HOME > 日本文学(現代) > title - 『死んでいない者』 ~かつ消えかつ結ぶうたかたの語り~

『死んでいない者』 ~かつ消えかつ結ぶうたかたの語り~

 06, 2016 18:59
 今回と次回の2回で、第154回芥川賞を受賞した作品を特集します。まず今回紹介するのは、滝口悠生さんの『死んでいない者』です。レビューの量をいつもより増やして、「ブックレビュープレミアム」としてお届けします。

死んでいない者
死んでいない者
posted with amazlet at 16.03.06
滝口 悠生
文藝春秋
売り上げランキング: 7,280


 「かつ消えかつ結ぶうたかたの語り」という副題を付けました。これは、御存じの通り鴨長明の『方丈記』に登場する有名な一節をアレンジしたものです。この作品を読んでいる時、頭の中にこの一節が浮かびました。

 この『死んでいない者』という作品は、作品の「語り」が大きく評価されて受賞につながりました。今日のレビューでもこの作品の「語り」に注目していこうと思います。物語を曖昧で重層的なものにした「語り」の技巧に迫ります。



分からない語り



誰が誰だか全然分かんねえよ



 これは、私のつぶやきではありません。作中に出てきた一節から引用したものです。私も心の中で同じことを思いながら読んでいたので、心中を見透かされたようで思わずのけぞってしまいました。きっと、作品を書いている滝口さんも同じ思いだったはずで、これは正直な本音の吐露なのでしょう。すでに読まれた方はお分かりになると思いますが、本当に誰が誰だか分からなくなる小説なのです。

 大家族のお通夜を舞台にしたこの作品には、全部で30人ほどの人物が登場するそうです(登場するそうです、という書き方にしたのは、私が自分では数えられなかったからです。インタビューから参照しました)。故人には5人の子どもがいて、10人の孫がいます。それだけでもくらくらしてしまいそうですが、この作品の独特の語りは物語をさらに複雑にします。

 滝口さんが試みた語りとはずばり、「三人称の多視点による語り」でした。この作品では、次々に語り手が移り変わります。大勢の人間が集う通夜の会場を舞台にして、まるでそこに集う人々の「意識」の間をたゆたい、さまようような独特の語りが展開されていくのです。

 滝口さんは複数の語り手を持つ他の小説から大きな影響を受けられたようです。横光利一の『機械』という作品を挙げてこんな風に語っておられます。

滝口 三人称に加えて、「自身の内面」をもうひとつの人称として描く四人称の小説で、読んでも結局何だか分からなかったりするんです(笑)。でも読んでみて、色々と考えることが出来る、そのことに意味がある作品だと思います。
(『文藝春秋』2016年3月特別号より)



 滝口さんが横光氏の小説を読んで抱いた感想は、私が滝口さんの小説を読んだときのそれと全く同じでした。はっきり言って、結局何だか分からず、半ば唖然とするような感じで読み終えました。

 ただ、「分からない」というのは、文学において、特に純文学においてはネガティブな感想ではないと私は思っています。分からないものを分からないままにしておく、そこにも「語り」の技巧が求められると思うのです。読み手に不親切で破綻した語りである、というような評も選評会では出たそうですが、私はそうは思いませんでした。滝口さんにならって、この何だか分からない語りを色々と考えてみたいと思うのです。

混濁への誘い



 副題に鴨長明の『方丈記』からの一節をとった、と書きましたが、改めてその一節を見てみることにします。

「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」



 「うたかた」は水に浮かぶ泡のことです。水に浮かぶ泡が生まれては消え、また生まれては消えていって、とどまらずに移り変わっていく様子に世の中の儚さが重ねられています。この、「生まれては消え、また生まれては消え」という部分がこの作品の語りから受けるイメージと重なりました。

6dcce40c2ed08e139292e28923df7591_s.jpg

 まず作品に登場するのは、故人の長男である春寿(はるひさ)です。冒頭から彼の語りが続き、この小説は彼が回していくのかと思っていると、ふいに会場に子供の声が響きました。それは故人のひ孫、秀斗の声だったのですが、その声が合図になったかのように、語り手はふわりとは秀斗の心の内に移っていくのです。

 移ろいはまだまだ続きます。秀斗の祖母・吉美、さらには秀斗の父親のダニエル、そして秀斗の母親・紗重へと、目まぐるしく視点は変わります。こう書くと物語がだいぶ進んだかのように見えてしまいますが、この時点で物語はまだ数ページしか進んでいません。

 まさに生まれては消え、生まれては消えていく泡のような語りです。読んでいくうちに、この作品において登場人物の関係を把握しようとするのは無駄なことだ、と気付きました。誰かが何かを語っている、そんな漠然とした認識で読んでいいのではないでしょうか。そんなことを思ってからは、次々と生まれる語りにただ身を任せるような気持ちで読み進めていきました。

意識のたゆたい



 選考委員の方々は、この作品の語りをどのように評価されたのでしょうか。以下に選評をいくつか紹介します。いずれも『文藝春秋』2016年3月号からの引用です。

自在に流動する語り手は、輪郭が堅固でないからこそ、登場人物に対して何の判断も下さず、彼らの心の欠落にそっと忍び込むことができる。 (小川洋子さん)


受賞作となった「死んでいない者」は、かたりの作りに企み―といっても従来の三人称多元の技法と大きく隔たってはいないが―のある作品で、自在なかたりの構成が小説世界に時空間の広がりを与えることに成功している (奥泉光さん)


