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杉下右京×ラスコーリニコフ 『罪と罰』の対決  第二幕

 03, 2015 19:21
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 スペシャルコーナー「杉下右京×ラスコーリニコフ 『罪と罰』の対決」をお送りしています。今日は3回シリーズの第2回です。「相棒」の主人公、杉下右京と「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの姿を通して、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを考えています。

前回のおさらい 第一幕 「杉下右京とラスコーリニコフ」

 杉下右京とラスコーリニコフ、二人のスタンスを簡単に整理しました。右京さんは、法の下での罰を絶対とする人です。いかなる事情があれ、犯罪に手を染めた人間には法の下での罰が下されるべきと考えています。一方、独自の論理を掲げたのはラスコーリニコフ。選ばれし非凡人である自分は、世の中を再構築するために人を殺してもよい、法を超えてもよい、と考えたのでした。二人の考えは真っ向から対立しています・・・。

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第二幕 贖罪

 もし、ラスコーリニコフの犯罪を、右京さんが暴いていたらどうなっていたでしょう。右京さんのことを知っておられる方だったら、すぐにその場面が浮かぶと思います。

 ラスコーリニコフ 「僕は選ばれし人間なんだ!人を殺すことを許されたんだ!!」

 右京       「・・・何を言っているんですか。あなたがやったのはただの人殺しです。人を殺していい理由など、どこにも存在しませんよっ!」(激昂バージョン)

 または、

 ラスコーリニコフ 「僕が殺してやったんだ!それで、世の中をよくしてやったんだ!!」

 右京       「・・・あなたは、殺人の罪で裁かれることになります。その償いの時間は、計り知れないほど長いものになりますよ・・・」(冷酷に突き放すバージョン)

 右京さんが犯人と対峙するシーンは、「相棒」の一つの魅力です。容赦なく、冷酷に、右京さんは犯罪者に「罪」を受け入れさせようとします。おそらくラスコーリニコフが己の頭の中でどのような論理を構築していたとしても、右京さんは上のように彼を一蹴していたことでしょう。「法」の揺るぎない存在が右京さんにそうさせます。罪を犯せば、それに相応する罰を受ける、あらためて考えてみれば極めて単純な論理です。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに返ってくるくる答えとして、最も多いのが「法律で人を殺してはいけないことになっているから」というものがあると思います。右京さんも絶対的存在としている法律です。でもこの答えが答えになっていないことはすぐに分かります。「法律で人を殺してはいけないことになっている」と言っても、次に浮かぶのは「なぜ、法律は人を殺してはいけないと定めるのか」という疑問・・・。問題をすり替えたに過ぎないのです。

 「法」を絶対視する右京さん。でも、根本的な「人を殺してはいけない理由」についてはどう考えているの・・・?そこに迫ったのが、先月放送された「鮎川教授最後の授業」でした。右京さんが人を殺してはいけない理由について何を語るのか・・・注目した人は多いと思います。

 結論を言うと、明確には示されなかったのです・・・。右京さんは答案用紙を書いて、鮎川教授は右京さんの書いた答案を絶賛するのですが、その中身が視聴者に示されることはありませんでした。・・・絶妙な方法を取ってきますね。でも、この回の最後には重要なシーンがありました。

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 ネタバレになってしまうので詳細は語れませんが、右京さんが、ある人に、犯した「罪」と向き合わせようとするシーンです(実際はもっと微妙で、「罪」になるのかどうか)。右京さんの冷酷な一面が強調されます。右京さんは、なぜそこまでして罪と向き合わせようとするのでしょうか。

 

「なぜ人を殺してはいけないのか?その問いに明解に答える事は不可能です。しかし、人を殺せば罰を受ける。それは極めて明解なルールです。人が人として生きるために定めた万人が等しく従うべきルール。それは、あなたもお分かりですね?」


 いつもの通り、法を絶対視する右京さん。大事なのは次です。

「たとえ、そうであっても、人は犯した罪と向き合う必要があります。うやむやなままであってはいけません。しっかりと罪の意識を持つ事で、その後の人生が大きく変わる筈ですから


 「罪と向き合う」「償う」・・・右京さんのことばから浮かんでくるのはそんなことです。自分の犯した罪と向き合わなければ、本当の償いはできない、そんな考えが浮かんできます。

 「罪と罰」に話を戻します。この作品は、岩波文庫版では上・中・下の3冊、計1200ページほどある長編です。しかし、ラスコーリニコフが殺人を犯すのは上巻の前半。つまり、全体の6分の1の場所です。この作品の、残りの6分の5は何なのか。・・・・それは、ひたすら続く、罪悪感、懊悩でした。

ぼくはただ殺したんだ。自分のために、じぶんひとりのために殺したんだ。



 予定になかった殺人を犯してしまったということもあると思いますが、もし予定通りに老婆だけを殺していても、こうなったと思います。崇高な論理も、結局は頭の中で描いただけのもの。それが間違っていたと分かるのは実行してから、という残酷な設定です。

自分のこの欲望の強さだけから、彼はあのとき自分を、ほかの人間よりも多くを許された人間と考えたのかもしれない


 選ばれた天才などではありませんでした。ただ、「欲望が強かった人間」・・・。一見崇高に見えた論理の正体が「欲望」とは、これ以上ないくらいに哀れです。

 こんな調子が延々と続きます。読み進めていくのが辛いです。「人を殺した人間がその後どうなるか」を克明に描いています。特殊な論理はありましたが、人を殺した後の精神状態は、皆ラスコーリニコフと同じだと思います。罪がどんどん増幅して、自分を蝕んでいく・・・死ぬまで。

 そんなラスコーリニコフを救ったのは「罰」でした。罰が、彼を解放したのです。

 そんな彼の姿を見ていると、右京さんのセリフの重みが分かってきます。法律があるから、という理由だけで人を追いつめているのではありません。右京さんは、殺人者の向こう側が見えている人だと思います(これまで数多くの殺人者と対してきたことでしょうし)。殺人者の向こう側、それは上に挙げたような「地獄」です。それを食い止めるものは、「罰」しかありません。それが見えているからこそ、右京さんは「人を殺してはいけない」と断言し、殺人者に厳しく対する・・・・・・と、私は思っています。真相は「相棒」の脚本家の方に聞いてみたいところです。

 今日はとても長くなってしまいました。人を殺した人間がその後どうなるか、そして、右京さんがなぜ殺人者に対して罪と向き合わせようとするのかについて考えました。「なぜ人を殺してはいけないのか」の答えに少し近づいたかな、と思います。次回が最終回です。私もすごく悩みながら書いています。何か変なところがあったら遠慮なくご指摘ください。



こちらもどうぞ

スペシャル 「杉下右京×ラスコーリニコフ 『罪と罰』の対決」

第一幕 「杉下右京とラスコーリニコフ」

第二幕 「贖罪」(今回です)

第三幕 「人として」
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  •   03, 2015 19:21