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杉下右京×ラスコーリニコフ 『罪と罰』の対決  第三幕

 04, 2015 17:55
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 3回シリーズでスペシャルをお送りしています。取り上げているのは、先月放送されたドラマ「相棒」の第15・16話、「鮎川教授最後の授業」と、ドストエフスキーの長編小説「罪と罰」です。

罪と罰〈上〉 (岩波文庫)罪と罰〈上〉 (岩波文庫)
(1999/11/16)
ドストエフスキー

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 前回のおさらい 第二幕 「贖罪」

 犯罪者に対し、徹底して法の下での罰を追及する右京さん。どうしてそのようにするのでしょうか。それを考えるヒントが、「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフでした。人を殺した人間がどのような末路をたどるのか、それが克明に描かれていました。罪の大きさ、罰の重さがひしひしと伝わってきます・・・。



第三幕 人として

 「なぜ人を殺してはいけないのか」
―いけないに決まっているじゃないか。問いを立てること自体おかしい。

 そんな風に感じた人もいると思います。私は、それは正しい感覚だと思っています。普通の人が、普通に生活していたらこんなことは疑問に出てくるはずがありません。まっとうな人間にとって、この問いは存在しなくてもいいのです。

 でも、そう割り切ってしまえないことも事実です。「なぜ人を殺してはいけないのか」で検索してみると、たくさんのページがヒットします。多くの人がこのテーマについて考えていますし、なんと「なぜ人を殺してはいけないのか」というタイトルで本まで出版されています。

なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために (新書y (010))なぜ人を殺してはいけないのか―新しい倫理学のために (新書y (010))
(2000/07)
小浜 逸郎

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 高校の時、学級文庫にこの本がありました。なぜこの本が学級文庫に選ばれたのか、誰が選んだのか・・・考え込んでしまいますね。私はおそるおそる本を開いた記憶があります。ですが、それほど刺激的なことは書いていなかったようで、中身の記憶はありません。機会があったもう一度読み直してみたいと思います。(ちなみに、「なぜ人を殺してはいけないのか」というタイトルの本は他にもあります。それだけ考えられているテーマなのですね)

 このテーマが考えられるようになったきっかけは、あるテレビ番組にあるそうです。スタジオにいた高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と尋ねた時、そこにいた大人は皆絶句してしまい問いに答えられなかったそうです。そのことがきっかけで、多くの人がこの問いに答えを出そうと挑んできました。

 しかし、結論を言えば、「明確な答えはない」ということになります。「相棒」でも、右京さんがそう言い切っていました。人を殺してはいけないという当たり前のことの理由が説明できない・・・なんだかとても悔しく、歯がゆい思いになります。この記事でも明確な答えは出せません。ですが、考えて、何か言葉を残すことはできると思っています。少し、考えてみることにします・・・。

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 いろいろな理由があげられていた中で、最も単純で、説得力がありそうな理由がありました。

 自分が殺されたくないから

 というものです。もし、「人を殺してもいい」ということになれば、自分自身が殺されてもよいということになります。もし、自分は殺されるのが嫌だ、と思ったならば、それがこの問いの答えになります。「人を殺してはいけない」というルールが、自分の命を守っていることになります。「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたら、「あなたは殺されてもよいのですか」という返しができます。よい、と答えてしまえば、(極端な話ですが)その場で殺されても文句はいえません。だからよいとはいえません。・・・これはとても説得力がある理由です。このまま納得してもよさそうなくらい・・・

 でも、問題があります。

 もし、「自分は殺されてもいい、殺してくれ」という人がいたとします。上の理由が通用しない場合です。そして、その人の望みにしたがって、その人を殺してしまったとします。そうしたらどうなるでしょうか・・・

 罪になります。本人から依頼されても、人を殺してはいけません。自殺を手伝ってはいけません。つまり、人を殺すこと自体が罪になります。一見説得力がありそうな上の理由ですが、ここで行き詰まってしまいました・・・。

 本当に難しいですね。何か他の理由はないか・・・と考えた時、浮かんだのは前回の記事で見ていた右京さんの言葉とラスコーリニコフの姿でした。右京さんの言葉をもう一度振り返ってみます。

「なぜ人を殺してはいけないのか?その問いに明解に答える事は不可能です。しかし、人を殺せば罰を受ける。それは極めて明解なルールです。人が人として生きるために定めた万人が等しく従うべきルール。それは、あなたもお分かりですね?」


 前回はさらっと流して太字にしていなかったのですが、大事な部分があったことに気づきます。「人が人として生きるために」・・・。右京さんのこの言葉が、答えに近づくヒントになりそうです。

 前回見たように、「罪と罰」のラスコーリニコフは、人を殺した後、おびえ、悩み、苦しみ続けました。作品全体の6分の5で彼は苦しみ続けています。もはや廃人同様といってもいいかもしれません。「人として生きている」とは間違っても言えない状態です。

 人を殺すと彼のような状態になります。「いや、人を殺してものうのうとしている奴がいる」と反論されるかもしれません。そういった凶悪事件が頭をよぎります。でも、私はそんなことはないと思っています(というより、信じるしかありません)。たとえ今現在苦しんでいなくても、借金の金利のように、罪悪感はどんどん膨らんで、最後は生きていられなくなるくらいに追いつめられる、そう思っています(しつこいですが、そう信じるしかありません。そうしないと罰の意味がなくなってしまいます)。

 殺された人間は人として生きる権利を奪われます。と同時に、殺した人間も、人として生きることを放棄することになります。人を殺すということがいかに重大な意味をもつかがよく分かります。

 「人が人として生きるために」・・・これは、一つの答えにならないでしょうか。「人が人として生きる」には二つの意味があります。殺す方と、殺される方です。それを踏まえたうえで、この理由。杉下右京、あらためてすごい人です。

 同じ種族を殺すのは人間だけではありません。
 でも、計画的に殺し、それを隠そうとするのは人間だけです。

 それを「いけないことだ」と思えるのも人間だけです。
 「殺されるのは嫌だ」と思うのも、殺された人に対し心を痛めるのも人間だけです。

 人間だけ、人間だけと何度も書きました。私は、この「人間だけ」に答えがあるのだと思っています。

 3回とも読んでくださった方、ありがとうございました。



こちらもどうぞ

スペシャル 「杉下右京×ラスコーリニコフ 『罪と罰』の対決」

第一幕 「杉下右京とラスコーリニコフ」

第二幕 「贖罪」

第三幕 「人として」(今回です)
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  •   04, 2015 17:55