『死んでいない者』が、意欲的な作品であることは間違いない。問題は、作品の「曖昧な視点」が読者の暗黙と共感に依存している部分がどのぐらいあるか、ということだろう。そうやって考えているとき、「作家の才能とは何か」という問いの、一つの回答を得たような気がした。個人的意見だが、作家の才能とは、「どれだけ緻密に、また徹底して、読者・読み手の側に立てるか」ということではないだろうか。 (村上龍さん)



 この作品の語りの巧みさについては、上のお二方、小川さんや奥泉さんの指摘される通りだと思います。それに対し、最後に引用した村上龍さんの選評は少し毛色の異なるものです。「作家の才能」なるものを考える選評にしばし立ち止まりました。

 同じような語りを試みた作品は他にもあると思います。同じような語りを試みて、滝口さんよりも巧みに語ってみせる作家というのもあるいはいるのかもしれません。作者の才能がどれだけのもので、どれだけ評価されるべきものか、正直未熟な私には分かりませんでした。しかし、たとえ才能を測ることができなかったとしても、この作品の受賞には納得するものがあります。村上さんのおっしゃるように、この作品で試みられた語りがその巧拙はともかくとして「意欲的」であることは間違いないからです。

 大家族の通夜という舞台はすんなりと決まった、と滝口さんは述べておられます。この舞台設定は秀逸で、この物語を物語として成立させている生命線といってよいくらいではないかと思います。人の死に触れて、残された者、つまり「死んでいない者」の中に波打つ静かな感情の揺れ動き―。「意識のたゆたい」を描こうとする中で、通夜という舞台が設定に奇妙な説得力を持たせているように感じます。

 256cf8b38e59725ed9e89265916fbffe_s.jpg

 多くの人が行き交う雑踏の中で、私はよく考えてしまうことがあります。ここを行き交う1人1人が、それぞれ別のことを思って、別の世界を生きている。様々な意識が揺れ動いては行き交うこの混沌とした状態を、文学にはできないだろうか―。そんな、たわいもないことです。

 それはとても難しいことで、作者には相当の技量が求められると思います。三人称多視点の語りというのは、語りの技量がなければ作品として成立せず破綻してしまうでしょう。だからといってあまりに緻密な構成を追求したとしても、それは「作られたもの」になってしまい、私が思っているような「意識のたゆたい」状態は描けません。本当に本当に難しいことなのですね。

 しかも、この小説の語り手は2人や3人ではありません。10人、20人単位で語り手が出てくるので、作品として成立させるのは本当に困難だと思います。語り手を増やした分破綻の危機は高まり、実際この小説は破綻の一歩手前にいるようにも感じました。

 破綻に片足を踏み込んだような危うさ。それが、この小説の評価につながったのではないかと思います。危うくはあるのですが、それは「意識のたゆたい」を描く上で必要な危うさ。本当にギリギリのところにある小説ではないかと思うのです。

無意味が語られるということ



 この小説は、「死んでいない者」という題にどう帰っていくかが読者に委ねられた小説です。選評で宮本輝さんが書いておられますが、「(まだ)死んでいない者」(=生きている者)と捉えてもいいですし、「(もう)死んで、いない者」(=故人)という捉え方もまた可能なのです。

 私は、まだ死んでいない者、の意味で捉えていました。その上で、曖昧な語りが繰り返されていく中で、「(まだ)死んでいない者」と「(もう)死んで、いない者」との境界線もまた曖昧になっていき、最終的には私たちが「生きている」という一見自明に思えることまでもを根本から揺るがしかねないような、そんな不気味さをはらんだ小説のように思えました。

 徹底的に、無意味が追及されている。そんな印象を受けます。

兄との電話で話すのは、自分の学校生活のささいなことが多く、あまり深い話にはならない。深まらない、長い話がだらだらと続く。意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような話を連ねて連ねて長さだけが延びていくような兄との電話が知花は好きだった。



 象徴的な場面です。何の意味もないような、どうでもいい話。その場が散れば記憶からも消えてしまい、存在すらなかったようになってしまう話。まさに、水面に浮かんではすぐに消えてしまう泡です。こういうところに手を差し伸べていく。それも、そっと寄り添うような手を。これは、とても尊いことではないかと思います。

はっちゃんは強くそう決心した。思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。



 ここもそうです。「死ぬまで思い出さないかもしれない記憶」、そんなところに手が差し伸べられるのです。大仰な言い方をすれば、こういった姿勢は「純文学の役割」といってもよいのではないかと思います。

 先程、「作られたもの」への嫌悪に触れました。私は文学を読んでいてそこに「作られたもの」の気配を感じると、その時点で酔いからさめたような気持ちになってしまいます。何かを語るということは、普通に考えればそこに意味を与えるということですから、それが意味を持ってしまうのは自然なことです。その意味で、文学から「作られたもの」の気配を取り除くことはとても困難だと思います。

 しかし、この作品に関して言えば、私は酔いからさめた瞬間はありませんでした。無意味なことを、無意味なままで語っている。改めて思い返して見れば、これは相当に讃えられるべきことなのかもしれません。まだ一度しか読んでいないのですが、これは読み返したくなる作品だということを確信しています。無意味なうたかたの語りが、不思議な魅力を醸し出して私に再び手を伸ばさせるのでしょうか。



ブックレビュープレミアム

 久しぶりにどっぷりと純文学作品のレビューでした。本文にも書いたように純文学は「分からない」ことの連続なのですが、その分からなくて悶々とした感じが私は大好きです。

 「ブックレビュープレミアム」では前回の芥川賞受賞作品も取り扱っています。「プレミアム」は通常のブックレビューよりボリュームを増やした拡大版です。じっくりと書いています。

『火花』又吉直樹さん

『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介さん

スポンサーサイト

滝口悠生, 現代日本文学,



  •   06, 2016 18:59