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『異類婚姻譚』 ~ 幻惑の爽「怪」奇譚 ~

 16, 2016 17:15
 前回の『死んでいない者』に続き、第174回芥川賞受賞作品を紹介します。今回紹介するのは、『死んでいない者』と同時受賞となった本谷有希子さんの『異類婚姻譚(いるいこんいんたん)』です。不気味さと爽やかさを合わせ持ったようなこの一編、言ってみれば爽快ならぬ爽「怪」という感じでしょうか。

異類婚姻譚
異類婚姻譚
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本谷 有希子
講談社
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 共に暮らすうちに、夫婦の顔が似ていく―。この作品のテーマです。そして、それは本谷さん自身の体験にも基づいているそうです。血のつながりもない、結婚するまでは赤の他人だった夫婦の顔が結婚後にだんだん似ていくというのですから、何とも不気味な話です。夫婦生活は、夫と妻をどう変えるというのでしょうか。



奇譚のはじまり



 主人公のサンちゃんは、夫と結婚して専業主婦になりました。結婚して4年目、そろそろ夫婦生活も倦怠期、いや安定期に入ってきた頃でしょうか。夫婦としての基盤がたしかなものになりつつも、独身時代のスリルやときめきが思い出せなくなってしまう、そんな時期であるとも言い換えられそうです。そして、そんな夫婦生活にそっと忍び込むように、「その問題」は顔を出しました。

「旦那と、顔が一緒になってきました。」



 サンちゃんはふっとそうつぶやきます。冒頭にも述べたように、夫婦には血のつながりはなく、結婚するまでは赤の他人です。きょうだいの顔が似ているというのなら分かりますが、夫婦の顔が似ている、いや、「似ていく」というのです。生活を共にするうちに顔が似ていくというのでしょうか。なんとも不気味な話です。

 夫婦は別人で、顔のパーツ1つ1つを見ると違うのだ、ということは強調されるのです。サンちゃんの知り合いのキタエさんという人がいるのですが、キタエさんもまた「顔が似ていく夫婦」に出会ったことがあるそうです。その不思議な現象がこんな風に語られています。

目、鼻、口を一つ一つ見ていくと、二人はやはりきちんと別人なのだ。ところが、全体としてとらえ直した途端、なぜか鏡に映ったようにイメージが重なり合う。



 サンちゃん夫婦も、夫と妻の顔は本来全く似ても似つきません。平凡な顔をしたサンちゃんと、ギョロギョロとした目で背中を丸める彼女の旦那さんを似ているという人はいない、とサンちゃん自身も自覚しているのです。似ても似つかない顔をした2人なのに、「イメージが重なり合う」。語られていることが想像できるでしょうか。

 このままではあまりにも不気味なので、もう少しこの現象を掘り下げてみたいところです。サンちゃんは、自分は誰かと親しくなるたびに「取り替えられている」のではないか、と分析します。ここがとても興味深い箇所でした。次の節で詳しく読んでいきたいと思います。

自分が喰われる



 一緒にいるうちに顔が似ていく、ということは本当にあるのかもしれません。私は、家庭の「空気」がそこに絡んでいるのではないかと思いました。家庭にはその家庭だけが持つ独特の空気があって、一つ屋根の下に暮らす人たちは、同じ空気を吸ううちに少しずつ顔が歪んでいく―そんなことを思い浮かべました。

 突拍子もない考えで自分でもあきれそうになりましたが、不思議なことに、「そんなことはないだろう」とはなから否定する気にはなれないのです。家庭の「空気」というのは、目には見えなくても、実は大きな力を持っているように私には思えました。人間がそれに染まって、変わっていってもおかしくはないぐらいの力です。


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 その「顔が歪んでいく」現象を、主人公のサンちゃんはこんな風に捉えています。

これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。



 「なるほど」、と声を出してしまうくらい、妙な説得力をはらんだ部分でした。ここを読んで私が考えたのは、人間というのは思ったより流動的な存在であるということです。何か、人間には「自分」という確固とした存在があるかのように私たちは思ってしまいがちです。しかし実際はそんなことはなく、まるで水が入れられる容器によって変幻自在に形を変えるかのように、人間もまた、食べるものによって、暮らすところによって、そして「一緒に暮らす人によって」、とどまらずに変質していくのではないか、そんなイメージが浮かびました。

旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分が全て取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。(中略)今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。



 蛇の亡霊、という例えも手伝って、より一層不気味さが増してきました。蛇の亡霊もそうですが、それ以上に不気味なのは、一緒に暮らす相手が「旦那のようなもの」であろうとも構わない、と言っている主人公の態度ではないでしょうか。「自分の体など失っている」というその直前にあることばを、不気味にも証明しているようです。

 ここで述べておかなければいけませんが、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。「なんでこんな人と一緒にいられるのだ」と思わせるくらい、嫌悪感だけを覚えさせる人でした。旦那さんの行動や言動は随所に不気味なのですが、それ以上に不気味なのは、妻であるサンちゃんが旦那さんのことを何の抵抗もなく受け入れていることです。

 何の抵抗もなく受け入れている、というのは、「仲睦まじい夫婦」のことを言いたいわけではありません。それは、夫婦が同一になっていく、という不気味な現象でした。物語はさらに怪奇な雰囲気をまとって後半へと移っていきます。

