のような雰囲気こそ宮沢賢治作品の真骨頂ではないかと思います。

資本主義を憎んで



 この作品の大きなポイントの一つに、「資本主義の搾取の側面を描き出した」という点が挙げられます。序盤を終えて、場面は小十郎が町に熊の皮と肝を売りに行くところに移ります。小十郎は荒物屋の主人に皮を売ろうとするのですが、皮は前も買ったという主人に安く買い叩かれてしまうのです。作中の言葉を借りれば、「みじめさ」や「気の毒さ」を感じさせる場面です。

 山では熊を撃ち、ある種の威厳を保っていた小十郎が、町に出ると搾取される側という弱い立場に転落し、搾取する側(資本家)である主人の前にひれ伏すしかないのです。山から町に場面が移るとともに「勢力図」も決定的に変化した格好となりました。

 宮沢賢治は、そんな資本主義の側面に包み隠さず怒りを表明します。

ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。


 激しい怒りに身を震わせたのでしょう。語り手が前に乗りだしてきて怒りをぶちまけます。資本家のことを「こんないやなずるいやつら」と呼び、「ひとりで消えてなくなっていく」ことを望んだ賢治。
 
 ここまで作者の怒りが前に出てきていて、物語としてはもう崩壊寸前かもしれません。それでも、そんなことを差し置いてでも私たちはこの叫びに向き合わなければいけないのだと思います。「こんないやなずるいやつら」―。何を思って彼がここでこの表現をぶつけたか。この場面では長く立ち止まって考えてしまいます。

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 このあとの展開には脱帽するしかありません。おそらく宮沢賢治にしか書けない、そう思わせる展開です。ここで明かしてしまえば、小十郎は最終的に熊に襲われて命を落としてしまうことになります。

 人間世界では搾取され、最後は獲物にしていた熊に襲われたのか・・・。読んだことのない方はそう思われ、小十郎を哀れな存在だと感じられたかもしれません。そう思われるのが普通ですが、この作品はそうではなかったのです。たしかに小十郎は熊に襲われて亡くなりました。しかし、それは哀れな死でも犬死にでもありませんでした。

 「安寧」「解放」「救済」・・・そのようなことばが浮かびます。熊に襲われて死ぬという一見哀れな死に方には、宮沢賢治が込めた精一杯の救済の気持ちがあったのではないでしょうか。

 最後の節で、小十郎の死の場面を見ていきます。

人間を憎んで



ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。



 小十郎を襲った熊は「殺すつもりはなかった」とわび、一方の小十郎も、死へ向かう中で「熊ども、ゆるせよ」とわびています。一見おかしな場面ですが、上に出てきた「因果」ということばを思い出せばこの場面が理解できるのではないでしょうか。

 人間として生まれたこと。熊として生まれたこと。襲うこと、襲われること。それは奇妙な因果でした。それが全て「元に戻った」―私はそんなイメージでこの場面を解釈しています。人間も熊も、その生き方は本意ではなかったのではないでしょうか。本当は全てが「平等」でなければいけない―。宮沢賢治にはそんな思想が見られます。

その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。



 小十郎のなきがらを、熊たちが囲んでいる場面です。自分たちを襲う敵でありながらも、小十郎のことが大好きだったという熊たち。何かが語られることはなくても、弔いの気持ちは十分に伝わってきます。

 私は「死骸」という部分を太字にしました。読んでみて、この語句に目がとまったのです。「死骸」それはとても残酷で、冷たく乾いた響きをもったことばです。死骸、という表現は私たちに小十郎の死を確認させますし、何か空虚な気持ちが押し寄せてくるような印象もあります。

 しかし、この場面は美しい。美しさとは全く相容れないような「死骸」ということばを使っているにもかかわらず、です。先程も書いたように、小十郎が熊たちによって弔われる場面は安寧や救済を感じさせる場面です。私は『よだかの星』を思い出しました。『よだかの星』と比べたら、彼は天に昇ったわけでもないし、それどころか「死骸」などと書かれている。それにもかかわらず、『よだかの星』に比肩するような美しさを感じる場面なのです。言葉が足りず申し訳ありませんが、これはもう、ただただ「すごい」としか言いようがない。

 悲しみや苦しみ、そして憎しみまでも抱き寄せた「美しさ」。憎しみが美しさになる、これはとてつもないことでしょう。しかし、宮沢賢治はそれをやってのける。好きな作家だと書きましたが、好きというより「畏敬の念」を感じる作家です。



イーハトーヴ

  知名度的には『注文の多い料理店』が圧倒的に勝ると思いますが、私はこの作品の方が賢治の本質に迫れる作品ではないかと思います。『注文の多い料理店』だけ知っている、という方にはぜひおすすめしたいです。

宮沢賢治・イーハトーヴへの旅 旅程表

 宮沢賢治の作品を読んでいます。次回は作品の読解からちょっと趣を変えたスペシャルをやってみようかな、と思っています。

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宮沢賢治,



  •   22, 2016 20:17