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優しい「地獄」 -『友だち地獄』 土井隆義

 22, 2015 17:55

 教室は たとえて言えば 地雷原

 これは、ある中学生がつくった川柳です。ほんの少し前まで教室で毎日を過ごしていた私からすれば、この川柳が言わんとすることは痛いほどよく分かります。

 今日ご紹介するのは土井隆義さんの「友だち地獄―『空気を読む』世代のサバイバル」(ちくま新書)という本です。ケータイの登場以来、若者の人間関係が変わったということは多くの本で指摘されています。この本もそんな一冊なのですが、内容の充実度は群を抜いていました。それでは、以下「友だち地獄」のレビューです。

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)
(2008/03)
土井 隆義

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優しい関係の罠



 筆者が本の中で繰り返し使うキーワードが、「優しい関係」です。互いに気を使い、一見穏やかに見えるような人間関係のことを「優しい関係」と定義しています。一見、ですからその裏には目に見えないものが隠れています。筆者はこんな風に言います。

「優しい関係」の下では、対人アンテナを互いに張り巡らせ、あたかもガラス細工を扱うような繊細さで相手の反応を察知しながら、自分の出方を決めていかなければならない。そうすることで、相手との微妙な距離感を保とうとする。



 その中で、コミュニケーションをとることが中心になり、会話の内容は二の次になっていると指摘します。

コミュニケーションに没入することでコミュニケーションに値する関係であることを互いに確認しようとし、コミュニケートされる内容よりもその円滑な回路を維持することのほうが重要な関心事になってしまう。「私たちは、これだけ会話をしているのだから、きっと親友だよね」



 リーゼントで制服を改造しバイクを乗り回す、そんな見るからに明らかな不良は少なくなった、と述べる筆者。たしかにその通りです。ですが、そういった「反社会的なエネルギー・暴力」は消えたわけではありません。形を変えたのです。

 ネットになると性格を豹変させ、過激な誹謗中傷に走る人々

 教師も気付かないくらい、陰湿に行われるいじめ

 ・・・昔の子供と今の子供を比較して、「暴力」が形を変えたと捉えるととても分かりやすいですね。一見、おとなしく、優しくなったように見える人間関係。ですが、そこには多くの悪意が潜んでいて、一つ間違えば自分の立場を失ってしまう。そんな状況を表わしたのが、「友だち地獄」というこの本のタイトルであり、冒頭で紹介した川柳です。

ケータイの性質



 そんな「優しい関係」を引き起こしたものとして挙げられているのが、コミュニケーションツールの変化、具体的には「ケータイ」の登場です。・・・これはいろいろなところで主張されているのでそこまで珍しい主張ではありません。でも、なぜ「ケータイ」が人間関係を「優しく」したの?という疑問が浮かびます。この説明がとても分かりやすかったです。

 ポイントは、ケータイが「直接的・身体的」なツールであるということです。
直接的・・・ケータイでは自分が連絡を取りたい人とだけ話し、本音を言う
身体的・・・いつでもケータイを身に付けていなければ落ち着かない、返事はすぐに返さなければいけない

 だけ、を太字にしました。これは結構重要だと思います。ケータイやネットでは、自然と自分の気の合う人同士で集まることになります。指摘されて改めて気づきますが、これが「異質なものの排除」につながっているのです。

ケータイは、異質な人びとへと関係を広げていく装置としてではなく、むしろ地元つながりに見受けられるような、同質的な人間関係を上手く営んでいくための装置として役立っている



 この本が出版されたのは2008年。それ以来、コミュニケーションツールはさらに大きく変容しました。2008年ですから、この数年後にtwitterが爆発的に広まり、さらにLINEも登場するわけです。それらのツールがより「直接的・身体的」になっているということにはすぐに気付きます。友だち地獄、ますます進行中です。


 先程暴力が目に見えなくなった、と書きましたが、その原因も「ケータイ」の登場です。自分たちの内部の人間関係を保つことに必死になっていることで、外に向けるエネルギーがなくなった、よって暴力は目に見えなくなった、という訳です。エネルギーは、「優しい関係」のマネジメントに費やされるようになりました。

 こんな風に考えると、いろいろなことに説明がつきます。いじめの「見て見ぬふり」が広まったのは、自分たちの内部のグループと外のグループの距離が広がったから。引きこもりがなかなか復活できないのは自分がグルーピングから外れてしまったから。また、ネットで言葉の暴力に走る人が増えたのは、「優しい関係」疲れでしょうか。

 じゃあ、この優しい関係からは抜け出せないの?と問いたくなります。優しい関係から私たちがなかなか抜け出せないのにもわけがありました。

なぜなら、その人間関係だけが、彼らの人間関係だけが、彼らの自己肯定観を支える唯一の基盤になっているからである



 世の中が得体のしれない何かに覆われているような感じがして、鬱屈とした思いになりますね。

どこで自己を肯定するか



 ケータイだけが自己を肯定する唯一の手段になっていて、それが人間関係に支障をきたしているというのなら、他に自己を肯定する手段が必要だということになります。この「自己を肯定する手段」というのはそれぞれの人にそれぞれの手段があるのではないでしょうか。信頼できる親友、打ち込める趣味・・・「自分のブログ」というのもその手段になりそうです。

 とりあえず、私はリアルで関わる人のtwitterは極力のぞかないようにしています。人様のtwitterをのぞいていい気分になったことはほとんどありません。関係を複雑にしてしまうだけで、ほとんどメリットはないと思います。twitterはやっている(右に出ています)が、機械的なつぶやきが中心で、人との絡みはできるだけ避けています。

 「ネットでの暴力」はもってのほかです。何をどう間違えても、ネットでの暴力が「自己を肯定する手段」になることはあり得ません。自分も、他人も不幸せにするだけです。本を読んでいても好き嫌いはありますが、「嫌い」の部分にはブログではなるべく触れないようにしています。ちゃんとマナーを守って、自分にも、そして他人にも有益なブログが作れるといいですね。
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  •   22, 2015 17:55