自分を喰う



 前の節のタイトルが「自分が喰われる」で、この節のタイトルは「自分を喰う」です。私なりに考えたものなのですが、この「自分が喰われる」から「自分を喰う」への流れがこの物語の中心にあると思います。

 夫婦が同一になっていく、ということの恐ろしさ。それを表現した2人の性行為の場面が秀逸です。

私は旦那の粘膜の中で、必死にもがこうとするのだが、やがて旦那の体の中は気味が悪いまま、少しずつ気持ちのよい場所になっていく。気付けば私は自分から、せっせと旦那に体を食べさせてやっているのだった。旦那があまりに美味しそうに私の体を呑み込むので、その味覚が自分にも伝染し、私は自分を味わっているような気分になった。



 最初は「旦那に喰われていた」。しかし、夫婦生活を送るうちに、別人だった夫婦は同一になっていく。そうしていつしか、旦那に喰われることは「自分が自分を喰う」ことになっていく(旦那は「自分」だから。旦那が自分を喰う=「自分」が自分を喰う)。ねとりと絡みつくような一連の流れですが、不思議とそこまで嫌悪感はなく、ぐいぐいと読ませていきます。

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 前で触れたように、サンちゃんの旦那さんはかなりのダメ男です。外で一生懸命働いている反動かもしれませんが、家では全くよいところがありません。「夜はテレビ番組を3時間見なければいけない」という謎の宣言を始めたり、ゲームでコインをとるという動作をただ無意味に繰り返したり。例えるなら、「怠惰と無気力の妖怪」とでも言えそうな気持ち悪さがあります。

 私が妻の立場だったら、ちゃぶ台を投げるか怒鳴りたくでもなるでしょう。ですが、サンちゃんはそんな行動には出ません。一応不快感は覚えているようですが、だからといって突き放すことはなく、やんわりと受け入れているのです。そう、少しずつ夫婦が同一になっているからです。

 顔のかたちは全く似ても似つかなかった夫婦が、「イメージが重なり合う」ように同一になっていく、という最初に語られたことが、一組の夫婦の描写を通じて、丁寧に描かれていました。夫婦の顔が似ていくという奇妙な現象を、後半では何の違和感もなく受け入れている自分に気付き、驚かされます。作者の高い筆力が成せる技ではないでしょうか。

譚としての完成度



 不気味不気味と何度も書いていますが、この作品にあったのは不気味さだけではありません。不気味さは醸し出しつつも、妙な「爽やかさ」がある―私はそんな印象を受けました。不気味さと爽やかさというのは本来相容れるものではありません。それを相容れさせているという点も、この作品の大きな魅力だと思います。

 旦那も妻もそれぞれに不気味なのですが、コミカルでどちらかというとライトな描写が手伝うのでしょうか、ほとんど嫌悪感は覚えません。細かいセリフも一つ一つが生き生きとしていて、「キレのよさ」を感じさせます。それでいて、夫婦が同一になって行くという作品の「核」の部分では渾身の描写が展開されています。要するに、完成度が高いのです。小説家でもあり劇作家でもある本谷さん。その実力がいかんなく発揮されているように感じました。

 もう一つ、この作品にキレを生んでいる要因があると思います。本谷さんは、芥川賞の受賞のことばでこんな風に述べられています。

本谷 長い間、ちゃんとした小説を書かなければいけないと信じていました。魂を削りながら書かなければ、とさえ思っていました。だけどあるとき、「そもそも私には、削るような魂があるのかな。」と思ったのです。

(中略)私は、小説の亡霊を追いかけるのはやめにして、”ちゃんとしていない小説”を、ちゃんと書いてみようと思いました。(『文藝春秋』2016年3月号より)



 個人的に、とても共感のできる言葉でした。そして、本谷さんが書かれた今作の読みやすさ、キレのよさ、どこか漂う爽やかさといったものは、この心がけがあったから出せたものではないかと思いました。

 小説家が魂を削って小説を書く。そんな言い方をされることはよくありますし、実際そうやって小説を書くタイプの作家さんもいると思います。ただ、魂を削って小説を書く、というイメージに捕らわれているなら、それはありもしない幻影を追いかけているだけです。無理矢理(ありもしない)魂を削ろうとして、結果として空振りしてしまっている―以前読んだ小説でそんな印象を抱いたものがあったことを思い出しました。「ちゃんとしていない小説をちゃんと書く」、という本谷さんの構えは素晴らしいと思います。今回の作品で一皮むけたと評する選評委員の方もおられましたが、実際そうなのだと思います。

 本谷さんのおっしゃる通り、ちゃんとしていないけれど、ちゃんとしている作品でした。それを感じさせるのが結末部分だと思います。最後に繰り出された一太刀は、山葵のように鼻につんとくるものがあって、見事の一言です。のっぺり、あるいはぬめりと進行してきたこの作品がしっかし締めくくられ、「譚」として完成した瞬間でもありました。

 『爽「怪」奇譚』の異類婚姻譚、いいものを読ませていただきました。



ブックレビュープレミアム
 
 ブックレビュープレミアムのコーナーでは、通常よりボリュームを拡大してたっぷりと作品を読んでいます。芥川賞受賞作分はいずれもこのコーナーで扱っています。ぜひ他の作品のレビューもご覧ください。

『死んでいない者』滝口悠生さん

 『異類婚姻譚』と同時に芥川賞を受賞した作品です。毛色は違いますが、こちらもかなりの力作だと思います。

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現代日本文学, 本谷有希子,



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